枯れた枝 アンドリュー・マーレー
「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」(新約聖書 ヨハネ15・6 口語訳)
ここに述べられている教えは、単純ではあるが極めて厳粛な教えである。自分ではキリストの内に住んでいると考えている人でも、まだほんとうにキリストに完全につながっていないため、投げ捨てられ、枯れて焼かれてしまうような結果を招くことがありうる。キリストとの最初の結びつきができているように見えたとしても、その信仰が一時的なものに過ぎない人は枯れ枝のようなものである。私たちの教会の中を見回すときに、もしかして枯れ枝があるのではなかろうか。私たちは自分を省みて、私たちの心が果たしてキリストにつながっており、実を結んでいるかどうか調べて見ることは、私たちの大切な義務である。
キリストにつながっていない原因はどこにあるのだろうか。ある人々は、クリスチャンの使命が神への従順と愛の奉仕とにあることをどうしても理解しようとしない。このような人々は、ただ信仰を得て地獄に落ちないことで満足していただけである。したがって、キリストにつながる動機も能力もなく、その必要さえも知らないのである。またある人々は、日々の生活や自分の財産のことに気を取られ、みことばを無用のものとさせてしまっている。したがって、何もかも捨ててキリストに従うことを全く知らなかったとしか言いようがないのだ。さらにある人々は、宗教や信仰は人間の知恵によってできたもので、神の力によるものではないと考えている(※)。この人々はただ恩寵が与えられる手段を信じ、自分自身の誠実を信じ、自らを義と認める信仰の健全さを信じていたのである。しかし、彼らの唯一の安住の場所として、キリストにつながることを求めることは全くなかったのである。誘惑や迫害の熱風が吹いた時、彼らは枯れ果ててしまった。彼らはほんとうはキリストに根ざしていなかったのである。
私たちの目を大きく開いて、教会の中で私たちの周囲にもしや枯れ枝がないかどうか捜して見ようではないか。若い人々はどうなのか。彼らの信仰告白はかつては輝かしいものだったが、今ではさめ果てている。年を取った人はどうだろう。彼らは信仰の告白を持ち続けてはいるが、かつての新生の喜びは消え失せている。牧師や信者は、主のみことばを深く心にとめて、枯れ始めている枝に何か打つ手がないかを主にお尋ねしてみようではないか。「主に住む」というメッセージを教会の中に絶えず語り続け、すべての信者に主の中に住むほかはほんとうの安住はないことを知らしむべきである。
私たちの心の中をまず省みることである。私たちの生活は新鮮で、緑がいっぱいで、力に満ち満ち、季節ごとに実を結んでいるだろうか(詩篇1・3、93・13、14、エレミヤ17・7、8)。心から喜んですべての戒めにお従いしようではないか。キリストの中に住むことを急がねばならぬことを早く悟ろうではないか。正しい心にとっては、キリストの中に住む秘訣は容易に握ることができる。ただキリストが私たちを置かれた場所を意識し、ただキリストと私たちとの結びつきに幼児のような安らぎを感じ、キリストが私たちを守ってくださるという信頼をいだいておればよいのだ。私たちに枯れることを知らぬいのちのあることを信じようではないか。枯れることを知らぬいのちは常に緑も濃く、しかも豊かに実を結ぶのである。
祈り
「私の主よ。私が『枯れ』ないように監視してください。そして私をお守りください。ぶどうの木に完全にとどまっていることから来る新鮮さを、ひと時も奪われることがないようにしてください。枯れた枝のことを考えただけでも、私を聖なる恐れと用心深い心とをもって満たすようにしてください。アーメン」。
(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳61~64頁より引用したもの。文章中※を配した一文にふくまれる「宗教と信仰」ということばはむしろ「イエス・キリストに対する信仰」と置き換えたほうが意味が通ずるのでないか。なぜなら「宗教」ということばは様々な宗教の並置を認めた上でのことばであり、その概念どおり「宗教」は人間の造り上げたものだと思うからである。自らのキリスト信仰を「宗教」と規定することは十戒の第一の戒め「主は私たちの神。主はただひとりである。」申命記6・4にもとるのでないか。このことに関する深い洞察は、いずれもベック兄の著作『実を結ぶいのち』(1981年刊行)136頁以降や『神の聖なる戒め』(2009年刊行)84頁以降にくわしい。写真はドイツ・ミヘルスベルクの宿舎の窓から眺めた緑生い茂る樹木群)


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