2009年7月12日 (日)

わたしは祈ります 十三司

Dsc05718  「彼らはわが愛にむくいて、わたしを非難します。しかしわたしは彼らのために祈ります」(旧約聖書 詩篇109・4 口語訳)

 「わたしは・・・祈ります」と。これはダビデの心であった。他の訳によると「我ただ祈るなり」とか、また「我はただ祈祷に心を専らにするなり」と。「されど我は・・・我は祈祷なり」と訳されているのもある。とにかく、この有名な呪いの詩の中に、この一句が記されてあることは何と言ってもすばらしい事である。ダビデの偉大さ、その人格のすぐれてうるわしかったことが「わたしは・・・祈ります」と言うこの一句の中に見いだされると思う。

 わたしたちが、非難される時・・・これはある訳には「わが愛の代わりに我に反対(サタン)す」とあって霊界の消息を見せられるような気がする。誰であっても、理由のいかんにかかわらず、非難されて気持ちのよいものではない。しかも納得のいかない場合、殊に困難を感じ、また時には堪えがたい場合もある。しかしダビデのように「わたしは彼らのために祈ります」と、聖霊に助けられて祈れる時の勝利はまた格別なものである。

 主よ、わたしたちの目を開き給え。箴言3章6節には「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」と記されている。ダビデが、きびしい非難を受けた時に、直ちに主の臨在を仰ぎ、「主よ、これがあなたのみ手のわざであること、あなたがそれをなされたこと」(詩篇109・27)を認め、積極的に「呪わば呪え、されど汝は祝し給え」(同28、ヴルガタ訳)と祈っている。

 ダビデには不思議なほど、恵みの霊と祈りの霊が注がれていた。さらにパウロの言う信仰の盈満していた事を認めざるを得ない。ダビデの時代も決して容易な時代ではなかった。使徒行伝13章36節に「事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えた」とあるが、何とすばらしい存在であった事であろう。旧約時代にも、かかる聖徒のあった事を思うて心より聖名を崇むる者である。

 そこでわたしたち新約の恵みに与かった者が、さらに優れる者であってこそしかるべきではなかろうか。この不信な時代にあって、いかなる場合に臨んでも「わたしは・・・祈ります」と言い得るほどに恵まれ、また聖霊に満たされているならば、あらゆるでき事に直面して主の栄光を拝し前進して止まないであろう。

 「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ11・40)と主は仰せられた。ローマ8章28節に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」と記されてあることを額面どおりに受け取るべきではないか。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著199頁より引用。写真はドイツ・ミヘルスベルク宿舎の中庭、親友Mさんの撮影したものを拝借。)

2009年7月11日 (土)

『ヨハネの黙示録 すぐに起こるはずのこと 第1巻』 (ゴットホルド・ベック著 キリスト集会1998年発行 )

Dscn7658  この本はすでに10年以上前に発行された本である。しかしこの本の母体はさらにそれよりも10年以上前に、吉祥寺キリスト集会の火曜の学び会で一年半にわたって実際にベックさんが語られたものであり、一人の方がその晩年に録音テープからの聞き書きを買って出られ、その原稿をもとにして編まれたものである。全部で4巻あるが今日はその内の第1巻のみを紹介する。

 そもそもこの本は私の書棚に10年にわたって鎮座ましましていたが、多くの時間は埃にかぶったままであった。その私がこの本を今回読む気になったのは、年初来交わりを持たせていただいているAさんとの語らいを通してであった。Aさんは親友により学生時代からイエス様が再臨されることを度々聞かされてきたと言う。そして再臨の主イエス様にお会いする時、主イエス様を受け入れていない者は裁かれる、という聖書の示す真理が頭の片隅にあったそうだ。今回の突然襲った病をとおして親友のこのことばを思い出し、親友に助けを乞い、主イエス様の救いを受け入れるようになったということだった。

 Aさんは先頃出版された『神の聖なる戒め』を病床で読まれた。そして聖書を少しずつ読まれながら、再臨のイエス様について知りたいと言われた。私自身主イエス様の救いにあずかって40年になるが、再臨のイエス様を真に知っているかというと、まことにもって心もとない。そういうこともあって、この本を改めてひもときながら、黙示録を真剣に読もうと思ったわけである。

 黙示録はこの本で言われているように1時間15分もあれば読むことができるボリュームに過ぎない。もちろん、それでは単に眺めたに過ぎないであろう。一方でその内容は確かに難解である。しかし、この本を読むと黙示録の書かれた目的が次のように書かれており、どのように読めばいいかがわかり、私の読む目的(例えば、再臨とはいつのことか、またどのようにそれが出現するかのみに関心をもって読むこと)が間違っていたことに気づく。以下はこの本に記述されている黙示録を読む「目的」について書かれた文章の抜粋である。

 当時、小アジアにある諸教会では、信者たちが苦難に対しての備えをするために、確固とした信仰の基礎に立つことと目を醒ますことが求められていました。黙示録は繰り返して、「小羊である主イエスに従い通す者は勝利に導かれる」といっています。「小羊」という言葉は、黙示録に28回でてきます。小羊なるイエス様は、再びこの地上に来られますが、それは罪の問題を解決するためにではなく、ご自身の権威を明らかにするために来られるのです。

 イエス様は、教会を建てるために再び来られるのではなく、新しい天と新しい地とを創造するために来られるのです。ですから、黙示録が私たちに伝えてくれるのは、「イエス様が再び来られる」ということと、「イエス様が唯一の支配者である」ということです。

 イエス様は、クリスチャン達の苦難と試練のまっただ中において、ご自身が再び来られること、そしてご自身が唯一の支配者であることを、主を信じる人々に啓示されたのです。

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(新約聖書 黙示録 21・4)

もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、・・・もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、・・・(黙示録 22・3、5)

 神の都には悲しみも苦しみももはや存在せず、主のしもべたちは主に仕え、主が永久に支配者となられることが約束されているのです。

 「黙示録はイエス様のことを何と言っているのだろうか」。私たちがこのように問い続けながら黙示録を読むならば、私たちはいつも黙示録から啓示を受けることができます。

 イエス様は、神の国の王であり、裁き主であり、世界の支配者であるお方です。イエス様は隠れたことを明らかにすることがおできになるただおひとりのお方です。なぜならば、イエス様はすでに暗闇を通られたからです。黙示録は私たちに、混沌の中にも隠されている光があることを示しています。人間は混沌の中にあっても、やすらぎを与えられています。これが黙示録の主題なのです。イエス様はすべてを超越しておられますが、それでも、小さな私たちのことをもよく考えていてくださるお方なのです。

(同書27~28頁より引用。太字の部分は引用者がそうしたに過ぎない。)

 この本が黙示録をカバーする範囲はちょうど1・1~3・22までである。この該当聖書箇所を著者は大きく第一部・第二部と分けているが、第一部は黙示録1章がそれに当たり、主イエス様について、その裁き主としての姿がとことん明らかにされる。そして著者は黙示論解釈の方法を4つ示されるが、自身はその中で「終末論的解釈」を取ると明記されている。第一部の末尾の部分は次のように書かれている。

 黙示録第1章に現われるみ姿は、裁き主です。イエス様が裁き主であり、教会は裁かれるものです。裁きはこの世から始まるのではなく、まず、神の家から、教会から始まります。

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(1ペテロ 4・17)

 しかし、教会にたいする裁きは、あわれみの裁きです。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示録 3・19)

 このあわれみの裁きが、終わりの日に私たちを神の怒りの裁きから守ってくれるのです。ローマの皇帝にではなく、イエス様に世界の支配権が与えられ ています。これがヨハネの見たところです。そしてヨハネはイエス様の足もとにひれふしました。イエス様の足もとは、もっとも安全な場所です。「世界の支 配者であるお方が自分の主である」。これがヨハネの喜びでした。※

 私たちはこの箇所を正しく理解するために、教会の課題が何であるかということをいつも考えていなければなりません。教会の使命は「暗闇を照らす」 ことです。まことの光はイエス様ご自身ですが、イエス様はご自身の光をご自身の身体である教会を通してこの世に与えようとしておられます。イエス様は教会 をご自身の道具として用いられたいのです。(中略)私たちの内からは暗やみしか出てきませんが、イエス様の内からは光が輝きだします。イエス様が私たちを お用いになることができればできるほど、イエス様の光が私たちの内から輝きだします。イエス様が私たちを救われたのは、私たちをお用いになるためです。私たちの内からイエス様ご自身の光が輝きだすためです。これが教会の使命であり、また、課題です。(同書94~96頁 ※ヨハネの黙示録が書かれたのは紀元 95年で、その時ヨハネは皇帝崇拝を強要され、それに従わなかったためにパトモス島に流されていた、引用者注。)

 第二部は黙示録2章3章がそれに該当し、「天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば」という副題がつけられている。こうして7つの教会(エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤ)に主イエス様が語られることをみことばに即して一つずつ読むことができる。そして私たちはこの7つの教会に宛てられた手紙がどれ一つとして自らに当てはまらないものはないことに気づかされる。特に最も厳しい裁きの対象であるラオデキヤの教会(この教会はまさしく今日の組織された教会を象徴する、なぜならそこでは主イエス様が教会の外に置き去りにされているからである)にさえ、主の愛は悔い改めることを待ち望んでおられることを知り、励まされる。

 これら7つの教会への手紙の本質を聖書を通して読み進めることこそ、著者が最も願っていることであろう。ある者はこれらの説きあかしが余りにもすばらしかったので、テープを聴いた段階のことであったが、「ベックさん、これらの真理は直接神様から声が聞こえてくるのですか」と質問したそうである。ところがベックさんは当惑気味に、言下に否定され、私のメッセージは不完全です、と言われたそうである。

 私たちは日ごろから、ベックさんに「聖書は何と言っているか、それが大切だ。人の考えが大切なのではない。」と言われているが、この著作もそれを裏打ちする本である。読者自身がこの著作を参考に黙示録そのものからイエス様が何を伝えようとなさっているか、祈りながら読むべきことが具体的に示されている。私は今回読了して、私たちの生活上、個人的に遭遇する困難やまた教会内の問題などがどれ一つとして主イエス様のご支配の外にはないことを知った。また、この主の支配を全面的に今認めることが「再臨」に対するもっとも肝要な備えであることを知ることができてうれしくなった。引き続き既に刊行済みの2巻(1999年)3巻(2001年)4巻(2004年)と後続する著書を読み進めてゆきたいと思っている。

 本文360頁、間にグラビアページが挟まれており、総ページ数406頁の本になっているが、読者に読みやすく工夫されている。しかも、この本はわずか300円の廉価で手に入る。一人でも多くの人に是非読んでいただきたい本である。

2009年7月10日 (金)

「虹」にちなんで

Printempsmillet  親しい方が、一昨日の虹の写真にちなんで、この一枚のミレーの絵「春」を紹介してくださった。くわしくは、下記サイトで見ることができるようだ。http://www.musee-orsay.fr/en/info/gdzoom.html?tx_damzoom_pi1[zoom]=1&tx_damzoom_pi1[xmlId]=000237&tx_damzoom_pi1[back]=en%2Fcollections%2Findex-of-works%2Fresultat-collection.html%3Fno_cache%3D1%26zsz%3D9&cHash=dfbf194f58

 今日は虹にちなんだ聖句と文章を紹介する。

見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。(新約聖書 黙示録4・2途中~3)

 3節に「緑玉のように見える虹」とありますが、緑玉は緑の石で、虹の中にある緑色は特に目立つ色です。

 旧約時代、神はノアに虹をお見せになって、「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9・11)と約束なさいました。虹は神の寛容と恵みを象徴しています。いま、虹は終わりの日の裁きの前にも現れており、神の恵みが約束されています。しかし黙示録20章に記されている「白い御座」の裁きの時には、もはや虹が出ていません。これは、裁きの時には神の恵みと憐みの期間がすでに過ぎ去ってしまっていることを意味しています。

 だからこそ「神との和解を受けなさい」と呼びかけることが私たちの使命です。今は恵みの時、恵みの期間だからです。今なら神が、罪の赦しと、真の平安と、永遠のいのちとを提供しておられるからです。

(『すぐに起こるはずのこと 第2巻』ゴットホルド・ベック著1999年刊行63~64頁引用)

 初めてのスイスの喜びの集いに出かけたのは今からもう10年以上前になるのだろうか、何年のことか忘れてしまった。しかし、観光を終え、宿舎に向かって歩いていた時であったろうか、やはり大きな虹に出会った。歩行していたすべての人から感嘆の声があちらこちらであがったことを思い出す。その旅ですっかり親しくなり一緒に行動することの多かった方はその時も一緒だったが、歩きながら、その虹を見て、「ああ、俺の罪は赦されているのだ」と泣かんばかりに繰り返されたことが印象的であった。それまで好き放題の人生を歩み老境に入られたが、その門口で悔い改めて主イエス様を信じられた喜びを語られたのであった。その後再びご自身の考えを優先され、私たちの交わりからいつの間にか離れられた。しかし、主イエス様は決してお見捨てにならないことであろう。虹と言うとその方のことも同時に思い出す。

見捨てぬと 天から声の レインボー

2009年7月 8日 (水)

「聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。」

Sdsc05782  主がどれほど聖いお方であるか、そして私たち自身は、その主なる神様によって聖い者として造られていたにもかかわらず、どのようにして罪を犯し、神から離れてしまったか。だが、主なる神は、その私たちをお見捨てにならず、私たちを徹底したご自身の聖さにあずからせようと、愛をもっていかに導いてくださるかを聖書をとおして知らされた。

 標題は今日拙宅の家庭集会にわざわざ東京杉並からみことばを運んでくださったYさんの聖書からのメッセージの題名であった。上記は私の拙い感想である。先週も感じたことだが、私自身いかに聖なる神様から遠く離れていたかを、鋭く問われた感謝な集会であった。いつもよりは少なかったが、それでも4、50名の方が集まられたのではなかろうか。

 ところで今日から看板聖句を変えた。以下がその聖句であった。

神の言(ことば)は生命(いのち)あり、能力(ちから)あり、両刃(もろは)の剣(つるぎ)よりも利(と)くして、精神と霊魂(たましい)、関節(ふしぶし)と骨髄を透(とう)して之を割(わか)ち、心の念(おもい)と志望(こころざし)とを験(ため)すなり。(新約聖書 ヘブル4・12 文語訳)

 どのようなメッセージをして下さるかわからぬまま、私は私で主に示されるまま看板聖句のみことばを選んでいる。ところが今日の家庭集会はこの通り、みことばが私たち一人一人に迫るものとなったのだ。聖書全巻は66巻の書物だ。そして全巻すべてこれ上記のごとく鋭きことばに満ちている。聖書は、私たちをして罪から離れさせ、神様の聖さにあずからせようとする書物だ。だから、私たちはただそのみことばを信じて読むだけで良いのだ。ところが、ほとんどの人がクリスチャンと自称する人をふくめて何とか人間理性を納得させようとして己が理性を神の座において必死に努力しているのでないだろうか。そうではないのだ。虚心坦懐に聖書のことばに自分を合わせることだ。私たちは聖書自身に生命(いのち)があることを露忘れてはなるまい。

 Yさんは創造のみわざとしてイザヤ6・3、創世記1・26~31、2・9、2・16~17を、また人がいかにして神様からはなれて嘘をつくものとなったか、創世記3・1~6、3・22~24を引いてくださった。

 そして人類最初の悲劇である兄カインによる弟アベルの肉親殺しに私たちの目を向けさせてくださった。創世記4・1~14である。しかしカインは私たち、アベルはイエス様をあらわすと語り、イエス様ご自身の死の犠牲のみことばを紹介してくださった。マルコ14・22~25である。

 そしてこの壮大な創造以来変わることのない罪人に対する贖罪の愛が、パウロを通してエペソ1・3~14において明らかにされているところを読んでくださった。

「生死を大切にする神の戒めをアダムは妻エバに正しく伝えませんでした。お互いの間の愛が未熟だったのであります。しかしそのようなお互いがイエス・キリストの贖いをとおしてまことの愛を体験的に知るようになりました。それはすべて神の栄光がほめたたえられるためだったのです」という意味のことばでまとめてくださった。

 そして聖書におけるこの神の栄光をほめたたえる箇所を試みに三箇所引用された。黙示録14・1~5、19・1~8、詩篇8篇である。最後にエペソ3・14~21のパウロの祈りと本日の引用聖句詩篇93篇が朗読された。標題の言葉はその詩篇93篇の最終節のことばである。以下パウロの祈りの一部を写して置く。多くの場合、祈りとはあれをしてくださいこれをしてくださいという自己中心の祈りが多いのでないか。パウロの祈りは「あなたの祈りは、それでも祈りなの?」と問われる思いがする。

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3・17~19)

(写真は親しい友人Mさんが送ってくださった、ドイツ・ミヘルスベルクの虹である。私たちは6月18日成田12時頃の出発が一時間遅れ、ミュンヘンに着いてからはアウトバーンの増幅工事などの事情でさらに二時間遅れ、都合三時間到着が遅れ、宿舎には夜の10時半ごろ着いた。その時私たちの到着を今か今かと待っていてくださった人々の前にこの虹は現れたという。知らなかったとは言え、待ち焦がれ心配してくださった人々の喜びの歓声が聞こえてくる思いがする。虹は神様と私たちとの契約でもある。創世記9・12~16参照。)

2009年7月 6日 (月)

Mさんの召天

Dscn7363  先週の土曜日、Mさんが72歳の生涯を閉じられた。ホームで点滴生活が続いた後、痰が喉につまったのが原因のようだった。奥様も二年前召され、二人のお嬢さんを遺して先に逝かれた。試練に会われ、主イエス様の救いを体験された。

 私は2007年の11月に奥様が召された直後のMさんを二度ほどホームにお訪ねする機会があった。その時、Mさんはお体も御不自由で歩くことが困難で、ご自分から話すことも難しい状態であった。

 ところが、その時一緒にお見舞いした方々とともに主イエス様を賛美し、聖書のみことばを輪読し、ともに祈りの時が与えられた。お見舞いに伺ったいずれの者も肉親ではなく、主イエス様を信じている者同士であったが、つっかえつっかえしながら読まれるMさんをふくめて新約聖書のローマ人の手紙10章全体を輪読することができた。全部読み上げたときは思わず心の中で「万歳!」と快哉を叫んでいた。

 Mさんの心に聖書のことばは誰よりも近かった。

みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。(新約聖書 ローマ10・8)

 その後もう一回お訪ねしたことがある。その時はすでにローマ12章に進んでいた。その時はお嬢さんと一緒だった。その時も輪読した。Mさんの順番となると何度も立ち往生される。ほとんど聞き分けるのが難しい声だが、お嬢様に助けられながら必死に読まれるのであった。そのみことばはスラスラ読まれるみことば以上に私たち一人一人の心に語りかけるものとなった。そのようにして読み終えた時、前回と同じようにみことばが私たち一人一人の心を照らした。ちなみにそのとき示されたみことばを書き記してみよう。

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(同5節)互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。(同16節)

 その後先週の土曜日に召されるまで、私自身の怠慢でお見舞いすることはなかったが、多くの友がお見舞いされ、一ヶ月前に倒れて点滴生活に入るまで、この聖書一章ずつの輪読は続いた。そして隣のベッドの方も、この父娘の証を目(ま)の当たりにされ、主イエス様を信じられたと聞いている。最近では体が衰弱されたが最後までみことばだけにはしっかり反応されたということだった。

 今日は、親交をいただき、ともに祈りの友だった皆さんが集まり、お父さんの火葬に立ち会った。しかしそこにはMさんを亡くした涙以上に、主がMさんに晩年の試練をとおしてご自身を明らかに示され、天国へまで導かれたことを讃える思いが満ちていたのではないだろうか。遺された姉妹お二人が互いにいたわりあっている姿が印象的であった。

 もしMさんご家族が主イエス様を知られなければ、これ以上の試練はないし、ましてや遺された姉妹にはこの先涙に明け暮れ、過去をのみ振り返る生活となったことだろう。しかし姉妹お二人が助け合って、主を愛し、先に天国に行かれたお母様お父様との再会を待ち望みつつ主を証し続けようとされている。来週の14日には召天式が用意されている。ひとりでも主をお知りにならない方が永遠のいのちの与え主である主イエス様を知っていただくことこそが今の姉妹たちの祈りである。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)

(写真はドイツ・ミヘルスベルクの草花)

2009年7月 5日 (日)

枯れた枝 アンドリュー・マーレー

Dscn7351  「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」(新約聖書 ヨハネ15・6 口語訳)

 ここに述べられている教えは、単純ではあるが極めて厳粛な教えである。自分ではキリストの内に住んでいると考えている人でも、まだほんとうにキリストに完全につながっていないため、投げ捨てられ、枯れて焼かれてしまうような結果を招くことがありうる。キリストとの最初の結びつきができているように見えたとしても、その信仰が一時的なものに過ぎない人は枯れ枝のようなものである。私たちの教会の中を見回すときに、もしかして枯れ枝があるのではなかろうか。私たちは自分を省みて、私たちの心が果たしてキリストにつながっており、実を結んでいるかどうか調べて見ることは、私たちの大切な義務である。

 キリストにつながっていない原因はどこにあるのだろうか。ある人々は、クリスチャンの使命が神への従順と愛の奉仕とにあることをどうしても理解しようとしない。このような人々は、ただ信仰を得て地獄に落ちないことで満足していただけである。したがって、キリストにつながる動機も能力もなく、その必要さえも知らないのである。またある人々は、日々の生活や自分の財産のことに気を取られ、みことばを無用のものとさせてしまっている。したがって、何もかも捨ててキリストに従うことを全く知らなかったとしか言いようがないのだ。さらにある人々は、宗教や信仰は人間の知恵によってできたもので、神の力によるものではないと考えている(※)。この人々はただ恩寵が与えられる手段を信じ、自分自身の誠実を信じ、自らを義と認める信仰の健全さを信じていたのである。しかし、彼らの唯一の安住の場所として、キリストにつながることを求めることは全くなかったのである。誘惑や迫害の熱風が吹いた時、彼らは枯れ果ててしまった。彼らはほんとうはキリストに根ざしていなかったのである。

 私たちの目を大きく開いて、教会の中で私たちの周囲にもしや枯れ枝がないかどうか捜して見ようではないか。若い人々はどうなのか。彼らの信仰告白はかつては輝かしいものだったが、今ではさめ果てている。年を取った人はどうだろう。彼らは信仰の告白を持ち続けてはいるが、かつての新生の喜びは消え失せている。牧師や信者は、主のみことばを深く心にとめて、枯れ始めている枝に何か打つ手がないかを主にお尋ねしてみようではないか。「主に住む」というメッセージを教会の中に絶えず語り続け、すべての信者に主の中に住むほかはほんとうの安住はないことを知らしむべきである。

 私たちの心の中をまず省みることである。私たちの生活は新鮮で、緑がいっぱいで、力に満ち満ち、季節ごとに実を結んでいるだろうか(詩篇1・3、93・13、14、エレミヤ17・7、8)。心から喜んですべての戒めにお従いしようではないか。キリストの中に住むことを急がねばならぬことを早く悟ろうではないか。正しい心にとっては、キリストの中に住む秘訣は容易に握ることができる。ただキリストが私たちを置かれた場所を意識し、ただキリストと私たちとの結びつきに幼児のような安らぎを感じ、キリストが私たちを守ってくださるという信頼をいだいておればよいのだ。私たちに枯れることを知らぬいのちのあることを信じようではないか。枯れることを知らぬいのちは常に緑も濃く、しかも豊かに実を結ぶのである。

祈り
「私の主よ。私が『枯れ』ないように監視してください。そして私をお守りください。ぶどうの木に完全にとどまっていることから来る新鮮さを、ひと時も奪われることがないようにしてください。枯れた枝のことを考えただけでも、私を聖なる恐れと用心深い心とをもって満たすようにしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳61~64頁より引用したもの。文章中※を配した一文にふくまれる「宗教と信仰」ということばはむしろ「イエス・キリストに対する信仰」と置き換えたほうが意味が通ずるのでないか。なぜなら「宗教」ということばは様々な宗教の並置を認めた上でのことばであり、その概念どおり「宗教」は人間の造り上げたものだと思うからである。自らのキリスト信仰を「宗教」と規定することは十戒の第一の戒め「主は私たちの神。主はただひとりである。」申命記6・4にもとるのでないか。このことに関する深い洞察は、いずれもベック兄の著作『実を結ぶいのち』(1981年刊行)136頁以降や『神の聖なる戒め』(2009年刊行)84頁以降にくわしい。写真はドイツ・ミヘルスベルクの宿舎の窓から眺めた緑生い茂る樹木群)

2009年7月 4日 (土)

耕地の開拓

Dscn7626  隣の家は30年来空き家である。年月の風化とともにいかに家屋が劣化して行くか、毎日窓越しに見させていただいている。それはあなたの肉体もいずれはそのようにして滅びに向かっていくのですよ、と語りかけるように見える。見たくないが、それが現実なのだ。

 家屋の前には庭がある。雑草は生え放題である。隣家の関係上、その雑草を刈らざるを得ない。先年にはアンテナ塔が腐食して、私の二階の部屋にまで倒れ掛かりそうな勢いであった。さすがにこれは我慢できず、東京にいらっしゃる持ち主に電話した。そちらで処理して欲しいと言うことであった。

 早速ご近所の方が協力してくださり、バーナーで一連の付属施設をヴェランダごと焼き切って撤去してもらい、ことなきを得、ほっとした。現在では、つたが家に絡まり、そのつたが枯れて赤茶ける、瓦はぼろぼろ。歯の抜けたおばあさんのようなものだ。時は確実に家を劣化して行く。あらがうことは出来ない。

 ところが、不図した弾みで隣地がよみがえりそうになってきた。家人が自家で南瓜の種を蒔いたら成長してきて、狭い我が庭では生育困難になって来た。家人の友人が隣地を貸してもらったら、とフッと言った。家人は早速電話に飛びついた。電話口の向こうで持ち主が懐かしそうに出て、「使ってください」、と言った。

 こうなると家人は早い。ズボンに履き替え、鎌を手にし、スコップを手にし、見る見るうちに土地を整備して南瓜を移植した。その実行力たるや天晴れである。亭主に指一本の協力を求めない。わずかに紫蘇(シソ)も移植するからそれを持ってきて欲しいと言っただけだ。自身で不甲斐ないと思う。本来、これは男の仕事だから。

 家人から学ぶことは多い。性格が違い、若い時は喧嘩を良くした。最近では余りしなくなった。家人が圧倒的に我慢しているのだろう。諦めているのかも知れない。家人の愛に甘えてばかりいないで、自分でも家人を助けることをしたいと思う。

耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。(旧約聖書 エレミヤ4・3)

(写真は言うまでもないが、そうして移植された南瓜。私の部屋の真下であるから撮影に事欠かなかった)

2009年7月 3日 (金)

聖書の真理に仕える喜び

Dscn7298  20年近く、Sさんに一貫して月一回聖書のメッセージを拙宅で伝えていただいている。私はリタイアしている身だが、彼は現役であり、私よりは、2、3歳下である。しかしそのたたずまいは私よりもはるかに老成しておられ尊敬してやまない主にある兄弟である。

 単純に計算しても20年を通算するなら、年に10本としても200本のメッセージになる。私がじかにお聞きするようになったのはここ4、5年ほどであるから私としても内4、50本程度は聞いている勘定になる。しかしいつ聞いても新鮮である。Sさんの心がいつも主イエス様に向いているからだろう。

 昨日も開口一番、「偶像崇拝は危険である」と言われた。また「日本には八百万の神がいると言われるが、いずれも名前だけ(名前が違うだけ)だ。聖書が述べるように、存在するのは(唯一の)神と悪魔だけだ」と断言された。寸鉄、人を刺す思いがした。

 そして人間にとってはいかにすれば全能の主がともにいてくださるかを考え行動することが最も大切であるかを懇切丁寧に語ってくださった。Sさんが用意されたみことばは以下のものであった。

神の国はことばにはなく、力にあるのです。(新約聖書 1コリント4・20)

 主イエス様は確かに私たちの本質をいつも知った上で導かれる方だ。私たちの本質と神様についてはイエス様によって次のように語られているという。

してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7・11)

 ことごとく神に背く悪い者が人の本質だ。一方、神様は天の父としてそのような悪い者を忍耐強く待っていて下さり、私たちに最善を与えるために働いていて下さる。こんな主の愛を知ろうともせず、私たちは神を離れて一体どこへ向かって行こうとしているのか。

 50分余りのメッセージを正確に伝えられないのが、残念だが、一つの「しわぶき」もないまま、5,60人近い方が一軒の狭い我が家屋もものかわ身を寄せ合って真剣にみことばに耳を傾ける、このような家庭集会が今の時代に存在するのだ。

 最後にSさんが言われたことばと引用聖句を記して置こう。

「パウロは絶えず、自らを主イエス・キリストのしもべ、と言った。主を信ずる者を通して今も主は主を信じない者にご自身を見せたいと思っておられる。そのためには私たちは主を恐れること、へりくだること、かたくなにならないこと、主を愛し慕うことだ。そうすれば私たちに敵対するものはない。なぜなら全能の主がともにおられるからだ。(神の力をあなたも体験してほしい。そうすれば周りの人にも福音はおのずと伝わる)。( )は私のことば。」
 文章中引用したもの以外に、2コリント8・4~6、詩篇94・9、マタイ6・26~30、6・33、ローマ8・14~17、エペソ1・3~6、コロ1・21~22、詩篇131・2、マルコ15・33~38、ヘブル10・19~22、詩篇139・23~24、ローマ11・22、箴言6・16、箴言16・18、イザヤ57・15、詩篇19・13、2コリント10・4、1ヨハネ5・4~5などがあった。

聖書に しわぶきなくて 人あふる

ひとつ道 聖書語り 友帰る

(写真はドイツ南西部ウルムの教会内部。家庭集会でみことばに耳を傾けることは主イエス様にとって教会内部でパイプオルガンに身を任せる会衆と何ら遜色はないであろう。いやむしろ身は貧しくとも主のひざもとでみことばを聞くことこそ主が最も願っておられることでないか)

2009年7月 2日 (木)

キリストは美なり 笹尾鉄三郎

Dscn7290  先日、ドイツからの帰りの飛行機の中で笹尾氏の「雅歌講義」を読む機会があった。以前にも紹介したが、「雅歌」についてはハドソン・テーラー、ウオッチマン・ニーがそれぞれ書いている。しかし笹尾氏は明治期の日本人である。彼がどのように読んだか、下記に写してみたい。

「その口ははなはだ甘く誠に彼には一つだにうつくしからぬ所なし」(旧約聖書 雅歌5・16文語訳)

 その次は口である。これはその口自身が甘く美しいものであるという意味である。世界で最も甘いもの美しいものといえばキリストの口である。そしてその口から詩篇119・103にあるように、蜜よりも甘い御言葉が出てくるのである。

 以上新婦はエルサレムの女たちに10節の冒頭の下に、順序よく主イエスを説明し、その十の美しさを示した。つまり頭(11)、髪(11)、目(12)、頬(13)、唇(13)、腕(14)、体(14)、足(15)、姿(15)、口(16)。

 このように説明してきてここに「誠に彼には一つだに美しからぬ所なし」と結尾をつけた。今までここあそこといっていたが、もはや一々言えなくなり、そっくり美しい、どこ一つとして美しくないところはなく、慕わしくないところはないといった。彼こそは美の結晶というべきである。元来美は美から出て、外のものからは決して出ない。画家が画を描くのはその画家の脳中に、美が刻みつけられてあるからである。

 世の中の美はどこから来たか、世の人は美術などを盛んに研究するがその源を知らない。すべての美の源はキリストであるのに、彼らはこれを知らないでただその枝葉だけに恍惚としているのである。彼は「我は真理なり」と仰せられたと同じ言葉で「我は美なり」といい得る御方である。

(『笹尾鉄三郎全集第1巻』254頁より引用。なお原文は画家が書家、画が書となっている。書家・書では意味が不明なので、画家・画に変えた。)

 果たして笹尾氏がどの程度美を解する人であったか知らぬ。しかし、かつてオズワルド・チェンバーズの伝記を読んだとき、彼が美を解し、自身画を描いた人であることを知った。その彼が聖書に即した生きたみことばを後年私たちに伝え得た。彼の人生に矛盾はなかったと思った。今日掲載させていただいた絵は先般のドイツ旅行で行をともにさせていただいた「こうこさん」が描くミヘルスベルクのパステル画である。

2009年7月 1日 (水)

麻生氏よ、鳩山氏よ、祖父を祖父たらしめよ。

Dscn7610  「おがたはんはエライお人ですな」
 「そうですな」
 母方の祖父と父方の伯父がほぼ半世紀以上前、正月交わしていた会話である。
伯父はその当時滋賀県の伊吹山の麓の某村で助役をしていたように記憶している。一方祖父は山持ちだが、政治とは関係がないお人だったとその当時は思っていた。二人が孫や甥が傍に一緒にお相伴に預かっているのも委細構わず政治談議に興じていたことを今も鮮やかに思い出すことができる。

 祖父と伯父の間に互いに相手に対する尊崇の思いがあっての話だけに幼心にもその会話でうわさされていた「おがたはん」には興味を持たざるを得なかった。しかしその緒方竹虎が吉田茂の後継者として自由党総裁に就任したのも束の間急死した。

 年表で確かめてみると私の中学1年の正月のことで、すでにその前年1955年には保守合同が実現し、初代自民党総裁として民主党総裁鳩山一郎が就任し、自由党総裁であった緒方は総裁代行委員の立場にあったことがわかる。鳩山は政党人、緒方は朝日新聞出身の言論人であったと記憶する。

 一方、近くの神社で若衆の仲間に入れてもらって様々な仕事をしている中で枯葉を燃やしていたときであろうか。その数名いた中でどなたかが遠くを行く人を指して「あれはアカやで」とか言う会話をヒソヒソするのを耳にした。「アカ」が共産党員を指すことは後年知った。(後に大学に入り、その「アカ」から入党を勧められるなどとは想像もしなかった。)

 そしてほぼ同じころだろうか。「ただしんぜよ。ただしんぜよ。しんじるものはすべて、みなすくわれん」という単純なメロディーで外人宣教師が中仙道を歌いながら練り歩き、大人が無視している中、私たち小学生がぞろぞろとその後をキャラメルほしさについて行ったことを思い出す。私の幼友達はさらにその宣教師さんが開く日曜学校に導かれイエス様を知ったが親に反対され離れたと20年ほど前会った時話してくれた。

 また神社の境内の木を一塁ベース三塁ベースに利用してゴム手まりを使って野球をしているときに、青い車で東京からやってきたという方が乗りつけ、みんなで野球もそこそこ余りの珍しさにまわりに群がったのもそのころであった。(町にはそのような車は一台もなかった)

 考えてみると、これらすべては戦後10年以内の田舎の原風景であり、私の政治・社会の原体験であった。そして半世紀以上後、私とほぼ同世代あるいはもう少し後の世代が今の政治の第一線にいらっしゃる。

 連日の麻生さん鳩山さんにまつわる報道を見ると情けなくなる。どうしてこうも政治が劣化したのかと思うからである。緒方氏がなくなり自由党的なものはなくなったように思ったが石橋湛山のような別ルートではあったがやはり東洋経済主筆出身の気骨ある首相が短期間ではあるが在任したときもあった。岸氏はともかく池田氏佐藤氏など私が知らないだけでその当時も様々な金にまつわる腐敗があったかもしれないが、政治家としての信念・メッセージがあったように思う。

 総選挙が近づいている。果たして孫たちを前にして「おがたはんはえらいですな」という会話を大人たちの間で交わすことが出来るのだろうか。先年祖父の遺した日記を整理する機会が与えられた。政治に縁のない祖父と思っていたら、政治に大いにコミットしていたことを知って吃驚した。それこそ村の山林を守るための政治であった。大切なことは多くない。麻生氏よ、鳩山氏よ、祖父を祖父たらしめよ。

拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。主は、その聖座が宮にあり、主はその王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。(旧約聖書 詩篇11・3~4)

(写真は念願かなって初めて写真撮影に成功した庭の餌台に群がる今日の5羽の雀)

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