彦根城の内堀について
このブログを始めた当時(昨年の7月2日)、表題のことをうろ覚えで記したが、細かいところで表現ミスがあったのではないかと気がかりであった。このことを初めて教えてくださったのは高校時代に文化講演会で講師としてお話くださった中村直勝先生であった。
お話くださった昭和36年ごろの本に次のように書いておられるので改めて以下に引用しておきたい。
彦根城の築営に当りて伊勢の津の藩主藤堂高虎の参加があったらしい。江戸城も高虎の設計によって改修されており、修学院離宮にも高虎の考案と思われる場所があると言われる。それらがどこであるかは、勿論、誰も知らないが、どうやら次の箇所でないかと推量される。江戸城では桜田門外の西方、国会議事堂の前の一帯。修学院離宮は上の御茶屋の隣雲亭の脚下にある浴龍池。彦根城では、南方の彦根高校の前の辺。それらに通じて、同じような曲線の汀があるのだが、それでなかろうか。これは暴風が吹いて、池の水が騒ぎ荒れても、直ちに消されて、波がなくなるように工夫されておる汀の曲がり具合である。小波でも立てば、事によると水中を潜行しておる凶怪があるということになるらしい。用心が隠されておるのである。
彦根城は、その西側に太湖を控え、それに通ずる濠に沿うたところに塩蔵があったらしく、とても慎重な用心がしてある。
(『中村直勝著作集10巻』500頁近江路の魅力より引用)
話はまだまだ続くのだが、この辺にしておく。今、東京新聞の連載小説「下天を謀る」で藤堂高虎のことがくわしく述べられているので、このような築城の話も出てくるのでないかと注意しているが今のところ出てこない。藤堂高虎は近江の出身で私の家内の実家の近くの出身である。
ただこのようなお濠の造作という事象も、当時の城下町の性格を歴史の中で考えて果たしてそうだったのか結論づける必要はありそうだ。そのことは別の機会に考えて見たい。城の造作について牽強付会の嫌いがあって申し訳ないが聖書のことばを載せておく。ただ聖書がこのようなことを述べているのは、やはり避けようのない戦いがあることを想定していることは間違いないと言えるのでないか。
わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。(旧約聖書 エゼキエル書22・30)
(写真は初冬の彦根城天守閣を中掘から見上げた景観。彦根(東)高校は画面左側の御濠(中掘)の石垣の中にある。したがってこのお濠は中村先生の言っておられるお濠(内堀)ではない。)


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