話の泉

2009年10月20日 (火)

100年ほど前の異国の一女性の証し(7)

Photo  皆を―殊に医師たちを驚かせた驚異的な出来事が起こった。レントゲン線が全く思いがけぬ作用をしたのである。病人は回復した。彼女はやがてジュネーヴを去ってローザンヌに帰ることが出来た。ローザンヌでは、病気は引き続き日増しに良くなっていった。この間、彼女の夫(引用者註:ロンドンの牧師)は度々、ロンドンとスイスの間を往復した。

(ローザンヌにて、1930年10月20日)
 この二日の間、あなたのこと、あなた方皆のことを、どんなに考えていたことでございましょう。あなたの御旅中のこと、自家(うち)にお着きの時のこと(この美しい帰宅のことはよく憶えています。)子供たちの喜ぶ様子。あなたにする子供たちのキス。それに土曜日の晩の日曜日の準備。それから最後に、いつも仕事が一杯あってへとへとになるけれど、やっぱり豊かで楽しい日曜日のこと。以前にはどうしてわたくしは、この日曜日の忙しい仕事のことを嘆いたりなど出来たのでございましょう。今ならば他の人の仕事の疲れを―あの楽しい仕事の疲れを感じさせてもらう代わりになら、何でも差し上げることでございましょう。

 ・・・ほんとうに私自身のことを申しますなら、わたくしは物事をあなたと全く同じように考えております。わたくしは自分の生命(いのち)がお医者様方に支えられているのではなくて、もっとずっと無限に高い御意(みこころ)と、もっとずっと無限に高い御力に―神様の御意(みこころ)と御力に支えられているのだという、不思議な印象を受けるのでございます。この感じはわたくしにとりましては、強い力の泉でございます。もしお医者様だけを頼りにしようとしますなら、わたくしは絶望に陥ってしまうだろうと存じます。

(『その故は神知り給う』34頁より)

 日曜日、宇都宮での礼拝を終えての帰りに、途中下車して久方ぶりにAさんをお見舞いした。以前よりは弱っておられたが、それでもAさんのうちにあるのはこの100年前の異国の一女性と相通ずる平安であった。重病人である彼と私との間におられるのはまごうことのない神様イエス様であるからである。私たちは二人して詩篇102篇を輪読して祈りあった。

主は私の力を道の途中で弱くされ、
私の日数を短くされました。
私は申しました。
「わが神よ。私の日の半ばに
私を取り去らないでください。
あなたの年は代々に至ります。
あなたははるか以前に地の基を据えられました。
天も、あなたの御手のわざです。
これらのものは滅びるでしょう。
しかし、あなたはながらえられます。
すべてのものは衣のようにすり切れます。
あなたが着物のように取り替えられると、
それらは変わってしまいます。
しかし、あなたは変わることがなく、
あなたの年は尽きることがありません。
あなたのしもべらの子孫は住みつき、
彼らのすえは、
あなたの前に堅く立てられましょう。」
(詩篇102・23~28)

 彼の祈りは依然として「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)とのイエス様の約束のおことばに信頼するものであった。いのちは私たちに起点を置く時、絶望・死しかない。しかし一度(ひとたび)イエス様に信頼する時、病状がいかなる絶望・困難の中にあっても永遠のいのちへの希望へと大きく転換することを彼の闘病は教えてくれる。

(写真はAさんの玄関で私を迎えてくれたハイビスカス。「病める友 ハイビスカスの 赤のよう」「望み持て ハイビスカスの あかるさよ」)

2009年9月30日 (水)

100年ほど前の異国の一女性の証し(6)

Dscn8045  病を得るということは大変なことだ。これまでこの記事の出典を明らかにしてこなかったが、『その故は神知り給う』(井上良雄訳)という小著を編集して用いさせていただいている。病という私たちに取り大きな問題をこの方の病状に即して、できれば時日に合わせて読みたいと思ってきた。彼女はロンドンに夫と子供を残しジュネーヴで治療に専念する中で毎日のように夫に手紙を書いている。9月14日から9月24日まで7通記録されている。前回はその最初の手紙二通を載せたが、今日はその後の手紙2通をピックアップして見たい。

 この時彼女の病状は次のようであった。極めて強力なレントゲン線で、体の一部分を照射することが試みられた。専門医は何ら過大な効果を期待してはいなかった。一つの鎮静手段だと、彼は言っていた。病気は体の組織全体に蔓延していたからである。しかしやはり僥倖をたのみにして、この方法が用いられた。医学的に見れば、病人はもう絶望と思われた。医師たちは、クリスマスが最後だろうと話し合っていた。

(ジュネーヴにて 1930年9月20日)
事実に眼をふさぐことは間違って居りますけれど(そのようなことをわたくしが致しませんことは、きっと御承知と存じます)もう駄目だとすぐに申すことも、やはり間違っているように思われます。お医者様が治療を続けるのが良いとお考えになる間は―そして神様がおいでになる間は、希望もやはりあるのでございます。今は物事をそのように考えるべきではございませんでしょうか。

どうぞ神様が、すべてのものを神様の御光の中に眺める力を―洞察と信仰と服従とで眺める力を、お与え下さいますように。ああ、わたくしはまだまだ駄目でございます。そしてあなたのおっしゃるように、こうしてじっとしていることが、わたくしの一番悪い敵でございます。今のようにこうして一人ぼっちで横になっている時に、いろいろな考えを飛びまわらせたり、想像力を働かせたりしないということは、わたくしには本当にむづかしうございます。

けれどわたくしは、あなたがわたくしのことを考えていてくださるということ、上を見上げるようにわたくしを助けて下さるということを、知っています。

(ジュネーヴにて 1930年9月24日)
G先生(註、専門医)は、わたくしをお見離しになりません。こんなに一所懸命に治療して下さるのですから、先生も何か効果を期待しておいでになるに相違ございません。わたくしの病気は大へん重うございます。それは疑いもないことでございますけれども、望みがないというのではございません。皆さまが出来るだけのことをして下さることと存じます。そして余りのことは御意(みこころ)のままに、でございます。

皆さまのわたくしにたいする御好意は恥ずかしくなるほどでございます。わたくしを随分高く評価なさいまして、勇気のある献身と平安の中にある者のようにお考えでございます。けれども、もし私の心の中をご覧になれましたら、どんなに沢山の弱さと不安と涙をお見つけになることでございましょう。それにどんなに沢山の戦いを。

もし、たとえばエリザベート・ルズールのように、戦いをすっかりやめて、何の思い煩いもなく生きて「自分が生きるか死ぬかは問題ではない、それを知りたいとも私は思わない。御意(みこころ)が私の中に、また私を通して、全くなるように」と言えますなら、どんなに心安いことでございましょう。

けれどもそのような言葉を口にすることは、わたくしにはまだまだむづかしうございます。頭ではそう申しましても、実際には随分むづかしうございます。

モーセは主に申上げた。・・・「もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。」すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」(旧約聖書 出エジプト33・13~14)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(旧約聖書 詩篇16・11)

(写真はこの日曜日、茨城県日立市の高台から見た不思議な風景。何と海が上に見えたのだ。画像奥にブルーで広がるのが太平洋である。)

2009年9月17日 (木)

100年ほど前の異国の一女性の証し(5)

Dscn7936  この項は4月16日以来久々の登場である。この5ヶ月間における彼女の病状は次のようであった。

 (病が回復してスイスからロンドンに帰る)旅行の途中、彼女はヴェルサイユにいる他の姉妹のところに寄った。堪え難い苦痛を伴った新しい発作が、彼女を打倒した。「この三日間の苦しみをまた苦しむよりは、6人の子どもをもう一度生んだ方がいい」と、やがてまた筆を執れるようになった時、彼女は書いている。これは以前の病気の再発であろうか。その最初の兆候は、既にスイスで専門医を訪ねた後に、起こっていた。その時にはインフルエンザだと言われていた。ヴェルサイユでは神経炎だと言われた。ロンドンではこの危険な状態が、四週間目毎に起こった。しかし彼女の手術をした外科医は、それについてはっきりしたことは言えなかった。病人は見る見るうちに衰弱していった。どうにかしなくてはならないというので、スイスに帰ることが決定された。ローザンヌに着くと間もなく、彼女はまた気分がよくなって、著しく恢復した。

 しかし試みにグリヨンの余り高くないところに滞在したことが新しい危険状態を惹き起こした。それはこれまでのどの場合よりも悪性のもので、ローザンヌでは発作が全くひそんでいただけに不意打ちであった。それで彼女は出来るだけ早く担架に乗せて、自動車でまた平地へ降ろされなければならなかった。ローザンヌの愛するベチュージー家に、彼女は数日休息した。この間にモンペリアールで、彼女の義理の兄弟が死んで、それから十日目に、パリで父親が九十歳で亡くなった。視界は全く暗澹たるものであった。やがてジュネーヴに着いて、そこで彼女は義理の兄弟と専門医の介抱をうけた。彼らは力の及ぶ限りのことを試みた。

 このような暗澹たる中で彼女はロンドンにいる牧師である夫に次のように手紙を書いた。

(ジュネーヴにて1930年9月14日)
 神様があなたをお守り下さいますように。そしてあなたのお心に平安をお与え下さいますように。わたくしは何がどうございましても、神様の御手の中におります。そして神様は私どもを愛しておいででございます。神様が私どもに―わたくしにも、この平安をお与えくださることを信じます。神様がわたくしに御心を受け入れる力を、お与えくださることを信じます。今のこの時には、わたくしは涙とともに御心を受け入れます。けれど、どうぞお心安くおいで下さいませ。神様は、喜びとともに御心を受け入れる力をも、わたくしにお与えくださることでございましょう。そして、あなたにもお与え下さることでございましょう。

(ジュネーヴにて、1930年9月15日)
 どうぞわたくしのことはご心配なさらずに下さいませ。いづれにいたしましても、今はご心配なさらずに下さいませ。ご存知のように、わたくしのために出来るだけのことは、為されています。それにわたくしは、自分の生命が神様の御手の中にあるということ、神様はご自分のなさったことをご承知でおいでになるということを、堅く信じています。神様の方にだけわたくしは身を向けます。神様は大きな犠牲をお求めになって、わたくしとあなたに御心を受け入れる力をお与えになるか、あるいはわたくしどもに解放をお与えになるか、そのどちらかでございます。今はただ不確かなままに待っていなければなりません。そして、それは暗黒と不安ということでございますけれども、間もなくわたくしどもははっきりと見ることでございましょう。勇気を失わぬように、どうぞ助けて下さいませ。わたくしも逆にあなたをお助けいたします。何というたくさんの愛と祈りが、わたくしどもを取りかこんでいることでございましょう。

 私たちは病の中にある方々をどのようにしてお慰めできるのだろうか。誰にも出来まい。出来るのは主なる神様のことばだけである。上掲のご夫妻もイエス様の以下のことばにより頼みながら互いに相い励ます生活をローザンヌとロンドンとたとえ身は離れていても経験なさっていたのでなかろうか。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(新約聖書 ヨハネ14・27)

(写真は先週末義母の病院からの帰り道、近江線の道端で見かけた朝鮮朝顔と水路の風景)

2009年9月 5日 (土)

関東大震災と内村鑑三(完)

Dscn7707  私たちは、今、日夜「政権交代」が生み出した政治の激変を目の当たりにしている。政策がどのようにして作られてゆくか、予算の原案作成から、その行使のあり方を日々テレビの報道を通して見ている。どこをどう動かせばどういう政治が可能になるのか。総選挙で民意が現れた激震の後の政党の一挙手一投足を監視している。何とかまっとうな政治が行なわれてほしいと固唾を飲んで見守っているのは私だけであろうか。

 さて80年以上前の大震災の惨禍を前にして内村が何を考えたか、今日は最終回になる。前回の話の続きである。

 今回の災害は実に甚大であった。日本に歴史あって以来の最大の災禍と称すべきであろう。しかしながらこれは世の終末ではないと信ずる。災害の区域は広くあるが、しかし日本全体より見て局部的である。いわんや世界全体より見て、一小局部に起こった災害たるにすぎない。しかし世界全体より見て小は小なるにすぎないが、よく最後に起こるべき大審判のいかなるものかを示す。キリスト再臨の反対論者は常に言う、天然にも歴史にもカタストロフィーすなわち激変なるものはない万事万物ことごとく徐々に進化するのであると。しかるに事実はしからずして、私どもはここに大激変を目撃したのである。一夜にして大都市が滅亡したのである。三百年間かかって作り上げられしいわゆる江戸文明が数分間にして毀(こぼ)たれたのである。これは確かにカタストロフィー(激変)ではないか。大正12年9月1日午前11時55分に、江戸文明は滅びて、ここに善か悪かは未だ判明しないが、いずれにしろ日本国の歴史に新紀元が開かれたのである。

 「審判(さばき)の災禍は不意に来る、ゆえに備えせよ」とこれは決して無いことではない。私どもは事実そのままを目撃したのである。徐々たる進化に依頼して備えをなさざる時には、激変たちまちに臨んで、われらをしてこれに応ずるの遑(いとま)なからしむ。私は進化を信ずるが、激変の伴わざる進化を信じない。宇宙も人類も進化の間に激変をさしはさみつつ進み来ったのであると信ずる。

 私どもをこのたび見舞いしカタストロフィーは全世界を最後に見舞うべき大カタストロフィーの模型である。今回の災害において私どもは一日のうちに大東京が燃えくずれて焦土と化した惨劇を目撃した。しかるに彼の日には全世界が燃えくずれて体質ことごとく焚鎔(やけと)けんとのことである。この事があってかの事は無いとは言い得ない。神も天然も学者の学説や、文士の思想には何の遠慮会釈もなくその思うがままを断行する。悲惨の極み酸鼻の極みと嘆いたところがそれまでである。私どもは神の言葉にこのことあるを示されて、常にこれに応ずるの準備をなすべきである。すなわち潔き行いをなし、神を敬いて神の日の来るのを待つべきである。「人々平和無事なりと言わん時滅亡(ほろび)忽ちに来たらん、人々絶えて避くることを得じ」※とテサロニケ前書5章3節にあるがごとしである。

 滅亡は度々人類に臨む。しかし滅亡のための滅亡ではない。潔(きよ)めのための滅亡である。救いのための滅亡である。世の終末と聞けば恐ろしくあるが終末ではない。新天地の開始である。最後にこの世に臨む大破壊、大激震はこの目的をもって臨むのである。それと同じく今回のこの災害もまたこの目的をもって臨んだのである。これによって東京と日本が亡びるのではない。より善き、より義(ただ)しき東京と日本とが現れんとしているのである。先ず第一に亡びたのは恋愛至上主義である。古き日本において古き道徳が再び権威をもつに至った。これは実にありがたいことである。有島事件とこの震災といずれが大なる災害でありしかと尋ねらるるならば、私は有島事件であると答える。震災は物質並びに肉体の喪失を生じたにすぎないが、有島事件に現れたる道徳の堕落は霊魂の滅亡を意味する。もし数千万人の霊魂が助かりたりとすれば、犠牲は決して過大なるものではない。

 この震災によりて永く鎖されおりし同胞間の同情の泉が開かれた。日本人の胸中、なお未だ熱き同情の存する者ありとは今回の災害によって明らかに示された。しかのみならず、米国の日本に対する伝統的友誼が復活して、ここに危機に瀕せし日米関係が昔のうるわしき状態にもどりつつある。しかのみならず、まさに敵国と化せんとしつつありし隣国の支那までが、その防穀令を撤回して、数十万石の米穀をわが国に寄贈しつつあるとのことである。神は日本国に大なる傷を負わせ給いて、その民の霊魂を覚まし又全世界をしてこれに対して同情を注がしめて、いわゆる排日運動の根を絶ち給いつつある。私どもはここに新日本建設の機会を与えられたのである。

(※現行聖書訳は次の通りである。「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません」 写真は今年の八月初旬の高峰高原。)

2009年9月 4日 (金)

関東大震災と内村鑑三(3)

Dscn7872  本日も一昨日から転写している『聖書之研究』279号から「末日の模型 新日本建設の絶好の機会」と題する内村の記事を今日と明日の二回に分けて掲載する。日付は1923年9月9日とある。考えて見ると、それから20年も経たないうちに日本はより強力な惨禍、すなわち戦争の惨禍に全国民が見舞われるのである。内村自身は1930年没だから、日本の戦争の惨禍を知らずして召された。ところで、この本は、もともとその戦争の惨禍の渦中にあったK氏の蔵書をご遺族のご好意で分けていただいたものである。氏はこれら記事の各所に赤線でサイドラインをつけておられる。一体どんな思いで読まれていたのだろう。

 大なる災害は我が東京並びにその付近の地を襲うた。何十万という人が死し、何十万という人が傷つき、何十万軒という家が焼け、多分何十億という富が失せたであろう。実に悲惨の極み、酸鼻の極み、これを言語に尽くすことは出来ない。これがために神の存在を疑う人もあろう。人生の無意味を唱える人もあろう。しかし在った事は在ったのである。一日のうちに大東京の枢要部は失せたのである。人間が何百年かかって作ったものを天然は一日にして滅ぼしてしまったのである。無惨と云おうか、無慈悲と云おうか。しかし事実は事実であるのである。

 かつてドクトル・ジョンソンが1755年に起こりしポルトガル国の首府リスボンの地震の事を聞きし時に、常には強堅なる信仰をもって唱えられし彼の信仰も、この時ばかりは動いたとの事である。その如くに私どももまたこの惨劇を目前に見て、「神もし在りとすればこのことあるは如何(いかん)」との問いを発したくなる。然るに天に声なし地に口なしである。そして悲惨なる事実は厳然として私どもを睨(にら)みつけるのである。私どもはただこれに対して「それ人はすでに草のごとく、その栄えはすべての草の花のごとし。草は枯れ、その花は落つ」と口のうちに繰り返すのみである。神のことは別として、人間の弱さがかかる時に
しみじみと感ぜらるるのである。

 日本国の華をあつめたる東京市は滅びた。しかし何が滅びたのであるか。帝国劇場が滅びた。三越呉服店が滅びた。白木屋、松屋、伊東呉服店が滅びた。御木本の真珠店が滅びた。天賞堂、大勝堂などの装飾店が滅びた。実に惜しいことである。しかしながらもし試みに天の使いが、大震災の前日、すなわち八月三十一日の夕ぐれ、新橋より上野まで、審判(さばき)の剣をひっさげて、通過したと仮定するならば、彼はこの家こそ実に天国建設のために必要欠くべからざるものであると認めた者を発見したであろうか。私は一軒もなかったであろうと思う。三越も白木屋も天国建設のために害を為すものであっても、益をなすものでなかったと思う。ある人は問うであろう。「日本全国に聖書を供給する京橋尾張町の米国聖書会社は如何、内村先生の著書を出版しまた販売する同町の警声社書店は如何」と。私はこれに答えて言う「主は知り給う」と。多分天使はこれをも火をもって潔める必要を認めたであろうと思う。

 かくのごとくにして、人生が遊戯でないかぎり、正義の実現が万物存在の理由であるかぎり私どもは神がこの虚栄の街を滅ぼし給いたればとて、残忍無慈悲をもって彼を責むることは出来ない。単に新聞雑誌に現れたる震災以前の東京市の状態を考えても、この災害がこれに臨みしは誠に止むを得ないと言わざるを得ない。聖書に記すがごとく、天使はこの様を見て言うたであろう。「然り主たる全能の神よ、汝の審判(さばき)は正しく、かつ義なり」と(黙示録16章7節)

 これに付随して無辜(つみなきもの)の死の問題が起こる。このたびの災禍においても、他の災禍の場合におけるがごとくに、災禍を呼びし罪に直接何の関係なき多くの者が死し又苦しんだ。私どもは無辜の苦患(くるしみ)に関する人生の深き奥義を探ることは出来ない。社会は一団体であって、人は相互の責任をになうように造られた者であるがゆえに、善人が悪人とともに苦しむことは止むを得ないと言いて、一部分の説明とすることは出来ない。奥義は依然として奥義として残る。私どもは罪を審判(さばき)給いし正義の聖手を義とするが、それと同時に、その犠牲となりし多くの人のために泣く。

 そしてこのことに関し最も甚だしく痛み給う者は天にいます父ご自身であると信ずる。彼はわれらの知らざるある方法をもって十分にこの苦痛を償い給うと信ずる。罪人に臨む滅亡は適当の刑罰であって、無辜に臨む死は一種の贖罪の死である。神は同時に災禍を善悪両様の人の上に降して、災禍そのもののうちに恩恵贖罪の途を備え給うのであると信ずる。

主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。・・・その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(新約聖書 2ペテロ3・10、13)

(写真は昨夕のクレオメの優美な姿。撮影が思うように行かない。)

2009年9月 3日 (木)

関東大震災と内村鑑三(2)

Dscn7854  昨日に引き続き『聖書之研究』第279号大正12年10月10日発行の引用をさせていただく。以下の作品は内村の手になる巻頭の文章(英文をふくめ)である。

 THE EARTHQUAKE.
The earthquake is a physical phenomenon attending the ever contracting earth; and as such, it will come regardless of goodness or badness of mankind that dwells upon the earth. It is therefore scientifically true that“we have not here an abiding city.” The earth is shaking, and with it every thing that stands or lives upon it. But there is “ a kingdom that cannot be shaked,”a kingdom that is not of the shaking earth. We can be the citizens of the unshaking kingdom, while living upon the shaking earth, and can remain even after the earth itself will be wiped out of existence. May we so live that we are not afraid of earthquakes, ever singing,
“In the cross of Christ I glory,
  Towering o'er the wrecks of Time.”

 地震に就いて(以上の訳文)
 地震は恒に収縮しつつある地球に伴ふ天然的現象である。故に地上に棲息する人類の善悪如何に係はらず臨む者である。聖書に「我等此所に在りて恒に保つべき都城(みやこ)なし」とあるは科学の立場より見て真理である(ヒブライ書12章14※)。地は震ひつつある。そして地と共に地上万物は震ひつつある。然れども茲に又震はれざる国がある。そして我等は震ひつつある此地に住みながら、此震はれざる国の市民たる事が出来る。地其物が拭い去らるる其後と雖も猶ほ生命を継続することが出来る。願ふ我等は地震を恐るることなくして生活し得んことを、常に口に賛美を唱へつつ
 荒れはつる世に 高く聳ゆる
 主の十字架にこそ 我は誇らめ 
と(賛美歌第81番)

※引用者注 ヘブル12・14とあるが、ヘブル13・14の間違いであろう。参考までに現行の聖書の訳を以下に載せておく。「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」 なお、余談だがここで内村はこの聖書の言葉は「科学の立場」より見て真理であると断っている。内村が当時の実学であり自然科学である水産学をその学問の基礎に置いていたからであろう。従って私自身が高校時代、生意気にも自然科学を目指す者は、神という目に見えない存在は信じられないと思ったのは単なる謬見にすぎない。「神の、目に見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(新約聖書 ローマ1・20)

(昨晩の庭のクレオメ。暗くなればなるほど美しくなる夜光草か?)

2009年9月 2日 (水)

関東大震災と内村鑑三(1)

Dscn7742  1923年(大正12年)9月1日は関東大震災のあった日である。このブログで何度かご紹介しているK氏の遺された蔵書の一つに『聖書之研究』(1923年)がある。その10月号は地震の灰燼さめやらぬ中で発行されたものだ。地震に関する記事で満ちている。同誌に掲載されている内村鑑三の日記を今日は書き写した。内村はこの時軽井沢にいたようである。

9月1日(土)雨
 正午少し前に強震を感じた。浅間山噴火の前兆に非ずやと思うて驚いた。然るに少しも其様子なく、或は東京方面の激震に非ずやと思ひ心配した。夜半に至り予想通りなることを知らされて驚いた。東南の空遥かに火焔の揚がるを見た。東京に在る妻子家族の身の上を思ひ、心配に堪へなかった。夜中幾回となく祈った。そして祈った後に大なる平安を感じ、黎明まで安眠した。

  2日(日)晴
 危険を冒しても東京に帰ることに決心した。羽仁元吉、石原兵永の二君と共に午前10時10分発の汽車にて軽井沢を発し、午後4時荒川鉄橋近き川口町駅に下車した。それより病める足を引きずりながら夜10時柏木の家に達した。家屋に比較的軽少の損害ありし外に、家族、同居人、召使の者の髪一本も害(そこな)はれざるを見て感謝の涙を禁じ得なかった。強震来襲の恐れ未だ絶えず、家族と共に露営した。離れて彼らの身の上を案ずるよりも、彼等と共に危険の地に在るの、いか計り幸いなる乎を覚えた。

  3日(月)晴
 振動歇まず。食物僅かに三日分を残すのみ、其供給に苦心した。近隣相助けて相互の慰安と安全とを計った。放火の虞ありとて各家警衛の任に当たった。

  4日(火)晴
 振動昨夜来三四回感じたのみであった。比較的に静かなる日であった。大手町衛生会講堂の焼失を確かめて悲しかった。我が愛する大ピヤノと大オルガンとは同時に灰に化したのである。我が満4年間の霊的戦闘の行なはれしアリーナ(闘場)であった。今は過去の歴史として残るのみである。嗚呼我が懐かしき衛生会講堂よ。

  5日(水)晴
 呆然として居る。恐ろしき話を沢山に聞かせられる。東京は一日にして、日本国の首府たるの栄誉を奪はれたのである。天使が剣を提げて裁判(さばき)を全市の上に行うたやうに感ずる。然し是は恩恵(めぐみ)の裁判であると信ずる。東京は今より宗教道徳の中心となって全国を支配するであらう。東京が潰れたのではない。「芸術と恋愛と」の東京が潰れたのである。我等の説教を以ってしては到底行ふこと能はざる大改造を、神は地震と火とを以って行ひ給うたのである。「神の日には、天燃え毀(くず)れ、体質(たいしつ)焚溶(やけと)けん、然れど我等は約束によりて新しき天と新しき地を望み待てり、義其中に在り」とある其日が来たのである(ペテロ後書3章12、13節)。玄関の入り口に以下の如く張り出した。

 今は悲惨を語るべき時ではありません、希望を語るべき時であります。夜はすでに過ぎて光が臨んだのであります。皆様光に向かってお進みなさい。殺さんための打撃ではありません、救はんための名医の施した手術であります。感謝して之を受けて、健康にお進みなさい。

 我が民の罪悪を責むるの時は既に過ぎた。今より後はイザヤ書第40章以下の預言者となり、彼等を慰め、彼等の蒙りし傷を癒さねばならない。「慰めよ、汝等我民を慰めよ」と。

(写真は高峰高原の高山植物)

2009年8月26日 (水)

再び、K氏の手紙

Dscn7712  涼しさを覚える。それだけに限ればいいが、作物には甚大なる影響が出ている。東西南北今年は異変続きだ。世相は選挙を前にしてか静まり返っている。先ほど期日前投票に出かけて来た。沢山の人出で新聞報道の通り選挙への関心が高いことが裏付けられた。

 今朝も若くして戦死したK氏の手紙を読み、忠実な主の僕の歩みを思うことができた。K氏は私の父と同年の明治44年生まれである。父にも遺された日記などがある。子どもとして肉親ならでは味わい得ない妙味があり、時々手にすることがある。

 しかしK氏は本来私にとって縁のない方であるのにこの親しさは何なのだろうか。時と場所を越えての主にある兄弟であり、天の御国で再会できるお方だからなのだろう。無教会の流れを汲むこの方のゆるぎない主への愛を思い、悔い改めさせられることばかりだ。以下は1943年8月21日のものである。同氏32歳の時のものである。

 涼しくなったと云ってもまだ東京は相当の暑さでせふ。ママ愈々大切にしなさい。今日も恵子チャン元気でオイタしていますか。ママも恵子チャンも上海でなくて割合涼しい夏と広い遊び場を与へられて有難いことでした。
 ヘブル書一章を読んで下さい。一節後半から三節まで。此所は基督教の要約を見ます。二章一節を読むに及んで「流れすぎ」居ることを後悔します。神を神として崇めず、罪を罪と悟らざるを嘆きます。キリストに在るを得る様祈りませふ。或(い)は神許し給ふやも知れません。形式と概念のキリスト教をもう止めてイエスに在り得る様祈らふではありませんか。
 生まれる子のため、恵子のため、子等が主を敬め奉る者となり得る様主の御導きを祈って下さい。木村君のため及び九州の旅にあり二十五日頃は隠岐の島へゆき、月末頃当地に来る予定の岩井君のためにも旅路の御護を祈って下さい。最後に私のため、みち草を食はずに主の道を学び得る様並(び)に祈りをつとめることの出来る様祈って下さい。
 ママの祈(り)に護られて僕は此所へ来た目的の大半を達し得らるると思ふ故にくれぐれも願ひます。祈りに於(い)て主がママを力づけ、初(め)は遠くとも徐々に近く在し給ふ様祈っています。
 当地も近頃暑くなりました。東京での酷暑型の暑さです。日中は八十三度にも上りましたが、夕刻は可也涼しくなりました。七十六度ですが、今までにもないことです。暑さの中に居ても騒がしさの中にあっても体は重くとも、上よりの清々しさと静けさと平安とが、ママを支へてくれます様に。    八月二十一日夜  

 「体は重くとも」とは生まれ出ずる赤ちゃんをお腹に宿す妻を思ってのことばであろう。華氏による温度表示は戦前まで用いられた方法。人間の体温を100度とする表示のようだ。なお最後に労を厭わずK氏が読まれたであろう、文語訳聖書で該当箇所を読んでみたい。

神はかつて御子を立てて万(よろず)の物の世継ぎとなし、また御子によりて諸般(もろもろ)の世界を造り給へり。御子は神の栄光のかがやき、神の本質の像(かた)にして、己が権能(ちから)の言(ことば)をもて万の物を保ちたまふ。また罪の潔(きよめ)をなして、高きところにある稜威(みいつ)の右に座し給へり。(ヘブル書1・2後半~3)

この故に我ら聞きし所をいよいよ篤く慎むべし、恐らくは流れ過ぐる事あらん。 (同書2・1)

(写真は高峰高原のニッコウキスゲ)

2009年8月18日 (火)

おいかわ随想(続)

Dsc00049_5     昨日の続きを書いてみる。千載一遇の機会とはチト大げさではあるが、私にとっては魚の産卵シーンを見るのは初めてであったことは確かであり、そのことの仔細を述べるのには、若干筆足らずのところが残ったからである。事象は鮮やかであるが、如何せん知識がない。それでMさんにお伺いしたというわけだった。しかしMさんの言は私の想像以上のことを教えてくれた。そのことを先ず説明したい。

 魚の雌雄の営みはまさに産卵と同時に成立しているということであった。雄が婚姻色で雌をひきつける。雌は下からその雄の姿に魅せられてその下に入るということだが、雌は雌でもっともふさわしい砂地に卵を産み付ける必要がある。雄は雄で求愛に成功した雌に間髪を入れず、精子を放出するのであろう。それは極めて一瞬の出来ごとである。しかもその卵が孵るには充分な酸素が必要という。だとすると、水質は純でなければならず、また生育するにはそれにふさわしい適温でなければならない。だから余り深い川では底は水温が低下しているのでとても持たない。10度摂氏ぐらいのところがいいそうだ。従って私が観察した小川の浅い水底はまことに理にかなった場所ということになる。そうした場所を二匹の魚は選んだというわけだ。しかも彼らの動きがとまったかに見え、ほとんど眼の前で私が簡単に掬い上げそうになると思われるほどの静寂が漂ったという私の感想は、M氏の言によると、彼らはその時夢中なので、まわりのことが考慮に入らない、と言うことばによっても裏付けられた。まことに神秘的な産卵シーンである。その上、その稚魚が成魚となることはまた多くの蹉跌をくぐりぬけてのことだろう。

 私たち一人一人がいのちを得ていることの神秘さは、このような魚の例を見るまでもなく、明らかであろう。しかし人は何時しかそれすら忘れてしまっているのではないだろうか。ましてやすべての造物主である主なる神様が御子イエスキリストを通して次のように仰せになっていることはどれほどの方が認識しておられるのであろうか。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(新約聖書 ヨハネの福音書14・1~3)

 このイエスに導かれた弟子ヨハネは別の手紙で次のように証言している。

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。(第1ヨハネの手紙3・14)

 兄弟とは肉親である兄弟は言うまでもなく、イエス・キリストの十字架によって贖われたすべての人を指している。魚に子孫繁殖の知恵を与えておられる主なる神様は私たち人間が神との和解をなして全被造物が神の栄光のもとにともに生きることを願っておられるのだ。そこには死による別離があるのではない。永遠のいのちの約束があるのである。たった一度の産卵シーンが事実であるのと同様にパウロの言う次の事実を知っていただきたい。

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと、(第1コリント人への手紙15・3~4)

(写真は花火に興ずる幼い子どもたち)

2009年8月17日 (月)

おいかわ随想

Dscn7791  先週は故郷である滋賀県に帰っていた。生家の近くの小川で魚の産卵の様子を目撃した。今時、魚自身がいることが不思議なのに、その上産卵の様子を見るとは今もって信じられないできごとだった。普段は余り小川に注意しないが、用を足すために歩いていたので眺めるとはなしに見ながら歩いていた時だった。小川は意外ときれいになっていた。一緒に帰っていたが一足先に東京に帰って行った長男が今でも鮎はいるのか、と言っていた言葉が何となく心に残っていたからだ。

 ところが、いないものと決めかかっていたその川に一匹の魚が遊泳するのが見えた。久しぶりに見かける魚に心は躍った。続いて一匹だけでなくもう一匹が姿を現した。その魚は先の魚が黒味がちであるのと違い、もう一回り体も大きい魚で腹ビレも鮮やかできらびやかな魚であった。この二匹の魚が、良く見ると先になり後になり並走して水中を、川の流れに逆らって遡行しているのが見えた。

 思わず足をとどめて、川辺にじっとしゃがみこんで水中を透かして観察した。この調子だと掬って捕まえられるなと思ったほどだ。その内、程なく、先ほどの二匹の魚が重なって見えた。小さめの魚に大きめの魚が覆いかぶさる形だった。途端に大きめの魚の後尾と思しき辺りからすさまじき勢いで何ものかが放出された。砂塵を撒き散らすかの水中の出来ごとであった。見ていてあっけに取られた。ほとんど至近距離でゆっくり観察できたのでカメラを生憎持っていなかったのが悔やまれた。

 その後二匹の魚は前になり後ろになり遡上を続けるかのようであった。いつまでも観察しているわけには行かず、その場を立ち去ったが、後の小川は眼を凝らせど魚一匹いなかった。用事を済ませ、帰り道、また小道に沿って同じ小川を見ながら歩んだが、それ以後、魚を見ることはなかった。ところが先ほどのところ近くに戻ってみると、少し場所は異なったが、川辺をすばしこく動く魚が見えた。目の錯覚かと疑ったが、やはり一匹の魚であった。魚の生態にくわしくないので家に帰ってネットで「鮎」のところを調べてみたが、よく理解できなかった。

 日曜日、魚の生態に詳しいMさんのご教示を仰いだ。すべての疑問は氷解した。私が鮎と思っていた魚は「おいかわ」であった。Mさんによるときらびやかな魚が雄でその色(婚姻色)を通して雌を引きつけるということだった。雌は雌で深くもない浅瀬で卵を産み落とし孵化するのに都合の良い適温の場所を選ぶのだということだった。名前がハッキリしたので「おいかわ」の説明のブログを見たら同様のことが書いてあり、今が「おいかわ」にとっては産卵の時期であることもはっきりした。「魚はこうして誰に言われるまでもなく、もっともふさわしいところに卵を産みつけ、生命を維持してゆくのですね」とMさんは述懐された。

 ひるがえって我が人生を省みた。これまで子ども五人、孫五人が与えられてきた。しかしこの人生もあっという間の出来ごとであろう。そして産卵した雌雄二匹の「おいかわ」が営みを終え、地上から姿を消してゆくように、私もまた去って行くことだろう。もし、このようにすべてが消え去って行くのを目にするように、ただ消え去るだけの存在だとしたら、これほど空しい人生はないのでなかろうか。

「おいかわに 教えられての いのちかな」

聖句を二句かかげておく。

人はみな草のようで、その栄えは、みな花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。(新約聖書1ペテロ1・24~25)

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。(ローマ8・22~24前半)

(写真は生家に隣接する野原で虫取りに熱中する子どもたち)

2009年8月 6日 (木)

K氏が遺してくださったもの

Dscn7739  2007年の晩秋のころだっただろうか。お母様を94歳で天に送られた知人をお訪ねした。話のはずみで、そのお母様の、戦死されたお父様から内地へ送られて来て、今も大切に保存されているお手紙を一枚ずつ見せていただく機会があった。それまでもその内容は少し知っていたが、実物を手にするのは初めてであった。筆墨の鮮明な達筆に魅せられてしまった。思わず、乞うて、その遺されたお手紙を活字にすることをお約束していた。後日おびただしい手紙のコピーが知人から送られてきた。爾来私のわがままで活字にしないまま、二年が経とうとしている。

 お手紙のコピーが送られてきた当時は、一所懸命次から次へと活字にして作業も捗り、年内には完成と踏んでいた。ところが思わぬアクシデント(首、肩の痛み)で中断せざるを得なくなった。それだけでなく、二ヶ月余りの治療の後、体が好転したにもかかわらず、今度は、別に、このブログを立ち上げてしまい、知人との約束を結果的に反故にして二年弱の年月を過してしまったのだ。(知人は忍耐して待っていてくださったことだろう)

主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。・・・損になっても、立てた誓いは変えない。(旧約聖書 詩篇15・1~2、4)

 ブログに向かうたびに、今日こそはK氏の「手紙」を活字化する作業をしようと思うのだが、出来ず仕舞いで、あっという間の年月だった。今回ブログを書かない日々が続いていることもあって、この果たさずにいた知人との約束を実行に移すことがやっと私の日課に上ってきた。

 以下は30歳そこそこのK氏が新婚間もない新妻と別れ、任地の上海から愛妻に送られた手紙の中の抜粋文である。書かれた時期は1941年(昭和16年)11月である。時は日中戦争の泥沼化の中で、日本が活路を見い出すべく対米戦争に打って出ようとする太平洋戦争開戦前夜のことである。

 詩篇119ベタ14節「我かぎりなく富める如くに汝の誡の数々を悦べり」(英文直訳)※全世界の富を有せばとて、主の誡なければ何の悦びかあらん、主の誡を楽しむとき貧しかるとも不足なし、身に過ぎたる妻あり、今や児を産まんとす。日々その愛を文に託して我を慰む。此の身の幸を謝す。エホバを思ふはいかに甘きかな。

 「彼を信ずる者の額に、主自ら彼の十字架のしるしをつけ給ふた。額はいはば畏敬の座であるから。」(アウグスチヌス)

 黙示録のある場面が浮かぶ様な句。何と云う嬉しい句であらふか。私もかかる者となりたい。今は私の願、私の憧れはそこにあるけれども果たして額に十字架の印をつけられることの真意を理解しているであらふか。今は判っていないと思ふが。

 「主は我々が他のものよりも欲すべきでありながら欲しないものを我々に与えんが為めに、度々我々が欲するものを我々に与え給わないことがある。しかしそれは主の慈悲によるのである。」(アウグスチヌス)

 詩篇91篇を読む。決算に疲れた体で之を読むと信じられないほどである。読み進んで16節に到る。之は自分の事ではない様に思うが、自分へのささやきの様でもある。現在の疲労にも拘わらず、之の祝福。今までも悩みの中に信じられない様な祝福を約束し給いし主を思う時、わが霊魂は若やぎて鷲のごとく翼をはり、感激が涙となりて湧き来るを止め得ない。

 以上がK氏の手紙の抜粋であるが、明らかに、ここに見ることのできるのは、いかなる時代にあっても「みことば」にのみ生きる人間の強さ・喜びではないであろうか。そしてそれが戦火を潜り抜けて今も私たちに主にある信仰を語り継げている。主イエス様はひとりひとりの信仰を決して無駄にはなさらないのだ。

(※I have rejoiced in the way of thy testimonies, as much as in all riches.多分これがK氏の使ったKing James版の英文であろう。写真は先日出かけた霧深い高峰高原で撮った「あざみ群の草花」。)

2009年6月15日 (月)

ジョージ・ミュラーの回心

Dscn7275  数年前、私は縁あってRelease the Power of Prayer(WHITAKER HOUSE版)を手にし、そのIntroductionの記事に目を見張らされたことがある。それはジョージ・ミュラーについての小伝であった。このドイツ生まれの人物のことについては私は名前こそ知っていたがその人物についてはほとんど何も知らなかった。

 しかし、そこには彼が幼少年時代を通していかに「悪(ワル)」であったかが書かれていた。もっとも母親の死に際して彼の取った態度は自分自身の態度をある面で彷彿させるシーンでもあった。次のようにこの本は書いている。

 彼の母は彼がわずか14歳の時突然亡くなった。母が亡くなった晩、彼は朝の二時まで賭け事をし、翌日も居酒屋に出かけた。彼の飲酒癖は母との結びつきよりも強かったのである。(同書9頁)

 私も18歳の時、母を亡くして、それこそ朝2時まで「トランペットブルース」を大音声で(ソニーの回転式のテープレコーダーで)繰り返し流し、一人部屋に籠ったのであった。そうでもしないと私の悲しみは癒えなかったのである。しかしそれだけではない。私には一方、もう母の束縛に拘泥する必要はないというとんでもない解放感があったのである。いわゆる聖書の言う「律法」からの解放である。その後の私がどんなに「罪」を意識的に犯して行ったか恥ずかしくて書けない。だからこんな短いジョージ・ミュラーの逸話の中に彼の裏返しの悲しみを読みたい思いがある。

 それはともかく、その本によると、さらに彼は16歳の時ホテルの宿泊費を踏み倒したりして、四週間牢屋にぶち込まれるのである。父親が彼に対して偏愛をしたり、一方で世的な栄誉を求めたこともあって、彼は「盗み」、「嘘つき」など様々な悪のとりこになっており、誰にも彼をこの罪の縄目から解放できる人はいなかった。とうとう彼が主の前に降参、帰って来る時がやって来る。それが彼の20歳の時である。以下は再び上記の本からの引用である。

 20歳になって彼はハレ大学に神学を学ぶため入学した。彼はルーテル派の教会で説教できる資格を得たが、彼の心は決して幸せでなかった、彼の心は以前よりも神様から遠く離れていたからである。彼の神学校での生活は使徒パウロの次のことばのとおりのものであった。

私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行なっています。(新約聖書 ローマ7・19)

 1825年の11月のある土曜日の夕方、ジョージは友だちのベタと一緒に散歩していた。友だちは彼にあるお宅で行っている祈り会のことを話した。そのお宅では聖書を読み、賛美をし、祈り、説教文書※を読むんだと。ジョージはベタの話を聞きながら、まるで彼が全生涯をかけて捜し求めていた宝物を探し当てたかのような感じを抱いた。一緒にふたりはその晩祈り会に出かけた。

 ジョージはその家庭に歓迎をもって迎え入れられた。その時、彼には理解できなかったが、信者間に喜びがあることを目ざとく悟った。そして彼の生涯で初めて人が祈りのためにひざをかがめているのを目(ま)の当たりにしたのだった。それは彼に鮮烈な印象を与えた。兄弟カイザーが祈っている間、ジョージは心の中で考えた。「自分はこの男よりましな教育を受けてきたが、この男のように祈ることはできない」と。

 祈り会を出た後、彼には何故だかわからなかったが、幸せを心一杯味わっていた。彼の生涯のこれまでのどんな楽しみも、祈り会で味わった喜びに匹敵するものはなかった。神様が彼の心に恵みのみわざを始められ、その晩が彼の生涯の転換点となったのである。

 彼はこのクリスチャンの兄弟の家庭を続いて訪れ、もう一度神のことばを学び、信者たちとともに祈ることができるようにとほとんど土曜日まで待っていられなかったほどであった。彼がただちにあらゆる罪を手離したわけではないが、悪い仲間と時間を費やしたり、もはや居酒屋に入りびたることは止めた。彼の嘘をついてやまない悪癖さえからも解放された。彼は正しい動機で教会に出席し始め、仲間の学生が彼をいかにあざ笑おうともキリストを告白することをはばからなかった。
※当時プロシアではもし任職を受けた牧師がいない場合は説教が語られることはご法度であった
(同書10~11頁 )

 この彼が過去二回紹介したように祈りの人と変えられ、無一文で主にのみ頼る孤児院の経営をなし、人々の救いのために全生涯をささげるのである。

(写真はジョージ・ミュラー。『ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣』いのちのことば社刊行の裏表紙の写真を拝借。)

2009年6月14日 (日)

祈りの人ジョージ・ミュラー

Dscn7274  ミュラーの奉仕を要約するにあたって、私たちはその秘訣を知らなければならない。このような生活、このような奉仕は、とりわけ一つの習慣―日々神とひんぱんに交わっていたという事実―に基づくものである。すでに学んだように、彼はとりなしをすることと願いをささげることにうむことなく、新しく訪れて来る必要や危機に際して、祈りだけを―信仰の祈りだけを―唯一の避け所とした。

 そのような時、まず自分がなすべき義務を果たしていることを確かめ、次に変わることのない約束のみことばに心を据えつけ、イエス・キリストの御名によってはばからず恵みの御座に近づき、不変の約束者であられるかたにすべての願いを告げたのである。彼は全く疲れを知らないとりなし手であった。祈りの答えがどんなに遅れても、それによって落胆するようなことはなかった。特に、人々が回心するように、あるいは彼らが全き従順に至るように祈る時など、そうであった。

 彼の祈りのリストには、毎日欠かさず名をあげてその救いを祈るために、一年、二年、三年、四年、六年、そして十年にもわたって、答えが与えられないままに祈り続けてきた人の名が書いてある。彼が世を去る一年ほど前に筆者に語ったところによれば、彼はあるふたりの人が神との和解を得るように、六十年以上も毎日祈り続けたが、彼の知る限りではふたりはまだ神に立ち帰っていないということであった。

 彼は意味深長にもこう付け加えた、「私は天でこのふたりに会えることを、少しも疑ってはおりません。なぜなら、もし天の父がこのふたりに対してあわれみのみわざをしようとしておられないのなら、ふたりのため六十年以上も祈るべき重荷を私にお与えになるはずはないからです」。

 この一つのことを見ても、彼のとりなしの祈りが、全くほかに例のないほど忍耐と執拗さに満ちたものであったことがわかる。祈りの答えがどんなに遅れても、まるで祭壇の角にしがみつくかのように、祈りを離さなかった。彼は幼児のような心を持っていたので、自分の霊がそれほど長い間あることのために祈るように導かれ、また主が必ずその求める祝福を与えて下さると信じて忍耐強く祈りうるようにして下さったということは、とりもなおさず神が必ず答えてくださるという約束であり預言であると確信した。

 そして、最終の結果を求めて祈り続け、その答えをすでに実際に受け取ったかのように、事前に神を賛美したのである。ここでもうひとこと付け加えておくことは、非常に助けになると思われる。すなわち、ミュラーがこれほど長く、また絶えず祈ったふたりのうちひとりは、ついに信仰を持ち、イエスを主と言い表し、約束を受け入れ、それをいだいて死んだということである。

彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、・・・願った。そのとき、夜・・・この秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。・・・あなたは私に知恵と力とを賜い、今私たちがあなたにこいねがったことを、私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」(旧約聖書 ダニエル2・18~23抜粋)

(聖句以外の文章はいずれも『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』A.T.ピアソン著海老沢良雄訳284~286頁より引用。写真は山椒。山椒は小粒でもぴりりと辛い。 「祈ること 山椒にて 目覚めたし」。 「ふるさとの 山椒摘み 妻帰り」。「コトコトと ちりめんじゃこ 山椒」。)

2009年6月 8日 (月)

エミー・カーマイケル 晩年の働き(5)

Dscn7235  終わりの日々の、胸がつぶれるような失望の数々の中でも、エミーは勇気をもって一つ一つ乗り越えていった。
 いつまでも他の人々の重荷になることを恐れていたエミーに、医師のナンシー・ロビンズは黙示録2章9、10節からイエス・キリストがかけてくださるおことば、「わたしは知っている・・・恐れるな」を贈った。エミーはそのことばを壁に貼り、夜でも見えるようにと電気をその上につけておいた。召される2、3ヶ月前に生まれたのが、以下の詩である。

  主のおことば

「わたしは知っている」
主のおことばには
わたしたちのどんな痛みも和らげる
測り知れない慰めがあります
どうして そんな深みがあるのか
わたしには わかりません
けれども わたしは知っています
確かに そうであることを

「恐れるな」
主のおことばには
わたしたちのどんな恐れをも取り除く
おごそかな力があります
魂が弱り果てている時も
主が 病の床の傍(かたわら)にいてくださることを知って
わたしたちは 慰められます

最愛の主よ
感謝します
崇(あが)めます
あなたは ここにおられます

わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・・あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。・・・死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(新約聖書 黙示録2・9~10)

(文章は「百万人の福音 スペシャル版 ドノヴァーの碧い空 1994年刊行」46頁の内田みずえさんの文からお借りしている。写真は庭の露草。)

2009年6月 4日 (木)

さらさどうだん

Dscn7234  各地で様々な花が人を喜ばせている。この花盛りの中で、私たちは果たして花の声を聞いていると言えるだろうか。梅雨前に先達に聞いてみるのも一つの手だと思った。以下はお馴染みの村田ユリさんの絵(写真)と文章である。

 瓔珞(ようらく)つつじ、風鈴つつじの別名がある。瓔珞とは、王公貴人の宝玉の首飾りや寺院を飾る、きらびやかな飾りのことである。風鈴は、そのまま、風で音をたてる鈴。

 この花に眼を寄せて見ると、なるほどこれは、インドやジャワのさらさ模様に使われている色彩そのものである。なんと良い名がつけられているのであろう。

 この木はこの辺では取り立てて珍しいものではない。私の庭にも数十本あって毎年この瓔珞に飾られる季節を迎える。目立たない、静かな花だけれど、品の良い美しさは捨て難い。

 さらさの中にも、薄ぼけた、あまりぱっとしない花もある。脈をはっきり紅に染めているのもある。これは上、これは中、これは下、などと札をつけて区別をしていたが、秋、紅葉の季節になると、私は、はっと驚くのである。下、中、上の順に紅は燃えるような美しさを示すことを知った。何と浅はかなことであったろうか。神様のお恵みは平等である。

                六月三日  御代田
(『画文集 花の声』村田ユリ著68~69頁引用、写真の絵は上半分の絵である。実際は下にもう一本描かれている)

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。・・・神は見て、それをよしとされた。(旧約聖書 創世記1・11~12)

2009年5月28日 (木)

エミー・カーマイケル 晩年の働き(4)

Dscn7158  知的にも霊的にも非常に優れ、女の子たちのリーダーとして期待されていたアルライが病の床につき、エミー自身も床に伏せっている状態の中で、1939年5月に天国に召された。

 男子のリーダーとして立てられていると信じていた、ゴッドフレーの兄ムーレー・ウェブペプローも、家族の事情で1947年に帰国せざるを得なくなった。エミーはドノヴァーのファミリーを励ます手紙にこう記している。

 「この霊的な緊張の中で、神さまが私たちを霊的な敗北から守ってくださいますように。むしろ霊的勝利に導かれることを祈ります。・・・この機会を御約束の確かさ、主イエス・キリストのご臨在の確かさ、この働きの創立者であり、目には見えないけれど、真のリーダーであるお方をもう一度確認する時にしましょう」

 エミー自身、病床に伏せって18年。ただ一人残ったリーダーのゴッドフレー・ウェブペプローも過労から倒れ、突然悪化し、天に召されたのが1949年2月19日(エミー81歳)のことであった。
 エミーは、再び、ファミリーへの励ましの手紙を書いた。

 「涙は罪ではありません。イエスさまは泣かれました。しかし、嘆き続けるのは罪です。それはあたかも、私たちの優しい天の父を疑っているかのようです。なぜこんなことがゆるされたのかと不思議に思うことは、神の御名を汚すことになります。今朝、私はまさにこのことをしていました。
 『どうして私が残されたのですか?―なぜみんなのために役に立たない私が―なぜみんなの役に立つ彼が召されたのですか?』
 突然私はそんなことを一瞬たりとも考えることは罪であるとわかりました。潔(きよ)めの血潮のゆえに神に感謝します。なぜ、と疑って神の愛を悲しめることはやめましょう。信仰は決して、なぜと疑いません。信仰は信頼します」

(百万人の福音スペシャル号「ドノヴァーの碧い空」1994年刊行45~46頁の内田みずえ文より引用)

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(新約聖書 ローマ8・32)

(写真は日曜日Fさん宅で見させていただいた花。家内が「出張」しているので名前を聞くわけに行かない。差し当たり「ラッパ花」として置こう。粋をわきまえない男ゆえ、お赦しを。それにしても随分きれいな花がバックにもあることよ!)

2009年5月20日 (水)

エミー・カーマイケル 晩年の働き(3) 手紙をとおして

Dscn7124  彼女は病床にありながら主のために働いた。以下に掲げる手紙がいつ書かれたものか、詳しいことはわからないが、病に臥せっているときのものだろう。編者は手紙の題に「祈り」とつけている。

 『祈り』

 私たちが、自分の失敗から最もよく学ぶことができるというのは、人生の不思議な事実です。○○の運営について、あなたにもっと多くのことを話しておくこともできました。けれども、そうしたところで、あまり役に立たなかったでしょう。一つ一つの世代は、自分自身で学んでいかなければならないのです。私ができる助けというのは、あなたがたみんなを愛するということです。愛のうちに見守り、愛のうちに見上げること。

 最近このようなことを考えていました。―話や祈りにおいて重く(苦しく)なってはいけません。熱心さは、必ずしも重さ(苦しさ)を意味しません。主の喜びが力なのです。八年の間、あなたがたのうちの多くは、私のために毎日祈ってくれました。・・・心の底から感謝します。しばしば特別な祈りの時ももってくれました。

 ・・・当時は、柵が打ち壊されるのだと思っていました。毎日、「それは明日に違いない」と思いました。答えは違っていました。・・・鉄の柵が金の柵に変えられるという歌が、真実から程遠く見えたことが何度あったことか、あなたがたは知らないでしょう。今でもそのような時があります。そのような時にこそ、あなたがたの祈りが、どれほど大きな意味をもっているか、ことばでは言い表せません。

 けれども、愛する子どもたちよ。聞いてください。私たち自身の戦い以外に、この世界には祈りを必要としていることがたくさんあります。ですから私のために祈らないでほしいのです。また、私が愛するあなたがたに会ったり、あなたがたについて聞いたりすることにおいても、必要以上に願わないようにします。いとも簡単に自己中心の罪に陥ってしまうものです。・・・もし、あなたがたがそれでも、時折祈りたいと思ってくださるのなら、私に課せられたことを十分に果たし、その後は、人々の力を私のために使うような形でぐずぐずとどまっていないよう・・・祈ってください。

 ・・・聖書の中に、「おお主よ。私をお用いください」という祈りがあるかしら、という疑問が私の心を横切りました。
 祈りの中に、他の動詞―教えてください、導いてください、祝してください等々―は見い出されるのに、当然期待しているこの動詞が無いのは興味深いことであり、示唆に富んでいます。・・・器が清められているなら、主人はそれを使うでしょう。器が主人に使ってくださいと頼む必要はありません。兵士の準備ができているなら、隊長は彼を使うでしょう。兵士の側で使ってくださいと願う必要はありません。

(百万人の福音スペシャル号「ドノヴァーの碧い空」1994年刊行82頁より引用)

自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。(新約聖書 ルカ17・10)

(写真はクレマチス。日陰ゆえに昼間に撮影したにも関わらず、この暗さになった。しかし花の神秘さは私にとって増すばかりである。)

2009年5月19日 (火)

エミー・カーマイケル 晩年の働き(2)

Dscn7122  しばしば、彼女に会って話をしたい人の列は一日中続いた。子どもたちとは定期的に会えるように計画を立て、よほどの痛みがないかぎり、リーダーたちとは毎日ミーティングをもつようにした。

 気持ちが滅入る日がなかったわけではない。床に横たわっている自分がキャベツの葉についたイモムシか、柵にぶつかって羽を傷めた鳥のように感じる時もあった。いやしに対する答えが「いいえ」であると悟った後も、せめて食事時だけでも子どもたちのそばに行って、母親の愛を注ぐことができたら、と願わずにはいられなかった。それだけでも解決のつく問題があるのではないか。子どもたちもまた、エミーがそばにいてくれないことをとても寂しく感じた。特にイースターのような特別の日には・・・。

 同労者たちが一日の働きで疲れ果てているのに自分だけが困難から隔離されているのは、どんなにつらかったことか。長引く病で周囲の人に迷惑をかけたくないと、あれだけ祈っていたエミーにとって、自分を世話するために同労者たちの時間が取られ、疲れるのを見るのは耐え難いことだった。

 彼女の祈りは、自分の魂を覆う影が、部屋に入って来る人たちを覆うことのないように、というものだった。その祈りは確かに聞かれた。彼女の部屋「平安の部屋」に入った者で、そこに主を見て励まされなかった者はほとんどなく、彼女もまた、一人一人のうちにキリストを見て喜んだ。

 病床は尊い祈りの花を咲かせる畑であるといわれるが、決してそうではないと彼女は告白している。
「病床は体も心も鈍くなる場所です。そして、祈りは仕事です。世界中で最も精力を必要とする仕事です」

 1941年(73歳)、男の子のリーダーであるゴッドフレー・ウェブペプローに宛てた手紙の中で、エミーはこう書いている。
「昨晩、祈ろうとしましたが、惨めな敗北を味わいました。そばにあったイザヤ書の分冊を開くと、シオンの門について書かれていることばが私の目をとらえました。

門は絶えず開かれています。それは昼も夜も閉じられることがないでしょう』※

父なる神のご臨在に近づく門は絶えず開かれているのです。門の扉を押す必要はありません。祈ろうと努力するのは、門を押すようなものでしょう。門が開かれているなら、入る以外に何もしなくてよいのです。単純すぎるように思えますが、私にとっては大きな助けになりました」

 さらに別の手紙ではこう語っている。
「もし祈りが大切であるなら、私たちの生活設計の中で、常に二番目の位置を占めるべきではありません。・・・悪魔は絶えず、私たちの半時間の祈りに対して戦いを挑んできます。彼は戦うのに飽きることはありません。時には地獄の雲で私たちの心を襲うかのように、私たちの心を鈍くさせ、時には火のように襲ってきます」

(『エミー・カーマイケル 生涯と信仰』 内田みずえ 文 百万人の福音スペシャル版1994年所収、同書44~45頁より引用。※旧約聖書イザヤ書60・11。写真はアリストロメリアの花。)

2009年5月15日 (金)

エミー・カーマイケル 晩年の働き(1)

Dscn7077  1931年8月(63歳)の「祈りの日」に、まだ福音の届いていないイスラム教徒、ヒンズー教徒に働きを広げなければならないという重荷が与えられた。10月24日の朝の祈りの時に、エミーは次のように祈った。

 「みこころを私になしてください。あなたに仕え、そして愛する人々を助けるために必要なことは何でも私の上になしてください

 その日の夕方、建築現場を見に行った時、人夫が掘った穴に気づかず、エミーはすべって転んだ。その時、彼女の”兵士”としての働きが終わったことを、だれ一人として知らなかった。

 足首の上の骨折と足首の脱臼は、確かに大変なけがであったにちがいないが、数週間休めば治ると思われた。ファミリーにとって、彼女はまだまだ必要とされている器ではなかったか。

 神の御名の栄光のために、彼女が速やかにいやされ、人々の目に神の力が見えることをだれもが願った。エミーのけがが悪霊の働きであると言う人々や、アラーの神のたたりであると確信するイスラム教徒の中でそれが特に必要であると思われた。多くの祈りがささげられ、連鎖祈祷ももたれた。しかし神は、それから20年近くの間、彼女が部屋からほとんど出ることのない身体になることをゆるされた。

 神経炎で片腕の働きを失い、後には背中の関節炎でも苦しむようになった。休みらしい休みも取らずにインドで働き続けた36年間の過労が重ならなければ、さまざまな故障があっても、完全に立ち上がれないまでの状態にはならなかったであろう。

 暗闇の力との激しい霊的な戦い、子どもたちの魂の生まれ変わりのために注いだエネルギー、病気、死、愛する者たちとの別れ、法的な闘争、迫害。多くの闘いが長年の疲れとして彼女の内に蓄積されていったとしても不思議ではない。

 人に会うことも、手紙を書くことも、祈ることさえできなくなる痛みにさいなまれることもあった。にもかかわらず、彼女は、若くて健康な人でさえ相当な精神力を必要とするような働きに取り組み始めた。それは休暇で本国に帰ったり、海外に行っている同労者に、ドノヴァーの出来事の詳細を手紙で知らせる働きである。ドノヴァーの中にいる人たちにも、感謝の気持ちや助言などを書いた。また子どもたちの誕生日や、カミングデーには、一人一人にカードを書くことを忘れなかった。

 また1931年以降、13冊の新しい本を著し、以前に書いた本を出版のために手直しする作業もした。日毎の祈り会や祈りの日のための詩を書き、それにメロディーをつけて歌えるようにした。神は彼女のペンを用いて健康な時よりもさらに広い範囲に祝福を届かせた。

(「エミー・カーマイケル生涯と信仰」内田みずえ文43~44頁より引用。1994年百万人の福音スペシャル号所収)

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ8・28)

(写真は花に語りかけ、その花を子どものように「撫で撫で」をするご婦人が紹介してくださった東武線、線路際の「特設コーナー(?)」にひっそりと咲いていたおだまきの花。)

2009年4月25日 (土)

主の再臨と持ち物―ハドソン・テーラーの証

Dscn6841  昨日の話の通り、ハドソン・テーラーが救われたのは、その背後に彼の母と妹の祈りがあったことが分る。「主イエス・キリストの救いのみわざは完全であり、私たちは主をほめあげること以外何もする必要がない」とはテーラーが心から確信を持ち、喜んだことであるが、この確信の内容が上からの啓示によったことがよくわかる証であった。その後、彼は中国伝道のために立つように主から召命を受け、その準備をする。彼はハル市でしばらく医学と外科の修行生活に入るが、その時のことであろう、彼の生き様がわかる次の話を紹介しよう。

 ちょうどこのころ一人の友人は、主イエス・キリストの再臨とその千年王国との問題に私の注意を向けさせ、注も解釈もせず、ただこの問題に関する聖書の章節の一覧表だけを私に与えて、よく研究するようにと勧めてくれた。私は一所懸命聖書につきこの問題を研究した。その結果地上を去られたイエスが再び復活の体をもってこられるということ、彼の足はオリーブ山の上に立ち、まだ彼の生まれぬ前から約束されていたその父ダビデの王位につき、この世を支配されるようになることがわかった。私はさらに、主の再臨は新約全体を通じその民の一大希望になっていること、そしてつねに聖潔と奉仕とに対する最も強力な動機であり、また試練と苦難との中にある者の最大の慰めであることがわかった。私はまた知った、彼が再びその民のもとに来られる時期は明示されていないこと、そして毎日毎時主を待ち望む者らしく生活することが彼の民の特権であること、だから、このような生活を送る者にとっては、彼がいつ来るとか来ないとかいうことは決して大事でなく、たといいつ来られても、悲しむことなく喜んで善き支配人の報告をすることが出来るように、絶えず待ち望むことが肝要であると。

 この幸いな希望には全く実際的な効果があった。その後私は自分の小さな書棚をよく気をつけてみるようになった。そしてそこにもしも不要な、また、もう役に立たない本などありはしないか? また私の小さな衣装ダンスの中を調べては、今主が来られたとしたら、この中に何か説明に困るようなものがありはしないか? よく確かめるようになった。

 一生を通じ機会あるごとに、時々そうすることは私にとって大変有益である。私はこんな考えを抱いて家中を地下室から屋根裏まで歩き回った結果、増し加わる霊の喜びと祝福とを受けなかったことは一度もない。私どもにはみな貯蔵の危険があるようである。それは一つには無思慮から、一つには仕事の必要に迫られてであろう。とにかく、他の人にこそ有用であっても、今の自分には少しの必要もないものを貯めこみ、知らず知らず祝福を失うことになる。もしも神の教会の全財産がもっとよく利用されたならば、さらにどれほど多くの事業がなしとげられることであろう。いかに多くの貧しい人が食を与えられ、裸なる者が着せられ、まだ福音の伝えられていない人たちにまで福音が行き渡ることであろう。私どもはこうしたことを不断の心がけとし、また事情の許す限り常に実行すべき有益な生活態度として、互いに勧め合うべきではなかろうか?

(『回想』ハドソン・テーラー著14~15頁より引用。例により引用者が表現を変えたところが数箇所ある。)

『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』(新約聖書 ルカ17・10)

(写真はハドソン・テーラーの肖像。ハル市を去ってロンドンに向かいしおり叔母が描いた「20歳の時」とある。したがって上記の生活信条は10代後半の彼の生き方である。紙面の構成上、右半分に手描きの「カラミント」を置き撮影した。)

2009年4月24日 (金)

回心―ハドソン・テーラーの証

Dscn6810  さて私の慈母と愛妹とが、私の回心のために捧げた祈りに、神はいかに答えられたかについて語ることにしよう。忘れもせぬ私が15歳頃のある日のこと、ちょうどその時母は旅行中で、私も休みで何か退屈しのぎに読むものはないかと、私は父の書斎を探し回った。別にこれというものもなかったので、私はパンフレットの入っている小さな箱をかきまわし、その中から福音トラクトを一部選び出した。

 ちょうどその時私の母は7、80マイル離れた所にいたが、母の心に何事が起こりつつあったか、私はもちろん少しも知らなかった。彼女は昼食を終わって席を立った。その時彼女の心は息子の回心を求める切なる願いで一杯になった。こうして家を離れて来ていて、このような暇なときが与えられているのは、私のために特別に祈る機会が与えられていると感じた。彼女は自室に退き、戸に鍵をかけた。そして祈りが答えられるまでその場を去るまいと決心した。幾時間も幾時間も彼女は私のために祈った。そしてついに祈れなくなってしまい、今はすでに成就されたと神の御霊が彼女に告げられたこと、すなわちその独り息子が回心した確信が与えられ神を賛美するばかりであった。

 他方私は、前にも申したとおり、導かれるままにトラクトを手に取り上げた。そしてそれを読んでいる間に「キリストが成就されたみわざ」という文句に心を惹かれた。「なぜ、こんな言い方をするのだろう? なぜキリストの贖いとか、なだめのわざとか言わないのだろう?」という疑問が残った。するとやがて「それはすでに成就されているのだ」ということばが自然に私の心に浮かんできた。一体何が成就されたのだろう?すると私は自らただちに答えた「罪に対する完全無欠の贖いと義の満足、すなわち負債はあの身代わりになってくださった方によってすっかり支払われたのだ。キリストは私どもの罪のために死なれた、いや私どものためばかりではない、全世界の罪のためにも死なれたのだ」と。するとまた次の考えが浮かんだ「もしもすべてのわざが完成し、すべての負債が支払われたのだったら、残された私どもの仕事は何であるか?」と。これと同時に喜ばしい確信が芽生え始めた。聖霊により、まるで光がたましいに射し込んできたように「世にはもうなさねばならないことは何ものもないのだ。ただ跪いてこの救い主とその救いを受け入れ、彼を永遠に賛美するだけだ」と。このようにして私の母は母で、その部屋の中で跪いて神を賛美しつつあった時、私は私で、暇つぶしに小冊子を読むため、ただ一人で入って行った古い蔵の中で、神を賛美しつつあったのである。

 私が思い切ってこの喜びを愛する妹に打ち明けたのはようやく数日後のこと、それも私のこの魂の秘密を誰にも話さない、という約束をさせてからのことであった。二週間の後、愛する母が帰宅した時、門口に真っ先に出迎えたのは私である。そして「とても嬉しいことがありますよ」と告げた。私は今でもその時のことをありありと思い出すことが出来る。母は私を抱きしめて言った「わかっていますよ、お前が話そうというその嬉しいことで、私もこの二週間毎日歓喜にあふれていたのです」と。私はびっくりして尋ねた「エッ、それではアメリヤが約束を破ったのですか? 誰にも話さないと約束したのに?」と。母はこれは決して人から聞いて知ったのではないと言い、前に述べた母の経験した小さな出来事を話してくれた。

 しかし不思議はそれだけでなかった。その後まもなく、私は自分の手帳とそっくりのものを拾い、自分のかと思って開いてみた。すると目に映ったのは小さな日記―それは妹の日記―で、神が祈りに答えて兄を回心させてくださるまで毎日祈りに身を献げよう、という意味を書きしるしていたところであった。その日からちょうど一月目に、主はその思し召しにより私を暗闇から光へ移してくださったのである。

(『回想』ハドソン・テーラー著岡藤丑彦訳1941年刊行4~7頁より引用、ただし引用に際し引用者が適宜カットしたり表現を変えたところがある。)

やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ(新約聖書 1ペテロ2・9)

(写真は光を受けて柔らかく黄色に輝く「もっこうばら」。二日かけて造園家の方がていねいに庭の刈り込みをしてくださった。その中でも残していただいた貴重な野ばら。)

2009年4月16日 (木)

100年ほど前の異国の一女性の証(4)

Dscn6742  (医者はロンドンに帰ることを許した。彼女は非常に喜んで四月の半ばごろローザンヌを発った。そしてモンペリアールの近くの姉のもとに滞在した。ここで彼女は彼女にとって根本的と思われる問題をまた取り上げた。)

   ヴィユー・シャルモンにて 1930年4月16日
 そうです。ほんとうです。わたくしは毎日こういうことを経験いたします。生きるためには何か立派なものを与えることが出来るためには(その結果わたくしどもの心に起こる平安のことなど申すのではございません)、また人々にその必要とする愛と信仰をもたらすことが出来るためには、祈らなくてはなりません。沈潜し熟思して、わたくしどもの深い内部にはいってゆかなくてはなりません。そこではじめて神様にお会いいたします。そして神様との結びつきを、また見出すのでございます。そしてそのためには時間が必要でございます。ことに私どもを外に引き出そうとする渦巻きにとりかこまれている時には、時間が必要でございます。いくらかのお祈りの言葉を唱えて、大急ぎで聖書の一箇所を読む―それはほんとうのものではございません。それはうわべだけのことでございます。

 ・・・あのいまわしい9月18日(注―彼女の入院の日)からこの方、ここ幾週間の間、神様とのこの結びつきを見出すのに必要な時間を持つことが出来ましたのは、わたくしにとって大きな喜びでございました。そして今ロンドンにかえるときを目の前にひかえて、もうロンドンでは多分その必要な時間をもつことが出来ないだろうと考えて、身ぶるいしているのでございます。お祈りと心の集中とで、わたくしは神様との結びつきをだんだん強くすることが出来ました。そのお蔭で神様は前よりいくらかよく、わたくしを通してお働きになれたのではないかと存じます。わたくしはそう信じています。そしてそのことを神様に毎日お礼申しています。それは、それがわたくしの業でないということを自分でよく知っているからでございます。(自分を眺めますと、自分が取るにもたらぬ者だということを、感じます。)わたくしを通して働き給うのは神様の力でございます。けれども、もしもわたくしが、「この」結びつきを失いましたら、神様の力も失ってしまいます。どうぞ神様がお助け下さいまして、その手段と方法が見出せますように。

どうか、・・・神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(新約聖書 エペソ1・19)

(写真はルナニアという草花。目下、紫色、白色、混合色と3種類が咲き競う。フランス由来の花らしい。和名では銀扇草、大判草とも言う。確かにこの花が咲き終わると大判形の見事なドライフラワーが出来る。牧野図鑑にはなぜか記載なし。)

2009年4月 6日 (月)

100年ほど前の異国の一女性の証(3)

Dscn6677  昨日愛するはは(義母)を彦根近郊の豊郷病院で二週間ぶりに見舞うことができました。そして主は今回のお見舞いを通して今までにまさる素晴らしい祝福の時を与えて下さいました。それは初めて、「はは」が私の祈りに心を合わせ、最初の「愛するイエス様」との呼びかけから始まり、最後の「主イエス様のお名前によってお祈りします、アーメン」まで私の口から出ることばを、私が何も要求していないのに、オーム返しに祈ったからです。「はは」の病気は益々悪くなり体は衰えてきています。けれども病を通して「はは」の心は日々弱くされ主なる神様の前にへりくだらされてきています。祈り終わった後の「はは」はしばらく平安そのもので、私と妻は何度も眉間にその皺をなくした幼子のような表情に見とれていました。

 同じように今も病と闘って苦しんでおられる方々お一人お一人の上にも、この変わることのない主イエス様の愛と導きとお守りがありますようにと祈らざるを得ません。

 さて、以前2回ほど紹介させていただた病床にあった異国の一女性の方の証を、久しく、中断していましたが、ほぼ季節に合った形でまた病の進行の一喜一憂の中で彼女がどのように主をより深く知っていたかを追体験する形で再開させていただきたいと思います。以下は彼女が夫にあてた手紙です。

                 ローザンヌにて 1930年4月6日
 今またわたくしは、わたくしの大切なローザンヌに帰って、美しい景色と愛に取りかこまれています。体中の緊張がゆるむようでございます。ここはほんとうによいところでございます。昨日こちらへ到着いたしました時、それはジュネーヴにだけあるような大雨の金曜日の後でございましたが、太陽がわたしを迎えてくれて、山々は美しい姿で立っていました。このお家からの景色を眺めますたびに、わたくしの心は新しく満たされ高められます。そうしていますと、まるで山の高みから清い風が強く吹いて来て、それを吸いこむような気がいたします。けれども、それよりもっとすばらしいのは、ここに着いて、自分が待たれ慕われ愛されていると、感じることでございます。自分は余計者ではない、むしろここを留守にしていた間、席を空にしていたのだと感じることでございます。それがどんなに嬉しいことか、おわかりになっていただけると存じます。

 ・・・こんな大事なお友だちの方々を見つけましたことを、毎日どんなに神様に感謝していることでございましょう。けれどもこのスイスでは、誰でも皆わたくしに、口では申せぬほどに親切にしてくださるのでございます。

 ・・・また仕事が出来る。自分が受けたすべてのものを愛と活動によって返すように努めたい―そうわたくしは、ほんとうに喜びをもって自分に言って聞かせます。わたくしの境遇はほんとうに羨ましいようなものと存じます。わたくしはこれまで、今のような平安を心の中に覚えたことはまだ一度もございません。神様がどうぞこの平安をお守り下さいますように。

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。(新約聖書 ヤコブ5・13、15)

(写真は昨日の夕暮れ間近の彦根城のお堀端の桜を撮影したものです。日曜日の夕方であるのにまだ多くの人々が城内を歩いていました。)

2009年3月25日 (水)

de bijbel, nuenen 1885 VINCENT VAN GOGH

Dscn6477  30年ほど前、当時出席していた教会の牧師さんがオランダに行かれ、お土産にいただいた複製画です。ゴッホの描いた聖書です。彼の32歳のおりの作品ですね 。ゴッホは1853年生まれ1890年没ですから。次に紹介する文章の筆者ムーデーは1837年生まれ1889年没ですから、二人はともに19世紀に生きた人ですね。さてムーデーは「我が言葉は過ぎ往くことなし」と題して以下のことを紹介しています(我とはイエス様を意味します)。

 近年改正訳聖書の米国に発売された光景を一瞥(いちべつ)されよ。改正訳は金曜日にニューヨーク府に到着したのであるが、同府からシカゴ市に輸送するには最急行の列車に積み込んでも24時間を要する。自然の成り行きにまかせては土曜日の午後店を閉じたころシカゴの売店に届くので、到底土曜日に売り出すことはむずかしいのである。そこでシカゴの日刊新聞社の一社は土曜日発売の一方法を企画してあらかじめ90人の技手を準備しニューヨークで一冊を受け取るや即座にマタイ伝から黙示録にいたる新約聖書を数10個に分け、数10の器械によって数10ヶ所より一時にシカゴ市へ電報で全部を通報し、受け取るそばから植字印刷に着手し、土曜日にはシカゴ全体において改正訳が発売されたのである。電信発明の功績が大きいことはもちろんであるが、聖書の維持、保存にこのよう努力されていることはもっと驚くべきことではないだろうか。

 1893年米国フィラデルフィア郵便局においては始めて通信管という輸送器を発明し、百人の面前において第一の試験をなした。そのとき逓信長官は通信管が極めて迅速に市町間に書信(てがみ)の逓送をすることができることを説明し、米国国旗に包んだ聖書を管中に置いて、最初の通信管逓送であるとして発送したのであった。彼は一文を同時に逓送したのであるが、その文は以下のようであった。

 「合衆国における最初の通信管による最初の使用は聖書一巻によって始められました。考えて見ますと聖書は世界に送られた最大の通信であります。聖書を包みましたものは米国の国旗でありまして、安寧、幸福である人民6500万人の自由の象徴となってほしいと思います。」

 印刷術の発見された時、始めて印刷されたのは聖書である。・・・悪魔と人と世界とがつねに同盟、結託して神のみことばを毀(こぼ)とうとしたことは数百年間私たちが見ているところであるが、一度もその目的を成就したことはない。もし聖書をもって諸君の立脚点としたら諸君は一時的だけでなく永遠に正しい立脚点に立つことができる。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ24・35) 諸君よ、神のことばは活力を持つものである。現在においても、将来においても神のことばを廃絶することは何者にもその力はない。

 私たちが今日必要とするところは徹頭徹尾聖書全体―たとえ理解できないところがあっても―を信ずることである。英国またスコットランドのキリスト者が米国人よりも信仰の堅固であるのはどういう理由があるのか。他でもない、彼らは私たちよりも聖書全体を学んでいることが多いからである。わずかロンドン市中だけをみても毎夜聖書を学ぶ会が開かれている場所が幾百箇所であることは疑う余地がない。

(『聖書研究の快楽』デー・エル・ムーデー著三浦徹訳45~48頁から適宜に抜粋し文語の名訳を現代風に表現を変えています。)

 ひるがえって今日聖書は私の生活の中で正しい位置を占めているか、考えてみたい思いです。昨日の火曜日の学び会ではベックさんがおびただしく聖書をひもとかれました。それだけ聖書が生きているのでしょう。私にとっても聖書が「いのち」の糧でありたいと思います。

「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(新約聖書 マタイ5・18)。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ24・35) 

2009年3月14日 (土)

ジョン・ニュートン

Dscf0403  イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(新約聖書 ヨハネ1・42)

 「あなたを・・・にします」
 このみことばは、確かに希望をかきたてる結果をもたらすものです。罪の増し加わったところには、めぐみもますます満ちあふれるのです。あなたのキリストなき生活が、どんなに誤って導かれたものであり、どんなに不具なあわれなものであっても、神の御子はその御手をもってあなたの生涯を作りなおし、あがない出し、強く栄光あるものとされます。ここに、希望に躍動するお約束があります。あなたを・・・にします! そして、希望とは実にすばらしいものです。

 わたしはロンドンにある有名な、パンヒル・フィールドの共同墓地を尋ねたことを忘れることができません。そこには、有名な人たちの墓にまじって、ジョン・ニュートンの墓が見られました。ジョン・ニュートンは「驚くばかりの恵み」「イエスきみの御名はたえなるかな」など、人々に親しまれ愛された賛美歌の作者として有名です。しかしそれだけが、イエス・キリストの忠実な教役者としてのジョン・ニュートンの聖い生涯を形づくったものではありませんでした。彼はみずから、自分の墓碑銘を書きました。それは次のように記されており、彼の生涯を概括しています。

  ジョン・ニュートン
    牧師
 かつては無神論者、懐疑論者
 アフリカの奴隷のしもべであったが
 私たちの主、救い主なる
 イエス・キリストの
 あわれみによって
 守られ、回復させられ、ゆるされ
 そして彼が長い間破壊しようと
 労した信仰を、宣べ伝えるために
 任命された。

 彼の回心の物語は、恩ちょうの一大叙事詩であると言えましょう。二十三歳の時、極悪な罪のとりこになった若いニュートンは、アフリカから故国英国に向かう船の上にありました。船は恐ろしいあらしに会い、破損された船の船倉には海水が浸入してきました、ポンプで水をかき出さなければなりません。ニュートンは仕事につくために急ぎながら、船長に「もしこれがうまくいかなかったなら、主があわれみを注いでくださるでしょう」と言いました。しかしこう言ってから、彼は自分の言った言葉に驚いたのです。はじめて彼は、真剣に神について考え、自分の魂について考えるようになりました。そしてその日の夕方から、神の御顔を求めはじめたのです。最初のうちは暗中模索でした。「わたしは信仰の祈りをすることができない。和解の神に近づいて、『父よ』とお呼びすることができない」と言いました。彼はもだえ苦しみました。しかし、光が与えられたのです。「わたしの周囲は、黒いはかり知れない失望に閉ざされていたが、わたしは福音の中に、希望の片りんを見たように思った」と彼は言っています。この「希望の片りん」の輝きに続いて、彼の中に救いに至る信仰が生まれ、1748年3月10日、ジョン・ニュートンはキリスト・イエスにあって新しく造られた者となったのでした。彼は今はなく死に、眠っているのですが、彼がしるし、歌った恩ちょうは、今も生きていて人々を新生させるために働いているのです。

(『神もし我らの味方ならば』ポーロ・S・リース著松代幸太郎訳12~15頁引用)

(写真は5年前訪れたフランス・オーベルシュオワーズのゴッホの墓地。ゴッホは絵をとおして語る。ニュートンの墓地は知らないが彼の作詞になる歌は今も歌うことが多い。「アメージンググレース」はその最たるものであろう。)

2009年2月24日 (火)

60年前の米国大統領就任式

Dscn6294  まことに、あなたは喜びをもって出て行き・・・これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。(旧約聖書 イザヤ55・12、13)

 その朝は寒々として冷たかった。湿っぽい肌を突き刺す風がポトマック川の鋼のような灰色の川面を波立たせていた。ペンシルバニア通りの広い立ち入り禁止の一帯は紙やがらくたのようなものが風で吹き飛ばされ、風は連邦議会のドームに吹きつけヒューヒューとうなっていた。

 ワシントンのいたるところで期待感がみなぎっていた。大通りに沿って何週間もかけて積み上げられてきた材木のかたまりはついに屋根つきの観覧席やそうでない観覧席へとしつらえられていった。街角という街角にはネービーブルーの制服に身を固めた特別区の警官が色取を添えていた。灰色の街灯には小さなアメリカ国旗やトルーマンとバークレーの写真が飾られた。赤、白、青の旗が至るところにあった。数時間もすれば合衆国大統領を祝って4万人の行進者や40以上の山車が7マイルの長さで縦列をつくることになろう。この日は1949年1月20日、大統領就任式の日だった。

 両翼を広げた重厚な連邦議会の建物の前で、私は12万人の他の人たちとともににわか仕立てにつくられたベンチに座って私たちの前の貴賓席に場所を占めている政府高官を眺めていた。

 ラジオ、テレビ、映写技師たちが新しく造られたひな壇で器具を調整したりテストしたりするのに上がったり降りたりして大わらわであった。昼の12時に全米の耳目はこの瞬間に吸い寄せられることだろう。

 私はプラム色の革掛けいすや緑色のカーペットの敷かれた通路を備える旧上院会議場で、ピーター・マーシャルがその瞬間祈ることを知っていた。彼は多くのリポーターに「上院の良心」と呼ばれていた。彼の簡潔で真摯な地に着いた祈りは上院議員たちに次第に深い影響を与えつつあった。しかし祈りは親密なものであり、決して人が手軽に話すようなものではなかった。

 私は何度か見てきたようにその場面を描くことが出来る。ピーターが祈ると、人々は突然静まり返り、うやうやしく頭を垂れた。

 父なる神様、私たちはあなたを信頼しています。また、この国はあなたの御導きと御恵みにより誕生させられました。どうか合衆国の上院議員を歴史上この重要な時に祝福し、その義務を真摯に遂行するのに必要なすべてのものを与えてください。

 私たちは今日特に私たちの大統領のためにお祈りします。そしてまたこの議会を主宰する大統領のためにお祈りします。

 彼らがその務めを果たすために精神的肉体的緊張に耐え得る健康をお与え下さい。またしなければならない決定に対する正しい判断力をお与え下さい。また彼ら自身の力を超える叡智とこの困難な時期の問題に対する明確な理解力をお与え下さい。

 私たちはあなた様に心からへりくだり信頼できますことを感謝いたします。どうか彼らが恵みの御座に絶えず行くことが出来ますように。私たちも彼らに対するあなた様の愛あるご配慮とあなた様の御導きの御手におゆだね出来ますように。

 私たちの主イエス・キリストを通して、アーメン。

(資料はA MAN CALLED PETER BY CATHERINE MARSHALL)

(写真は今晩の国会議事堂。日本の政治はどこに向かおうとしているのだろうか。)

2009年2月18日 (水)

あせび

Dscn6184  庭に、めじろ、雀、ひよどりが毎日のように次々やってきては餌台のパン屑などを食べては飛び去って行く。何度もカメラに納めようとするが、決して私のカメラには納まることがない。鳥の目は一体どのようになっているのだろうか。

 先ごろU兄がくも膜下で召された。U兄とは那須塩原の家庭集会で親しくお交わりをしていただいたことがある。中西悟堂氏の本を座右の書としておられ、野鳥に詳しかった。鳥を観察するにつけU兄にいつもお聞きしたいと思っていたが、とうとうそれもかなわなくなってしまった。

 そこへ行くと鳥とはちがい、庭に咲いている植物は動かないので撮影する段にはありがたい。特に先週は気温が上昇し、あちこちで植物がいっせいに開花し始めた感がある。そして今まで余り目に留めることのなかった「あせび」の存在に気づき、カメラに納めたのが今日の写真である。そして村田ユリ氏の文章を思い出した。以下は彼女の文章である。(『花の声』16頁)

 漢字では「馬酔木」と書く。有毒植物で、馬がこの葉を食べると苦しみ出すといわれている。鈴蘭に似た白い花が細い茎につらなり咲いて、良い型をした葉の間から下がっている様子は、清楚な美しさである。以前、伊豆の山頂に自生しているのを見たことがあるが、海から吹きつける強風に、木は、なぎ倒されるような型になりながら、こぼれるように花を咲かせていた。

 村田氏の文と異なり、庭の「あせび」はご覧のように白でない、何と表現すれば良いのだろう。また、まだ蕾の段階だ。

 牧野富太郎博士は次のように説明している。(『原色牧野植物大図鑑(正)』409頁)

 本州・四国・九州の暖帯の山地にはえ、観賞用に栽植する常緑低木。よく分枝し高さ1~2m、無毛。葉は革質で互生、長さ3~8cm。花は早春から晩春。さく果は上向き。夏には来春の蕾がつく。葉は有毒でアセボトキンを含み、駆虫剤に用いる。馬が食べると苦しむので馬酔木という。鹿などが食べないので奈良公園は著名、箱根の純林も見事。

 庭にそんな有毒な植物があるとは知らなかった。自然界には私たちには知ることのできない創造主である神様の絶妙なご配慮があるのではないだろうか。

神よ。あなたの御思いを知るのは、なんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。(旧約聖書 詩篇139・17)

2009年2月14日 (土)

100年ほど前の異国の一女性の証(2)

Dscn6170  祈りを通して、神様に頼りつつことを行う人ほど幸せな人はいないのではないか。しかし同時に祈りは、神様が下さるみことばに頼ることも意味する。昨日からご紹介し始めたこの女性はそのことを経験していた。次のように述べられている。

 この魂がこれほどに鍛えられているのを見れば、それが深い泉から水を汲み取っていることは予想される。何よりも彼女の聖書が、どのように彼女が「神の言」に養われたかということを示している。彼女の聖書の頁は、アンダーラインや書入れで、すっかり埋まっていた。そして印象を受けた箇所を全部、好んで書写していた。彼女は、一家の主婦、家庭の母親、牧師の妻としての非常な務めが許す限りは、それを自分の個人的な礼拝の中心として、毎日守ろうと努めていた。

 このような彼女であったが、44歳で病魔に侵され、6人のこどもの養育、日曜学校の働きに支障が出ないように人々に後事を託し、ロンドンのドイツ人の病院で手術を受けた。彼女の手帳に記された言葉。

 「1929年11月22日。私の手術の日。神様は私にお答え下さった。試練と一緒に解放も来た。」

 4ヶ月が経過した。手術の後、8週間は病院で送られた。手術は極めて危険であったが、やがて奇蹟的に回復した。病人の落ち着きと忍耐と明るさは、彼女を訪れるすべての人々に、深い印象を与えた。その後3週間を田舎で過ごし、最後にレマン湖畔のローザンヌに来る。そこから夫にあてて手紙を書く。彼女が召されるまでどのように考え、主の祝福を受けたか、私たちは手紙を通して知ることができる。そのような手紙を以下に紹介する。

 わたくしは休息と隔離の今のこの時を、もっと心を落ち着け、もっと祈るために用いています。これは本とうに良いこと、有益なことでございます。「生きる」ことが出来るためには、どのようなことがあっても神様との結びつきを保っていなくてはなりません。先へ先へと進もうとするのは、何にもなりません。それでは人は死んでしまいます。時々立ちどまって神様を見出すために、自分の奥底まで降りてゆく時をもたなくてはなりません。わたくしはこの必要を、強く強く感じています。手術をうけてからこの幾月かの間に、わたくしはずっと多くの心の喜びと心の平和を見出しました。またロンドンへ帰りましても、この神様との結びつきを、自分のために―またあなたのためにも子どもたちのためにも―どうぞ保つことが出来ますように。―それにこの数ヶ月、四方からわたくしを取りかこんでいるこの愛が、わたくしには口では申せぬほどに嬉しうございます。どうぞわたくしも、もっと良く愛することを学べますように。(クラランにて、1930年3月26日)

あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。(旧約聖書 イザヤ12・3)
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。(新約聖書 ヨハネ14・27)

(写真はグリヨンからサヴォナ・アルプス遠望のもの)

2009年2月13日 (金)

100年ほど前の異国の一女性の証(1)

Dscn6162_2  1885年9月29日にパリで生まれた一人の女性がいる。これから述べるのはその女性の体験である。(以下この話は5、60年前に日本でも邦訳された本にしたがっている)

 彼女は9歳で実母を喪い、その後継母として自分を育ててくれた愛する「ママ」とも20歳で死に別れる。このように若くして人生の喪失感を味わったが、神学校の校長をしていた父を助けながらドイツやイギリスの滞在を通して、それぞれの国の良き信仰者の影響を受けた。

 1908年の4月に婚約し、1909年7月2日に、ジュネーブで結婚した。以後牧師である夫とともにロンドンのスイス教会で23年間牧師夫人として、多くの主を求める人々のお世話をし、そのかたわら日曜学校を率先運営し子どもたちに仕えた。

 また家庭には孤児を引き取り、当時すでに生まれていた6歳から12歳までの自分の子どもとわけ隔てなく、育てた。涙があり、祈り続けた養育がすべてであった。子らは「祈りの子ら」という表現がぴったりであったという。1916年彼女は次のように書き記している。

 「私の心の奥底まで知り給う主よ、あなたのために何事かをしたいと、私がどのようにねがっているか、私の生活を通して魂たちを御許に導きたいと、どのように思っているか、あなたは知っておいでです。主よ、どうぞ私の魂の中にまで染み通って下さいませ。もろもろの穢れから、どうぞ潔めて下さいませ。どうぞこの魂のすみずみにまで御座を占めて下さいませ。人々のために、私が愛している者たちのために、あなたが私にお与え下さいました者たちのために、どうぞこの魂を充たし、聖めて下さいませ。」

 さらに、自分が世話をしたある者たちのために苦しい失望を経験した。この生の困難と失望の只中で自らを責め、不安と屈辱の嘆声をあげて次のように叫んでいる。1926年11月23日の手記である。

 「主よ、もし私が間違っていましたら―もし私の知恵が足りませんでしたら、どうぞ私だけを苦しませてくださいませ。あなたがお託しになりました子ども(彼女が引き取った孤児のこと)が、どうぞそのために苦しみませんように。」

 やがて彼女は、義務に身を支えて、再び平安を見出した。彼女の詩は次のとおりであったと言う。

 眠りて夢みぬ
 生はうるわしと
 眼覚めて知りぬ
 生は務めなりと

 「そうだ、私たちが打ちひしがれた時、心労が私たちを圧しつける時、すべてのものが―私たちにとって一番輝かしかったものまでが、暗く思われて、もう物もよく見えない時、義務は祝福さるべきだ。それだけが私たちを助けて、どのようなことがあっても前進させ、頭を高く揚げさせ、生き続けさせてくれる、この義務は、祝福さるべきだ。・・・主よ、何ごとがありましても、前進できますように、自分の義務を―人々に対する山のような義務を、果たすことができますように、どうぞ助けて下さいませ。あなたは私どもを愛し給うのですから、そして私どもを救おうと欲し給うのですから、どうぞ最後まであなたに頼ることが出来ますように助けて下さいませ。」

あなたがたは髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中で隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(新約聖書 1ペテロ3・3~4)

(写真は先日の家庭集会の朝撮影した二階の窓辺。多くの人が来られたが、この水仙と花瓶君はどんなおもてなしをしたのだろうか。柔和で穏やかな霊だったのだろうか。) 

2009年1月13日 (火)

寅彦・芭蕉に学ぶ、関が原・米原間の意義

Dscn5901  昨日の旅の話の続きで恐縮だが、米原を過ぎて雪の伊吹山を間近に見ながら列車は進行した。写真は昨日の東海道線醒ヶ井あたりの列車から見た伊吹山の姿である。

  今日はそれにちなんだ寺田寅彦の随筆「伊吹山の句について」を紹介したい。句とは

 折々に伊吹を見てや冬ごもり

という芭蕉の俳句のことであるが、彼は大正十三年二月に次のように書いている。

 「私がこの句に対して特別な興味を感じたのには・・・理由がある。学生時代の冬休みに、東海道を往復するのに、殆どいつでも伊吹山付近で雪を見ない事はなかった。神戸東京間でこの辺に限って雪が深いのが私には不思議であった。現に雪の降って居ない時でも伊吹山の上だけには雪雲が低く垂れ下がって迷って居る場合が多かったように記憶している。」

 そして彼は芭蕉の句を味わうために伊吹山で雨や雪が冬季どの程度降るか伊吹山を中心として京都から名古屋までの各地の測候所に問い合わせて次のようなデータを載せている。

 伊吹山 69、2日 敦賀   72、8日
 彦根   59、0日 岐阜   40、2日
 京都   49、2日 名古屋 30、2日

 明らかに伊吹山、彦根が北陸の敦賀についでいかに雨や雪が多いかがわかる。それを確かめた上で、彼はその理由を分析して大垣米原間の鉄道線路が走っているところはそっくり「地殻の割れ目」を縫って走っていることに注目する。そして、そこでの風の動きは彦根測候所の筒井氏の意見によると次のようになるのだと紹介する。

 「冬季日本海沿岸に多量の降雨をもたらす北の季節風が、若狭近江の間の比較的低い山を越えて、そして広い琵琶湖上から伊勢湾の方へ抜けようとする途中で雪を降らせるというのであるらしい。特に美濃近江の国境の連山は、地形の影響で、上昇気流を助長し、雪雲の生成を助長するのであろう。

 また伊吹観測所で霧を観測した日数を調べて見ると、四ヶ年の平均で、冬季三ヶ月間につき76、8日となって居る。つまり冬中の約八割五分は伊吹山頂に雲のかかった日があるわけになる。もっともそれだけでは山頂が終日蔽われて居るかどうかは分らないが、兎も角もこの山がそのままによく見える日がそうそう多くないということだけは想像される。

 以上の事実を予備知識として、この芭蕉の句を味わって見るとなると「折々に」という初五文字がひどく強く頭に響いて来るような気がする。そして伊吹の見える特別な日が事によると北西風の吹かない割に温く穏かな日にでも相当するので、そういう日に久々で戸外にでも出て伊吹山を遠望し、今日は伊吹が見える、と思うのではないかと迄想像される。そうすると又この「冬籠」の五字がひどく利いて来るような気がするのである。」

 そして、最後に、このような分析は芭蕉の句を味わうには詮索過ぎるかもしれないと断りながら、「実際彼の地方で始終伊吹を見ている人達の教えを受けることができれば幸いである。」と結んでいる。(以上「 」は岩波文庫『寺田寅彦随筆集』第二巻昭和三十年版132~136頁から抜粋した)

 以上長々と引用したが、東海道線で雪のため列車が遅れるたびにこの伊吹山の区間が問題になる。しかし芭蕉のように与えられた自然を受け止めて考えることも必要ではないだろうか。表日本を走る東海道線、効率を優先する経済社会の中で、唯一曇天の雪国の人々の気持ちをわずかでも感じられる天の配剤の区間だと思ってみるのもどうだろうか。ちなみに私の父はこの伊吹山の麓で生まれ育った。空の動きについてイエス様は全く別の視点から次のようなことを言っておられる。

あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。(新約聖書 マタイ16・2~3)

 

2009年1月 6日 (火)

彦根城の内堀について

Dscn563212  このブログを始めた当時(昨年の7月2日)、表題のことをうろ覚えで記したが、細かいところで表現ミスがあったのではないかと気がかりであった。このことを初めて教えてくださったのは高校時代に文化講演会で講師としてお話くださった中村直勝先生であった。

 お話くださった昭和36年ごろの本に次のように書いておられるので改めて以下に引用しておきたい。

 彦根城の築営に当りて伊勢の津の藩主藤堂高虎の参加があったらしい。江戸城も高虎の設計によって改修されており、修学院離宮にも高虎の考案と思われる場所があると言われる。それらがどこであるかは、勿論、誰も知らないが、どうやら次の箇所でないかと推量される。江戸城では桜田門外の西方、国会議事堂の前の一帯。修学院離宮は上の御茶屋の隣雲亭の脚下にある浴龍池。彦根城では、南方の彦根高校の前の辺。それらに通じて、同じような曲線の汀があるのだが、それでなかろうか。これは暴風が吹いて、池の水が騒ぎ荒れても、直ちに消されて、波がなくなるように工夫されておる汀の曲がり具合である。小波でも立てば、事によると水中を潜行しておる凶怪があるということになるらしい。用心が隠されておるのである。

 彦根城は、その西側に太湖を控え、それに通ずる濠に沿うたところに塩蔵があったらしく、とても慎重な用心がしてある。

(『中村直勝著作集10巻』500頁近江路の魅力より引用)

 話はまだまだ続くのだが、この辺にしておく。今、東京新聞の連載小説「下天を謀る」で藤堂高虎のことがくわしく述べられているので、このような築城の話も出てくるのでないかと注意しているが今のところ出てこない。藤堂高虎は近江の出身で私の家内の実家の近くの出身である。

 ただこのようなお濠の造作という事象も、当時の城下町の性格を歴史の中で考えて果たしてそうだったのか結論づける必要はありそうだ。そのことは別の機会に考えて見たい。城の造作について牽強付会の嫌いがあって申し訳ないが聖書のことばを載せておく。ただ聖書がこのようなことを述べているのは、やはり避けようのない戦いがあることを想定していることは間違いないと言えるのでないか。

わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。(旧約聖書 エゼキエル書22・30)

(写真は初冬の彦根城天守閣を中掘から見上げた景観。彦根(東)高校は画面左側の御濠(中掘)の石垣の中にある。したがってこのお濠は中村先生の言っておられるお濠(内堀)ではない。)

 

2008年12月31日 (水)

100年間変らないもの

Dscn3191  新聞の夕刊も先週で終わり、二十九日からはお正月に備えて満を持しているようだ。ところでその本年最終の東京新聞夕刊の文化欄の「大波小波」では「点鬼簿’08」と題して先ごろなくなった加藤周一の追悼に半分余り割き、後は30名ばかりの文人の名前を次々と挙げていた。

 私の身辺でも叔母をはじめ多くの親しい方々が召されて行った。ほとんどの方が主イエス様を信じて召された方ばかりで、死の苦痛の中でもみことばに頼って救われていらっしゃったことは私たち後進の者にとっても「天国」を何度も覚えさせていただき、大いなる希望をいだかせていただいた「点鬼簿」であった。

 これに反してにわかに訪れた感のある経済の苦境については語る資格が無い。1929年の大恐慌時にケインズが有効需要創出の政策を打ちたて新機軸を見い出したように新たな経済政策が生み出されるのだろうかそれすらわからない。経済学者の方々からの処方箋もあるのだろうが、私には残念ながら聞こえて来ない。それよりも政治が信頼を失っていることが恐ろしい。

 100年前、内村鑑三は「今年の出来事」と題して、次のように書きとめている。

 人の生涯の中で執筆者の生涯ほど無事なるはない、為すことは年が年中、読む事と書く事と刷る事とばかりである、歳明けてより歳暮るるまで為すことはこれだけである、その間に挿入するに家庭の快楽、交友の快楽、山野跋渉の快楽をもってするまでである、その他に何の野心もなければ何の刺激もない、唯、時には世の薄倖者の援助を乞わんがために訪来るありて、光輝あるこの国家にもまたこの惨事あるを知りて独りひそかに涙に袖を潤すことがあるまでである。

 故に明治の41年も余に取りては至って無事平安の年であった。雑誌は約束より一冊多く十一冊を出し、日曜日には大抵欠かさず聖書を講じ、少しばかりの慈善を為し、多くの読書をなした( 中   略 )

 しかしこの世における余の誇りは読書でもなければ著述でもない、神が余に賜いし少数の善き友人である、彼らの同情、彼らの厚意、彼らの婦人の愛にも優る愛、これこの冷たき世にありて余が全世界に向かって誇ることの出来る者である、余の宝とはこれである、余の勲章とはこれである、パウロの言を借りて言えばこれ

我が愛する所慕う所の兄弟、我の喜び、我が冠たる我の愛する者

である(ピリピ四章一節)、この点において余はある時は日本中で一番幸福なる人であると思う。
 かくて今年も幸福の中に去らんとする、明年もまた同じく幸福であるであろう、明後年も明後々年も同じく幸福であるであろう、然り、処女マリヤの賛美歌の一節を借りて言えば

大能者は我に大なる事を成し給えり
その名は聖し、
その憐れみは世々にわたり、彼を畏るる者に及ばん。

(『内村鑑三全集16』159~161頁)

 とあった。今年は100年に一度と言われる経済危機が首相を通して喧伝されているが、100年前内村のところに無心に訪れる人がいたことがわかる。加えてこの年は手許の年表を見ると漱石の「三四郎」が朝日新聞で連載され29日で終わっていたり、永井荷風の「あめりか物語」も出ている。一方「戊辰詔書(ぼしんしょうしょ)」と言う一種の国家によるしめつけ政策が始まった年である。かつて不敬事件で辛苦した内村がそのことを知らないはずはない。しかし「無事平安」とも「幸福」とも彼は記した。100年前も今も主にある生き方だけは不変である。

※新改訳の該当箇所の訳「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に代々にわたって及びます。」(新約聖書 ルカ1・49~50)

(写真は今年の年初に用いた年賀葉書の写真。スイス・ユングフラウを仰いで、2007年10月。)

2008年12月30日 (火)

「かたばみ」の白い花

Dscn5809  昨日は暖かかった。久しぶりに庭をのぞく気になった。玄関にはパンジーが春を思わせるように咲いていて、小さな風に心地よく揺れている。樹木はいずれも枯れ枝を青天に突き刺すばかりなのに、何となく芽吹きを感じさせるから不思議だ。近くの家の小さな柿の木には、ヒヨドリと雀の数羽が仲良く柿の実をついばんでいた。裏に「かたばみ」の花が白く陽に当たっていて二輪ほどこちらを向いていた。久しぶりにシャッターを切った。左はその写真だ。

 「かたばみ」について、村田ユリさんの文章を引く。

 これは私の生家の家紋の草である。日本の紋のデザインは大部分植物を主題としている。中には、公家、武家の象徴を示し、商家の職業、自然現象などさまざまであるが、その簡潔の美しさは、世界に類の無い傑作ぞろいだと思う。

 私の父方の祖先は、越後平野の一角で土の中から生えて来た農民であるが、その後、明治の革命の頃、商人に変身した。帯名を許され、家紋を選んだ、私の四代前の曽祖父が、このかたばみを家紋と定めたことに、私はその心を推察出来るのである。小柄なくせに深々と根を張り、寒気も物とも思わない強い越年草で、これを退治しようと思っても、黄の小花は、またたく間に稔り、そのさやは、なにかがちょっと触れただけで、実を四方にはじき出す。

 根強い、という字そのものである。

 曽祖父は、自分の生き方を示し、子孫への教訓と期待をこの草に託して、自分の家紋を定めたのであろうと、私は確信している。

(画文集『花の声』 村田ユリ著 海竜社 108頁より引用)

主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。(旧約聖書 申命記6・4~7)

 村田さんの家では、「かたばみ」を通して曽祖父の意志が子孫に伝わっているのだろう。この方は生けるまことの神に出会われたと聞く。どのようにしてか聞きたいが、もう召されておられない。けれども書物を通して彼女は今も行きずりの私に語りかけてくださる。まして根強く生きるこの「かたばみ」の越冬精神には敬意を表したいものだ。

2008年12月24日 (水)

パーテ老人は語った(最終章) アクセル・ハムブレウス

Dscn5759  この日には埋葬はなかった。しかし幾日か後に、リッスダニエルの地所の草地の上に二つの棺が並べておかれた。ハルバーは、持って来た大きな鞄の中に、立派な花婿衣装を入れていたのだよ。人々は、それをハルバーのむくろに着せてやった。こうして二人は、金の指輪での代りに、土でもって合わされたのだった。生きている間には出来なかったことが、死んでやっと実現したのだね。

 あんた達は、なぜわしが先刻、急に弾くのをやめたのかと、いぶかったことだろうね。しかし、ヴァイオリンも、このわしも、あの”世の権力も榮も富も 君のみ前には無に等しく何ら助けず、 何をも為さず“※という句のところに来ると、そのまま通りすぎられないのでねえ。わしは考えずにおられない、この世の中ではお互いが愛し合うという、この一番大事なものが、どんなにさまざまな事情のために妨げられているかを。今晩お互いは、愛そのものにいます御方の誕生を御祝いしてここに集まっている。もしお互いが、愛の代りに何か他のものを人生の一番大事なものとするならば、愛そのもので在した御方の降誕は御祝いできないはずじゃないかね。金も乳香も没薬も、たしかに貴重な品物にちがいない。屋敷も農場も山林も、軽んずるべきではない。しかし、愛している心こそは、それら凡てに優るのだ。それこそがイエス様の富だった。そして神さまはわれわれ凡てがこの富をもつように、それを与えて下さったのだ」

 パーテ老人が、その真剣な物語を終わった後は、誰もが、いま一度、たのしいクリスマス気分に戻るのはなかなかのことでした。しかし、パーテ老人自身がヴァイオリンを取り上げ、古くからの楽しい愉快なクリスマスの歌をひきはじめ、子供たちが彼の周囲に集まって来て、その間にケルシはツリーの蝋燭に火をつけ、母親がコーヒーを入れ出したころにはもう一度オエス家にクリスマスらしい気分が立ちこめました。しかし、いよいよクリスマスの贈物を頒けはじめようとしたとき、人々は、この家の主人がいないのに気がつきました。彼は、パーテ老人が話し終わったあとに、室からそっと出て行ったのです。それに気付いていたのはパーテ老人だけでした。老人は、ケルシと父親の上に、じっと眼をそそいでいたのです。人々が、パーテ老人の眼には不思議な力がこもっているというのは、本当かも知れません。彼は人の心を不安にするのにも、また静めるのにも、独特の仕方を心得ているのです。老人は、ケルシの心をなだめるために、その全力をそそぐとともに、父親の心を悩ますためにも全力をそそいだのです。

 父親のいないのに気付いた人々は、「お父さんはどこ?」と、言いながら、室々を探し廻りました。彼が来るまでは、プレゼントを喜び合って頒けるわけにはゆかないのです。とうとう玄関に彼の足音が聞こえました。
「どこに行ってたのよ、お父さん」
と奥さんがいくらか心配そうにたずねました。父親はおだやかに、
「うん、わしはケルシへのプレゼントを忘れてたんでね」
「あたしに?」
ケルシは、そう言いながら、彼女のくせで、もう耳元まで真赤です。
「そうだよ、本当にお前にだよ。けれど、それはお前がもって来ないといけないよ。お父さんは、ただ玄関先までもって来たんだからね」
 しかし、ケルシはそのプレゼントを自分でもって来なくともよいのでした。彼女は自分の心臓が嬉しさのあまり、止まって終うのではないかと思いました。
 ドアが開いて、エリク・ブレンデが感動に満ちた顔で入って来たとき満場は割れるような拍手と、歓声とに包まれたのでした。

※これはルッターが1553年につくった賛美歌で、1節が四句からなっていて全部で15節です。われわれの賛美歌101番は、その抄訳です。ここの12節は、101番の中には入っていません。(酒枝)

(『クリスマスの贈物』酒枝訳104~107頁)

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(新約聖書 2コリント8・9)

(写真は酒枝さんのお嬢さんたちがお母さんの援けを得ながら制作されたご本の表紙である。1983年の発行というから今から四半世紀前となる。このような装丁を人々は価値無きものとして捨て去ったのであろうか。逆に私の心は懐かしさで満たされ、惹きつけられた。ちなみに古本としては最低価格であった。この本にはなお七編の作品が酒枝先生のドイツ語からの重訳として収められている。)

2008年12月23日 (火)

パーテ老人は語った(6) アクセル・ハムブレウス

Dscn5751  「それから何年もの月日が過ぎ去った。リッスダニエルのところには、入りかわり立ちかわり求婚者が訪れた。しかし、父親が承知しても、娘の方がことわった。こうして娘は、嫁がないままで年をとっていった。姉たちはみな嫁いでゆき、カリのために日夜こころを痛めていた母親もとうとう亡くなった。年とった父親と、カリとの寂しい明け暮れも、やがて父親の死によって、カリひとりが残ることになった。彼女はけなげに広い屋敷や畑や牧場の管理と経営に当たった。アメリカのハルバーからは、時々手紙が来た。幸い具合よくいっているようだがまだまだ充分な金持ちになったとは言えないとのことだった。父親が死んだとき、カリはハルバーに、今こそ自分はいつでも結婚しようと思えばできる身になったからと書き送った。しかし、この手紙にもハルバーからは、まだまだ充分な金持ちにはなっていないのでという返事が来たのだった。カリは段々老いこみはじめた。ハルバーからは、絶えず手紙が来るし、カリの方も絶えず手紙を書いた。しかし、ハルバーはまだまだ充分には金持ちになれないのだった。

 カリは自分の嫁入仕度を、すっかりととのえていた。ことに聖壇の前に花嫁として立つときに着るための花嫁衣裳は、ひと針ひと針、こころをこめて自分で縫いあげた。たびたび、タンスの中からそれを取り出してながめながら、ハルバーが帰って来たとき、きちんとなっているかどうかをしらべるのが、彼女にとって唯一のたのしみだったんだね。

 時は容赦なくすぎていった。カリは四十台になり、やがて五十台になった。六十台になったときには、村一番の美人と言われたカリも、さすがにもう老婆になった。ある日、カリは一番親しい姉を訪ねて、『わたしもうこれ以上、待つことはできないわ。今こそ、ハルバーに何が何でも帰って頂戴と書くつもりよ』と相談した。姉にはげまされて書き送ったこの手紙に、待ちに待ったハルバーからの『すぐに帰るよ』という返事が来たとき、カリの心がどんなだったか、みんなにもわかるだろう。しかし、夢のような感動と喜びのひと時がすんだあと、カリは静かにつぶやいた。

『思えばわたしは、あまりにも長いこと待ちすぎた。もう何だか、身体中の力が抜け切って終わったような気がする。しかし、何とかしてハルバーが戻って来るまで頑張らなくちゃねえ』と。

 カリの身体は日ましに弱り、床につくことになった。床の中で、彼女は堅く手を合わせ、どうか今一度、ハルバーと会うことのできる日まで生き延びさせて下さいと、神さまにお祈りした。なぜ神さまが、こうした切な願いをお聞き届け下さらなかったのかは、われわれには解らない。しかし、神さまには、神さまとしての深い思召しがあってのことにちがいないと思う。いよいよという間際にも、カリはやっと顔を戸口の方に向け、小さい声で、『ハルバーあんた未だ帰らないの』とささやきながらやがて静かに息を引き取った。カリは自分が棺の中に入るとき、花嫁衣裳を着せて貰いたいと、かねがね頼んでいた。わしは、まるでついこの間のことのように、あの日の光景を思い出すよ」

 こう言いながら、パーテ老人は大きく眼を見ひらき、遠くの方を見つめているようです。物語りはなお続きます。

 「カリの棺は、リッスダニエル家の地所の中で、緑の草に蔽われた場所に置かれた。彼女は死んで、すっかりその容相が変った。棺の中に、花嫁衣裳を着た若い娘のように静かに横たわり、微笑さえしているように見えたよ。しかし、まさに牧師さんが出棺式をはじめようとしたそのとき誰かが、広い屋敷の中を、あちこち急ぎ足で歩き廻りながら、こちらにやって来た。それは立派な服装をした老紳士で、見るからに、いつも沢山の人々を使っている大地主らしい人物だった。彼は出棺式に集っている人々の列を通りすぎて牧師のところに近づき、棺の方は見ないで、『カリ・リッスダニエルはどこにいるのでしょう』と尋ねた。牧師は静かに聖書を持った手で棺の方を指し、『彼女はここにいます』と答えた。紳士はしばらく、じっと棺の中のカリを見つめていた。それから手を心臓の上に当てたまま、棺の上に倒れて息を引き取った。立ち並んでいた一同は、これこそ、あのハルバーだということを知った。今こそ彼は帰って来た。今こそ彼は充分に金持ちになった。ああしかし、それはもう遅すぎたのだった。・・・・

(『クリスマスの贈り物』酒枝義旗訳101~104頁)

期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。(旧約聖書 箴言13・12)天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。・・・抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。・・・愛するのに時があり、憎むのに時がある。・・・神を恐れよ。(旧約聖書 伝道者3・1~2、4、5、8、12・13)

(写真は典型的なクリスマスケーキ。この手づくりのケーキもまた土曜日の若者の集いで登場したもののひとつだ。それぞれ示されるまま手づくりのものを持ち寄っては、互いに賜物をもって仕え合うのはキリスト者の大いなる喜び・特権である。)

2008年12月22日 (月)

パーテ老人は語った(5) アクセル・ハムブレウス

Dscn5748  パーテ老人は語りはじめます。
「わしがまだ若かったころ、この村に珍しい事件がおこったんだよ。しかし、それは長い物語りの結末なんだから、ずっとその以前に話を戻さなければならん。つまり大分昔のことになるが、この村に若い二人が住んでいてね。この人は、人間どもが差し出がましい干渉さえしなかったら、天の父なる神さまによって、互いに一つになるように定められていたのだった。しかし、そうした干渉のため、ついつい、死んでから初めて一緒になれたんだよ。娘はカリ・リッスダニエルといった。この村きっての可愛らしい娘だったよ。そのうえ、このオエス家とも親類つづきだった」

 こうつけ加えながら、パーテ老人はケルシの方を、かえりみてにっこりしました。
「しかしカリのお父さんは村一番の分限者だったので、娘のカリが、愛人のスイベル家のハルバーと結婚することに反対だった。いや、それは結局、美しい分限者の娘のカリにとって、ハルバーの家が、余りにも貧しいからだったんだね。だからハルバーが何度求婚しても、ただ余りにも貧乏だからという返事しか聞けなかった。こうした言葉をきくのがつくづく嫌になったので、ハルバーはひとつ金持ちになってやろうと決心した。それからというものハルバーは、今までここの村のだれも働いたことがないほど、一生懸命で働きはじめた。森を切り開いて耕地にもした、沼地を乾かして立派な畑にもした、畑地の中から沢山の石塊を掘り出し、大きな石塚をいくつもつくった、それは今でもこの村の北の方にあるスイベルの家の近くに見られるよ。また屋敷も改造し、住宅も牛小屋も、今までより大きな新しいものになった。そうしたことが、みな都合よく運ばれた。しかし、彼がどんなに働いて、納屋や物置に穀物やその他のものを貯えても、まだまだリッスダニエル家のカリと結婚するのには足りないというわけだ。

 ちょうどそのころ、アメリカへの渡航熱が高まって来た。つまり、噂によると、そこでは金がザクザク掘れるということだ。誰彼が次々にアメリカに渡って行った。ある日ハルバーは、もうこれかぎりと、思い切ってリッスダニエル家を訪ね、カリを貰い受けたいと頼みこんだ。しかし答えは今まで通り”否“だった。ハルバーは根性のある若者だった。最後の願いが、にべもなく断られたのでリッスダニエルの顔の前に拳骨をつき出し、『ようし俺はアメリカに渡るぞ! このオエス村全部を買いとることができるほど金をもうけたら、その時こそ、ここに帰ってくるんだ』とタンカを切ったんだね。リッスダニエルはせせら笑った。しかし家畜小屋のかこいの後ろでは、娘のカリが立って泣いていたのだよ。ハルバーが、そこの傍を通って帰って行こうとするとき、カリはハルバーの肩にだきついて、アメリカ行きを思いとどまるように懇願した。われわれがそんなにまで遠く離れるよりは、せめても度々会うことができる方がましだから、というのがカリの言い分だった。しかしハルバーの決心は動揺しなかった。『おれは、はっきり言い切ったんだからねえ。言ったからには、変えるわけには行かん。しかし、きっと戻って来るからね』と、すすり泣くカリをなだめた。カリはなおもすすり上げながら、
『じゃ、あんまり長くあちらにいないでね』
『あんたは、おれを待ってくれるかい』とハルバーは問う。
『勿論よ! わたしはね、生きているかぎり、あんたを待っているわ。けれど、なるべき早く帰って来てね』
『おれが充分金持ちになったら、きっと帰ってくるからね』と二人は堅く約束し合った。
 しかし、人は、一体いつになったら充分な金持ちになるんだろうか?」

 パーテ老人はこう言ってから少時口をとじ、じっとテーブルを囲んでいる人々の方を見廻しました。その眼ざしは、ここの主人のところで止まりました。しかし、主人は嗅ぎ煙草を口にくわえたまま、無関心に床の上を見ている様子でした。

「一体、人はいつになったら充分な金持ちになるんだろうか」
 パーテ老人は、それへの答えを期待しているように、声を大きくして繰り返しました。それから彼は、なお話し続けます。・・・・

(『クリスマスの贈り物』酒枝義旗訳98~101頁より引用)

ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。・・・「・・・もう七年間、私に仕えなければなりません。」・・・それで、もう七年間ラバンに仕えた。(旧約聖書 創世記29・20、27、30)

(写真は土曜日若者の集いで造られた手づくりのクリスマスケーキ、近くの若者の方が数十名集まられた。メッセージにはわざわざ長野から車で4時間かけて働き盛りで忙しいM兄がご一家で来てくださった。当日は高崎に宿を取り日曜日は新潟にメッセージに行かれるということであった。主イエス様に対する愛のご奉仕は尊い。)

2008年12月20日 (土)

パーテ老人は語った(4) アクセル・ハムブレウス

Dscn5712 (クリスマスソングも終わりに差しかかる頃、それまで伴奏によってリードしていたパーテ老人はなぜか演奏をやめます。その代わりに大きなため息をついたのです。不思議に思う人々を前にして老人は語ります。)

 「いや、わっしのヴァイオリンには、何事もありませんよ。ただ、このヴァイオリンは、だれかの心が痛んでいると、愉快に演奏するのがむずかしくなるのです。しかし、もしその心の痛みをいやすことができるのだったら、わっしは合唱の間に思いついたことを喜んでお話したいんですがねえ」

 それを聞いて若い連中は声をそろえ、「パーテおじちゃん、どうぞ話して頂戴」と叫びました。しかしケルシは黙っています。パーテおじさんがしみじみした調子でそう言ったときケルシの顔は一瞬赤くなり、すぐまた蒼ざめました。さすがに父親はそれに気づきました。本来ならパーテおじさんに、そんな話はよす方がよい、と圧力をかけることが出来るはずなのです。しかし、パーテおじさんの前では、誰もが一種の畏敬の念を抱かずにいられないのです。さすが大農家の主人も、パーテおじさんに黙るようにとは言えないのでした。

 ところがパーテおじさんの方は、何かを話し出そうとする様子はなく燃えさかる炎の光の中でヴァイオリンをじっと眺めて、ちょっと弦にさわりました。それから突然立ち上がり、ヴァイオリンと弓とをテーブルの上におき、今晩招待された客のうちで、長テーブルの上席についている年寄り連の方に進みました。

「カリさん、あんたはリッスダニエルを覚えてるかな?」

 こう言って、パーテ老人は、当主の年老いた父親で、この農家の広い庭の隠居所に、老妻とともに住んでいるカリ老人の耳に口をよせて問いました。

「もちろん覚えているよ」

と、カリ老人は、すこしふるえ気味の声で答えました。
「そう。じゃ、あんたはリッスダニエルの花婿がアメリカから帰った時のことも覚えているだろうね?」
「もちろん、はっきり覚えてるよ」
「あのことについて、わしは今、話してみたいんだがね」

 カリ老人はうなずきました。
 パーテ老人は、また暖炉のそばの丸太の席に戻って、話しはじめました。並みいる一同は、パーテ老人が、自分の話そうとすることを、まず年老いたこの家の長老に告げてからにしたのは、本当によかったと思いました。それで、耳の遠いこの老人も聴き手の仲間に入れられたわけです。

(暖炉を前にしていよいよ物語が始められます。その物語こそ作者が伝えたかったことではないでしょうか・・・)

(『クリスマスの贈り物』酒枝義旗訳96~98頁より引用)

あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(旧約聖書 レビ記19・32)若い人たちよ。長老に従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(新約聖書 1ペテロ5・3)

(写真は水曜日夜のクリスマスの集いで、今か今かと出番を待ち焦がれている、吉祥寺ドイツパン専門店リンデ製造のパン・ケーキ。)

2008年12月19日 (金)

パーテ老人は語った(3) アクセル・ハムブレウス

Dscn5717  (オエス家でのクリスマスの晩は、老いも若きも皆でパーテおじさんのヴァイオリンの伴奏に合わせて心から主イエス様の誕生を賛美し、最高潮に達しようとしていました。さて、今日はその続きの場面です。)

 ところが、ここでパーテおじさんが黙りこんだのです。おじさんは、何かを見ているように、その眼がじっとすわっているのです。そうです。彼の眼には馬槽の中の小さい赤ん坊と、そのそばにマリヤとヨセフがいるのが見えたのです。まるで、あの夜、小屋の中にいた羊飼が見たように、はっきりと赤ん坊とその両親を見たのです。マリヤはケルシのような顔かたちをしています。しかし、誰がヨセフかしら? こう思った途端に、パーテおじさんの眼にはブレンデ家のエリクの姿が映りました。素晴らしい若者なのに、家があまり貧しいため、オエス家の婿になることができないエリクの姿が! ほかの人々が合唱を終いまでうたっている間、パーテおじさんは、心にしみこんだ、十二節を、頭の中で繰り返していました。

"Das hat also gefallen dir, die Wahrheit anzuzeigen mir,
wie aller Welt, Macht, Ehr und Gut vor dir nichts gilt,
nichts hilft noch tut"

 世の権力も榮も富も 君のみ前には 無に等しく 何ら助けず、
 何をも為さず この真理を我に示すこそ 
  君の喜びたもうことにぞあれ

 その時、突然パーテおじさんには、オエス家の上に、大きな不幸が降りかかって来るかも知れないという予感が、はっきりしました。それは、人が金や宝を、あらゆるものに優る尊いもの、つまり愛よりも重んじようとするときに起こる不幸です。それこそは、世界中で一番大きな不幸です。いま、ここで二人の人間の心の中で、純真な美しい愛の炎がもえている、エリクとケルシの心は一つになっているではないか、二人は互いに愛し合い、身も心も一つになってお互いに幸福にならねばならないのだ! 二人は、幸福な父母となって、自分の可愛いい子供たちの顔にやさしく微笑みかけ、誰もが自分の愛するもののために働くように、二人もまたその子供たちのために愛の労を負わねばならないのだ! ところが、これらのことが彼ら二人に許されないのは、世の中の力や榮や富が、オエス家当主の心の中で、愛よりも大事なものとなっているからではないか!

 合唱が終わっても、一同はしばらくそのまま静かに席についていました。それは人々のこころに感銘を与えた聖なるものが飛び去らないようにじっとしているかのようでした。そのとき、突然、大きなため息が聞こえました。それはパーテおじさんの溜息だったのです。人々は、おじさんが、合唱の終えるまえに、ヴァイオリンの伴奏も歌うのもやめ、ふかく頭を垂れて何かを考えこんでいるのに気づいていました。その様子は、もともと誰よりも一番快活なパーテおじさんには、いかにも似つかわしくないのです。

 オエス家の主人も、それに気づいていたので、
「パーテおじさん、あんたなぜ溜息などついているの? 何かヴァイオリンに、調子の合わないとこでもあったのかい? だって、あんたは突然やめちまうんだもの」
と聞きました。・・・・
(さてパーテおじさんはオエス家のご主人にどのように答えるのでしょうか、続きは明日です)

(『クリスマスの贈り物』酒枝義旗訳94~96頁より引用。)

たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。・・・こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(新約聖書 1コリント13・3、13)

(写真は壁に飾られたクリスマスデコレーション、すべて日本製)

2008年12月18日 (木)

パーテ老人は語った(2) アクセル・ハムブレウス

Dscn5713  (この不思議な本は一、二年程前古本で手にしたものです。酒枝さんは蘇畑さんが尊敬されてやまない経済学の先生でしたが、その先生が『待晨』のクリスマス号に載せられたものを、召されて後、その記念にとご遺族が一冊の本にまとめられ、主婦の友出版センターから出されたものです。それでは、昨日の続きをお読みください。)

 クリスマスの晩になりました。オエス家でも、村中のほかの農家と同じように、クリスマスのお祝いの準備に、家中がいそいそと忙しい一日をすごしました。さまざまな御馳走がテーブルの上に並べられ、暖炉には火が赤々と燃えており、沢山のローソクが明るくともされています。そして、父親がルカによる福音書第二章を読み、家族とお客さん達も力づよい声をはりあげて、
“いずこの家にも めでたき音ずれ 伝うるためとて 天よりくだりぬ”
の賛美歌をうたうのでした。

 パーテおじさんも、今夜はオエス家のクリスマスのお客さんの一人として、皆と一緒にこの賛美歌をうたいました。ところが、賛美歌がすんだ途端に、パーテおじさんは何か深く考えこんでしまったのです。歌っている間じゅう、おじさんの眼はケルシの上にそそがれていました。一体、ケルシはどうしたのでしょう? ほかの人々は思い切り声をはり上げて歌っているのに? 神さまは、人々が賛美するのをお聞き下さるはずです。だから、賛美の声が神の玉座に届くように、心の底から歌わねばなりません。父親は、大農家の主人らしく、威容をととのえて歌っています。母親の方は、愛する者達がみな元気に集って来たことの喜びにあふれて歌っています。年寄り連は昔のことを思い出し、一緒にうたった人々でもはやこの世にいない誰彼のことを偲んで、眼に涙をためながら歌っています。若い連中は若い連中で、いかにも嬉しそうに歌っています。ところが、ケルシは? 彼女も最初は元気に皆と一緒にうたい出したのです。しかし、一節一節と歌ってゆくうちに、だんだん物思いに沈んでゆき、とうとう黙りこんでしまいました。その憂いをこめた大きな眼には、涙が一杯たまっているのです。しかし、これはパーテおじさん以外の人々には気がつきません。それは、パーテおじさんは、ほかの人々の方に向いて、暖炉のそばの丸太に腰かけ、ヴァイオリンで合唱を指揮していたからです。賛美歌が“馬槽(まぶね)のそばにて マリヤが歌える”のところまで来ると、ケルシは、泣き出すのをやっとこらえている様子です。涙は彼女の組んだ手の上に落ちるけれど、彼女は誰にも気づかれないようにと、その手を動かそうともしません。しかしパーテおじさんだけは、それに気づいているのでした。しかしケルシも次第に気持ちが落ち着いて来るようでした。それで “愛するイエス君 静かにいねませ“ のところに来ると、彼女は皆と一緒に合唱に合わせました。

 ところが、ここでパーテおじさんが黙りこんだのです。おじさんは、何かを見ているように、その眼がじっとすわっているのです。・・・(続きは明日です)

(『クリスマスの贈り物』酒枝義旗訳92~94頁より引用)

きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(新約聖書 ルカの福音書2・11~12)

(写真はピアノの上に飾られたクリスマス・デコレーション。昨日の家庭集会でも、ピアノとサックスに合わせて”馬小屋に眠るみどりごイエス“と賛美しました。)

2008年12月17日 (水)

パーテ老人は語った(1) アクセル・ハムブレウス

Dscn5682  (今日からクリスマスにちなんだ文章を連載します。)

 オエス村で誰もが尊敬と好意を抱いているのは、パーテおじさんです。おじさんは村中のほとんどの家々と、遠いまた近い縁つづきになっているのです。しかし、たった一人で、元のままの小屋の中に住んでいます。七十歳に近い齢なのに、生き生きとした元気さで、食事も身のまわりのことも、すべて自分でやっているのです。おじさんはヴァイオリンをながめながら、悦に入っているのでした。ただつくるだけではなく、おじさんは、ヴァイオリンの演奏にも素晴らしい才能をもっています。それも、近ごろの若い演奏家たちはおそらく覚えてもいない古風な優雅な演奏法なのです。

 クリスマスの季節が来ると、おじさんの仕事は閑になり、かまどの傍にじっとしてすごす日が多くなります。そんなとき、おじさんは一番いいヴァイオリンを棚の中から取り出しそれを持って、どこか親しいアットホームな感じのする家庭を訪ねるのです。すると、どこの家庭でも、おじさんの訪問を大歓迎するのでした。

 オエス村で一番大きな農家は、オエス家です。この農家が村の名にちなんで、オエス家と名乗るようになったのか、反対に、オエス家があるから、オエス村と名がついたのかは、誰もはっきり知りません。いずれにせよ、オエス家は、村きっての分限者であり有力者であります。それもそのはずで、この大きな農家には素晴らしい家族が住んでいるのです。そしてうち中が力を合わせて勤勉に土地を耕し、豊かな収穫をあげて来ているのです。オエス家はすでに四代目になっているので、クリスマスになって親類・縁者が集まると、すっかり白髪になった曽祖父(ひいじい)さん、曽祖母さんから、眼をくるくるさせ頬っぺたの林檎色の曽孫(ひいまご)達に至るまで、四世代を、それぞれに代表しているのでした。とりわけオエス家を村中の関心の的としているのは、ただこの家がどの農家よりも裕福だからというだけではないのです。それは、この家の娘たちが、代々、村中でも目立って可愛らしく、また気質もよいということにもよるのです。だからオエス家の娘さんと結婚するということは、村中で大きな名誉となっているのです。

 こうした訳で、姉たちはそれぞれ懇望されて仕合せに他家にとついで行ったけれど、ただ一人、まだ未婚の娘が残っているのです。そしておそらく父親が生きているかぎり、結婚しないままでいることだろうと思われているのです。と言うのは、父親が、可愛いい末娘を、こともあろうに村中でも一番貧しい農家の小倅であるエリク青年の嫁にやるのに反対なことは、村中にわかっているからです。エリクがなかなか頼もしい青年であることは、村の人々も、オエス家の当主も認めているのです。しかし、家の格式がちがうからというのが、当主である父親の不同意の理由なのです。ところが、父親が一徹なれば、娘のケルシも親ゆずりの一徹なところがあるのです。あるとき、この話がオエス家の話題になったとき、彼女は顔を赫らめながらもはっきりと「わたしエリクと結婚できないなら、だれとも結婚しないから」と言い切ったのです。

(『クリスマスの贈り物』酒枝義旗訳1983年非売品90~92頁引用)

弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。(新約聖書 マタイ19・10~11)

(写真は湖東三山の一つ西明寺の麓の山野風景、滋賀県犬上郡甲良町横関付近。これは日本の村である。ここにも分限者、名望家を中心にした農村社会があったことであろう。田の畦道だけが知っている。)

2008年11月26日 (水)

スパッフォード家のエルサレム移住について

Dscn5467  昨日、讃美歌作者として紹介しましたスパッフォードのことが気になって仕方がありません。そこで、今日は彼がシカゴを離れイスラエルに移住したいきさつ、その折に考えていたことをご一緒に眺めて見たいと思います。

 スパッフォードは子どもたちを失い財産も失い目茶目茶になった家を立て直そうとします。その結果五年後には娘バーシャが与えられ、さらに二年して待望の男の子が生まれます。ホレイシヨ・ジュニアーの誕生です。ところがこの息子も流行の猩紅熱に感染し、四歳であえなくも亡くなってしまいます。スパッフォード家には不幸がつきまとっているように見えました。

 教会の中に口さがないうわさがかけめぐります。「神様があんなふうに次から次へ不幸に会わせなさるにはきっとスパッフォード家は何かをしたんだわ」スパッフォードはついに自分が築き上げるのにあんなに助力を与えてきた教会を立ち去ります。スパッフォードの友だちも一緒に教会を離れ、彼らはともに慰めを求め、聖地エルサレムへの神の導きを決心したのです。

 「主よいつまでですか」というのがホレイシオ・スパッフォードが「夜明けを待ち望みます」と銘打ったうすいパンフレットで書きとめた十二の詩の中の一つですが、それらの詩の中に海難事故後のスパッフォードの霊的な歩みを知ることが出来ます。彼はもはや財産もこの世で成功することも彼にとって重要でなくなっていました。このパンフレットの見出しのところで彼は自らを「主が来られるのは近いということを信ずる二十の理由」の著者であると言い、詩の中でこのことを繰り返し述べています。

 ホレイシオ・スパッフォードの1882年8月の日記があります。それは彼がシカゴを離れエルサレムに向かってちょうど一年経って書かれたものです。そこで彼は自分は「キリストにあって神の力と恵みに全面的に」頼ると自らの献身を書きとめています。また彼は書いています。「主よ、私は今日までいつも肉にあるものに縛られてきました。私はこの肉を自己愛と欲望とともに十字架につけます。これからは天の御国のために自分は何も出来ないことを認めて生きます。キリストにある神様の力と恵みにとことん頼ります。私があわれみの奇跡そのものです。ああ、神様あなたはいつも私とともにおられてどんなに忍耐してこられたことでしょうか」

 このようなスパッフォードの霊の戦いは十四歳年下の妻アンナにはどのように受けとめられていたでしょうか。エルサレムから親戚に書いた手紙に―悲劇の末失ったものの余燼に悩まされ、聖地における再出発という家族の霊的な闘いを振り返り―次のように書いています。「私たちはこの古い家(引用者注:自我という家?)をいつまで維持するのでしょうか。イスラエルにはそのような場所はありません。ここでこの働きは始められ維持されました。すべての戦いは自分とのまた罪との戦いでした。(築き上げられた)石という石が勝利と強さを語っています。ここでホレイシオは生き、死にました。しかし彼は私たちに模範として彼の強い精神を残してくれました。」

 この彼女のことばは、ほぼあのチェンバーズ夫人ビッディーが突然の夫オズワルドの死を経験し残していることばと同じです。(下にその折の聖書のみことばを掲げた)このような信仰を遺産として残すものは何と幸せなことかと思わずにはおれません。さてこのような彼らが築いたアメリカン・コロニーとは一体どのようなものであったか、それはまた別の機会に考えて見たいと思います。

彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(新約聖書 ヘブル11・4)

(今日の箇所はいずれもhttp://www.loc.gov/exhibits/americancolony/amcolony-home.htmlを参考にしてあります。なお今日の写真はフレグランス フアンタジーという花だそうです。これも知人にいただいた珍しい花です。何度も写真を撮りましたが、写真映りが悪いというか、なかなか撮影のむつかしい花でした。)

2008年11月25日 (火)

一つの賛美歌の誕生の舞台裏

Dscn5446  35、6年前、私は教会で一人の良き信仰の先輩を亡くした。中学校を出てすぐ家具製造職人として働いていた人だった。当時私は足利に住んでいて電車で時間をかけて春日部の教会まで通っていた。帰りが遅くなり電車がなくなると、彼が気前良く車に乗せて私の家まで送ってくれた。気さくでどんな人も愛する人であった。その彼が癌で亡くなったのであった。葬儀の席上で彼の愛唱歌(聖歌476番賛美歌520番)を歌った。

 安けさが 川のごとくに心を浸すとき
 悲しみが 波のごとくにわが胸を満たすとき
 道がいかなるときにても なんじは教えて言わしむ
 安し 安し 心安しと

 まだ、主を信じていてもイエス様のよみがえりを心の底で受け入れていなかった私にとって彼の死は悲しみの方が多かったように思う。爾来この歌を歌うたびに35、6年前の彼の葬儀を思い出す。ところが昨日ある本を読んでいたらこの歌の出典が書いてあった。それで少しインターネットで調べてみた。

 この歌詞の作者はH.G.スパッフォード(1828-1888)である。彼はシカゴの裕福な実業家であり、十四歳年下の奥様との間に四人の女の子が与えられ何不自由もない幸せな生活を送っていた。その彼が二つの衝撃的な出来事に遭遇したことがきっかけでこの歌詞は生まれたと言う。

 先ず第一は1871年にシカゴの大火に見舞われ、彼が投資していた不動産が全部灰燼に帰したできごとである。それから2年して彼は奥様の健康を気遣い、一家でヨーロッパへ休暇に出かけようと計画を立てた。汽船で大西洋を横断してパリへと行く予定だった。ところがいざ出発となって彼の仕事が入り、奥様とお子さんが先に行くことになった。

 惨事はその大西洋航路で起きてしまった。これが第二の出来事だ。イギリスの帆船が奥様お子さん方を乗せていた「ル・アーブル市号」というその汽船に衝突し乗客は冷たい海に投げ出され、226人の人々が犠牲になったのだ。その中に彼の子どもたち全部がふくまれていた。奇跡的に奥様は救い出される。9日間後に別のイギリス貨物船でカージフに上陸した彼女は夫に打電する。「ヒトリスクワレタ」。

 報せを受けてスパッフォードは妻を迎えに大西洋航路に乗り込む。船長より海難の場所を通過する際に説明を受け、深さ3マイルの深海を見つめる。悲しみが海の波のように彼の心を流したのだ。しかしその時、彼の心には先ほどの歌詞が天啓のごとくわきあがってきたと言う。(くわしくはhttp://www.loc.gov/exhibits/americancolony/amcolony-home.htmlを見られると良い。そのサイトには奥様の打たれた電文、彼の用いた聖書などがネットで見られる。)

 「昔、ペット殺され」。昨日の東京新聞の朝刊の見出しであった。34年前の出来事が今もトラウマのように彼の心を縛り、信じられないような殺害がなされた。スタッフォードにとって二つの大きなトラウマがあった。そのトラウマがトラウマとならなかったのは

 道がいかなるときにても なんじは教えて言わしむ
 安し 安し 心安しと

言われる、「なんじ」であるイエス様に対する信頼であった。娘たちは深海にいるのではない。彼らとまた天の御国で再会できると彼は思い定めていた。彼はその後与えられた長男をまたしても病気で幼くして失う。波乱万丈、しかし彼の主への思いは尽きなかったようだ。後年イスラエルに移住しアメリカ・コロニーを創設し、エルサレムで亡くなる。(なおこの讃美歌を作曲した方もその後列車事故で亡くなる。不思議な作品ではある。)

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(新約聖書 ピリピ4・11)

(写真はいただいたデルフィニウムの花をコップに生けて)

 

 

2008年10月15日 (水)

フリードリヒ大王の統治とわが日本

Dscn5069  日曜日のブログで『バッハの思い出』の本を紹介したが、その折、私はフリードリヒ大王とバッハとの関係を直感的に日本の天皇と臣下に比定して述べた。それはバッハを宮殿に招き、ピアノフォルテの演奏を聞いたフリードリヒ大王が大変感動し、遁走曲(フーガ)を所望したとき、曲を献上するために書き上げた奏上文(日付は1747年7月7日であるが)の日本語訳を読んだ時の私の感想であった。

 しかし、実は内心では論理の飛躍があるのではないかと思っていた。何せ片一方は18世紀プロイセンでのことであり、片や日本の天皇制は19世紀以来のことであるからである。ところがたまたま昨日、『二十世紀を見抜いた男(マックス・ヴェーバー物語)』(長部日出雄著新潮社2000年)を別の目的で、読んでいたら、次の様なことが書き記されていた。

 軍人王と呼ばれた国粋主義者の父は、それ(引用者注:フランス人の女性家庭教師に言葉と文字を教えられたこと)を嫌って、武官によるスパルタ式の軍人教育をほどこそうとしたが、反撥したフリードリヒは、ますますフランスの文学に読み耽り、フルートを吹いて時の経つのを忘れる少年に育った。(同書116頁)

 この軟弱とも思えるフリードリヒが父王亡き後、シュレジエンの領有権を争ってオーストリアとの戦火を二度にわたって交え、勝利をプロイセンにもたらす。ためにプロイセンはヨーロッパ列強の一国としての地位を確立する。このような彼の功績は対外戦争の勝利だけでなく、内政面での業績である「プロイセン国法典」の編纂をはじめ、農業、商工業の振興に努め、人口、軍隊が共に即位の間に倍増したことにもうかがえる。それゆえフリードリヒ二世は特に「大王」と言われるということだ。そのことを述べた後、長部氏は更に次のように叙述していた。

 「君主は国家第一の従僕」と信じ、朝から晩まで十時間ずつ働きつづけたフリードリヒは自分としては人民のために全身全霊を捧げているつもりであったのだろう。だが富国強兵のために、税金をきびしく取り立てられ、いくら働いても自分たちの暮らしはいっこうに楽にならない国民のほうに、そう考えるひとは少なかったようだ。フリードリヒが世を去ったとき(引用者注:1786年)、ベルリンの街で悲嘆の表情や態度を見せた者は、ほとんどいなかった、と伝えられている。それから、約百年後・・・。森林太郎(引用者注:森鴎外)より二年前にベルリンに来て、フリードリヒ大王の偉大さをつぶさに教えられ、深甚なる感銘を受けた日本人がいた。わが国の憲法を起草するため、欧州憲法の調査にやって来た伊藤博文である。到着から三箇月後、かれは故国の要人に宛てた書状のなかでこの点に関し、おおよそ次のように伝えた。・・・この国の有名な学識者たちは、小生が尋ねて談ずるたび、異口同音にこう忠告する。日本がアジアの陋習(ろうしゅう)を脱して、欧州文化の風に倣おうとするならば、よろしくわが国の先王フリードリッヒ大王の治術に学んで、国家百年の基礎を強固にする道を取るべきである。フランス革命の悪風が、欧州の人心を泥酔せしめて今日の現状に陥らせたるを認識せずして、それを善政良治となし、かえって国民に不幸を来たすがごとき下策を取ってはならない。・・・・(同書120頁)

 そして、このようなプロイセンに範を取ったわが国の天皇制がどのように成立したかを、次のように語る。

 天皇以外の人たちがやったことが、天皇の名において、絶対化される。わが国の歴史に前例がなく、世界に類例のない「絶対天皇制」がここに生まれた。枢密院の憲法第一審議会議第二読会で、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と井上毅が第三条を読み上げたとき、議場は粛然と静まりかえり、議長伊藤博文の、
 ―本件については各位において意見なきを認む。ゆえに原案につき表決を取らん。
との声に、列座の枢密顧問官が間髪を容れず一斉に起立し、原案は全員一致で可決された。
 日本の後年の運命は、ある意味でこの瞬間に決したのである。(同書151頁)

 となると私の杞憂は杞憂に過ぎず、かなり的を得ていたことになるのではないだろうか。もともと山下肇氏の逝去を通して、『きけわだつみの声(日本戦没学生の手記)』を振り返り、あわせて同氏訳の『バッハの思い出』の存在を思い出し、読み進めるうちに抱いた感想であった。

 一方福田総理の突然の辞任、さらには中山大臣の失言を機にわが国の政治家のあり方を考えさせられてきた。この際マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』を読む必要を覚えていた。そのこともあって手にした長部氏の著作であったが、その中に以上のようなことが記されていた。単なる僥倖であろうか、一瞬不思議な思いにさせられたのである。

わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を制定する。わたしによって、支配者たちは支配する。高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ。(旧約聖書 箴言8・15~16)

(写真はフリードリッヒ大王とバッハである。言うまでもなく、左がバッハであろう。)

2008年10月 4日 (土)

高円寺と古本屋さんの「本」

Dscn4972  今週初めて高円寺へ降り立った。家内は高円寺そのものは知らないまでも、「ねじめ正一」さんを通してこの界隈が話題になったことを知っていた。それに反して、うかつにも私はこれまで知らなかった。「純情通り」はすでに20年前から全国へ発信されている町だったのだ。

 古本店で掘り出し物を見つけ気を好くし、さらに欲深く他にも店がないか、二人してうろちょろしていたら、道の遠くの方から親切にも「何を捜しているの」と声をかけられた。そして別の通りにもあるよと教えてくださった。ついでにどこか公衆トイレがありませんかとお尋ねしたら、「家のを使って」と気さくに言われドギマギした。こんなふうな人間くささがこの町の特徴なのだろうか。

 ほんの一時間いたかいないの短時間で高円寺を理解できるわけではない。翌日、図書館で『高円寺古本酒場ものがたり』(狩野俊著 晶文社2008年8月発行)という本を見つけた。高円寺の魅力をこの人の本を通して文字でさらに確かめようと思った。著者はねじめ何とかさんという有名人とちがって私にとっては全く未知の人であった。写真を見ると若い方だ。でも、読んでみれば何かがわかるのでないか、と半分期待しつつ借りて読むことにした。もとより「酒場ものがたり」という点は大いに引っかかったのであるが・・・。

 全体は大きく五つに分かれていて、最初は店長日記である。2006年7月から2008年今年の5月までにパソコンに打ち込まれた折々の日記だ。自分はこの時期何をしていたかあわせて考えながら読むことが出来た。商売する上での喜怒哀楽が綴られている。商売人の方は大いに共鳴されるところであろう。そのような中で狩野さん(著者)の口から「吉田健一」の話が出て来たり、ドイツ軍が第二次世界大戦でソビエトの地図を作ってしまうという『ドイツ・ソビエト大戦史』の話が紹介されると一体この人はどういう人なんだろうかと思ってしまう。

 「吉田健一」は言うまでもなく、今を時めく麻生総理の伯父である。私は彼が小林秀雄と同世代の優れた評論家であることを耳学問で知り、彼の英国に関するエッセーを読みたいと思いながらも、未だに果たせていない。それなのに狩野さんはもうすべてがわかっているかのようにこの人物を何かと引き出してくる。狩野さんは1972年生まれで次男と同じ年令である。ある時などは戦前の佐分利公使変死事件の極めて生資料に近いものを落札するのだから、若年にして、その慧眼には驚かされる。様々なことを知らなければ古本稼業は勤まらない。

 私はこの前の高円寺の古本屋で買物をした時、店主の品揃えがわかるものだと生意気にも言ったが、この本を読むと古書店主はそれぞれ単に利益を目的とするだけでなく、本が好きなゆえにコツコツと苦労して本を集めておられることがわかった。もし古書店主が何気なく捨てられる本の価値を知らなければ過去の名著は消えてゆく一方であろう。

 他の四つの作品は最初の作品のように折々にパソコンに打ち込んできた文章と違い、一つの主張でもって貫かれている。たとえば、「退職金も貯金もなかったが、ただ熱い思いだけがあった」(1998年春・国立で)「この店から何かを発信しようと思った」(2000年秋・高円寺に)「『あんたは若い。後悔するなよ』。棟梁のその言葉は忘れられない」(2004年冬・高円寺あづま通り)と3つのテーマが続く。

 この中で、3つ目のテーマの「棟梁」と言われている方はシルバー人材センターの元大工さんのことである。工賃も安くして貰い、次々ネットで安く購入した古材で室内が彼の設計図面どおりに作られて行く様は見事だ。材料費は工務店発注の予算の30分の1の5万円に押えるのに成功し、店主である彼も一緒になって店内の内装を完成してゆくところなどハードとしての古本稼業の一面を知る。労働と創意工夫の尊さが伝わってくる。

 最後は中央線・古本屋の人と題して二人の人物からの聞き書きが紹介されている。二人は彼にとっては父親の世代の人だ。と言うことは私と同世代である。二人とも存在感のある中々の人物だ。「近代の自由というのは、他者のリスクをとらないことで自由になろうとしていたじゃない。そうじゃないんだよ。そういう意味ではものすごい面倒なことの中にこそ自由があるっていうことでもあるんだ」と一人の言を書き留める。著者が先輩からこのような言を引き出すところにもこの業界での彼の位置がわかるというものだ。

 古本業界にも様々な人間関係の軋轢があるであろう。しかしそういう中で狩野さんが多くのお客さんや仲間の店主に囲まれて傷つきながらも懸命に今の「古本酒場コクテイル」にいたり生き延びて来た。本の中で聖書からとして一箇所引用されていた。「叩くと門は開き、求めれば与えられる」と。

 最後に気になったことを付け足す。それは本の中の誤字である。恐らくパソコンで打ち込まれた原稿がそのまま使われているのであろう。このブログも同じ危険性があるから人のことは云えぬが、敢えて書いておく。「以外」と使うべきところが「意外」になっていたり、「啓示」と使うべきところが「啓司」となっていた。その他、二三送り仮名など抜けて意味が通じない箇所があった。今の本作りにはそのような陥穽があるのだろうか、考えさせられた。

 今度、高円寺に降りる時は何時になるかわからないが、前回よりも知識を得て降りることだろう。西部古書会館なるものもこの本を通して知ったのでのぞいて見たいと思っている。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(新約聖書 マタイ7・7~8)

(写真は自宅の庭のバラの木にいた雨蛙。遠くから見ていたのではわからない。実に巧みな防護色だ。)

2008年9月15日 (月)

『特別企画 ありがとう!チャンピイ~日本初の盲導犬誕生物語~』を見終えて

Dscn4821  「盲導犬チャンピイ」を見た。と言っても、当日親しい友の洗礼が9時から行われ、出席していたので、前半部分は見られず、家へ帰って見たのは10時過ぎからの後半部分に過ぎない。二時間という制約された条件の中で真実を伝えなければならないテレビドラマの大変さも理解しているつもりだが、あえて以下の事実は書き留めておきたい。

 少し気がかりになったのは、塩屋氏のチャンピイに対する訓練を河相さんが「虐待だ」と言って猛烈に抗議する場面だ。塩屋氏と河相さんの間には尊い信頼関係があり、同時にチャンピイに対する互いの愛情があった。河相さんは内に烈しいものを秘めている方であり、それでいてどんな人も温かく包む包容力があるお方である。若いときはそれがもっともっと外にじかに出ていたのではないかとも思う。けれども「虐待云々」は事実に即していないのではないかと思った。

 それに対して最後のチャンピイの死の場面は事実とは違う。あの場面は全くの創作である。と言うのは、チャンピイが他の獰猛な犬に食いつかれ、大変な傷を負ったが復讐せず、河相さんを無事自宅まで連れ帰ったのは彦根での出来事を指していると思われるからである。しかしそれが原因で死んだのではない。むしろその時は奥様の玲子さんが気丈にテキパキと処置され一週間ほどして癒されるのである。むしろ、盲導犬を持つ家の妻がどんなに内助の功を示されているかを感じさせるさわやかなできごとである。(『ぼくは盲導犬チャンピイ』”くやしい体験”230頁以降による)

 逆にチャンピイの最後の場面について著者の文章を書き写しておく。

この本(『ぼくは盲導犬チャンピイ』のこと)の初校が、もう一両日もすれば刷りあがろうとしていたころのことであります。そのほうの用件もあって、わたしは夏の休暇を利用し、一週間ほどの予定で家族ともども上京しておりました。チャンピイはといえば、長期間上京するときは、わたしどもに同行するのが常でありましたが、今回は、わずか一週間という短い旅行であったため、浜松の知りあいの獣医さんにおあずけしておいたのです。ところがなんということでしょうか。八月二十二日の夜、チャンピイ急死の訃報がまいこんできたのでした。とっさのあいだ、わたしは自分の耳を疑いました。齢すでに十二歳、かなり老いが目だってきているとは思いましたが、夏になっても食欲はおとろえず、元気にしていたチャンピイであります。まさか、こんなにも早く死をむかえようとは、まったく予想だにしなかったことでした。しかし、死因が老衰と聞くと、例年にないこの夏の暑さが、高齢であるチャンピイの肉体に、予測しがたい疲労を与えていたのでありましょう。そのことにじゅうぶんな配慮をはらわず・・・

と、まだまだ文章は続き、著者の痛恨極まりない思いが書き連ねられる。著者のそれ以後も続く三代にわたる盲導犬との生活の中で、愛する犬の生と死を見つめて来られた一匹一匹に対する(いや一人一人と言い変えたほうが良いだろうか)変わらぬ愛を示されたもの、また今も示されているものと同じである。

 実は放映の日、河相さんご夫妻を菅平の山荘まで家族で行く予定であった。河相さんに先客があり、前日にわかに電話したこともあり実現しなかったが、そのおり電話口で玲子さんが「どんなドラマになるかハラハラします。主人の二冊の本がもとになっているのですからね」と言われていた。

 このブログを始めた頃、私は滋賀県立盲学校の跡地付近の図書館でパスカルの本を読み進めていた。散歩道は、まさしく50年前河相さんがチャンピイに導かれ歩かれた彦根城下お堀伝いの道そのものであった。そのとき私はこのブログで是非河相さんのご本を紹介したいと思い立った。そしてそのことをお知らせし、特に洌さんの写真を載せることについては許可を求めた。河相さんは快く承諾してくださった。

 それからしばらくして、河相さんを通して二ヶ月ほどあとの九月にこのドラマがフジテレビで放映されることを知ったのである。そのおり洌さんはメールで「何分ドラマですから・・・・どうかと思いますが、お気持ちがありましたらご覧下さい。」と言われていた。

 今、洌さん玲子さんはこの作品を見てどう思っておられるのだろうか。何か聞くのが怖いような思いでいる。けれどもこのドラマを通して少しでも盲人の人たちに生きる力が与えられ、また逆に健康でいる人たちがどのように障害ある人たちを受け入れてゆくかを少しでも考え実践してくれる機会になるなら、これほど嬉しいことはないと思われているのではないか。

 このようにドラマは事実には即してはいない面もあるが、塩屋さんの息子さんである少年と盲目の少女の出会いをフィクションとして設定しながら私たちに、これからの未来を二人の人間性に託しているようにも思える。このようなテレビドラマが、人の願いとして殺伐とした日本社会に送られたことに敬意を表す。

 昔クラーク博士は札幌農学校を去る際に「少年よ大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス)」と言われた。そしてこれが日本中に流布されて様々な階層に夢、希望を与えた。けれどもこのアンビシャスには実は「キリストにあって(IN CHRIST)」が同時に言われていたことを人々は無視した。私は人間のヒューマンな気持ちを鼓舞するこの作品を見ながら、一方でそのことも考えざるを得なかった。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。(新約聖書 ピリピ2・13~14)

(写真は昨日御代田で見た「やまぼうし」の実)

2008年9月11日 (木)

『特別企画 ありがとう!チャンピイ~日本初の盲導犬誕生物語~』の放映にちなんで

Dscn4797  かつてこのブログで『僕は盲導犬チャンピイ』の作品を紹介させていただいた。昨年はそのチャンピイ誕生50年にあたり、それにふさわしい行事が行われたようだ。一年遅れではあるが、今週の土曜日13日にフジテレビがその内容をドラマ化して夜9時から二時間もので放送することがわかった。

 フィクションとして再構成されたものであるとしても、チャンピイ誕生にかかわった塩屋賢一氏や最初の飼い主河相洌氏を抜きにドラマは成り立たない。私は直接河相氏を存じ上げているから、どのように描かれるか今から気がかりだ。

 そこで今日は前回コラムで触れ得なかったことを二つほど記しておきたい。それは著者の失明にまつわるエピソードである。前途有為の学生であった著者が勤労奉仕がたたり、眼に怪我を負い、失明の恐れが出て来た。やむを得ず、当時在籍しておられた慶応大学を中退し、治療に専念されるようになる。しかしついに完全に失明された。絶望の中で著者は生きる道を求めて復学を願い出られた。

 しかし大学側は必ずしもこの申し出をすんなり受け入れなかったようだ。「ここは盲人の来る学校ではない。ほかへ行ったらよいのではないか」と著者に面と向かって言われた教授の方も中にはおられたようだ。そのよう中でかの高名な詩人でもあった西脇順三郎氏(当時の文学部長)は復学を至極当然として認められたと言う。その他哲学科や史学科の教授方は著者の復学のために奔走され、最終的に大学はゴーサインを出されたということだ。

 授業の聴講に当たっては著者の学友である人々(その中には多田真鋤氏もおられる)が陰に陽に援助を申し出られたということだ。実際的にも精神的にも。そのような中で更に盲導犬チャンピイとの出会いが始まる。恐らくドラマの中心はここであろう。

 しかし、それに前後するのだろうが、著者のフィアンセとの出会いがある。
 お二人の出会いは戦時中にさかのぼる。御父君の仕事の関係で中国満州旅順に住まわれかつ親戚同士として行き来がおありであった。もちろん著者が失明されるはるか前のことである。少年、少女として仲良く遊びまわった間柄であろう。

 しかし戦争の惨禍は良家の子女にも有無を言わせず手を伸ばした。少女は敗戦後ソ連軍に追われて大連から引き上げざるを得なかった。その時、シスターの献身的な行為を見聞きし、神への信仰へと導かれていた。10数年後にお二人は再会し、互いにレコードを聞きクラシック音楽を楽しむ時を過ごされたと言う。すでに著者は失明し、彼女の姿形はそれこそセピア色の家族の中でともに撮られた一枚の写真の像に過ぎなかったのだが。

 そのようなある日、少女のお父さんから「娘が修道院に入りたいという思いを持っているが何とか撤回するように説得してくれないだろうか」という重大な依頼を受ける。と同時に著者自身は将来の伴侶として成人した少女を思い始めていたときだ。著者は苦慮に苦慮を重ねてプロポーズする。しかし帰ってきたことばは沈黙の後「もうここへは伺えません」ということばであった。それから少女の著者への訪問はピタッとやんでしまった。

 それから一年ほど経ち著者のところに彼女は突然来訪する。そして言われる、

「私何うしていいか、解らなかったのです。考えに考えました。それでも答えが得られなかったのです。ですから祈りました。何度も祈りました。そうしたら何時しか答えが与えられたのです。私、もう迷いません。ご一緒に生きていきます」
 意外な彼女の告白に、瞬間私は返す言葉を持ちませんでした。併し感動が全身を包み「有難う」と一言云うと、どちらかともなく、互いにしっかり手を取り合っていました。
(『花の雨』河相洌著139頁~140頁から引用)

 そして、フィアンセとともに卒業後最初の任地彦根の滋賀県立盲学校へ赴任されるのです。新居は六畳一間の茅屋で、持参されたのは真空管のラジオ一台。ラジオから流れる音楽番組に田舎の彦根で唯一文化の香りをかげたのでしょうか。バッハの「無伴奏チェロ組曲」などを聞いておられたそうです。フィアンセが結婚を決意してくれたその日のことを振り返り、河相さんは

 汝が胸に高鳴るバッハ花の雨

と詠んでおられます。

 著者は戦争の惨禍の中で傷を受けられ、一人の盲人となられました。けれどもフィアンセを通して、すべてに勝る、確かな主イエス様の愛を体験なさり、具体的には不思議な導きで日本の盲導犬使用の第一号となられ、奥様の内助の功のもと、多くの盲人の方々の教育に専心されたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ人への手紙8・28)

(写真は孫の保育園の敬老の集いに参加して東京・神田川沿いに見かけた「アメリカ芙蓉」の花。)

2008年9月 3日 (水)

つりばな

Dscn4572  こんな素晴らしい花、また、こんな魅力的な花についての文章があるのだろうか。今日は例の画文集「花の声」(8月6日ブログで紹介)110頁から引用させていただく。
 
 とまれ、とくと村田ユリさんの文章をご鑑賞あれ。絵は残念ながら著作権を尊重しコピーしなかった。(私が御代田で八月二十五日に撮った写真でがまんしてください)

 

 こんな小さい可憐な花がどうして、こんな実に変身するのだろう。枝先が垂れ下がるほど玉をつけると、やがてそれが五つに割れ、輝いた朱色の種が現れる。小鳥たちは、この種が大好物である。同類のまゆみや錦木などとともに、秋の紅葉の主役達だが、実の美しいことではこのつりばなが一番である。

 ところが、この木は、種をとって播いてみても、なかなか発芽してくれない。知り合いのお百姓は、次のような秘密を教えてくれた。

 「鳥の腹をとおってくれば、一ぺんに生えるんだ。錦木もそうだ。おんこの実もそうだ。他のものに食を与えながら、自らも栄えてゆくんだ」と。

 人間がなかなか真似のできないことである。

                       九月五日    御代田

神がなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(旧約聖書 伝道者の書3・11)

2008年8月25日 (月)

ルコウソウ

Dscn4565 牧野富太郎博士と言えば往年の日本人で知らぬ人はいないのではないか。今の少年たちがどの程度なじんでいるか不案内で知らない。しかし、そういう私自身も小学校の段階で卒業してしまい、中学、高校へと進むにつれて、牧野博士から離れ、湯川秀樹博士へと憧れの対象が変わってしまった。

 今振り返ってみると、それだけ短慮であったと思うし、科学技術万能で理工系拡充教育をかかげた時代の潮流に流されていたに過ぎないと思う。アメリカがソ連に宇宙開発競争で先を越されたスプートニック・ショックは大きく、それが高度成長経済へ向かおうとしていた日本にも、何らか側面からの影響を与えていたに違いない。そして今や温暖化現象を初めとして人間の自然との交流のあり方が問われるご時勢になった。

 爾来、物理学も大切だが、生物学・農学が大切だと知るようになったが、当時はまさかこんなにも大切な学問であるとは想像もしなかった。ましてや生意気盛りの少年で無知であった私は牧野博士の植物分類収集からすっかり遠ざかってしまっていた。

 一木一草がどんなに不思議な存在であるかは、主イエス・キリストを知り、その上、この年になってやっと気づいたという状態である。今日も家内に二三日滞在した御代田での朝の散歩途中、様々な野草の名前を教えて貰った。家内は小さい頃から小学校の理科教師であった父親からだけでなく、母親からも草花の名前を教えて貰い育っただけあって実によく知っているので驚かされる。

 その家内の伝によるとこの写真の花は「ちょうせんあさがお」ということであった。しかし、もう一つ自信はなかったようである。早速春日部に帰って二人で『原色牧野植物大図鑑』を調べてみたら、果たせるかな、やはり「ちょうせんあさがお」でなく「ルコウソウ」であった。(この正続の大冊は先年遠縁に当たるR子さんから譲っていただいたものであるし、実はこの前紹介した『花の声』もR子さんが花の好きな家内にと最近七月に譲って下さった本であった。)

その牧野博士の文章を以下に転載させていただく。

 

熱帯アメリカ原産。古くから観賞用として栽培されているつる性の一年草。茎は長く左巻きで他物にまつわる。葉は互生して柄があり、羽状に裂け、裂片は糸状。花は夏、葉えきに花柄を出し、赤い花を一個ずつ開き、まれに白花もある。和名縷紅草、留紅草。俗に細葉ルコウソウともいう。漢名蔦蘿松。種小名は羽状の意で葉をいう。

 写真を御覧いただくと、この牧野博士の説明は改めて簡にして要を得たものであることがおわかりいただけると思う。

 昨日も某テレビ番組で川の源流を探る旅がルポされていた。多摩川や北上川を下流から源流へとさかのぼるのがその番組の味噌であったが、それも究極には一滴から始まっていることに私たちは深く驚かされる。と同時にその一滴こそ創造主なる神様の上からのプレゼントであることを改めて思わされた。

 牧野博士も植物を通して創造の秘密に何時も心を開いておられたのでないだろうか。それがいつまでもお若くあった博士の少年のような心でなかったか。創造主を無視した自然開発はありえぬ。様々な草花を愛しいつくしむ者でありたい。旧約聖書からイスラエルの王ソロモン王の故事を引く。

神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。・・・彼は三千の箴言を語り、彼の歌は一千五首もあった。彼はレバノンの杉の木から、石垣に至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。(一列王記4・29~34)

2008年8月 2日 (土)

ヒヨドリのねぐら

Dscn4383 何日か前、ヒヨドリが巣を作った話を書いた。その後、寄り付かないような話も書いた。ところが、どっこい、毎日二羽は用心しながら日参しているようだ。鳴き声でそれとわかる。私より妻が熱心に観察している。妻の伝によると、これから卵を産むんではないかと言う。何分間か一羽が座りに来るらしい。
 私が見に行こうとすると「気をつけてね(刺激しないでね)」と言う。その妻が双眼鏡で見ればよいと勧めてくれた。家には確かに双眼鏡があり、彦根の家からわざわざ春日部まで持ち込んでいる。妻は気が利くし、良く覚えている。私はとっくに忘れているのに。

 旧日本陸軍の双眼鏡である。砲兵中尉であった父が戦地から持ち帰ったものだ。性能が良い。久しぶりに覗いて見た。ピントの合わせ方が旨く行かない。そのうち、レンズ面がひどく汚れているのに気がついた。手入れが良くなかったのであろう。残念だ。もっともそれまで一度も気づかなかったレンズ面に十字をなして目盛が記してあるのにはびっくりした。目盛面は敵軍への射程距離など微妙に知るものだろうか。中支が父の派遣された戦場であった。

 今、それでもってヒヨドリの営巣振りを観察したらと言うのである。妻の助言は愉快である。そんなものより肉眼で見たほうが早いのに。案の定ピントの合わせ方、下から覗き込むので不自由だ。ダビデじゃないが、こんなものは邪魔になってしょうがない。エエイッ、接近して見るに如くはない!

 くちばしが見えた。まだまだ巣籠もりは続きそうだ。一二日外出するのでまた静かな環境で二羽が仲良く思う存分巣作りに励んでくれるのを期待したい。

神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。( 新約聖書 ルカの福音書 13・18~19 )

(写真はヒヨドリの巣のある木のこずえを二階窓から見たもの、猫の額ほどの庭の一角)

2008年7月30日 (水)

鳥のことども

Dscn4355  昨日、お知らせしたばかりのヒヨドリは残念ながら巣を残したまま、寄りつかなくなりました。やむを得ず、その巣の状態をカメラに収めました。至近距離に近づくと、このように巣であるとわかりますが、遠目には繁茂する葉の繁みに隠れてわかりにくいです。しかし、いかにも上手な巣作りですね。ほとんどビニールなどの端や木切れなどをせっせと運んだものと思われます。回りの木と旨く溶け合っていることに感心します。この木は春先に一番早く黄色い花を咲かせてくれる山茱萸(さんしゅゆ)の木です。「庭のさんしゅゆのーオーオオ・・・」と調子ぱっずれに父がお正月などお客さんを招いて酒に酔っていい気分で歌っていたことなどを思い出します。

Dscn4358 ところがこちらはうれしい姿ではありませんか。十九日ごろにご紹介した鴨が何と古利根川の手の届くところに一人でいました。十日ほど前には川の真ん中にいて中々キャッチできず、左岸に近づいたのをあわてて撮影したものでした。ところが昨日は一人で散策していたのですが、右岸を家路へと急いでいた時に何の気なしに下を覗くと例の鴨君がこれまた一人で歩いているではありませんか、嬉しくなりました。思わず近寄って4、5枚撮ったのですが、流石に最後は泳いで逃げて行き、画面も揺れまして、残念ながらお見せする代物ではありませんでした。

 実はこのブログを始めた最初にご紹介したあの水鳥を捜し求めているのです。その後一度は見つけたのですが、やはり川の中央にいて撮影は不可能でした。それ以後出会えないのです。その後、新聞などで、その水鳥の名前は「カイツブリ」で、何と滋賀県の県鳥であることを知りました。滋賀県出身者としてはお恥ずかしい限りでした。

 昔、少年時代、「話の泉」というラジオ番組がありました。渡辺紳一郎さんなどが出ておられて、次々様々なことが話題になる番組で、知的好奇心を大いにそそられたものです。新聞も四面しかなく、いわゆる三面記事が文字通り通じていた時代です。そのような時代、私にとって「話の泉」で話される話題は音声を通してではありましたが、多くの夢を与えてくれました。そのちょっと前、小学校の恩師である教頭先生が卒業記念に「浩さんは大きくなったら、科学者になりますか、それとも画家になりますか」と寄せ書きしてくださいました。このもったいないほどのありがたい言葉はどれほど今も私を支えてくれる言葉となっていることでしょうか。

 田舎の少年に夢と知識を与えるものが自然や大人や放送や新聞の役割でした。今日、肥大化した産業社会の中で多くの少年が夢を持ち続けてくれるようにと願わずにはおれません。今しも、この原稿を書いているとき、ヒヨドリのさえずる鳴き声が聞こえてきました。巣を諦めきれないのでしょうか、そうであって欲しいと思うのは私の勝手な願いでしょうか。

神は言われる。終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。( 新約聖書 使徒の働き 2・17 )

2008年7月28日 (月)

ブログ雑感

Dscn432330  五日間ほど、春日部を離れた。ブログの生活を続けられると思い込んで、パソコンを持参した。御代田から無線ランで簡単に投稿できるという話だった。ところが、いざ無線ランで送信する段になって、パスワードなど必須事項を忘却している始末で頓挫した。

 その後、それらを手帳に控えていたのを思い出した。翌日また中継点である佐久のマクドナルドまで娘の車で走ってもらった。今度は接続はするが、肝心のブログが開けずじまいであった。ここにも再びパスワード以下が必要で、これも思い出すことが出来なかった。

 付き合ってくれた子供たちは辟易したと思う。要するに基本的なことがこのボケ老人なっていないのだ。そこで今度は娘の携帯を借りて投稿した。やっとの思いで投稿したのが先週金曜日の「御代田より」であった。

 携帯の投稿は案外に手間取った。何しろ森が見えないのだ。脈絡なく単発的に言葉を発しなければならない感じだったからである。携帯とパソコンでは随分勝手が違う。今の若者は平気でそれをクリアーできるのだろうが。ただよく聞くネットによる犯罪は携帯が主流と思う。この「単発的なフィーリング」で言葉を打ち込んで行くところが、その原因ではないのだろうか。使ってみて何となくわかった。

 さて、こちらに帰ってきたら、再び家人からブログに関して注意があった。「お父さん、ブログは永久に残るのだからね、その辺を注意しないと駄目だよ。世の中には様々な見方でブログに近づく人がいるんだから」とパリから先日帰国したばかりの息子の意見だ。息子は私にとってネットの神様みたいな存在だ。その彼の託宣だ。

 前回の「自己顕示欲云々」に続いて第二回目のアッパーカットであった。一瞬たじろがざるを得なかった。しかし次の瞬間、この「泉あるところ」の聖句を思い出した。

いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(旧約聖書 詩篇36・9)

 私が死んでも永久に残るというブログ、今後より一層プライバシーには気をつけるが主イエス様を覚えて続けて行こうと思う。今朝読んだ詩篇に次の聖句があった。

誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。(旧約聖書 詩篇4・5)

 永遠の時って何なのだろう。主の御目の前に立つことこそ永遠の時ではなかろうか。

 私の手許にある母の手帳、母が死んでも今も健在なことに驚く。今連載している『恩寵の生涯』は大正6年の本だ。母と同期だが、母の肉体がないのに、こちらの紙は古びているが存在している。けれどもいつかはなくなって行くことだろう。

 ところで息子の言によれば、ブログはこの紙より永久ということになる。そんなものに言葉を連ねている。しかし永遠から永遠にいますイエス様こそ永遠なお方である。このお方を恐れ、このお方を証するのがこのブログの使命である。妻の言うように「始めた限り最後までやり遂げなさい」ということだろう。

 未だに妻はこのブログの内容は知らない。先ごろもう一人の息子から励ましのメールが届いた。読んでくれているようだ。感謝である。お読みくださっている皆様も、時にはコメントを下さるとうれしい。

(写真は御代田の別荘地の一角に咲いていた桔梗の花)

2008年7月25日 (金)

御代田から

 今回、パソコンを持ち込み無線ランを利用し、簡単にブログに投稿できるものと思っていましたが、ネット配信がうまく行きませんでした。幸い次男次女が一緒で様々に試みてくれましたが、現在の所、駄目です。
 でも、おかげで、より一層ネットに馴染めました。若者文化に老人が辛うじて首の皮一枚でつながった思いです。 マクドナルドや主要駅ならサービスで無線ランが適用できることを知りました。
 火曜夜からこちらに滞在しています。様々な原稿を予定していましたが、取り敢えず携帯からご挨拶を申し上げました。

2008年7月 2日 (水)

「埋木舎」前のお堀

Dscn4181

先月、一週間ほど、彦根に帰りました。そのとき図書館に日参して、『パンセ』を読み続けました。読み疲れると彦根城を散策しました。この写真はその折、「埋木舎」(井伊直弼が藩主になる前に過ごした屋敷)前のお堀で撮影したものです。本当は二羽いるのですが、どうしても一緒に撮らせてくれないので、ややさびしい画面になってしまいました。

お堀の波の様子がご覧いただけるでしょうか。実は半世紀ほど前、私の在籍していた高校に中村直勝氏(日本史家)が講演に来られて、「君たちは、毎朝お堀を見て通ってくるが、このお堀がなぜ波立たないのか、知っているか。天下でこのようなお堀を持つのは、彦根城と江戸城だけだ。」と講壇上から豪い剣幕で言われたことを思い出します。

後年、中村直勝著作集を見ましたら、ちょうど時期的に同じころ、その趣旨の論考があるのを発見しました。ともに確か作事奉行が藤堂高虎であったことが書かれていました。それは敵方が波が立つと波間に身を隠して本丸に突入するのを想定して、いち早く見破れるように、お堀は特別な曲率を持って仕上げられているということでした。

実はこれはほぼ400年前の日本人の「知恵」でした。ところで『パンセ』は350年ほど前の作品です。ここにも「知恵」が表現されています。それらの知恵の根底にずっと前から明らかにされていた「知恵」があります。ご一緒にその知恵をこの「話の泉」コーナーで求めてゆきますれば幸いです。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 (新約聖書 ヨハネの福音書14・6)

2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

最近のトラックバック