100年ほど前の異国の一女性の証し(7)
皆を―殊に医師たちを驚かせた驚異的な出来事が起こった。レントゲン線が全く思いがけぬ作用をしたのである。病人は回復した。彼女はやがてジュネーヴを去ってローザンヌに帰ることが出来た。ローザンヌでは、病気は引き続き日増しに良くなっていった。この間、彼女の夫(引用者註:ロンドンの牧師)は度々、ロンドンとスイスの間を往復した。
(ローザンヌにて、1930年10月20日)
この二日の間、あなたのこと、あなた方皆のことを、どんなに考えていたことでございましょう。あなたの御旅中のこと、自家(うち)にお着きの時のこと(この美しい帰宅のことはよく憶えています。)子供たちの喜ぶ様子。あなたにする子供たちのキス。それに土曜日の晩の日曜日の準備。それから最後に、いつも仕事が一杯あってへとへとになるけれど、やっぱり豊かで楽しい日曜日のこと。以前にはどうしてわたくしは、この日曜日の忙しい仕事のことを嘆いたりなど出来たのでございましょう。今ならば他の人の仕事の疲れを―あの楽しい仕事の疲れを感じさせてもらう代わりになら、何でも差し上げることでございましょう。
・・・ほんとうに私自身のことを申しますなら、わたくしは物事をあなたと全く同じように考えております。わたくしは自分の生命(いのち)がお医者様方に支えられているのではなくて、もっとずっと無限に高い御意(みこころ)と、もっとずっと無限に高い御力に―神様の御意(みこころ)と御力に支えられているのだという、不思議な印象を受けるのでございます。この感じはわたくしにとりましては、強い力の泉でございます。もしお医者様だけを頼りにしようとしますなら、わたくしは絶望に陥ってしまうだろうと存じます。
(『その故は神知り給う』34頁より)
日曜日、宇都宮での礼拝を終えての帰りに、途中下車して久方ぶりにAさんをお見舞いした。以前よりは弱っておられたが、それでもAさんのうちにあるのはこの100年前の異国の一女性と相通ずる平安であった。重病人である彼と私との間におられるのはまごうことのない神様イエス様であるからである。私たちは二人して詩篇102篇を輪読して祈りあった。
主は私の力を道の途中で弱くされ、
私の日数を短くされました。
私は申しました。
「わが神よ。私の日の半ばに
私を取り去らないでください。
あなたの年は代々に至ります。
あなたははるか以前に地の基を据えられました。
天も、あなたの御手のわざです。
これらのものは滅びるでしょう。
しかし、あなたはながらえられます。
すべてのものは衣のようにすり切れます。
あなたが着物のように取り替えられると、
それらは変わってしまいます。
しかし、あなたは変わることがなく、
あなたの年は尽きることがありません。
あなたのしもべらの子孫は住みつき、
彼らのすえは、
あなたの前に堅く立てられましょう。」
(詩篇102・23~28)
彼の祈りは依然として「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)とのイエス様の約束のおことばに信頼するものであった。いのちは私たちに起点を置く時、絶望・死しかない。しかし一度(ひとたび)イエス様に信頼する時、病状がいかなる絶望・困難の中にあっても永遠のいのちへの希望へと大きく転換することを彼の闘病は教えてくれる。
(写真はAさんの玄関で私を迎えてくれたハイビスカス。「病める友 ハイビスカスの 赤のよう」「望み持て ハイビスカスの あかるさよ」)






















































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