農夫 アンドリュー・マーレー
農夫はぶどうの木を植え、手入れをし、実がなるのを何よりも喜ぶ。主は「わたしの父は農夫です」と言われた。主ご自身が神の植えられたぶどうの木であったのだ。主のご生涯は父のみこころと栄光だけを追い求められた。人が神に対してどうあればよいかを身をもって実際に示されるために、主は人として生まれたのである。主は、私たちの身代わりとなるために人となられたのだ。
神のみ前での主のご生涯の信条は、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11・36)というみことばどおりであった。だから、主は私たちにもまたそのとおりにすることを求めておられる。主は「子は・・・自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ5・19)というみことばの精神にいつも生きておられたのである。ぶどうの木が農夫にすべてをゆだね切っているように、主は日々父のみこころを行なうための知恵と力とを全く父に頼り切っていることをご自分でよく知っておられたのである。
主は、「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」(同14・10)と言われた。ゆえに主は、何も恐れるものもなく、父がご自分をけっして失望させることはないという、最も恵みに満ちた絶対的な信頼を持っていたのである。父なる農夫がおられるからこそ、主は十字架につき、死ぬことができた。それは神がご自分を再びよみがえらせられるという確信があったからである。主のうちにあるすべてのものは、みな父から来たものである。
「わたしの父は農夫です」。このみことばは、私たちにとってもまた真実である。主は弟子たちに、彼らが枝であることを教える前に、まず父を指し示した。クリスチャンの生涯の根底をなすものは、神はすべてのことをしてくださるのだから、自分のなすべきただ一つのことは、自分を神にゆだねるということである。これは、神は私たちの必要とするものはどんなものも与えてくださるという固い信仰を基礎とし、自分というものに対する完全な無力感と神に対する絶対的な信頼から生じるのである。
ある人の信仰生活の中には、主を信じてはいるが、神を重視しないという大きな誤りがあるのをよく見受ける。主は私たちを神のみ前に連れて行くために来られた。主は私たちの生き方をご自分によって示されたのだ。主が神を信じられたように私たちも信じたいものである。私たちの必要のすべては、ぶどうの木が必要とするものと同じように、天から与えられることを信じようではないか。預言者イザヤは、「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。」(イザヤ27・2、3)と言った。ぶどうの実や枝の栄光は農夫にこそあるという信仰で、私たちの心を満たしていただこうではないか。私たちの使命は高く、聖なるものであり、私たちの中に働かれる神は愛と力に満ち、いつくしみ深きお方である。農夫がぶどうの木を正しい形に造られるように、私たち一本一本の枝も正しい形に造られる。父なる農夫は私たちが成長して実を結ぶことを保証しておられるのだ。
(『まことのぶどうの木』 アンドリュー・マーレー著 安部赳夫訳 5~8頁)
(写真は彦根・スミス記念堂内の装飾意匠として随所に刻み込まれている「ぶどうの木」)



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