この本はすでに10年以上前に発行された本である。しかしこの本の母体はさらにそれよりも10年以上前に、吉祥寺キリスト集会の火曜の学び会で一年半にわたって実際にベックさんが語られたものであり、一人の方がその晩年に録音テープからの聞き書きを買って出られ、その原稿をもとにして編まれたものである。全部で4巻あるが今日はその内の第1巻のみを紹介する。
そもそもこの本は私の書棚に10年にわたって鎮座ましましていたが、多くの時間は埃にかぶったままであった。その私がこの本を今回読む気になったのは、年初来交わりを持たせていただいているAさんとの語らいを通してであった。Aさんは親友により学生時代からイエス様が再臨されることを度々聞かされてきたと言う。そして再臨の主イエス様にお会いする時、主イエス様を受け入れていない者は裁かれる、という聖書の示す真理が頭の片隅にあったそうだ。今回の突然襲った病をとおして親友のこのことばを思い出し、親友に助けを乞い、主イエス様の救いを受け入れるようになったということだった。
Aさんは先頃出版された『神の聖なる戒め』を病床で読まれた。そして聖書を少しずつ読まれながら、再臨のイエス様について知りたいと言われた。私自身主イエス様の救いにあずかって40年になるが、再臨のイエス様を真に知っているかというと、まことにもって心もとない。そういうこともあって、この本を改めてひもときながら、黙示録を真剣に読もうと思ったわけである。
黙示録はこの本で言われているように1時間15分もあれば読むことができるボリュームに過ぎない。もちろん、それでは単に眺めたに過ぎないであろう。一方でその内容は確かに難解である。しかし、この本を読むと黙示録の書かれた目的が次のように書かれており、どのように読めばいいかがわかり、私の読む目的(例えば、再臨とはいつのことか、またどのようにそれが出現するかのみに関心をもって読むこと)が間違っていたことに気づく。以下はこの本に記述されている黙示録を読む「目的」について書かれた文章の抜粋である。
当時、小アジアにある諸教会では、信者たちが苦難に対しての備えをするために、確固とした信仰の基礎に立つことと目を醒ますことが求められていました。黙示録は繰り返して、「小羊である主イエスに従い通す者は勝利に導かれる」といっています。「小羊」という言葉は、黙示録に28回でてきます。小羊なるイエス様は、再びこの地上に来られますが、それは罪の問題を解決するためにではなく、ご自身の権威を明らかにするために来られるのです。
イエス様は、教会を建てるために再び来られるのではなく、新しい天と新しい地とを創造するために来られるのです。ですから、黙示録が私たちに伝えてくれるのは、「イエス様が再び来られる」ということと、「イエス様が唯一の支配者である」ということです。
イエス様は、クリスチャン達の苦難と試練のまっただ中において、ご自身が再び来られること、そしてご自身が唯一の支配者であることを、主を信じる人々に啓示されたのです。
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(新約聖書 黙示録 21・4)
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、・・・もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、・・・(黙示録 22・3、5)
神の都には悲しみも苦しみももはや存在せず、主のしもべたちは主に仕え、主が永久に支配者となられることが約束されているのです。
「黙示録はイエス様のことを何と言っているのだろうか」。私たちがこのように問い続けながら黙示録を読むならば、私たちはいつも黙示録から啓示を受けることができます。
イエス様は、神の国の王であり、裁き主であり、世界の支配者であるお方です。イエス様は隠れたことを明らかにすることがおできになるただおひとりのお方です。なぜならば、イエス様はすでに暗闇を通られたからです。黙示録は私たちに、混沌の中にも隠されている光があることを示しています。人間は混沌の中にあっても、やすらぎを与えられています。これが黙示録の主題なのです。イエス様はすべてを超越しておられますが、それでも、小さな私たちのことをもよく考えていてくださるお方なのです。
(同書27~28頁より引用。太字の部分は引用者がそうしたに過ぎない。)
この本が黙示録をカバーする範囲はちょうど1・1~3・22までである。この該当聖書箇所を著者は大きく第一部・第二部と分けているが、第一部は黙示録1章がそれに当たり、主イエス様について、その裁き主としての姿がとことん明らかにされる。そして著者は黙示論解釈の方法を4つ示されるが、自身はその中で「終末論的解釈」を取ると明記されている。第一部の末尾の部分は次のように書かれている。
黙示録第1章に現われるみ姿は、裁き主です。イエス様が裁き主であり、教会は裁かれるものです。裁きはこの世から始まるのではなく、まず、神の家から、教会から始まります。
なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(1ペテロ 4・17)
しかし、教会にたいする裁きは、あわれみの裁きです。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示録 3・19)
このあわれみの裁きが、終わりの日に私たちを神の怒りの裁きから守ってくれるのです。ローマの皇帝にではなく、イエス様に世界の支配権が与えられ
ています。これがヨハネの見たところです。そしてヨハネはイエス様の足もとにひれふしました。イエス様の足もとは、もっとも安全な場所です。「世界の支
配者であるお方が自分の主である」。これがヨハネの喜びでした。※
私たちはこの箇所を正しく理解するために、教会の課題が何であるかということをいつも考えていなければなりません。教会の使命は「暗闇を照らす」
ことです。まことの光はイエス様ご自身ですが、イエス様はご自身の光をご自身の身体である教会を通してこの世に与えようとしておられます。イエス様は教会
をご自身の道具として用いられたいのです。(中略)私たちの内からは暗やみしか出てきませんが、イエス様の内からは光が輝きだします。イエス様が私たちを
お用いになることができればできるほど、イエス様の光が私たちの内から輝きだします。イエス様が私たちを救われたのは、私たちをお用いになるためです。私たちの内からイエス様ご自身の光が輝きだすためです。これが教会の使命であり、また、課題です。(同書94~96頁 ※ヨハネの黙示録が書かれたのは紀元
95年で、その時ヨハネは皇帝崇拝を強要され、それに従わなかったためにパトモス島に流されていた、引用者注。)
第二部は黙示録2章3章がそれに該当し、「天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば」という副題がつけられている。こうして7つの教会(エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤ)に主イエス様が語られることをみことばに即して一つずつ読むことができる。そして私たちはこの7つの教会に宛てられた手紙がどれ一つとして自らに当てはまらないものはないことに気づかされる。特に最も厳しい裁きの対象であるラオデキヤの教会(この教会はまさしく今日の組織された教会を象徴する、なぜならそこでは主イエス様が教会の外に置き去りにされているからである)にさえ、主の愛は悔い改めることを待ち望んでおられることを知り、励まされる。
これら7つの教会への手紙の本質を聖書を通して読み進めることこそ、著者が最も願っていることであろう。ある者はこれらの説きあかしが余りにもすばらしかったので、テープを聴いた段階のことであったが、「ベックさん、これらの真理は直接神様から声が聞こえてくるのですか」と質問したそうである。ところがベックさんは当惑気味に、言下に否定され、私のメッセージは不完全です、と言われたそうである。
私たちは日ごろから、ベックさんに「聖書は何と言っているか、それが大切だ。人の考えが大切なのではない。」と言われているが、この著作もそれを裏打ちする本である。読者自身がこの著作を参考に黙示録そのものからイエス様が何を伝えようとなさっているか、祈りながら読むべきことが具体的に示されている。私は今回読了して、私たちの生活上、個人的に遭遇する困難やまた教会内の問題などがどれ一つとして主イエス様のご支配の外にはないことを知った。また、この主の支配を全面的に今認めることが「再臨」に対するもっとも肝要な備えであることを知ることができてうれしくなった。引き続き既に刊行済みの2巻(1999年)3巻(2001年)4巻(2004年)と後続する著書を読み進めてゆきたいと思っている。
本文360頁、間にグラビアページが挟まれており、総ページ数406頁の本になっているが、読者に読みやすく工夫されている。しかも、この本はわずか300円の廉価で手に入る。一人でも多くの人に是非読んでいただきたい本である。
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