引越しのお知らせ
長い間、おつきあいくださりありがとうございました。
今回、私自身のネット環境の変更に伴い、下記サイトに移動しつつあります。
もしよろしければそちらの方を覗いていただけませんでしょうか。
内容は全く同じものです。ブログ名は一応「泉あるところⅡ」としました。
http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/
長い間、おつきあいくださりありがとうございました。
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「若者よ書を捨てて街へ出よう」とは寺山修司の名言だと聞く。一体彼がどういう意味でこのことばを吐いたかは知らない。しかし書を読み頭でっかちになりそうになるとき、このことばが頭を掠める。これに対して次のような読書についての文章を最近眼にした。これなどは「晴耕雨読」という良き時代に生きた人の言であろう。畔上賢造氏が大正5年に書いた「農村伝道者の生活」中の「読書」よりの抜粋である。
「(前略)かつてカーライル先生は、その名著『サアタ・レザアタス』において以下の如く曰うた。
人類過去の産物は三つある。第一は都市である。第二は耕地である。そして第三は書籍である。第三は最後に発明せられたもので、他の二を凌駕する。真なる書の価値は、げに驚異すべきである。年々毀破(やぶ)れ年々修繕(つくろ)わねばならぬ石造の都市とは違う。それがもし耕地に似ていると言えば、霊的の耕地である。それは霊的の樹木として永久に立っている。年ごとに新しい葉がうまれる。
真の書を著すものよ、汝もまた征服者である。勝利者である。悪魔に勝つなれば真正の勝利者である。汝は大理石や金属よりも永く生くる者を建てたのである。愚か者よ、何故に汝はエジプトの金字塔(ピラミッド)などを観るためにはるばると出かけてゆくのか。彼らは過去三千年間、馬鹿顔(ばかづら)をして、何もせずにぼんやり沙漠を見下ろしている奴等ではないか。汝は汝のヘブル聖書を、或はルウテルのその翻訳を、開くことは出来ぬのか
と。然り、思想の黄金は道行く人の前後左右に転がっている。然るに、道に横たわる銀貨銅貨を拾うに忙しき今の人は、かの黄金を顧みない。真理の花はいと美しく室内に咲いている。しかるに、疲れし脚をひきずりつつ花を追うて狂い廻る現世人(このよのひと)は、手近の花を忘れている。その読むものは日々の新聞紙である。教科書である。娯楽雑誌である。低級なる小説である。
その語るところは、いともいとも小さきその日その日の出来事である。隣人のうわさである。天候に対する不平である。昨夜の地震の話である。外国語を解する者といえども、概ね片々たる俗悪文学を楽しみて、俗語難句の知識を誇る位のものである。
我等は倭人国(こびとじま)に住んでいるのではなかろうか。かくても我等は世界の一等国民と誇称するのであろうか。イザヤの大預言も知らず、イエスの大精神にも接せずして、また東洋の産としてほとんど自国の産の如く誇る孔孟の真精神をも読み得ずして、それでも皇国の民と誇るのであろうか。ああ救い難きは文字なき民ではない、文字あるもこれを善用し得ざる民である。死せるカーライルをして、また死せるトロウをして、なおその預言の鞭を絶たざらしむる民は、決して幸なる民ではない。
土を耕し野を歩みて天然と交わるは、我が生活の第一である。紙を展べて想いを綴るは、我が生活の第二である。良書に真理を探るは、我が生活の第三である。これに口をもってする伝道を加えて、農村伝道者の生活の様式は完備する。(後略)」
(『畔上賢造著作集』第7巻昭和15年刊行29頁所収)
ひるがえって私たちに読書生活はあるのか。聖書は箴言をして次のように言わしめている。
時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。(旧約聖書 箴言25・11)
(写真は一昨日義母の見舞いの帰りに眼にした近江電車線路際の畑の中に見えた柿の木。「渋柿の 実りみつめて 納屋ひとり」「近江路に 名残惜しきか 渋柿よ」)
先日伊豆へ行くおり車中でお会いした98歳の方に、その後お写真に添え、福音の書かれている小冊子をお送りした。早速元気なお声で御礼のお電話を下さった。その際に手紙も出したいと言われていた。翌日その通りFAXで以下のお便りをいただいた。
お便りありがとう。あの日は短時間の交流だったが、楽しかった。喜んでおります。お茶とおすしありがとう。最初から『イエス様の福音を受けて下さい』の熱心なお誘いと理解しました。
私はこの方がはっきり「福音」と書いてくださっていることに感謝した。なぜなら私たちが伝えたかったのはイエス様の福音であり、この98歳のご高齢の方がそのことをはっきり理解してくださっていたからだ。この方はその後次のような文章を書き連ねてくださった。
家内は○○○○学院で在学中すでに(洗礼を)受けております。私どもは1990年に金婚式を終えて19年経過しております。私はローマのバチカン宮殿もフランスのノートルダム寺院も尋ねております。またいろいろな宗教から熱烈なお誘いを受けておりますが、独自な心境で今日まで生きて来ました。今後もその心境で生きます。〔そっとして置いて下さい〕これが私の結論です
そっとしておいてください、と言われたことには気が滅入った。この方がお会いした時も電話でお話した時も大変喜んでおられたから意外な思いがしたからである。でも、今はお歳もお歳だけに、そっとしておいてください、という意味だったんだと思う。
ただ一方よく考えて見ると、この方が言わんとされることは私はすでにキリスト教というものを知っていますという意味なのだろう。あとでわかったことだが、この方は教養もあり、社会的にも活躍なさった方だ。だからこそ海外にまで足を伸ばされてその場所に行かれたのだと思う。
ムーディーはある本の中でイエス様が言われた「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(ヨハネ3・3)」ということばを引用しながら、「私は生まれ変わっているだろうか。私は私たちのいのちである神の賜物を受けているだろうか。」と真剣に問うて欲しいと言っている。「もしまだ受けていないとしたら、あなたは絶対に神の国を見ないという真理をあなたの肝に銘じなさい。あなたはこの世の王国を見るかもしれませんが、神の国を見ることは決してないのです」と断言し、その具体例の一つとして「あなたは大西洋を横断してロンドンへ行き、英国皇太子を見、オランダ女王に会い、そのほか他の国々に行けるかもしれません。しかし平和の君(イエス・キリスト)を見ることは絶対にないのです。」と言っている。
人生経験豊富で100年近い寿命を誇っておられ、たまたま電車で偶然お会いし親しく交わらせていただいた○○さんがこの上は心を主イエス様に向けられるように祈るばかりだ。
この方はその後さらに7項目をあげ後進の者に役立てようと、ご自分の長寿を保つ秘訣を書いてくださった。ちなみにそれらは次のようであった。
①自分の悪しき過去を反省し、腹の立つことや不愉快なことを全部忘れると平穏で幸福な心境で生きられます。②長寿とは、健康で平均寿命以上の方としましょう。おれももう年だと考えないで自己の志に全力注ぐと、老後も悔いのない満足となります。③健康も、成功も、生き甲斐も、その人の心掛け次第と思います。④心掛けとは、自己の最高の理想を構築し、言葉と態度と表情が、最善最良となるように意識することを意味します。⑤自己の夢に照らし、過去も現在も満足ならば幸福な人と考えましょう⑥他人の長所を称賛すれば、自他共に満足となり、他人の欠点ばかり目に付く人は最も不幸な人と確信します。⑦われわれの明日からの仕事は、誇り高い人格完成としましょう。
もう一度書き写して見てこの方が長い人生の中で心豊かな生き方を求めておられるお方であることが改めてわかった。ただ7項目はどれを見ても魅力的だが一つとして自らの力で達成できるものでないことも確かではないだろうか。
しかし改めて聖書を思うときに、これら一つ一つが私たちが自分を空しくして主イエス様を心に受け入れ信じ新生のいのちをいただけばすべて御霊の実としていただけることを思う。神様が愚かな罪を犯すしかない人間を遇されることについての素晴らしい約束の言葉がある。最後にそのみことばを記しておく。
わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(旧約聖書 イザヤ43・25)
主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。(詩篇103・14)
(写真の花はやはりFさんのお庭で拝見したもの。こんなに可憐な花があるのだろうか。この花一つだに人は造れない。)
一週間という日にちはあっという間に過ぎてしまう。もう今日は週末だ。週初がシルバーウイークの真っ只中であったことなど忘れてしまっている。その週初の月曜日に知人三人のご婦人方、それに私たち夫婦の五人で伊豆高原に出かけた。男性は私一人であった。
それぞれ各人には共通の目的があった。伊豆高原で初めて「喜びの集い」が持たれたので、それに参加するためであった。もっとも私たち夫婦はこのところ外出しがちで出費もかさんでいるし、行くかどうかは最後まで大変迷っていた。ところが伊豆高原には永年交友関係があり、いつも覚えているご夫妻が二組おられる。どうしても会いたかった。すべての思い煩いを押し切って参加することにした。
一行のうち、このように遠出するのは実に久しぶりという方もおられ、集合した大宮駅では年甲斐もなく、遠足に出かける小学生並みのちょっとした興奮と騒ぎようがあった。ところが車内は混雑していて最初から立つ羽目になった。優先席の前で五人は荷物を抱えながら立ち続け、それでも互いに車内の会話を楽しんだ。目の前の優先席にはぐったり疲れて眼を閉じている方と二人の高校生と思われる女の子がこれまたピーチクパーチクと話していた。
月曜日は「敬老の日」だった。かつて高校教師であった私は立ちながら、目の前の女の子の振る舞いを見なければならなかった。彼らは自分たちのことで夢中で、一向に座席を譲りそうになかった。そのうち池袋あたりであったろうか、眼を閉じていた方が急に立ち上がり席を譲ってくださった。年恰好はほぼ私たちと同じように思えたが、疲れたように見えた方が席を譲ってくださったのだ。この時をきっかけに女子生徒の心中にも少しずつ変化が生まれたらしい、人目をはばからず化粧に勤しむような彼らがそわそわし、見る見るうちに私たちに席をゆずり、新宿で降りて行った。やっと五人のうち三人は席に着くことができた。
その内に最初席を譲ってくださった年配の方は群馬県の沼田から横浜に帰られるご婦人であることがわかった。親切なご婦人はその後私たちに代わり、立ったままであった。すべての機会を作ってくださったご婦人に感謝しながらもいつの間にか互いに親しくなり、会話が弾み始めた。ご婦人が横浜駅を降りられる時は、「アレー、わたし全部(わたしのこと)話してしまったわ。これがわたしの一生よ。」と言われるくらいの濃密な車内での語らいとなった。私たちはその方との話に夢中になり、ついお名前も聞かずじまいだった。
横浜を過ぎるころからは大分車内は空いてき、五人全員が優先席に座れ、相向かい会う優先席には私たち以外には一人のご老人を残すのみになった。五人で今別れたばかりのご婦人との不思議な出会いのことを話していた。18切符で単独で旅をする時はあっても集団で行動するのは久しぶりであった。車内の他の方に迷惑にならないか私はハラハラしていた。
その内にお菓子の回しが始まった。旅の楽しみの一つである。そのお菓子を自分たちだけでは申訳ないと思ったのだろう、同行の一人の方が隣席にいるご老人にお薦めしたが、その方は遠慮された。ところがさらにしつこく薦められ、とうとうその方もそのお菓子を口に運ばれ、「こんなおいしいものははじめて食べました」と言われるので、さらにもうひとついかがですか、と薦める羽目になったが、その方はそれ以上は固辞された。そして「あなたがたは楽しそうですね」と言われ、「わたしも弥次喜多道中の仲間に加えてください」と言われるまでになった。
お歳を聞いてみると何と98歳ということであった。これには一同びっくりさせられた。どう見てもそうは思えないからだ。余りにもその方のお顔が整っているので、私が「ハンサムですね」と申上げたら聞こえなかったのか、反応が返ってこなかった。一行の一人の方が「ハンサムって言ってもわからないのじゃない(年寄りだから)、男前と言った方がよい」と言ったので、皆して「男前ですね」と申上げた。するとそのご老人はすかさず「そうだったとしたら、あなたがたはみんな美人ですね。その上、一人の男の子を連れて。」と言われた。一人の男の子とは言うまでもなく私だ。このまさかの返答にはみなびっくりし、互いに爆笑し、いっぺんに心が豊かにされた。
私たちは先のご婦人のことはすっかり忘れたかのように、今度はこのご高齢の方と横浜から何と目的地の伊豆高原までご一緒することになったのである。私たちがイエス様を紹介するまでもなく、会話から察知されたのだろう。その方は「あなたがたはイエスさん(を信仰する人)なのですね」と言われるまでになった。
車中この方の百年足らずの人生の来し方と今の世界に対する警告を聞かせられた。青年のころは法曹界を目指されたが、その後経営の世界に身を置かれたことがお話をうかがうちにわかってきた。この方自身が私たち一行との同行を楽しまれ、一時は「喜びの集い」までお供しますと言われるほどの親密ぶりとなった。誰の付き添いにも頼られず、杖一本で熱海での伊東線への乗り換えも無事に済ませられる一挙手一投足にはただびっくりさせられるばかりであった。
結局伊豆高原で降りられず、そのまま下田まで行かれ、帰りはバスで下田から伊東まで出られ、再び電車で横浜の老人ホームまでその日のうちに帰られるということであった。今度はその方が名刺を下さったので私たち五人ははっきりお名前を知り、伊豆高原駅では車内と車外に別れ、窓越しに「○○さんお元気で」と別れを惜しんだのであった。
昨晩いつも持たせていただいている祈り会で次のみことばに出会った。祈り会の前に聖書一章をともに輪読するからである。
こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。・・・モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(旧約聖書 申命記34・5、7)
私はあのエネルギッシュなご高齢の方とモーセを重ね合わせずにはおられなかった。でもこの高齢の方はイエス様をお知りになっていない、また最初お会いしたご婦人の方も同じである。すべての人を救うためにイエス様は十字架にかかられ死から三日後によみがえられた。この福音を何としても知っていただきたいと思う。沢山のお金を使って、と最初は惜しむ心のあった私たちであったが、すべてを支配し給う主なる神様はそれぞれにご計画を備えて下さっていた。
これが平成版「東海道中膝栗毛」の仔細であった。まさしく旅は主がともにおられる道連れであった。主は今日も「失われた人」を捜し求めておられる。
(写真は伊豆高原・大室山ふもとから見た相模灘。あいにく曇っていた。)
9月の初め、義母の見舞いの帰りに、写真の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)を見た。その瞬間、胸がキューンと締めつけられる思いがした。見渡す限り緑の雑草の中にただ一輪ひっそりと道端に赤く咲いていた彼岸花(別名)。その姿は、Aさんが春ごろに言っていたことばをそのまま訴えるかのようだったからである。「僕は秋に咲き誇る曼珠沙華が好きなのだが、果たしてそれまで生きられているのだろうか」。
道端に 曼珠沙華 わが友よ
病む友の 悲願答えたり 彼岸花
義母への見舞いは先週の金曜日、土曜日も滋賀に帰り、今夏は何度もお見舞いできた。ところがAさんのお見舞いは近くにいながら、こちらの都合と面会日が土曜日と限られていたのでほぼ二ヶ月の夏の間、途絶えてしまっていて、毎日気になっていた。 滋賀から手紙を出し、非礼を詫びた。早速、御礼のメールが私の携帯に入って、今日お訪ねしても良いことになった。
どれだけ弱っておられるだろうか内心不安だったが、私の思っていたよりは元気に見えた。ただご本人がおっしゃるのには、病魔はこの二ヶ月の間にさらに進行し、ここ二三日は痛みが増しているということだった。ベットに寝たままの彼と小一時間ほど語り合った。もはや二人で鳩山新政権の誕生を云々することはなかった。単刀直入、今患っている「死に至る病」に対してどのように向き合って行けばよいか、こもごも語り合った。
彼は、「この自分の病気は『運命』だと言っていいのかな」、と幾分私の顔色をうかがうかのように言った。私は「いや、運命と言うより、主のご計画のうちにあるよ」と答え、「死は人生の終わりじゃないよ、この人生は短いよ、死んでから後の永遠の世界が、Aさんの前には開けているよ」と言った。彼はそうだなと頷いた。
彼は、毎日、聖書と私が6月初めプレゼントした『神の聖なる戒め』(ゴットホルド・ベック著)などを少しずつ読んでいると言い、今自分は聖書を知らずに犯してきた67年の罪を懺悔しているのだという意味のことを言った。そしてヨハネの福音書の冒頭の数節が根本だと思うと私に読み聞かせ、この「ことば」があるのに、自分は「口は災いの元」を地で行っていた、これまでこの口でどれだけ多くの人の心を短刀で人を刺す如く傷つけ殺してきたかわからない、それを悔い改めているのだ、とも言った。私はこの彼の言を聞き、私自身が、自分の心の中に抱いている醜い思い、人に対するねたみや憎しみから、どのようにして解放されるに到ったかを次のみことばを通して証した。
だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7・37~38)
彼は大急ぎでこの聖書の箇所にしおりを挟んでもう一度自分で味わってみると言った。最後は互いに祈りあって別れた。私は自由に祈るのだが、彼は集会に出席したことがない。だから祈り方もわからない。いつの間にか自分で毎日祈るのであろう。文章を書いては読んで祈りに代えているようだった。しかしその最後のことばは次の聖書のことばであった。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)この一言(イエス様の約束)を信じている彼を知り、心は喜びに満たされた。
祈りあい 曼珠沙華 頬染めて
病む友 御名に励まされ 彼岸花
一方今日のお土産として持参した日めくりのみことばカレンダーを彼のベットの前につるしたところ、今日はちょうど16日でその箇所は
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16・31)
であった。今は、病床にある彼ただ一人の信仰だが、奥様もお嬢様も救いのご計画にあることをこのみことばは示している。
卒業以来、これまで6回お会いした先輩がいる。お会いした回数まで正確に思い出すことが出来る。最初が京都での結婚式に参列していただいた時である。その後、20年以上経過し、先輩が愛知から郷里の広島にもどられたことを知り、同地で「喜びの集い」が始まった機会に、先輩の家をお訪ねしたことがあった。その時は奥様にもお会いし、駅前でおいしいお好み焼きをご馳走になった。程ならずしてゼミの同窓生の集まりがあり、先輩も出席されたが、人も多く個人的にお話は出来なかった。
ところが、この三年間、定期的にこの9月の第一週の土曜日・日曜日に会うことにしている。この時期に広島喜びの集いが行なわれ、先輩を招待しているからである。年に一回しか会わないが、先輩との間に深いきずなが生まれつつあるように思った。実は今回は出かける前不安であった。ほぼ一年間便りもなく、メールに対する返事もなかったからである。ひょっとして・・・、という不安があった。先週の木曜日、直前だったが思い切って電話をしたら意外に元気だった。今回も参加してくれるという返事だった。有難かった。
早速金曜日の早朝こちらを発ち、滋賀の郷里に着き、義母の見舞いをすませその足で生家で一泊し、翌日広島に出かけた。かくて二日がかりの広島行きとなった。青春18切符を利用しての旅だから仕方がない。電車の連絡はあらかじめ調べてあるが、相生から岡山まで立ちっ放しになった。これにはいささか参った。いつも苦にしていなかった旅だが年齢の衰えかなと思わされた。幸い岡山以降は再び座れ、ゆっくり車窓の風景を鑑賞できた。左に瀬戸内海、右に中国山地を見ながらの旅は落ち着いた風土で東海道線沿線とはどこかちがう。各所の田んぼに白鷺がそれぞれ漫歩しているのも散見できた。心配している稲の作柄も中国地方に関するかぎり無事であるように見えた。
最終の最寄の駅は白市であった。バスで会場に行き、先輩と再会できた。午後の集会に二人して参加した。座る場所はいつも最後列だが皆さんの様子が見えて傍観者を自認する先輩のスタンスとして最もふさわしい場所なのだろう。会場で夕食をともにし、しばしくつろいだ。すでに会場に着き4時間余り経ったが、ベックさんの姿はなぜか見かけなかった。
ところが不意にベックご夫妻が姿を現わされ、私たちの目の前に近づいて来られた。「また来たね」とはベックさんの歓迎の挨拶であった。先輩も負けてはいない。「彼の顔を立てるため、義理です。義理(で来ているの)です。」と言う。ベックさんは「礼儀正しい男だね、(それは立派だ)」と切りかえされた。これには先輩も私も脱帽。一挙に笑いにつつまれることになった。
そのうちベックさんが私に向かい「今晩、話すること聞いている?」と言われた。こちらに着いてそのことは聞いていた。先輩にもそのことを話し、せめて私の話が終わるまで集会にいて欲しい旨伝えてあった。その折、先輩は「お前がエラいから発表するんだろう」と言っていたので、その話をベックさんにそのままぶっつけた。ベックさんは先輩に言った。「あなたは、今日死んでも天国に行く、という確信を持っているの?彼はその確信を持っている、それだけのちがいだよ」と言われた。私は先輩にも聞いていただくような話ができるか不安だったが、ベックさんのこの一言で、自分の用意している話の中にそのこと(天国云々)がないことを示され、ますますこれは大変なことになったわいと思い知らされた。一瞬の風塵のようにして別の方々との交わりのために立ち去られたベックさんとの立ち話であった。先輩は「今年は馬鹿に(ベックさん)元気だね」と言った。三年越しに見てきたベックさんに対する今年の評価だった。
翌日の日曜日の礼拝・福音集会の後、こちらにもどるため大急ぎで会場を後にした。12時半の電車に乗って、家にたどり着いたのは夜の11時半であった。京都まで青春18切符、以降はひかりに乗っての帰還であった。あわただしく終わった広島行き。ふりかえって一人の先輩と卒業後こうして福音をもとに真の交流ができる不思議さを思う。
実は先輩とは大学時代同じゼミにいたとは言え、苦学生であった先輩はほとんど出席せず、互いの存在を知り合う程度であった。結婚式に招待したと言ったが、それとても先輩が私の親友に彼が結婚する時は俺にも知らせろと言っていたことに基づいたものであった。年賀状のやり取りはしていたが、先輩は結婚式に出席したことも忘れていた。当の私も確信が持てなかった。ただ一枚の集合写真に先輩が写っていた。先輩も私も否定できなかった。そういう薄い間柄に過ぎない私たちだが、ともに前期高齢者の今、主イエス様にあって愛する友としての関係を持ちつつあるのである。
ちなみに当日私が話させていただいた題名は「キリストの弟子」であった。先輩は私の話が終わると静かに会場から姿を消していた。その折の引用聖句を書かせていただく。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(新約聖書 ヨハネ15・16)
(写真は昨日に引き続く写真。先週近江線沿線で義母のお見舞いの帰りに、見かけた烏瓜の実。)
「衣食足りて、礼節を知る」とは、当時高校生であった私を諭すために叔父が発した言葉であった。叔父は旧制の高商出身だったが、様々な苦労を経て昔取った杵柄(きねづか)を生かして独立しようとしていた時期であったように記憶する。親身のこもった助言であった。しかし生意気盛りの私がそのことばを一蹴したのは「爾来幾星霜」で書いたとおりである。
念願かなわず、事志に反して「経済学」を学ばざるを得なかった私はその衣食足る道を学ぶ学徒となった。もともと自然科学を学びたいという思いは自己の内側を見るよりも自然の摂理に感歎する日々を送りたいと言う思いと、死しても残るもの、物質の究極の世界をつかみたいという思いであった、と思う。
しかし私に与えられた学問は社会科学であった。実生活の中では自らのうちにあるどす黒い情念と一方では清い生き方を求め悩みに悩んでいたのだが・・・。友人を介してシュバイツアーなどの本や自ら捜し求めてシモーヌ・ド・ボーヴォワールの本などを読んでいたが、ある時一人の先輩から「君は偉人ばかりに熱心になっているが、世には名もない庶民がいる、そういう庶民の生き方をよくしようとしないで、何が理想か」と言われた。
それもそうだと思った。そのうちフォイエルバッハの「キリスト教の本質」という分厚い本を大学図書館で見つけ、読み始めた。題に惹かれたのだろう。船山信一さんの訳のように記憶するのだが、その前の別の方の訳だったようにも思う、翻訳文は名文であった。とくにキリスト教という宗教がいかに人間理性などの倒錯した姿をうちに宿しているかが完膚なきまでに明らかにされていた。キリスト教というものを外面的に少し知っていた、それもほんの少ししか知らない私のほのかなキリスト教への憧れを打ち砕くものだった。翻訳文中にある「理性の寿ぐ勝利・・」などということばに身と心は踊った。夕闇迫る図書館の中で本の世界にいつまでも没頭していたい思いだった。限りない人間性礼賛・人間肯定の作品だった。
その後このヘーゲル左派でなしに再度フォイエルバッハをひっくり返したマルクスそのものを読まねばならないことを知った。そうして手にしたマルクスの初期草稿に「経済学は欲望の体系である」とあった。この何気ないことばは自己のうちに渦巻く肉欲で悩んでいた私に、そんなことで悩む必要はない、というさらに欲望を肯定する快い響きとなった。本当はそうでなく、自己のうちに棲みつく罪と徹底して戦わなければならなかったはずなのに・・・。
後年聖書を通して最初の殺人者カインが次のように神様から言われたことばを知る。
「・・・あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4・7)
私自身自らのうちに罪を治める力はなかった。すなわち礼節を知るひとかけらの力もないことを知らされた。今日もそのことは変わらない。しかしその私の罪のために十字架上で罰を受け死んでくださった主イエス様を信じて、私は礼節を知る喜びを与えられた。
今から半世紀前ほどに叔父からいただいた冒頭のことばはわが青春の入り口で聞かされた言葉だった。当時この礼節の道を諭されてから、それを知るに至るまで、すなわち母を亡くし継母を迎え、悪戦苦闘の歩みの中で主イエス様の救いにあずかるまで、さらに10年ほどかかった。今週の土曜日その叔父と郷里の滋賀で会うことになっている。昨年召された叔父の姉にあたる叔母の法事に参加するからである。
(写真は近江線沿線の野道の野葡萄)
私には親しい友人が何人も与えられている。高校時代の同級生のK君もその一人だ。彼とは一緒のクラスになったこともない。ことばを交わしたこともなかった。在学中に共通の友人がいてその友人を通してK君の存在を教えられていたに過ぎなかった。ところが二人とも受験に失敗して浪人生活に突入した。その頃急速に親しくなった。
同君は多情多感の中で内村鑑三やシュバイツァーの本を通してイエス・キリストを信ずるように変えられていった。その頃私はと言えばそのような精神生活の飢え渇きもなく、将来自然科学の徒とならんとひたすら夢を追うばかりだった。勉強が伴わず夢ばかり描こうとする浪人生活のつけは回ってきて二度目の受験にも失敗した。母はすでにいなく絶望のみの日々だった。そんな折、私と違いK君は晴れて大学生になったが、ハガキを通して孤独な私を励まし続けてくれた。彼の書いてくれたハガキには次のみことばが書かれていた。
あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(新約聖書 マタイの福音書6・34)
あすを思うと不安ばかりであった。しかしこのことばは私の大いなる慰めとなった。同君を想い出す時必ずこのみことばを思い出す。正直なK君はその後も自己の内側にある罪に煩悶した。公職を得てからも世の矛盾に悩んだ。とうとう自由業を選んだ。いつしか私もまた別の体験を通して罪の煩悶から主イエス様の救いにあずかった。
先週の土曜日、今は福井に住んでいるK君と福井駅頭で久しぶりに家内を交えて再会した。福井から金沢に行くまでの待ち時間を利用しての再会であった。元気だった。私が「石川・福井の喜びの集い」に参加するために立ち寄ったのだと説明すると、不機嫌そうに「君たちはカルトだからいやだ。会員数を増やすために奔走しているんじゃないか。」と言い切った。
悲しかった。彼は私の信仰が観念的だとも言った。もっと現実をよく見た方がよいとも言った。そう言えば、K君には二三年前家の土地の問題でも大変お世話になったのに、御礼をも十分せず仕舞だったことを思い出した。それだけでなくK君のために日ごろ祈っていなかった。家内も私もK君の誤解を払拭すべき方法も持ち合わせずそのまま別れざるを得なかった。
「石川・福井喜びの集い」は今年で7回目になり、全国からそれぞれ示されるまま自由に集まる。私もこの地にK君家族、また私にはじめて福音を伝えてくださったHさん家族が勝山におられるというので毎年来ている。K君とHさんはともに私とは大学は違うが、お二人はそれぞれ同じ大学の聖書研究会の先輩・後輩であった。
北陸の地には永平寺あり、また親鸞や蓮如上人の布教の地であり、日本の仏教王国のひとつでないだろうか。私はこの集いが会員数を増やすための集会であるとは一度も思ったことがない。7年間、金沢の地で一家族が主イエス様を頼りに生きて来られた。毎回その方が日曜日の礼拝の後の福音集会の中で司会をされる。毎回教えられる。「この一家族のことを覚えて、また石川・福井のことを覚えて集まってくださることを心から感謝します」と言われる。胸にジーンと来る瞬間だ。
ところが今年はちがった。一組の新しいご家族が転勤のため東京から来られ、新たに交わりに加えられましたと紹介されたのだ。何と春ごろ一度吉祥寺でお会いし御交わりを持ったご家族であった。嬉しかった。次いで司会の方が最後に言われたことばにはびっくりさせられた。「私たちはこのようにして金沢の地に新しい家族をお迎えすることができたことを感謝します。それだけでなく最近、東京にいる私の叔父家族がイエス様のところに導かれつつあります。お祈り下さい。」と言われ、名前を紹介された。
その方とは一週間ほど前、御代田の喜びの集いの昼食の席で初めて面識を得、お交わりを持たせていただいたばかりであった。金沢の地に来る前にその方にお撮りした写真を添えお手紙を差し上げたばかりだった。果たせるかな、日曜日の夜、こちらに戻って来たら、郵便受けにその方からの丁寧な御礼のお手紙が来ていた。ワープロで打たれた便りの終わりには○○○○と四文字でその方の自署があった。司会者の言われたお名前そのものであった。
これをしも人はカルトと言うのか。確かに二百数十人の人が集まってきて福音を聞くだけで喜ぶ集まりは主イエス様の救いの何たるかをお知りでない方には異常と映っても仕方がない。「喜びの集い」は実は「悩める者の集い」である。今日人は様々の問題で悩む。この悩みを主イエス様は決して見過しておられるのではない。絶えず、そのままで、すなわち悩みを持ったままで、私のところに来なさいと、招いていてくださっているのである。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(新約聖書 マタイの福音書11・28)
(写真は昨日に引き続いて金沢兼六園近くの街路。この建物は何だろう。見てくるのを忘れた。)
先週の金曜日、土曜・日曜と催される金沢での「喜びの集い」に出席する時を利用して、家内と一緒に再び郷里の滋賀に帰り、病院に義母を見舞った。この数ヶ月もはや義母から話しかけるということは一切なくなってしまったが、私たち二人が見舞いに来たことだけはわかっていてくれるようだ。元気な時には詩吟を歌っていた義母に喜んでもらえはしまいかと思い、賛美歌を二曲ほど二人して歌うことにした。ほんの少し、義母の心も落ち着き、耳を傾けてくれるように見えた。そのあとは以下のみことばを読んだ。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」
義母はこれらのみことばを静かに聞いてくれた。そして時にはうなずくような仕草を見せた。口から食べることの楽しみも奪われ、ただ座して死を待つしかない義母があわれでならないが、このように義母に見える目があり、聞く耳があることを心から主に感謝し、病室をあとにした。
病院の帰りは二人して自転車を走らせた。ちょうど新幹線と並行して走る近江電車沿いに野道がほぼ生家の近くまで続いているので、田舎道とは言え、私たちに取り重宝な道だ。この間は電車で二駅で、距離にしてほぼ3キロ程になる。義母のいのちのある限り、いつまで続けられるかわからないが、賛美とみことばを伝え続けようと互いに車上から励ましあった。
いのち得よ と主の御旨 うなずけり
野道の両側には様々な草花が咲いている。その内に家内がこの辺に野葡萄があったと言い出す。近づいてみると紫色に色づく野葡萄が金網に上手に枝をまきつけてひろがっていた。しばらく行くと今度はアケビがあった。まだ色づくまでには時間がかかるようだ。今度義母のところに来るときの楽しみに取って置こうと自分たちの秘密とばかりにアケビの実を金網の向こうに押しやる。そういう私たちの思いを知ってか知らずしてか新幹線が上方高くヒューっとばかり走り抜けて行った。
しばらく行くと今度は先行していた家内が「烏瓜(からすうり)」があると言う。案の定、青い実がのぞいてみえた。赤くなるまではこれまたまだしばらく時間がかかりそうだ。こうして歩行ならぬ自転車による道草を続けて、今度は犬上川沿いに下流方向に走り、中仙道に出て「無賃橋」のたもとまで来た。突然、家内が叫ぶ。「あれー、白鷺よ!」川原に10数匹の白鷺が見えた。川床には申し訳程度に細い流れが見えるに過ぎないのに。そこに魚でも泳いでいるのだろう。
摘み残し 野葡萄アケビ 秋迫る
犬上の 川床に鷺 たむろせり
郷里に帰り、二時間ほどの義母を見舞っての行き帰りだったが、心は大いに豊かにされた。思えば義母は64年前に一人の女の子を胎に宿した。その女の子は20歳の時主イエス様の救いにあずかった。その女の子の隣の町に生まれていた三歳上の男の子は長ずるに及んでその女の子と恋をした。そのうちにすでに他郷にあった男の子はその女の子からイエス様を紹介され主を信じた。ために男の子は両親を悩ませる結果になった。爾来幾星霜、当初福音を知らずして反対していた男の子の両親もそれぞれ今から 28年前、15年ほど前には、病を通してイエス様の永遠のいのちを信じ、故郷からまことの天の故郷・永遠の御国へと旅立って行った。男の子は今や故郷にただ一人になってしまった。私である。一方女の子が家内であるが、家内の父も先年亡くなり、今は病気療養中の義母を残すのみになったのだ。ために今年は足繁く関東から故郷へと帰ってくるのだ。
高校三年の夏、末期の胃癌に苦しむ実母の枕辺で、進路をめぐって母方の叔父を交え三者で話し合ったことがある。叔父は、私の学力や様々な事情(何としても現役で大学進学を果たし余命いくばくもない実母を喜ばせるべきだという)を斟酌して経済学部進学を強く勧めてくれた。にもかかわらず、私は生意気にも「人はパンだけで生きるのでない」と他学部進学を言い張り、叔父の親切心を蹴ってしまった。結果、実母は私が大学に入るのを見ずして亡くなってしまった。そして結局は叔父の助言どおり二年浪人しての経済学部進学になった。後に私が叔父への反論に用意したことばは正確には次の「ことば」だったことを知る。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(新約聖書 マタイの福音書4・4)
言うまでもなく、私はこの『 』内のことばを完全に知っていたわけでない。前半部分を何かの機会で知っていたのだろう。もちろんそれが全部聖書に記されている言葉だとは知らない。ましてやイエス様が飢えに瀕した時、悪魔から誘惑を受け、あなたが神だったらこの石をパンにしてみよと言われたときに応答されたことばだとは知らなかった。たとえ後半部分を知っていたとしても、当時科学の徒を目指していた私はそんな馬鹿なことがあるもんかと、これまた一蹴していたことだろう。
しかし今もって知る。人は確かにパンだけに生きるのでなく、神の口から出る一つ一つのみことばによるのだ、と。15年前に召された母は、実は私にとって実母の死後、後添えとして父に嫁して来た継母だったが、最晩年の病の中で主イエス様を受け入れた。その時、継母は義母にその主イエス様にあるいのちを伝えることができた。実は継母と義母は私たちが結婚するはるか以前にともに女学校で同級生であったのだ。
あれから15年、今その義母が最晩年期を病院で過している。一切口から食べることができない義母は、今日の医学の進歩により今不思議とその命を永らえている。私たち夫婦は、傍目には気の毒としか思えない義母が神の口から出る一つ一つのみことばを食べて、喜んで天の御国に凱旋できるように日々祈っている。
(写真は土曜・日曜に出くわした金沢の兼六園周辺の町並みの一角。これほど緑の豊富な町並みはない。その緑の樹陰の間に赤煉瓦の建物、歴史的建造物がのぞく。田舎道の農民にふさわしいのが私の「野道」であるとするなら、これはまた加賀百万石の「城下町」が身につけた風情であろうか。)
えみちゃん。6さいのたんじょうび、おめでとう。いちねんまえのこのブログに、5さいのときのえみちゃんのようすがかいてあった。それをみて、またこの1ねんのあいだにすっかり成長(せいちょう)したんだなとおもったよ。このまえあったとき、あうなり、えみちゃんが、「じいじとあうのはひさしぶりね」といったのにはびっくりしたよ。それから「としとったね」ともいったね。
こんかいは四日(よっか)ほどいたんだっけ。しょくじのたびにじいじがおいのりするときも、しずかにしていられるようになったね。それだけでなく、ばあばがいうには、いのりのおわりのときに「アーメン」というようになったそうだ。まえからきみちゃんが、「えみちゃんは日曜学校(にちようがっこう)のおはなしをしっかりきく」といっていたので、じいじもうれしかったよ。ばあばにいわせると、えみちゃんはしゅうちゅうできる子(こ)だそうだ。
このまえもパレットをつかっておえかきやそめあそびをして、たのしかったね。そのパレットのよごれを、かえるときにはきれいに水(みず)でぬぐってすみずみまできれいにしていたね。じぶんからすすんできれいにしたいとおもう心(こころ)はたいへんすばらしいよ。おとうさんおかあさんにプールにつれていってもらいおよげるようになったり、なしがりもして、たのしいなつやすみだったね。
じいじが、こんかい、えみちゃんからまなばされたことが一つある。それはいつのしょくじのときだったか、じいじがパパのちゅうがっこうのときのあまりよくないはなしをし、みんなもそれにのってきたとき、えみちゃんが「みんなそんなこといっていてたのしいの」といったことだ。じいじは一本(いっぽん)とられた、とおもった。むかしのことをいうより、これからのことをかんがえたほうがどれだけたいせつか、ということをいつもイエスさまからおそわっていたからだよ。
らいねんの4がつにはしょうがっこうにはいれるね。そうしたらじいじたちのように「聖書(せいしょ)」もじぶんでよめるようになるよ。ほんのだいすきなえみちゃんが、じぶんでせいしょがよめるように、じいじはこれからいのることにするよ。たんじょうびおめでとう。せいしょのことばをおくります。
だれでもキリストのうちにあるなら、そのひとはあたらしくつくられたものです。ふるいものはすぎさって、みよ、すべてがあたらしくなりました。(しんやくせいしょより)
(しゃしんは、このまえ、じいじが、きみちゃんのくるまでのせてもらって、ばあばといっしょにみてきた、たかみねこうげんのおはなばたけ)
先だって、長野県御代田から滋賀に帰るのに、長野新幹線・東海道新幹線を使わず、最初からしなの鉄道を利用し、篠ノ井で乗り換え、松本に出てから、延々と中央線(中央西線と言うらしい)で名古屋まで出るコースを採用した。最初のしなの鉄道では姥捨山近辺で電車がしばらく停車したかと思うと逆走し、びっくりさせられた。しかし車内の誰も騒がない。実にのんびりしている。逆走したのはどうやら電車が一駅飛ばしたためのようだ。その間を利用して写真を撮った。今日の写真がそれだ。日本三大絶景の駅付近である。画面上方を横切り、左方に姿を見せるのが千曲川である。残念ながら肝心の中央線そのものは台風接近とかで山なみは雲に覆われ景色は今一つだった。その後大垣経由米原に出、近江電車で郷里まで帰って来た。
郷里には4、5日滞在したし、長女家族とも合流し、疲れもたまっていたが、再び中央線経由で埼玉に帰って来た。往きと違い今度は快晴そのものだった。木曽川の流れを見るには絶好だったが逆に陽射しが強く、どの窓もシャッターが降りており、渓谷を見る願いはかなわなかった。その代わりたっぷりと反対側の中央アルプスの山々を見、久しぶりに緑陰を味わうことができた。塩尻を過ぎると中央線は中央東線と言うようだが、北に八ヶ岳を指呼の距離で見られた。いつも御代田からは南方遠くに見ていたが、逆方向から身近に仰ぎ見る感じであった。写真は撮らなかった。出発が遅かったので甲府盆地に差しかかるころはすでに暗闇迫り、景色も見られなくなってしまった。あとは車内で身を固めてひたすら我慢の子であった。家に戻ったのは10時半過ぎていただろう。
鈍行の旅、青春18切符を利用しての旅という趣味は実益を兼ねている。新幹線の五分の一以下の費用で往き来できるからである。こちらに戻り、例のKさんの手紙を転写する作業をしていたら、ちょうど八ヶ岳を眺望できる土地にいらっしゃった折の葉書に偶然とは言え出会った。以下がそれである。消印は1943年8月19日であった。ちょうど66年前の今日ということになる。二番目のお子さんの出産のために実家に戻られている奥様に出された葉書だ。
今日は初めて快晴、谷川での水汲場の階段を修理したり、水源の手入れをしたり、配給の油とお菓子をとりに行ったりして忙しかった。家主の処で遊んでいたら仔馬が飛びかかって来てビックリした。今日採って貰った蜂蜜でホットケーキを食べた。花の匂いが強いので驚いた。今時こんな豪華な食物を食べているのです。蜂蜜、帰りに分けて貰って帰る。小麦粉、缶に入れておけば、今年作ったものは来春迄大丈夫もつと云ふので少々頼んでおいた。葡萄酒のビン一本蜂蜜入れを貰うことにいたします。毎日遊んでは食べているので肥えて来た様に感ずる。八ヶ岳が初めて全貌を表わした。紫外線が強くて、戸外に永く居ると疲労する程です。明日は妹さんが帰るので皆で上諏訪まで遊びにゆくことに決定。テトス書を読んで下さい。二章四節五節。無理をせぬ様くれぐれも願ひます。堂しても無理になる様なら、いつでも帰るから。
短い文章に生活の内実がピタリと押えられている。このような立派なKさんのいのちを戦争は奪い、夫人は戦争未亡人として戦後苦労を味わわれることになる。さてテトス二章四節五節とはどんなことが書いてあるのだろうか。
そうすれば、彼女たち(年をとった婦人たち)は、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。(新約聖書 テトス2・4、5)
若きKさんにとって「神のことばがそしられることのないように」とは妻にどうしても伝えておきたかったことであろう。その後二年足らずの間に、K氏は戦死される。大黒柱を失ったKさん一家の戦後は悲惨そのものであった。しかし私は「神のことばがそしられるようなことのない」ご家族の60年後の姿を知っている。それは神が決してイエス様を信ずる者をはずかしめられることのないお方であることの何よりの証拠である。
このようなみことばという、しっかりとした信仰の土台(つねに私たちの罪を贖ってくださった十字架のイエス様を仰ぎ、罪から決別する)の上に立ち、生涯、神様に従順に従い、人を愛そうとしたKさんのことばは、たとえ葉書の中の短いことばとは言え、戦争を越えて今も私たちに語りかける。
八ヶ岳 仰(あお)ぎ認(したた)めし 文(ふみ)ありき
戦(いくさ)越え 語るみことば 衷(うち)を撃つ
このところ我が悩みは尽きない。それは自分の内側に主イエス様の前に砕かれることのない自分を見い出すからだ。この8月1日にキリスト集会が発刊した「主は生きておられる」16号の巻末メッセージに「聖書は何と言っていますか―信仰から離れた人に―」と題するベックさんのメッセージがあった。
その中に信仰から離れている者に対する原因が懇切丁寧に6つ記されていた。「1罪を完全に打ち砕いていたかどうか」「2イエス様に完全にささげていたか」「3この世と妥協していなかったか」「4イエス様をあかししたかどうか」「5みことばを飢え渇きの思いをもって求めたか」「6祈りの生活はどのようなものであったか」の6つの原因である。
私自身この6つのどれにも思い当たる節があるが、今回はその中で特に4番目が心にグサッと突き刺さった。短い文章だから労を厭わず写してみたい。
救われた者として、イエス様をあかししたでしょうか。あかししたとしても、そのあかしは、主がどのようなお方であり、何をしてくださったかを語るのではなく、自分の経歴や境遇、あるいは仕事の苦労、その成果を語るものであったとしたら、そこには光は射し込みません。大切なことは、自分ではなく主をあかしすることであり、主をあかしするところには光が射し込みます。そのようにして光のなかに置かれている信者は決して道を踏み外すことはありません。
「わたし(イエス様)を人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(新約聖書 マタイ10・32、33)
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10・10)
(『主は生きておられる』16号76頁より引用)
わずかこれだけの文章であるが、私のなかに奥深く潜んでいる、みことばよりも己を愛し求める思いが強い事実を思わされた。今は自分のうちにあるこの病根を根治していただけるように主に祈り求めたい思いで一杯だ。
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネ7・18)
先週は火曜日から日曜日まで関西にいた。その間、義母を見舞い、合間には友人にも会うことができたが、日曜日は近江八幡のTさん宅で持たれる礼拝に出た。一連の故郷での生活は一人身のことが多い。義母はすでに入院半年になる。良くなる兆しはない。私はそのような義母に永遠のいのちを確信してほしいと願っている。
金曜日から日曜日にかけては長野県の御代田で先週に引き続き今夏第二回目の二泊三日で喜びの集いが開かれていた。(この集いは8月終わりまで毎週金曜日から日曜日まで都合6週間行なわれる)先週は私たち家族も参加したが、今回は私一人が関西に残り家内が先に関東に帰り、その集いには妻と次女、長女家族、三男家族が参加するだけで私は参加できなかった。
ところがその集会の様子は同時にネットで配信されている。私は居ながらにして、金曜日、土曜日の集会に参加した。金曜の夜には二人の方が「慰めの神」「聖霊の宮」と題して語ってくださった。さらに土曜の朝はやはり二人の別の方が「ルカ15章Ⅱ」「霊的な死」について語ってくださった。これら4人の方はそれぞれ職業も年齢も性格も様々だし、それぞれの方が事前に話の内容を打ち合わせておられないが、私には一連のメッセージとして耳に入ってきた。
私が故郷に帰って来ていつも支配されるのは先週のブログでも書いたように、なぜ故郷の人々に、福音に生きる喜びを伝えられないのか、という悩みである。こんなことは今更書いても仕方がないが、いつも私が囚われる思いである。そこに対置されてあるのは故郷の人々の仏教を中心とする宗教生活のすべてである。私も家内もその生活の中に生まれ育ったので、それらすべては手に取るようにわかっているつもりだ。しかし福音はそのような私たち夫婦に別々に主の時に伝わってきたのである。爾来、私たち自身は福音に生きる自由の中にいる。問題は私たちのことでなく、私たちのまわりに居る方々にこの福音をお伝えできないもどかしさに私が今も支配されていることである。
土曜日の朝のメッセージで一人の方は聖書のイエス様のたとえ話を語られた。
女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。(ルカ15・8)
「銀貨」は自らは何も言わぬもの、それは死んだも同然のもの。しかし持ち主はそれを捜すと言われた。持ち主は言うまでもなく、神様であろう。私は心から主を呼び求めるものでなく、死んだものであった。その私は捜し出され、主は私という死んだものの帰還を喜んでくださったのだ。どうして私も主の御用のために働きたくないと言えようか。
その次に語られた方は、前に話された方がご自分が考えていたことを既に話されたことをびっくりしながら主なる神様はこの私たちの話も導いておられるのですね、と前置きしながら、「私の語りたいのは『霊的死』とは何かを説き明かすことです」と言われた。肉体は生きていても、神様から離れている者、神様に背いている者は、神様と交わりがない、死んだ者であると語られた。
考えてみると金曜日の冒頭ではある方を通して「慰めの神」が語られた。私はその方のお話をお聞きしながら、慰めを必要としない人は一人もいないことに改めて気づかされた。故郷の人々がどんな宗教生活を過そうと、この「慰めの神」に会う備えは常時備えられているのだと自身の不信仰さを悔い改めさせられた(不信仰とは、故郷の人々に福音を伝える道はもはや閉ざされているという私の勝手な思い込みである)。
そして土曜の夜のお一人の方は「聖霊の導き」について語られたのだが、それぞれお一人お一人が語られることが、故郷であり異教に支配されていると思われる地に一人でネットを通じてメッセージに耳を傾ける私の心に届いてきたのである。それらのどれも私の悶々とした故郷の生活に光を当てるものだった。
土曜の午後、私は勇気を出して再び義母を一人で訪ねた。もはや私にとって義母への責務はこの主にある永遠のいのちを伝えるだけであると思った。認知症気味であると思われる義母は「私」を認めて、私の祈りの後を追って祈った。私の祈りは「イエス様あなたがわたくしの罪のために死なれたことを感謝します」というものだった。これは義母にとっては難しい文句でなかっただろうか、しかし義母は素直に繰り返した。そしてそのあとの祈りはついて来なかったが、最後のアーメンということばで終えたとき、義母はまたしても「アーメン」と言った。義母が完全な霊的新生の喜びの中にあるとは言えない。義母には自分の励んできた宗教生活とイエス様の救いを受け入れることとの葛藤があるからである。しかし主イエス様がこのように私と義母との交わりを導いてくださったことは事実である。「いつくしみ深き、友なるイエスを」という有名な賛美を義母の枕元で歌うこともでき、義母は喜んでくれた。
家に帰り、再びネットに飛びついた。ちょうど子どものための集いも並行して行なわれていた。ちょうど日曜学校の先生方が自主制作した劇「ダビデ少年」を見ることができた。劇の一つ一つにこめられた劇のユーモアさに腹を抱えて心から楽しむことができた。(ダビデ少年はゴリヤテを石つぶてで射止めるのだが、何と劇ではダビデ少年の懐から生身の人間が飛び出してきてゴリヤテに体当たりされるやいなやドドーッとばかり倒されるのだ)故郷にもこうしてネットを通して福音は伝えられている。人々が聞く気さえあるのなら、福音はいつでも聞くことができるのだと改めて思わされ感動した。劇の終わりには何と劇を見て退場する人々の中に三男のお嫁さんと手を引かれた孫の歩く姿がシルエットで散見できたのだ。
その後の集会で先ほど申し上げた一人の方が「聖霊の導き」を語られ、十字架というどうしても理解できないことを理解できるようにしてくださるのは聖霊のお働きです、と言われたのだ。義母は十字架の死を私の口移しに唱えた。義母が心からそのことを感謝できるように祈らざるを得なかった。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえらされた・・・一つの義の行為(十字架のイエス様の死)によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。(新約聖書 ローマ4・25、5・18)
日曜日は私自身が福音集会でみことばを語る当番だった。私はとてもみことばを取り次げないでこのような思いを皆さんには悪いとは思いながら語った。帰ってから日曜日の御代田のベックさんのメッセージを今度はダウンロードしてお聞きした。私にはこの三日間を集大成したみことばと内容に思えた。題は「神を愛せよ」であった。
(写真は今朝の朝顔。土浦の友人のSさんが下さった朝顔。「朝顔の 友のキリスト 輝けよ」)
昨日、私は「絶望」ということばを用いた。用いながら、実は同時に主イエス様にとって「絶望」はないことを思っていた。私の田舎のたたずまいを思い、田舎の人士たちが他人を寄せ付けないかのごとき風情を示し福音を拒む人々だと、久しぶりに田舎道を自転車で走らせた印象を一方的に語ったのだが、当の私自身がそのような生家の裡に深く潜んでは用心深く外を見やっていた蛸壺(たこつぼ)の中の一人だった。そのような私を異郷の地であったとは言え、40年前主イエス様は声をかけるだけでなく、実際に主イエス様を拝する者として蛸壺から引き出してくださったからだ。
だから、私にとって不可能なことも主にとって不可能なことはない、と思う。敷衍すると、どんな宗教生活を行なおうが、また無宗教と思われる生き方をしようが、人が死ぬ時、創造主である主イエス様の前に引き出され、弁明しなければならない機会は(どのようにしてなのかはわからないが)、必ず訪れるだろうし、その問いにどんな人間も必ず答えなければならないと思うからでもある。次の聖句など、その間の事情と比類ない主イエス様の愛を語っている聖句ではないだろうか。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(新約聖書 ヘブル9・27~28)
こんなことを考えている時、昨日は高校時代の同級生と卒業以来48年ぶりに会うことができ、その上、歓談の時が豊かに与えられた。会を設定し仲介の労を取ってくださったのはその同級生と職場が同じであったSさんのお骨折りによるものだった。私と同級生は三年の時同じクラスであったが互いに自己に夢中であり、余り話を交わしたことはなく、ほとんど初対面と言ってもいい間柄であった。むしろSさんと同級生は職場でほぼ同期に入社されたようで、お互いの仕事の理解や共通の知人もおありで、昨日今日の間柄でなかった。一方東京生まれ東京育ちのSさんと田舎生まれ田舎育ちの私とは何の接点もなかったはずである。ところが滋賀から関東に移り住んだ私と東京から滋賀に移り住んだSさんとはともに主イエス様を信ずる者としてひょんな機会から近江八幡でお会いし、ここ数年来親交をいただいてきたのである。同級生は滋賀に生まれ滋賀に暮らしている。その間多少の海外生活や他郷に出られた生活はあったようだが・・・
そんな三者が一堂に会した不思議な夕食会になった。大体三者がどうして2009年7月23日に近江八幡で会食をともにしているのか考えれば考えるほど不思議である。神様が導いてくださったとしか言いようがない。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(旧約聖書 伝道者3・11)
4時に待ち合わせして、最初は喫茶店で、次には場所を変えて、Sさんに、とあるレストランへと案内されてフランス料理をご馳走になりながら7時半頃まで話し込んだのだから、中々どうしてわずか三人とは言え、盛会であった。しかも1969年1970年となだれ込む時期に三者が三者ともそれぞれ思いは違うが人生の大切な経験をしていることも判明した。また単に過去を振り返るだけでなく、今と将来の希望を語り合うことをとおし、新たな友情を確認しあうこともできたのでないか。
同級生は散会するとき、「仏教もイスラム教もキリスト教も何々教も結局同じものを別の観点から見ているに過ぎないのでないか。それぞれが自らの主張を絶対視するから争いが起こる、それが宗教の限界でないか」という意味のことを言われた。全く同感であった。最後にSさんが同級生の不信に答えるかのように「宗教と信仰はちがうんだよ」と啓示の問題に触れてくださった。
私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。(新約聖書 1コリント8・4~6前半)
(写真は、昨日ご馳走になったフランス料理の一部。肝心のフルコースを撮りはぐってしまい、最後に辛うじて納めたデザートの姿態だ。写真を見て皿にこんな素敵な文様があるとは知らなかった。改めて、一句啓上。「皿に盛る デザートの縁(ふち) 人模様」)
久しぶりに中仙道を自転車で走った。義母の見舞いを兼ねてである。街道は昔のままであろう。道幅は狭い。街道に面する家々は、適切な間口を持ち、玄関以外は連子(れんじ)格子窓で表に面しており、狭くとも昔ながらに内庭を持ち、街道すれすれに軒を連ねて、家並みが続く。宿場(町)は全体として今も共同体を形成し、よそ者は寄せ付けないが如き風情を呈している。今日の物騒な世界においては治安面で安心できる町造りと言えるのではないか。私が走らせている街道沿いには「法士(ほうぜ)」「篭籠(つづら)」「出町」と字名が続いた。私の目指すは隣の宿場愛知川の手前の「豊郷(とよさと)」であった。
このような町並みを見るたびに私は絶望的になる。福音が伝えられることのない歴史の古さを思ったからである。(厳密に言うとそうではない、かつてもブログでも書いたように戦後いち早く外人宣教師はこの同じ道を賛美歌を歌いながら行進したのだから。)蓮如上人はこのような街道沿いに親鸞の教えを伝え、在所・在所に立派なお寺を建てていったというのに。信長は延暦寺は焼き滅ぼしたが、浄土真宗の門徒を追い立てることは出来なかったのではなかったか。今も各家にはしっかりとした仏壇が安置され、仏間を設け、王城のごときミクロコスモスの世界を営んでいるように思える。
そんなことを思いながら、先に見舞いに出かけている妻と合流し義母を見舞った。義母は体は思ったより元気だった。しかし心はどうなのだろうか。賛美して一緒にお祈りして帰ってきたが、これといって応答らしきものはなかった。前日家内が一人で訪れた時は祈りに応答し、ありがとうとも言ったようだ。私自身の愛が足りないのだろう。通じないもどかさを覚えながらも、義母をともに見舞うことができたことを感謝し、すべて主におまかせしようと互いに家路を急ぐ。
今度は家内に薦められるまま、近江電車、新幹線沿いに帰ることにした。近江は昔から京都を目前にした交通の要所だ。新幹線の路肩には東京からのキロ数が明記されている。420キロというのが東京からの当地からの所在になるようだ。新幹線沿いには山百合が独特の朱色で目を和ませてくれた。手前の近江電車の路肩には野いちごが実を残している。妻はためらわず赤い実を集めては喜ぶ。
420キロ、500キロと離れてすでに40数年の日々が経つ。他郷に入りてこそ故郷を思う情は深まると言うが、草花に興じながら親戚・友人に福音を伝えていないこの身を思う。今日の午後高校卒業以来会っていない同級生と会おうとしている。生家と自宅とを年に数回行き来するが、相変わらず不信仰な私たちである。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(新約聖書 1テモテ2・4)
(写真はつづら町近辺を走る中山道。宿場と宿場の間には、このように今ものどかな田圃をバックにした松並木が残り旅人の目を楽しませてくれる。「おいでやす 招く近江の 商魂」)
ここ数日、ブログへの書き込みを止めた。しかし、ブログに書き込もうが、書き込まなかろうが、自分の生活に何らの変化がないことに気付き、半ば当惑している。
毎日書いていたブログの書き込みをやめたのには、もちろん理由がある。直接には家人による批判がきっかけであるが、私自身の永年身につけた生活スタイルからの脱却が今の私にとって大切だと考えたからである。
そもそも私はこれといった使命感もないまま教師の道を選んだ。それゆえ漫然と教師になった教師生活は私に「性格改造」を強制させるものとなった。最初は産みの苦しみを味わったが、いつの間にかその習いが性となった。その結果、知らず知らず身につけている自分の「ごうまんさ」や自分を良しとする生き方が自分を呪縛していることに家人のブログ批判の言より気付かされたからである。
このような自己からの脱却はまことにもって難しい。幸い、一緒に生活する家人がそのことを指摘してくれたので助かっている。イエス様は
あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23・8)
と言われているし、主イエス様の弟であったヤコブも次のように言っている。
私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。(ヤコブ3・1)
私が筆を絶たざるを得なかったのには、これ以外もう一つの理由がある。それはブログが自己暴露的・身辺雑記的なものにより読者を獲得しようとしている自己の浅ましさ・いやらしさが根底にあるのじゃないかと気付かされたからである。このことを家人は日ごろの言動を見るにつけ、直感的に感づいていたようである。たとえば先頃の自民党内のごたごたほど、人間社会のもろさが露呈されているものはないと思うが、あるニュースキャスターはこれらベンチの中のごたごたを見ていたって仕方がない、どのようなマニフェストかを調べるべきだ、ところが人間はどうしてもそれが面白いから、つい報道もするし、見てしまうのですね、と苦笑していたことを思い出す。
これらは本来ブログ開始当時掲げた精神に反するものだ。今一度このブログの引用聖句をかかげ自戒の言葉とし、主イエス様が喜ばれる記事が書きたいと思う日々である。
いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(詩篇36・9)
(写真はドイツ・ウルム市内のドナウ川に注ぐ小河川で見かけた水車。「苔(こけ)生(む)して 回り続ける 水車か」、「泉あり 人垢(ひとあか)流し 流れ来る」)
親しい方が、一昨日の虹の写真にちなんで、この一枚のミレーの絵「春」を紹介してくださった。くわしくは、下記サイトで見ることができるようだ。http://www.musee-orsay.fr/en/info/gdzoom.html?tx_damzoom_pi1[zoom]=1&tx_damzoom_pi1[xmlId]=000237&tx_damzoom_pi1[back]=en%2Fcollections%2Findex-of-works%2Fresultat-collection.html%3Fno_cache%3D1%26zsz%3D9&cHash=dfbf194f58
今日は虹にちなんだ聖句と文章を紹介する。
見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。(新約聖書 黙示録4・2途中~3)
3節に「緑玉のように見える虹」とありますが、緑玉は緑の石で、虹の中にある緑色は特に目立つ色です。
旧約時代、神はノアに虹をお見せになって、「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9・11)と約束なさいました。虹は神の寛容と恵みを象徴しています。いま、虹は終わりの日の裁きの前にも現れており、神の恵みが約束されています。しかし黙示録20章に記されている「白い御座」の裁きの時には、もはや虹が出ていません。これは、裁きの時には神の恵みと憐みの期間がすでに過ぎ去ってしまっていることを意味しています。
だからこそ「神との和解を受けなさい」と呼びかけることが私たちの使命です。今は恵みの時、恵みの期間だからです。今なら神が、罪の赦しと、真の平安と、永遠のいのちとを提供しておられるからです。
(『すぐに起こるはずのこと 第2巻』ゴットホルド・ベック著1999年刊行63~64頁引用)
初めてのスイスの喜びの集いに出かけたのは今からもう10年以上前になるのだろうか、何年のことか忘れてしまった。しかし、観光を終え、宿舎に向かって歩いていた時であったろうか、やはり大きな虹に出会った。歩行していたすべての人から感嘆の声があちらこちらであがったことを思い出す。その旅ですっかり親しくなり一緒に行動することの多かった方はその時も一緒だったが、歩きながら、その虹を見て、「ああ、俺の罪は赦されているのだ」と泣かんばかりに繰り返されたことが印象的であった。それまで好き放題の人生を歩み老境に入られたが、その門口で悔い改めて主イエス様を信じられた喜びを語られたのであった。その後再びご自身の考えを優先され、私たちの交わりからいつの間にか離れられた。しかし、主イエス様は決してお見捨てにならないことであろう。虹と言うとその方のことも同時に思い出す。
見捨てぬと 天から声の レインボー
主がどれほど聖いお方であるか、そして私たち自身は、その主なる神様によって聖い者として造られていたにもかかわらず、どのようにして罪を犯し、神から離れてしまったか。だが、主なる神は、その私たちをお見捨てにならず、私たちを徹底したご自身の聖さにあずからせようと、愛をもっていかに導いてくださるかを聖書をとおして知らされた。
標題は今日拙宅の家庭集会にわざわざ東京杉並からみことばを運んでくださったYさんの聖書からのメッセージの題名であった。上記は私の拙い感想である。先週も感じたことだが、私自身いかに聖なる神様から遠く離れていたかを、鋭く問われた感謝な集会であった。いつもよりは少なかったが、それでも4、50名の方が集まられたのではなかろうか。
ところで今日から看板聖句を変えた。以下がその聖句であった。
神の言(ことば)は生命(いのち)あり、能力(ちから)あり、両刃(もろは)の剣(つるぎ)よりも利(と)くして、精神と霊魂(たましい)、関節(ふしぶし)と骨髄を透(とう)して之を割(わか)ち、心の念(おもい)と志望(こころざし)とを験(ため)すなり。(新約聖書 ヘブル4・12 文語訳)
どのようなメッセージをして下さるかわからぬまま、私は私で主に示されるまま看板聖句のみことばを選んでいる。ところが今日の家庭集会はこの通り、みことばが私たち一人一人に迫るものとなったのだ。聖書全巻は66巻の書物だ。そして全巻すべてこれ上記のごとく鋭きことばに満ちている。聖書は、私たちをして罪から離れさせ、神様の聖さにあずからせようとする書物だ。だから、私たちはただそのみことばを信じて読むだけで良いのだ。ところが、ほとんどの人がクリスチャンと自称する人をふくめて何とか人間理性を納得させようとして己が理性を神の座において必死に努力しているのでないだろうか。そうではないのだ。虚心坦懐に聖書のことばに自分を合わせることだ。私たちは聖書自身に生命(いのち)があることを露忘れてはなるまい。
Yさんは創造のみわざとしてイザヤ6・3、創世記1・26~31、2・9、2・16~17を、また人がいかにして神様からはなれて嘘をつくものとなったか、創世記3・1~6、3・22~24を引いてくださった。
そして人類最初の悲劇である兄カインによる弟アベルの肉親殺しに私たちの目を向けさせてくださった。創世記4・1~14である。しかしカインは私たち、アベルはイエス様をあらわすと語り、イエス様ご自身の死の犠牲のみことばを紹介してくださった。マルコ14・22~25である。
そしてこの壮大な創造以来変わることのない罪人に対する贖罪の愛が、パウロを通してエペソ1・3~14において明らかにされているところを読んでくださった。
「生死を大切にする神の戒めをアダムは妻エバに正しく伝えませんでした。お互いの間の愛が未熟だったのであります。しかしそのようなお互いがイエス・キリストの贖いをとおしてまことの愛を体験的に知るようになりました。それはすべて神の栄光がほめたたえられるためだったのです」という意味のことばでまとめてくださった。
そして聖書におけるこの神の栄光をほめたたえる箇所を試みに三箇所引用された。黙示録14・1~5、19・1~8、詩篇8篇である。最後にエペソ3・14~21のパウロの祈りと本日の引用聖句詩篇93篇が朗読された。標題の言葉はその詩篇93篇の最終節のことばである。以下パウロの祈りの一部を写して置く。多くの場合、祈りとはあれをしてくださいこれをしてくださいという自己中心の祈りが多いのでないか。パウロの祈りは「あなたの祈りは、それでも祈りなの?」と問われる思いがする。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3・17~19)
(写真は親しい友人Mさんが送ってくださった、ドイツ・ミヘルスベルクの虹である。私たちは6月18日成田12時頃の出発が一時間遅れ、ミュンヘンに着いてからはアウトバーンの増幅工事などの事情でさらに二時間遅れ、都合三時間到着が遅れ、宿舎には夜の10時半ごろ着いた。その時私たちの到着を今か今かと待っていてくださった人々の前にこの虹は現れたという。知らなかったとは言え、待ち焦がれ心配してくださった人々の喜びの歓声が聞こえてくる思いがする。虹は神様と私たちとの契約でもある。創世記9・12~16参照。)
先週の土曜日、Mさんが72歳の生涯を閉じられた。ホームで点滴生活が続いた後、痰が喉につまったのが原因のようだった。奥様も二年前召され、二人のお嬢さんを遺して先に逝かれた。試練に会われ、主イエス様の救いを体験された。
私は2007年の11月に奥様が召された直後のMさんを二度ほどホームにお訪ねする機会があった。その時、Mさんはお体も御不自由で歩くことが困難で、ご自分から話すことも難しい状態であった。
ところが、その時一緒にお見舞いした方々とともに主イエス様を賛美し、聖書のみことばを輪読し、ともに祈りの時が与えられた。お見舞いに伺ったいずれの者も肉親ではなく、主イエス様を信じている者同士であったが、つっかえつっかえしながら読まれるMさんをふくめて新約聖書のローマ人の手紙10章全体を輪読することができた。全部読み上げたときは思わず心の中で「万歳!」と快哉を叫んでいた。
Mさんの心に聖書のことばは誰よりも近かった。
みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。(新約聖書 ローマ10・8)
その後もう一回お訪ねしたことがある。その時はすでにローマ12章に進んでいた。その時はお嬢さんと一緒だった。その時も輪読した。Mさんの順番となると何度も立ち往生される。ほとんど聞き分けるのが難しい声だが、お嬢様に助けられながら必死に読まれるのであった。そのみことばはスラスラ読まれるみことば以上に私たち一人一人の心に語りかけるものとなった。そのようにして読み終えた時、前回と同じようにみことばが私たち一人一人の心を照らした。ちなみにそのとき示されたみことばを書き記してみよう。
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(同5節)互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。(同16節)
その後先週の土曜日に召されるまで、私自身の怠慢でお見舞いすることはなかったが、多くの友がお見舞いされ、一ヶ月前に倒れて点滴生活に入るまで、この聖書一章ずつの輪読は続いた。そして隣のベッドの方も、この父娘の証を目(ま)の当たりにされ、主イエス様を信じられたと聞いている。最近では体が衰弱されたが最後までみことばだけにはしっかり反応されたということだった。
今日は、親交をいただき、ともに祈りの友だった皆さんが集まり、お父さんの火葬に立ち会った。しかしそこにはMさんを亡くした涙以上に、主がMさんに晩年の試練をとおしてご自身を明らかに示され、天国へまで導かれたことを讃える思いが満ちていたのではないだろうか。遺された姉妹お二人が互いにいたわりあっている姿が印象的であった。
もしMさんご家族が主イエス様を知られなければ、これ以上の試練はないし、ましてや遺された姉妹にはこの先涙に明け暮れ、過去をのみ振り返る生活となったことだろう。しかし姉妹お二人が助け合って、主を愛し、先に天国に行かれたお母様お父様との再会を待ち望みつつ主を証し続けようとされている。来週の14日には召天式が用意されている。ひとりでも主をお知りにならない方が永遠のいのちの与え主である主イエス様を知っていただくことこそが今の姉妹たちの祈りである。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)
(写真はドイツ・ミヘルスベルクの草花)
隣の家は30年来空き家である。年月の風化とともにいかに家屋が劣化して行くか、毎日窓越しに見させていただいている。それはあなたの肉体もいずれはそのようにして滅びに向かっていくのですよ、と語りかけるように見える。見たくないが、それが現実なのだ。
家屋の前には庭がある。雑草は生え放題である。隣家の関係上、その雑草を刈らざるを得ない。先年にはアンテナ塔が腐食して、私の二階の部屋にまで倒れ掛かりそうな勢いであった。さすがにこれは我慢できず、東京にいらっしゃる持ち主に電話した。そちらで処理して欲しいと言うことであった。
早速ご近所の方が協力してくださり、バーナーで一連の付属施設をヴェランダごと焼き切って撤去してもらい、ことなきを得、ほっとした。現在では、つたが家に絡まり、そのつたが枯れて赤茶ける、瓦はぼろぼろ。歯の抜けたおばあさんのようなものだ。時は確実に家を劣化して行く。あらがうことは出来ない。
ところが、不図した弾みで隣地がよみがえりそうになってきた。家人が自家で南瓜の種を蒔いたら成長してきて、狭い我が庭では生育困難になって来た。家人の友人が隣地を貸してもらったら、とフッと言った。家人は早速電話に飛びついた。電話口の向こうで持ち主が懐かしそうに出て、「使ってください」、と言った。
こうなると家人は早い。ズボンに履き替え、鎌を手にし、スコップを手にし、見る見るうちに土地を整備して南瓜を移植した。その実行力たるや天晴れである。亭主に指一本の協力を求めない。わずかに紫蘇(シソ)も移植するからそれを持ってきて欲しいと言っただけだ。自身で不甲斐ないと思う。本来、これは男の仕事だから。
家人から学ぶことは多い。性格が違い、若い時は喧嘩を良くした。最近では余りしなくなった。家人が圧倒的に我慢しているのだろう。諦めているのかも知れない。家人の愛に甘えてばかりいないで、自分でも家人を助けることをしたいと思う。
耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。(旧約聖書 エレミヤ4・3)
(写真は言うまでもないが、そうして移植された南瓜。私の部屋の真下であるから撮影に事欠かなかった)
20年近く、Sさんに一貫して月一回聖書のメッセージを拙宅で伝えていただいている。私はリタイアしている身だが、彼は現役であり、私よりは、2、3歳下である。しかしそのたたずまいは私よりもはるかに老成しておられ尊敬してやまない主にある兄弟である。
単純に計算しても20年を通算するなら、年に10本としても200本のメッセージになる。私がじかにお聞きするようになったのはここ4、5年ほどであるから私としても内4、50本程度は聞いている勘定になる。しかしいつ聞いても新鮮である。Sさんの心がいつも主イエス様に向いているからだろう。
昨日も開口一番、「偶像崇拝は危険である」と言われた。また「日本には八百万の神がいると言われるが、いずれも名前だけ(名前が違うだけ)だ。聖書が述べるように、存在するのは(唯一の)神と悪魔だけだ」と断言された。寸鉄、人を刺す思いがした。
そして人間にとってはいかにすれば全能の主がともにいてくださるかを考え行動することが最も大切であるかを懇切丁寧に語ってくださった。Sさんが用意されたみことばは以下のものであった。
神の国はことばにはなく、力にあるのです。(新約聖書 1コリント4・20)
主イエス様は確かに私たちの本質をいつも知った上で導かれる方だ。私たちの本質と神様についてはイエス様によって次のように語られているという。
してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7・11)
ことごとく神に背く悪い者が人の本質だ。一方、神様は天の父としてそのような悪い者を忍耐強く待っていて下さり、私たちに最善を与えるために働いていて下さる。こんな主の愛を知ろうともせず、私たちは神を離れて一体どこへ向かって行こうとしているのか。
50分余りのメッセージを正確に伝えられないのが、残念だが、一つの「しわぶき」もないまま、5,60人近い方が一軒の狭い我が家屋もものかわ身を寄せ合って真剣にみことばに耳を傾ける、このような家庭集会が今の時代に存在するのだ。
最後にSさんが言われたことばと引用聖句を記して置こう。
「パウロは絶えず、自らを主イエス・キリストのしもべ、と言った。主を信ずる者を通して今も主は主を信じない者にご自身を見せたいと思っておられる。そのためには私たちは主を恐れること、へりくだること、かたくなにならないこと、主を愛し慕うことだ。そうすれば私たちに敵対するものはない。なぜなら全能の主がともにおられるからだ。(神の力をあなたも体験してほしい。そうすれば周りの人にも福音はおのずと伝わる)。( )は私のことば。」
文章中引用したもの以外に、2コリント8・4~6、詩篇94・9、マタイ6・26~30、6・33、ローマ8・14~17、エペソ1・3~6、コロ1・21~22、詩篇131・2、マルコ15・33~38、ヘブル10・19~22、詩篇139・23~24、ローマ11・22、箴言6・16、箴言16・18、イザヤ57・15、詩篇19・13、2コリント10・4、1ヨハネ5・4~5などがあった。
聖書に しわぶきなくて 人あふる
ひとつ道 聖書語り 友帰る
(写真はドイツ南西部ウルムの教会内部。家庭集会でみことばに耳を傾けることは主イエス様にとって教会内部でパイプオルガンに身を任せる会衆と何ら遜色はないであろう。いやむしろ身は貧しくとも主のひざもとでみことばを聞くことこそ主が最も願っておられることでないか)
一年前のブログはカイツブリの親子を見い出した驚きからスタートしている。一年後のこの季節、果たして今年はどうなのか、興味津々の思いで、白鳥の出現以来、ほぼ一月余りご無沙汰していた古利根川散策に昨日は家内を誘い出した。
出がけ早々、二軒隣の方が二階のベランダから隣の方と話しておられたのにわざわざ中断して私たち夫婦に声をかけられる。
「いいね、仲が良くって。二人で、いいね。わたしゃ(散歩したくても)いないからね。」と羨ましがられる。止むを得ないと観念する。「おみやげをもってくるのよ」と二回も念を押される。どう答えて良いか戸惑うばかりだ。すると追い討ちをかけるように「書かなくっちゃダメよ!」と言われた。
言わずと知れた、家の前の聖句看板のことだ。ここ10日間ほど何も書かないで放置しておいたから、その催促だった。帰ってから考えることにし、おばあさんの冷やかしやらうれしい叱責を逃れるようにし、東武線の地下道を通って、一路古利根川へと急いだ。
橋の欄干から見る水量は多く、下流方向を遠望したがカイツブリはいそうになかった。それでも昨年見つけた辺りに二人して急いで歩を進めた。ほぼ同じところに二羽いることに二人してほぼ同時に気づいた。私はいるんだと思うと、途端に嬉しくなった。慌ててカメラを向ける。だが川中におり、余りにも遠距離で上手に撮れないのが癪だった。川べりに近づいて来そうで中々近寄って来ないのだ。近づいてきたかと思うとこれがまた中々スピードが速い。残念ながらキャッチできず、そのうち私たちの視界から上流方向へと姿を消してしまった。彼らとて川中にいる魚の採取に余念がなく、カメラを向ける私の相手などまっぴらなのだろう。
もときた土手を川道に沿って上流方向へと追跡を兼ね、足を早める。その内に先行していた家内が遠くから手招きする。「いる」という合図だろう。近寄ってみるとカイツブリでなく、写真の鴨であった。一人で悠々と川べりで首を胴体に突っ込んでは虫取りをしたり、時には何度も川の水を上手に飲みあげる。その仕草が可愛らしくカイツブリはどうでも良くなった。至近距離で近づいても逃げようとしない。久しぶりのシャッターチャンスであった。画面の写真は、その時数枚撮ったものの内の一つだ。
すっかり機嫌を良くして、川に直交している道路を横断して更に上流方向に進んだ。ところが再び家内が指差すのだ。どういうわけか、こういう場合いつも家内が先に見つけるのだ。指差した方向には、何と先ほど見たものとは違う、小さな・小さなカイツブリが川中に三羽もいるのが望見できた。その三羽がもぐっては浮かび上がり、またもぐるという動作を繰り返しているのだ。その内に親鳥さえもが一羽(近くでもぐっていたのだろう)水面に姿を現わした。こうして4羽が眼の前に勢揃いした。通りを散歩する人たちも足を止めしばし眺めては、また何もなかったかのように黙々と散歩に戻られる中で、私たちだけがじっと川面を見ている。親子の集団を見ると二人とも子育てに忙しかった時の子どもたちのことを思い出すからだ。
しかし川の流れは速く子どもたちは見る見る下流へと流されて行く。親鳥はどこに行ったのかまたわからなくなってしまった。家内は母親としてこどもたちが遠くへ流されて行ってしまったことが気が気でないと言う。ところが相変わらず親鳥は水にもぐったままで、どこにいるか皆目見当がつかない。しばらく川面に目を凝らしていると親鳥が浮かび上がるのが見えた。この時すでに親鳥と子どもたちとの間は10メートル以上は離れてしまっていたのではないだろうか。
その次が見ものであった。親鳥(母鳥?)が全速力でもぐっては浮かび上がり、もぐっては浮かび上がりしながら、あっという間に流されて行く子どもたちのところに急行したからである。そして何とその辺りに今まで全く気づかなかったもう一羽の親鳥(亭主鳥?)が忽然と姿を現わしたのである。こうして一家五人のカイツブリ家族は一塊となって下流方向に流れて行き、次第次第に私たちの視界から遠ざかって行った。
川向こうからは「カッコウ」「カッコウ」と啼く声が聞こえる。もちろん「カアー」「カアー」という声もうるさく聞こえる。季節は経巡るがこうして自然は巧みに同じサイクルをもって動かされていることを実感する。足繁く多くの方々が相変わらず何人も私たちを追い越して行かれ、体力づくりに余念がない。人間の子どもたちも歓声を上げ、それぞれ遊びに夢中である。
カイツブリ 一塊に 流れ行く
カイツブリ 一家に子ども 想う親
カッコウと 啼く声うれし 古利根辺(ふるとねべ)
おみやげを持って帰れなかった隣家のおばあさんには、催促どおり次の聖句を看板に書くことに決めた。
神のなしたまうところは皆その時に適(かな)いて美麗(うるわ)しかり、神はまた人の心に永遠をおもうの思念(おもい)を賦(さず)けたまえり(旧約聖書 文語訳 伝道の書3・11)
夢を見た。理不尽な形で法外な値段を請求され、警察に訴え出ようが、無駄であり、泣く泣く何万というお金を支払わされた。相手の不正は相手が書いた字がすでに彼のものでないことで明白だ。それゆえ裁判に訴えれば勝てると思った。しかし結局時間と経費がかかる。ここは悔しいがあきらめるしかないと自分に言い聞かせている。
その後、いつも行く近くのスーパーへ行く道を最短距離を目指し、交差点を赤信号なのに巧みに向こうへ渡り切った。そこにおまわりがいた。罰金を取られた。(実際に罰金を取られるかどうかはわからないが・・・)
そこで目が覚めた。後味が悪かった。料金をふんだくられた上、またしても罰金だ。
しかし、すぐに、これは主の教訓だと思い知らされた。最初の警察はともかく、あとのおまわりはまさしく私と神様の関係になぞらえることができるからだ。実は昨日の日曜日だが、春日部のメッセージのご奉仕で二つのみ言葉を引用させていただいた。
あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。(旧約聖書 申命記13・18)
そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(旧約聖書 士師記21・25)
考えてみたら信号どおりゆっくり渡ろうとしないで、自己にとって最善の道と思う最短距離で交差点を渡ろうとするのは私である。もしおまわりが見ていなければ成功したであろう。いや成功したと思ったことであろう。しかし、おまわりがいて咎められ、罰金を払わされる羽目になってしまった。迂遠な道と自分で思ってもルールどおり行くしかない。
人に伝えて、おまえはどうなのか、と夢を通して主なる神様は私に問われたのである。昨日でブログを開設して一年経った。自分勝手に書き連ねているブログだが主イエス様がこの者の暴走を止めてくださることを願うのみだ。
(写真はドイツミヘルスベルクの宿舎でほぼ一週間通い慣れた食堂への通路のかたわらでいつもやさしく迎えてくれたバラ。一週間ほぼ雨勝ちであったのでこのバラも雨に濡れている。昨日久方ぶりに長男が帰宅しており、この写真を見せたらきれいだねと言っていた。)
今日は時差ぼけの体を電車に預け、久しぶりに車窓の人となった。ほぼ片道3時間程度の小旅行となった。目的地は上州の吉井町であった。一月以上前、吉井町の主(あるじ)から麗々しく案内状が届いた。「高崎家庭集会」と標題が書いてあり、そのトップに私たち夫婦の名前が晴れがましくも書かれていた。そして下の方には地図が詳しく書いてあった。
昨年の10月にこのご夫妻に遠くから春日部まで足を運んでいただき(その時はご夫妻の普段住んでおられる相模原からであったが)、メッセージ・証をお願いした。(昨年の10月9日のブログで「粋な計らい」と書いてご紹介させていただいたことがある)今度は私たちがそのお返しをする番となったわけである。
しかし案内状には更に「行事」と書いてあって、午前11時から「麦刈り、餅つき」と明示してあり、家庭集会は午後1時からであった。時ならぬ「麦刈り、餅つき」の言葉に惹かれて家庭集会だけでなく、朝早くから出かけることに決めていた。と同時に以前これまたブログでご紹介したことのある(4月8日「二人の知人と『最後の晩餐』」という題で)電車内で知り合ったお方に、この案内状をお出ししておいた。その方が高崎市内にお住みだと知っていたからである。
11時過ぎに吉井町のお宅に到着したら主(あるじ)の方から、○○さんが来てお待ちだと言う。言わずと知れた電車でお別れした○○さんだ。実に2ヶ月余日ぶりの再会となった。わずか二時間の車中でのお交わりであったのに、わざわざ会いに来てくださったことに痛く感激した。その後○○さんはご用事があるので集会にはお出にならず、お帰りになったが。
その後、東京や川越や千葉から続々と皆さんが集まって来られ(中には倉敷から来られたご夫妻もおられたが)、土間では餅つきが行なわれ、畑では麦刈りが始まった。六畝程の広さだが子どもたちもふくめあっという間に刈り終えた。家内も私も農家の出だから率先して鎌で刈り取りに興じた。写真は手さばき良い主の刈り取りぶりを収録したが、実際は刈り取り、刈り入れ、落穂拾いと田舎育ちを中心に数名の者がそれぞれが協力し刈り取ることが出来た。
室内の土間では搗(つ)き上がったお餅がそれぞれ、納豆、アンコロ、胡麻、おろし、きな粉とお皿に盛られ、取立ての野菜などを交え、多種・豊富で味は天下一品であった。総勢5、60名の方であっただろうか、皆さんおいしく召し上がられ、いつの間にか午後の集会が始まった。
集会には初めて福音を聞かれる方も多く、この家のご主人の同級生であると言われる方も二人出席しておられた。ご主人は私のメッセージが初めての人にもわかるようにと祈ってくださった。家内も証の恵みに預かった。どの程度お役に立てたか心もとないが、つい数日前ドイツで多くの参加者の方々と素晴らしい交わりを持たせていただいたことが嘘のように、こうして日本に帰り、また新しい方々と主イエス様を賛美し、主イエス様を救い主としてご紹介するお交わりを与えられたことを心から感謝した。
ご主人は今日が誕生日だった。70歳と言うことだ。お父様をこの故郷に98歳で抱え、月に二週間は吉井町に帰られるという。そうしてその合間に家庭集会を持っておられる。ユニークなご夫妻であり、絵もよくされる。また別の機会に紹介させていただきたい。
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。・・・主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(旧約聖書 詩篇133篇1節、3節後半)
一週間ほどドイツ・ミヘルスベルグでの「喜びの集い」に参加した。行く前に一人の方からメールをいただいた。集いのキャンセル待ちを待っていたが叶わず、北海道富良野に娘と出かけてきます、と言う内容であった。参加したくても、経済的な事情や、お仕事の関係やご病気など様々な事情で参加できないことは知っていたが、この方のようにキャンセル待ちの方もいらっしゃったことに気づき、これは好い加減な思いで行けないなと思わされた。
期間中は生憎の雨天で三日間ほど予定されていた観光・ショッピングは思うように出来ず、下手をすると風邪を引きそうな寒さであった。宿舎に着いたのは18日の午後10時ごろだったと記憶するが、翌早朝聖書を読み、静まることができた。
あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩まされた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。(旧約聖書 申命記8・2)
大きな主の守りを覚えながら、主に感謝した。1969年3月12日予期せぬ交通事故にあった。神様は、そうして、かたくなでどうしようもない私を砕いてくださった。爾来40年間を閲(けみ)する。全く一人になって主の前に出た時、様々な身に纏おうとしたもの、また手で握り締めようとしているものを全部主にお出ししなさい、と言われているような思いがして、久方ぶりに解放感を味わった。多くの方の犠牲と祈りに支えられドイツまで来たが、このためだったのだ。
「こうこさん」ご夫妻もご家庭の事情でご夫婦揃って参加は叶わなかったが、今回それが実現したということだった。こうこさんはこの間、4、5枚の絵を物にされた。ご本人の許可を得て撮影させていただいたのが今日の絵である。
私は絵が好きである。そしてこの「こうこさん」の絵が好きである。写真も数えると200枚近く撮ってきた。しかしこの一枚の絵には換えられない。絵はミヘルスベルグの宿舎の玄関の門から宿舎内を見たものである。ご夫妻もまたこの宿舎で様々な感慨を抱かれたことであろう。直接お話は聞かなかったが、この絵はすべてを私に訴えているような思いがする。
庭に多くの花が咲き乱れている。一体、どの花が何という花か、今もってわからない。それでもブログに「花」を用いるため、これまで全く無関心であった花については、この一年で大いに関心を持つようになった。
今日の花は「祝いの木」とも、ミルトスとも言うらしい。花を育てている家人に確かめたら、そう返事が返ってきた。聖書にはこのミルトスが登場してくる場面がある。この花がどんな花か知らないままで今まで読んで来た。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。・・・まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらのかわりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。(旧約聖書 イザヤ55・7、12~13)
たまたま、もみの木も隣接して生えている。これらは、もともと聖書ゆかりの地方、地中海原産のようだ。村田ユリ氏の別著から引く。
・・・植物でも、文化でも、なぜ地中海沿岸が、発祥の地として栄えたか、納得できる・・・。日本の南端の30度線は、スエズ運河を通り、40度線の日本がおかれている同じ緯度に、地中海、トルコ、スペイン中部まで含まれていることになる。・・・機械文明を使用できなかった人々にとって、この辺の地域が、一番住み易い環境であったのではないだろうか。この地域から、拾い上げられた花々は、優しい姿のものが多い。それぞれが、今の姿までに作り上げられていった道も、さぞ遠いものだったろう。
私はこの辺のことを考えると、トルコの奥地へ行った旅を思い出す。石か土か解らない固い大地には、何百キロもの間、草の陰もみあたらない。地の果てまで続く道かと思う真直ぐな道路を、午後の暑い太陽を正面から浴びて西へ西へと走る。目的地は奇岩地帯と、紀元一世紀の頃、迫害されたキリスト教徒が隠とん生活をした地方として興味あるカイゼリーである。
自然の岩をくりぬいたままの家や、その一部を木造りにし、少し張り出しをつけた粗末な小屋が寄りそった小さい部落へ漸くたどりついた。突然、息を吹き返した思いがするようなこんこんと湧く泉がある。石室のように囲い、井戸端は水を汲み易く作ってある。女たちが頭上に細長い壷を乗せて水を汲みにやって来る。聖書の中からぬけ出して来たサマリタンの女たちかと思う。マリアをロバの背に乗せて引くジョセフがいる。その夫婦は、貧弱なポプラの枝と、大きい南瓜のような実を大事そうにかかえていた。枝はたきものらしかった。私は自分が20世紀に生きていることを忘れた。
あたりに見えるほんのわずかな緑色は、やせて細いポプラがあえぐように生きていた。緑の恩恵を、こんなに少ししか持っていない人たちもいるのである。(後略)
(『世界の花』飯田深雪・村田ユリ共著1970年講談社刊行102頁より抜粋引用)
これに比べると日本は何と水の豊富な緑豊かな国かと思う。その上、東西文化の交流のお蔭でこうして居ながらにしてミルトスを鑑賞できるというものだ。翻って思う、主のおことばは、「帰って来なさい」と私たち罪人にいつも呼びかけてくださることを。帰った暁にはおどろの代わりにミルトスが生え、これが永遠のしるしとなる、と聖書は語る。
永遠を ミルトスに知る 御文(みふみ)読み
毎週金曜日の夜8時からBさん宅に集まり、ともに祈っている。集まるお宅は変遷したがほぼ20年近く集まり続けている。昨日は全部で11名だった。男性ばかりで、8名の方が現役でリタイア組は私をふくめ3名である。賛美をし、みことばを輪読し、互いの祈りの課題を座った順に左回りに出し、その後祈り合うだけの極めて簡素な内容である。
祈りの課題を出すのは一人一人の自由であり、他の人はただひたすら忍耐して聞くだけである。御霊なる神様が支配し導かれることを期待しているからである。多くの祈りの課題は山積みになる。そんな中、昨夜は、この祈りを家に帰ってからも忠実に祈り続けたい、という祈りがなされた。
昨日のブログの記事を見て、長女がメールをくれた。あの時きょうだいが全部集められてお父さんがお母さんの手紙を読んでくれたのを覚えている、ということだった。私はすっかり忘れていた。長女はそれに付け加えて、「私に妹をください」と祈り、それが答えられた経験も私の祈りの生活においてあのことが初めてじゃないかな、と。この祈りについてジョージ・ミュラーの本から引いてみる。
恵み深い神様が答えてくださった祈りの答えを記憶にとどめておくのは、このうえもない祝福です。記憶を確かにするために、私はいつも書き留めるようにしています。祈りの記録を小さなノートに記すことをお勧めします。
ノートの左のページには願いと祈り始めた日付を書き、右のページは空白にして、祈りが答えられたときに書き込むようにします。すると、どれほど祈りが聞かれているか、すぐにわかります。それによって励まされ、信仰もますます力づけられます。
こうして神様がどれほど愛に満ち、慈悲深く、恵み深いお方であるかがわかります。あなたの心はますます神の愛の深さを知り、こう言うことでしょう。「天の父なる神様はこれほど愛に満ちたお方です。私は神様を信頼し、神様にすべてを打ち明けます」
愛する兄弟姉妹、どうか神様のすばらしさを体験してください。また信頼して待ち望む自分の子どもに、主は遅かれ早かれ報いてくださることを学んでください。
しばしば私たちは、むなしく主を待ち続けているように感じます。しかし、主はご自分の時に豊かに答えてくださり、待つことが無駄でないことを示してくださいます。
続けて願いを主に伝えましょう。また祈るだけでなく、主の助けを期待しましょう。主が願いを聞いて答えてくださると信じることで、神様は栄光をお受けになるのです。
地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(旧約聖書 エレミヤ33・2~3)
引用文献は『ジョージ・ミュラー 信仰』(ランス・ワルズ編斎藤登志子訳いのちのことば社刊行32~33頁)より抜粋。写真は以前ご紹介したFさん宅のもう一つの陶板。オクラホマで求められたそうだ。
一枚のはしりがきが今も私の手許に残っている。そのはしりがきは家内の字である。日付は○○年六月十二日午前五時〇〇分とある。もっともこの日付の字は父の字である。その他、父が二三の事実を書き込んでいる。そのはしりがきとは次のものだ。
直ちゃん 信ちゃん ゆみちゃん みっちゃんへ
おかあさんは 今 おなかが いたくなって もうすぐ
あかちゃんが うまれます。
じょうぶな あかちゃんが うまれることを おいのり
していてくださいね。
これから 六日間 るすに しますが おとうさん
おじいちゃん おばあちゃんの いわれることを よく
きいて いい子で おるすばんを おねがいします。
大きい人は 小さい人の めんどうを よく みてあげ
て下さい。 おじいちゃん おばあちゃんの いわれることを
よくきいて がんばって下さい。 おかあさんも がん
ばりますからね。
おかあさんより
当時父は認知症で彦根から私の家に転がり込んで来て三ヶ月余り経過していた。まだ認知症が社会的に問題とされていなかった時期だ。何もわからない私たちは、昼夜が逆転し徘徊する、精神の変調を来たしている父を何とかなだめすかして精神科に連れて行って診断を仰いだりしていた。家庭は火の車であった。普通「火の車」とは生計の苦しいことを指すことばだが、それだけでなく家庭は混乱を極めていた。
私は社会的にも責任ある仕事に携わり、教会でも精一杯活動し、家長として混乱する家庭、漂流しかねない家庭の舵取りを必死で行なっていた。家内は家内でおなかに赤ちゃんを身ごもりながら、ふいに訪れた舅、姑との同居である。どのように大所帯になった食事を用意してくれたかも覚えがない。ただお先は真っ暗でいつ果てるとも知れないトンネルの中を黙々と通過させられている思いだったことだけは覚えている。そのような時、今日六月十二日の次女誕生の瞬間がやって来たのだ。
これはまた何という喜びであろうか。家族全員が心の底から歓声を上げた日であった。そしてその喜びは主が上から下さるものとしか言い得ないものであった。迷わず、名前は「御霊の実」である喜びから、喜実子と名づけた。今でも「きみこ」と言うと、ほとんどの方は「喜美子」と書かれる。私はその都度「ちがうんだな、御霊の実は喜びである、喜実子なんだけどな」と思う。
この子は私たちの喜びの子である。一番下で皆に可愛がられた。本人は決してそうは思っていないだろうが・・・。後に幼友達として教会で知り合い、集会に来て洗礼も同じ日に受け今に至るまで親交を暖めている愛ちゃんが御霊の実の筆頭に上がっているのも不思議なことではある。
さて冒頭のはしりがきを書いた家内は昨日から自分の母親の見舞いのために滋賀県に帰っている。こうして見ると、中々席が暖まる暇のない家内ということになるが、私たちは年老いて最晩年を迎えている母親が、このイエス様にある「永遠のいのち」の喜びを体験してくれるように日々祈っている。これもまた産みの喜びの前の闘いと言えなくはない。
御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。・・・御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(新約聖書 ガラテヤ5・16、22、23)
(写真は珍しい写真。昨日ベトナム在住の村上さんから送っていただいたもの。街路樹は鳳凰木と言うが熱帯地方にはよくある木でいつまでも咲いているので余り気にとめられないそうだ。)
主イエス様の導きをどのようにして求めるのか、私たちにとって難しい問題ではないだろうか。そんなことを考えている時に、『神の聖なる戒め』が出版された。ここには多くの示唆があるが、今日は語らない。代わりにほぼ同時に先週の水曜日に宣教師のランさんから受け取ったメールを紹介しよう。以下はその概要である。
今日持ち上がってきたことについて皆さんに祈っていただきたいです。昨年中レズリー(注:ランさんの奥様)と私は賜暇を取るにあたっての考えを皆さんに示し、また祈ってもきていただきました。その考えはレズリーがアフリカのマリのバマコ・クリスチャン・アカデミーで教師を求めていることを耳にしたことがきっかけでした。その結果私たちが考えた主なことはレズリーはマリのどこかで教師をし、私は翻訳に関わる何らかの仕事が見つかるだろうというものでした。
最初は今年の秋、何かをする用意をすればよいと漠然と考えていました。しかし私たちは余りにも忙しくって、そのことを真剣に求めることすらできていませんでした。その上そのことについて確信がなく、神様がその方向に私たちを導かれる明確なことばを聞いていませんでした。最近になってこのことを2010年のこととするのかそれともその考えをやめるのかどうか思い悩むようになりました。
ただ私には当初の考えは依然として気に入っていました。それで先の二週間をかけてこのことについて神様に問い続けるようになりました。神様が語りかけてくださったと信じます。私がこのことを思い巡らしていたある日、神様が「とどまりなさい」と言われることを聞いたように感じたからです。このことばは他のことをしている間にやってきたのですが、私はその瞬間神様にそれ以上お聞きする時間がありませんでした。けれども幾つかの点について神様に語りかけて決めようと心がけていました。
その機会が訪れたとき、私は最初「とどまりなさい」と聞いたことを神様が確信させてくださるように思いました。それでその「とどまりなさい」という意味は「永久にですか」それとも「今ですか」それとも「いつのことですか」とお尋ねしたところ、神様の答えは「今とどまりなさい」でした。もっと質問を繰り返しても同じでした。神様のお答えはいつか再び海外に戻るための扉が開かれているように思われました。
先週末レズリーと私はこのことについて短く話し合い、神様が私に語ってくださったことを信じていると打ち明けました。この点で私たちは神様が今はアメリカ本土で奉仕し続けるように求めておられるという共通理解で前進できると思いました。
ところが今朝ちょうどレズリーが私に話したところによるとマリの友だちからメールが入り、今まさに現地の学校が教師を必要としているということでした。このことについて明日父兄の話し合いがあり、レズリーがどこかから聞いてきたことによると、教師が見つからなければ学校は閉鎖されるというものでした。マリ支部も翻訳のコンサルタントを緊急に必要としているということです。これらの条件は全部私たちの条件を満たすものです。
しかし私は神様がこのことに関して私に明確に語ってくださったと感じています。実際私は今信ずることができます。なぜ神様がはっきりと「どまりなさい」とお語りになったかを。この明確なおことばがなかったら、私はその必要に答えようとしたことでしょう。
だからあなたがたも私たちがもう一度このことについてお聞きするとき、ともに祈っていただきたいのです。神様が私たちを導いてくださいますように、そうすればきっとあなたがたをも神様は用いてくださり、私たちを神様が導いてくださる道を確信させるようにしてくださることでしょう。
ほぼこれがメールの内容でした。今日再びメールが一週間ぶりに入りました。このときの神様の導きどおりマリの人に「ノー」と答えたということでした。もちろんマリの人々の二つの必要が満たされるように祈ってくださいと結ばれていました。
今週の火曜日の学びで江藤さんがヨシュア記のことを話してくださった。ここにも神様に導かれた古の聖徒の例が語られていた。日々、私たちも主の御声を聖書を通して聞き続けたいものだ。
あなたがたと箱の間には、約2000キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それはあなたがたの行くべき道を知るためである。(旧約聖書ヨシュア記3・4)
(写真は場面は違うがヨシュアの先輩モーセが民を引き連れて紅海を渡るシーンである。ホフマンの例の作品から撮影拝借した。ブログの編成上一部分である。)
今日は定例の家庭集会の日だった。遠く近江八幡から高村さんが来てくださり、マルコ2・13~17を引用聖句にして語ってくださった。パリサイ人的精神が私のうちに今も色濃く残っていることをメッセージをとおして示された。パリサイ人とは、自己を正しいとして、決してそうでない人から自らを分離するからパリサイと言うのだとも教えていただいた。
何よりもイエス様に「裁きの権」はゆだねられており、あのマタイ7・22~23の「不法をなす者ども」という最終審判のおことばはキリスト者をふくむすべての人に語られているものと教えていただいた。愛に満ちあふれる主が病人をこそ導かれる方であることを強く覚えさせられ、心から主を崇めた。
そのあと、かつて私たちと同じ集会に集い、今は東京に移られた中野さんのお証をお聞きした。道々駅からこちらに来る途中に、年老いたお父様、それにご夫君と一緒に歩いてきたことを思い出し、涙を抑えられなかったということだった。4年前ご夫君を思わぬ形で亡くされ、爾来四年経つが、この間姑さんを送り、ごく最近ではお父様も天に送られた。常識で考えるなら悩み尽きない彼女ということになるであろう。しかし今の彼女は会う人ごとに心からの主にある平安を伝えておられる。その彼女の証だったが、最後に読まれたウォッチマン・ニーの「賛美のいけにえ」からの抜粋の文章が印象的であった。以下に記しておく。
賛美のことばは、順調な人の口から出て来るのではなく、訓練を受け試みを受けた人の口から出るのです。一番喜んでいる人の賛美の声が一番高いのでなく、神の御前で困難を通っている人たちの賛美が最高なのです。そしてこのような人の賛美がもっとも神に喜ばれ、もっとも神の祝福を受けるのです。
ヘブル13・15ではこのように言っています。
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
神があなたを傷つけあなたを砕きあなたを深く切り裂く時、あなたに神の御前に来て賛美して欲しいのです。このように自分が傷つけられて神に賛美を得させる行為、これがいけにえです。あなたは自分の受けた傷・苦痛ゆえに賛美することができないでしょう。そのような時、あなたは思い出す必要があります。エホバの御座は変わらないし、主の御座も変わらないし、主の栄光も変わらないのです。
(これに付け加えるなら、私たちの代わりに十字架についてくださったイエス様、そのイエス様(の愛)は永遠に変わらないということです。―ここのことばは中野さんのことば。)
あなたは彼を賛美すべきです。なぜなら彼は当然賛美を受けるべき方だからです。
と証を閉じてくださった。病人と自覚する者のみが主イエス様だけを賛美できるのだ。庭には中野さんのご主人がくださった「隅田の花火」がちょうど満開だった。何も言わずやわらかに私たちに微笑んでくれる感じがするこの「額アジサイ」はご主人にぴったりで、また今の中野さんの心にぴったりする思いがする。
四年経ち 隅田の花火も 賛美する
ちょうど百年前の明治42年6月10日の日付けの『聖書之研究』110号から幾つかの所感を以下書き写す。(出典は岩波版内村鑑三全集16巻386頁より)
杜鵑花(さつき)
春老い花失せて庭園空し、時に杜鵑花の濃緑を破て開くあり、桜花の如く高く聳(そび)えず、躑躅(つつじ)の如く赤く燃えず、地上低く葉に隠れて咲く、謙遜なる杜鵑花よ、我は汝を愛す、汝は衆芳と色を競わず、独り百花に後(おく)れて開く、願う我も亦汝に倣(なら)い、低くして晩(おそ)く開き、以て世の晩春を慰めんことを。
聖書の理解
聖書は解(わ)かる書に非ず、神に解(わ)からしめらるる書なり、聖書を他の書の如くに解せんと欲して如何なる大学者と雖(いえど)も之を解する能(あた)わず、然れども神に解せしめられて如何に無知なる者と雖も能く之を解するを得るなり、是れ聖書の聖書たる所以(ゆえん)なり、聖書は智識以上の智識を以てするにあらざれば到底解す能わざる書なり。
式又式又式
人に見られんと欲する此世の人は式を以てするにあらざれば何事をも為す能わず、彼等は式を以て信者となり、式を以て信仰を継け、而して終に式を以て墓に葬られる、式、式、式と、彼等の教師なる者は主として式を司る者なり、式にして廃せられん乎 教師は用なきに至るべし、式は外の事なり、衷(うち)の事に非ず、式は事を定めず又心を潔めず、意志のみ能く事を定め、神の霊のみ能く心を潔むるなり、誠実の人の式に重きを置かざるは、その主として肉の事、社交の事たるを知ればなり。
カーライルの葬式
貴きはカーライルの葬式なりき、ケルシーの彼の住家より蘇国(スコットランド)の彼の墳墓の地まで彼の柩(ひつぎ)を送りし者は彼の親友僅(わず)かに三人、其一人は理学者チンダール、其第二者は歴史家レツキー、其第三者は弟子フルードなりき、彼等柩を守りて墓地に到れば之を迎えし者は少数の旧知なりき、牧師の其上に祈祷文を読む者もなく、会集の其前に賛美歌を唄うる者なかりき、傍に見る者は曰えり「茲に無神論者は葬られつつあり」と斯くて彼の肉は蘇国の土に帰り、彼の霊は彼を造りし神に帰りたり、彼は不信者の如くに葬られたり、然れども彼は神の忠僕として働きたり、慕うべきかなカーライル、我も葬らるる時には亦彼の如くに葬られんことを。
今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。・・・今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。(新約聖書 1コリント4・13)
(上述のみことばはパウロの告白である。地上で寄留者・旅人であるとはこのことに甘んずることでないか、100年前の内村がカーライルの葬儀を思い、さつきの姿に自らの身の処し方を見たのも同じように世に入れられない自己の姿を顧みてのことだったのか。それは悲哀でもなんでもない。そこにこそ天を目ざすものの生き方があると思うからだ。市内を歩いていたら、緑陰に「旅人・樹陰」と題した彫刻があった。写真はそれである。)
写真の看板は10数年前主にある兄弟が作ってくださったものだが、もともとは20年以上も前の教会時代に地域の人に教会ニュース(クリスマス、音楽会をはじめとする教会行事)を掲示しようとして始めたものである。それがこの20年間も続いているのだから、今やそれなりの歴史を持っていると言える。ただし、掲示しようとするものはニュースでなく、写真のとおり聖書のことばオンリーになった点に大きな違いがある。
そもそも私たち家族にとって、教会を出るという、当時でももちろん、今でも考えられない、大決断をしながら、「看板」が教会時代から始まり、教会を出てからも引き続いて掲げられているのと同じように、日曜礼拝が、一日の空白もなく切れ目なく守れたのは、ただひたすら主があわれんでくださったとしか言いようがない事実だ。
19年前の当時を振り返ると、ちょうど今頃私はもう教会の礼拝には集わないと決心している時だった。当時、教会を私より先に出た家内は私が教会の中に残って疲労困憊しているのを尻目に生き生きしていた。その彼女が「お父さん、教会なんか無理に行かなくっていいのよ、吉祥寺だって無理に行く必要はないよ、今まで一生懸命教会のために働いたのだから、この際、家で休んでいたら」と言っていた。ところが、もともと天邪鬼(あまのじゃく)の気質のある私は、散々妻が吉祥寺へ行くことに反対していたのに、教会を退会した次の週には自分自身も彼女と一緒に吉祥寺までのこのこと礼拝のために出かけて行ったのである。
もっとも彼女は私のためにそれこそ真剣に祈っていてくれていたことであろう。大体、20年近く集った教会から牧師制度を否定する集会へ私たち家族が移ることはどう考えても(私の理性からしても)不可能なことだった。大げさと言われるかもしれないが、家長である私にとって家内が先に出て教会を否定した後の状態は、第二次世界大戦の敗戦で人々がそれまで必死で仕えてきた「滅私奉公」がもう明日からは必要ないと言われたときの虚脱感に似ていた。もともと私は信仰を与えられる前にまだ結婚していなかった婚約者である彼女から強く教会行きを勧められ、それに従った経緯があった。
爾来19年から20年目へと移行する年月を目下日々経験している今日この頃である。戦争体験が清算されるのには時間がかかったように、牧師制度を持つ教会との決別は、私にもそれなりの時間が必要だった。もちろんこれらの事柄はいずれも主が導かれることなしには不可能なことで、主の啓示に属する出来事だから、戦争体験の清算とは趣が異なることは言うまでもない。
この6月1日に出版された『神の戒め』というベック兄が書かれた本を読んで、未だに自分自身が「霊的破産」を経験していなかったことを鋭く示された思いがする。「霊的破産」に関するベック兄がこの本の中で書いていることを以下引用してみたい。
キリスト者にとってもっとも大切なことは、霊的な破産を経験することです。本当に破産してしまったなら、もはや自分の力で神の戒めを実行しようとする努力を止めてしまいます。
勝利の秘訣は、聖霊を通してキリスト者のうちに住んでくださるイエス・キリストにあります。イエス様の救いのみわざはまったく完全なものです。自分の力で神の戒めを実行しようとしても、それは完全な敗北に終わるに決まっています。(同書61頁、同書223頁には関係する展開が書いています)
私にとって19年前の教会退会は結局のところ「霊的破産」以外の何ものでもなかったのに、相変わらず表面を居繕ってキリスト者らしく生きてきたのでないかと今改めて強く思わされているからである。そういう点で看板の聖句も主が今の私を導いてくださった事実にぴったりだと思うので、この味わい深いみことばの文語訳を、 稚拙な私の看板の字でなく、整えられた字で以下に記す。
我は門なり、おおよそ我によりて入る者は救われ、かつ出入りをなし、草を得べし。(新約聖書 ヨハネ10・9)
このところ餌台には雀が毎朝やってくる。餌台に載せるのはパンくずや焼き焦がしたご飯や残飯が多い。時にはキャベツなど野菜も交える。いずれも家内がせっせと亭主だけでなく鳥の餌も用意している。
今朝などは10数羽がやってきている。餌台には定員がある。せいぜい5羽かそこいらだ。残りの雀は垣根にそれぞれ散らばって待機している。ところが私が室内から眺めていて、写真を撮ろうとして近寄ろうものなら、雲の子を散らすようにいっせいに飛び去ってしまう。今年の6月はまだひよどりはやって来ない。椋鳥は何度かやってきたが、最近は雀に占領されている。先日はその雀に混じって黄色味を帯びた小鳥がいた。
ところが今朝家内が話の中で「昨晩餌台に10匹いた、何だと思う?」と聞くので、カラスかと聞いたら、「ちがう、ナメクジなの」と気持ち悪そうに言った。考えてみると餌台には餌が無いはずだ。家内はなめるんだ、と言う。ああ、道理でナメクジと言うんだと変なところで合点していたら、家内は全部殺したと言う。私は「残酷なことをするね」と言う。家内は「団子虫だって殺しているよ」と追い討ちをかける。家内にとっては何しろ庭の花が中心である。餌台はこうして多くの鳥や生き物が集まってくる。
そんなことを話していたら、窓外に大きなカラスが餌台めがけて降りてくるのが見えた。「追っ払って」と家内が色めき立つ。初偵察なのか、私が席を立っただけですぐ飛び立った。カラスに狙われたら大変だと、たちまち夫婦共同戦線が復活する。
考えてみると、こうして私たちは自分を中心にあるものを殺し、あるものを生かし生きているのだ。ナメクジや団子虫を殺す家内が残忍で、ナメクジがいようが団子虫がきようがそれこそ我関せずともに生かしておけば良いというにわか博愛主義者である私が愛のある人間と言うわけではない。昨日も紹介したベックさんの書いた近著『神の戒め』に次のような記述がある。
ひとりの人間のいのちは、第6の戒めによって火の壁で囲まれています。創造主の許可なしに、人間のいのちを奪うことは許されていません。人間の背後には、いのちを守る創造主が立っておられます。したがってこの地上に住むすべての、あらゆる人間のいのちは同じように尊く、創造主のゆえに尊敬されなければなりません。
ただひとり、主なる神ご自身だけが、他の者のいのちを別の者の手に委ねることがおできになります。このようにして創造主は、たとえばノアの洪水の後にあらゆる動物のいのちを人間の手にお与えになりました。その時までは肉を食べなかった人間が、それからは動物のいのちを奪う権利を与えられました。
私たちはしたがって、動物の生死を自由にできる権利をもっているわけですが、しかし、この権利をどのように実行するかについては、主なる神に責任を負っています。動物をいじめ殺すことは人間の権利の乱用であり、許されていません。
(『神の戒め』151~152頁より引用)
と書き、創世記9・2~3が引用してある。「神の戒め」がこうして私たちのすべての行動の背後に生きていることに気づかされる。このみことばは皆さんで引いていただくことにして、私はカラスを追い払った行為について思い出したみことばを最後に記しておく。
彼(アブラハム)はそれら全部(雌牛、雌ヤギ、雄羊、山鳩、ヒナ)を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラハムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラハムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。(旧約聖書 創世記15・10~12)
今日も主を恐れて歩みたい。
(写真は昨日の家庭集会の時、皆さんをお迎えした玄関の花。)
久しぶりに、吉祥寺での火曜の学び会の帰り道、古本屋さんを訪ねた。大体、いつも行くところ(神田、吉祥寺など)は決まっているが、それだけに置いてある本の種類は熟知しているつもりだ。だから今日は新天地開拓と勢い込んだ。
丸の内線のとある地下鉄の駅を出て、階段を上がり、見るともなく右方向を見たら、割合、目立つ看板が出してあったので、これ幸いと目指すことにした。
ところが看板の手前の大きな店構えらしきところはシャッターが降りていた。これはてっきり休業日だと観念した。直前に、中央線の荻窪駅で捜したところ、火曜休業ということでダメだったのだ。折角降りたのにと思いながら、さらに歩を進めるとその隣に何だか本らしきものが家の前に積んであるのが見えてくる。これはしめたと思い、店先へ急いだ。
ところがこの古本屋さん、うなぎの寝床のように奥が深い。三列の書棚が店先から奥へずーっと並んでおり、さらに書棚の前は本が所狭しと積んであり、どう見ても人の侵入を拒んでいるとしか思えない。あとで判明したことだが、入り口は二つあるが片一方しか空けていず、そちらの方は見せないと言うことだった。その内の一列にやっと体を滑り込ませて書棚を物色する。人が一人通れるか通れないか、通るとしたら蟹の横ばいのようにして両側の本棚を潜り抜けてゆかねばならない。一体商売する気があるのかしらとさえ思いながらも、こちらもそれに構わず、奥へ侵入しようとする。それでも私の求める本は皆無のようだった。
あきらめて入り口の方に戻り、ふっと右上方を見上げると、「河上肇獄中書簡集(上)(下)」があった。思わず奥におられる横向きの店主らしき人に声をかける。「いくらですかね」。見ないとわからないと言われる。そこまで奥から出て来られるのも中々大変そうだ。気の毒になって、「いや、買うつもりはないのですが、ちょっと知ってみたかっただけです、わざわざ出て来ていただかなくって結構です」と申し上げたが、出て来られ、値段を教えてくださった。
私は、「いや、お宅の本は昔の僕(=マルクス主義者)だったら買いあさったのですが、今はクリスチャンなので要らなくなったのです、わざわざお呼びだてしてすみませんね」とつい無駄口を叩いてしまった。(実は治安維持法に引っかかって逮捕された河上肇が獄中でどんなことを考えていたか、恐らく聖書も手にしたことだろう、それについて何と書いているのか興味があったのだ)
「それにしても随分たくさん本を揃えましたね。このままでは本に囲まれて大変ですね。(押しつぶされ死んでしまいやしないですかという意味なのだが)」と、さらに失礼なことを言ってしまった。ところが店主の方は「いやー、あなたのような本の好きな人と話すのは楽しいですよ(本の売れる売れないはいいのですよという意味?)私も本が好きですから。」と言われた。
それからご自分のことを話され、「私は明治学院です、でも不信心だからいけません」と言われた。私は「いいや、不信心で結構ですよ、イエス様は愛してくださいますよ。」と答える。互いに更に身の内を明かす。お年は81歳ということであった。奥様もそれに近いのだろう。昭和8年からお父さんが始められ、ご自分は昭和30年から跡を引き継いでいるのだと言われた。10年ほど前、奥様が腰の骨を折られ、そのため片方の入り口は閉じているのだと言われた。恐らく何千冊という本の数だろう。その本の名前はもはや覚えていないと言う。ただひたすら本の中に埋もれる生活をなさっている。きっと跡を継ぐお子さんもおられないにちがいない。
すっかり親しくなって帰りがけに私の方から名刺を渡した。もちろん名刺と言っても私製であり無職だから何の肩書きもないものだ。先方も返礼に名刺を渡そうとされる。ところがその名刺がなかなか見つからないのだ。奥さんと一緒にたくさんある名刺をひっくり返しては捜しておられる。何分か後にやっと見つけて名刺をくださった。「東京都古書籍商業協同組合」と印刷されており、肩書きがあるのだが、その場で消されたのだろう。二文字の肩書きが修正液で消してあった。二文字は何なのだろう。「会長」?「書記」?「会計」?「会員」?「顧問」?。その他幾らでも考えられるが家に帰ってから秘かに推察して楽しんだ。
私はお二人で80過ぎまで古書に埋もれて生活し、このまま主の救いも知らずに人生を終えられるのかと思うと、哀れに思えて仕方なかった。何とかこの人生の先輩に福音をお伝えしたいと思って店を出た。かくして、この日の午後は私にとって果たして新しい知己の誕生の日となるのだろうか。それは私の今後の課題である。
主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(新約聖書 ローマ10・13)
(写真はその古本屋さんを出てさらに二キロほど歩いてもう一軒の古書店を捜しているうちに見かけたアジサイの花。昨日までの空模様と打って変わり晴天の下、あちらこちらの家前にアジサイの花が咲き競っていた。「あじさいの 古書さがしの われを見る」)
昨日は宇都宮まで出かけた。私のところからは東武日光線で出かけ、新栃木で宇都宮線に乗り換え、「おもちゃのまち」の一つ先かの「安塚」で降りる。年に四回出かけている。もう何年越しになるのであろうか、相当な回数をこのコースで行き来していることになる。
電車内は私にとっては立派な書斎である。まわりに人がおられようとそれほど気にならない。専ら聖書に没頭する。日ごろ充分時間はあるのだが、土壇場にならないと考えがまとまらない性質のためだ。つくづくスロースターターだなと自分でも思う。恐らく日光線車中でも、脇目もふらず聖書を読み、ノートにみことばを書き込んでいたのだろう。前の相席に一人の女性の方が座っておられたことは知っていた。
その方が乗換駅の新栃木に近づいたとき、ご自分のカバンから一冊の小さな冊子を出され、「もし良かったら、読んでください」と差し出された。一見して宗教の勧めであることがわかった。「いや、私は聖書があるから、結構です」と申し上げた。「でもこの本にも聖書のことが書いてあるのですよ、先ほどから見ていると一所懸命読んでおられるようだから、お勧めしました」と言われた。
いつもは大体お断りするのだが、なぜか受け取り、代わりに手許にあった私の手製の証「主が与えてくださった家族の恵み」(A5判)をお渡しした。そして新栃木で下車した私はその方とは別れて宇都宮線に乗り換えるため、しばし待った。その間、一体どんな本か恐る恐る覗いて見ると、朝鮮の人が書いている例の本であることがわかった。とんだ本をいただいたものだなと苦笑せざるを得なかった。
でも宇都宮線はのんびりしていて、そんな私の思いを吹き飛ばす。途中、窓の外を見ていると、走る電車に向かって二人の男性が小雨の中、黄色い看板のようなものを持ち上げながら盛んに動かしているのが見えた。「自動車教習生募集中」という表示であった。ご苦労なことである。こうして電車が通るたびに振っておられるのだなあーと、不況下にある日本社会の一断面を見させられた思いがした。けれどもきっと効果があるのだろう。一時間に二本かそこらの本数であろうが、東京では考えられない発想と思い、何となくほっとした。書斎は転じて社会観察の場となった。
さて現地にはいつも迎えに来ていただくWさんの車に乗せてもらい、宇都宮の方々とともに日曜礼拝に参加した。そのあとの福音集会も無事終わり、報告の時間になった。こちらでは皆さん、先週行なわれ300名前後集まられた「那須塩原の喜びの集い」の余韻がみなぎっており、その結果などが説明されていた。そして最後に『神の戒め』というベックさんの書かれた本が出版され入荷しているという説明があった。
私にとって実にタイムリーな本の紹介であった。早速買い求め、帰りの電車で、往きの電車で受け取った本と対照しながら読むことができたからである。私は土曜日病床にあるAさんと、お見舞いに行ったFさんたちとともに「聖書の信仰」と「聖書を自己の都合の良いように適用し逸脱する宗教」の違いを話しあったたばかりであったからである。
春日部駅を降りると小雨だった。そのため、いつも降りる西口でなく東口に降りて大回りして帰った。地下道を降りるや否や、地下道を登って来る親子三人連れとすれ違った。何とかつて20年前ともに礼拝した教会の友たちが教会から帰ってくるところであった。主は一体何を教えようとされているのであろうか。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。(箴言3・6)
(写真は昨日5月31日限りで廃車にした車。いつもはブログに批判的な家人も昨日ばかりは「写真を載せたら」と好意的に言ってくれた。さすがに廃車に届けに行った次女は寂しそうであった。したがってこの車はこの写真が最初で最後である。7年間ご苦労様!)
久しぶりに病床にあるAさんとの交友を書いてみたい。今日はFさんと一緒だった。三、四日前から体調がすぐれない、気力が萎えてゆきそうだ、と言われた。覚悟していたとはいえ、辛いことに違いない。
けれどもAさんは快活に話してくださる。今日は最初からキリスト信仰についてであった。Aさんは主なるお方は人間がつくりあげるものでないという意味のことをはっきり言われ、所詮、世の中の宗教はそこから派生・割引(堕落)したものだと言われる。聖書の示す真理に畏敬の念をもっておられることがよくわかる。
昔ソ連へ行かれたことがあるらしい、その折、ギリシヤ正教会の教会堂を窓から窺い見たが、仰々しく着飾った聖職者がいたり、また堂内の様子を見て違和感を覚えたと言われた。私はその話しをお聞きしながら、もしそれら聖職者の方がまことに主を恐れていらっしゃらなかったら、大変なことだと思い、エゼキエル書の八章を早速開いて読ませていただいた。キリスト信仰と言っても宗教化(偶像崇拝化)したらこんなに恐ろしいことはないと思った。しかし無神論者であったと言われたAさんはまことに信仰の本質を見抜いておられたとも思った。
そこから話は主がどこにおられるかに話は進んだ。Aさんは決して主なる神様は物では表わせませんよね、それを物としてあらわそうとするから問題なのだという意味のことをこれまたはっきり言われた。Fさんも私も脱帽だった。そしてAさんが主からまことのいのちをいただいておられ聖霊の宮となっておられることを心から感謝した。
最後にFさんが2コリント5・1~9までを示され三人で輪読して互いに祈って別れた。私たちはAさんをとおしてまことの信仰を教えられた思いであった。Aさんがご自身の生命と引きかえに、永遠のいのちをいただいておられるので、こうして週末にともに交われる恵みを主イエス様に心から感謝しながら家路を急いだ。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。(新約聖書 2コリント5・1~3)
人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。(旧約聖書 エレミヤ23・24)
(写真は週の始まり日曜日に日立のFさん宅でお見かけしたバラの花。)
今日は市川で行なわれた葬儀に出席するために朝から出かけた。ご家族、ご親族、友人の方が集われることはわかっていたが、それ以外どんな方が集われるかはわからなかった。30分ほど早めに出かけたが、次々キリスト集会の方々が集まって来られ、内心驚かされた。
Kお母さんは81歳で長年心臓弁膜症から来る脳梗塞に苦しめられ、体がご不自由な闘病生活であり、この5月20日に召されたのも同日の朝、襲ってきた脳梗塞が原因であった。けれどもこのような不自由な体や家庭の諸問題を背負う中で、主イエス・キリストの救いにあずかられ、祈ることを主から信仰として与えられたお方であった。
ご家族・ご親族・ご友人以外に多くの主イエス・キリストを信ずる、お母様からすると若いわれわれがたくさん集ったことは、それだけお母様が一人一人の祈りの中で支えられ、交わりを受けられたことの大きな証であった。葬儀は賛美、祈り、聖書に基づくメッセージなどをもとに行なわれて、式の終わりにはご遺族であるお二人のご挨拶があった。
ご長女は苦労の多かったお母さんが救われて、闘病中もともに祈ることのできた幸いを語られた。もちろん順風の時ばかりではなかった。お互いに砕かれない自我をもとに角突き合わせざるを得なかったときもあったようだ。しかし一片のみことば(後述)がお母さんの思いを変えたことや召される前にはともに一つの祈りをささげることができたとその感謝を語られた。
最後に挨拶された弟君であられるご長男は、苦労をかけたが、いつも気丈であり、自分を愛し支えてくれたお母様を思い出し、しばし言葉に窮される場面もあった。亡くなる何日か前、好物のケンタッキーを三口ほど食べさせてあげたりしたことなどユーモアを交えて語ってくださり、最後にみことばを披露してくださった。
私は式に集わせていただいて改めて主の愛の大きさを思わされた。ルターは昨日も紹介した本の中でモーセによる詩篇の講解に触れて次のように語っている。
それゆえ、もしあなたが教会について判断を下したいなら、いかなる欠陥も躓きとなるものも存在しないような場所ではなく、純粋なみ言葉が説かれている場所、また純粋なサクラメントが執行されている場所、さらにみ言葉を愛し人びとの前でみ言葉を告白する人がいる場所を教会であると単純に考えるべきなのである。(『生と死について』マルティン・ルター著金子晴勇著33頁)
含蓄の深い言葉である。Kお母さんとそのご家族の証をとおしても教えられたことである。最後にご遺族のお二人が読まれたみことばを載せておく。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(新約聖書 使徒16・31、マタイ11・28)
(写真は昨日に引き続いて、Fさん宅のお庭の造作二例目の作品である。)
明日、Iさんの葬儀が市川で行なわれる。
Iさん、Iさんご家族のことを瞑想し、半日過す中で、以下のルターの文章を読んだ。まだ全文を読んでいないが、その比較的初めの部分、詩篇90・3の講解の最後の部分を紹介する。
あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」(旧約聖書 詩篇90・3)
現在の生活はわざわいの多いものであるが、死が先立ち生命がこれに続くということは、まことに慰めに満ちあふれた思想である。
この点をモーセは熱心に説き明かそうとして言う、「あなたは人間を死にいたらせ(これは第一にくる呪いである)、<人の子よ、帰れ>と言いたもう(これが第二にくる、もしくは後続する最善のものである)」※と。
同じく「主は貧しくし、また富ませる」(サムエル上2・7)とあって、「貧しい」存在は不幸に満ちたものであるが、もしかくも多く「富ませられる」のであるならば、だれがこの不幸を悲しみ悔いるであろうか。飢えることは悲惨なものである。だがその後、より大きな喜びをもってわれわれは食事を楽しむのである。
それゆえ、モーセもここで死後に生命が続いて生ずるであろうというこの希望を間接的に提示しているのであって、他の動物のように人が消滅してゆく単なる未来のことを述べているのではない。むしろ人びとが死ぬというのは、謙虚にされるために生じているのであって、死のうちにとどまり続けることがないためなのである。
彼はこの希望を、自己の罪と神の怒りとの省察によりその心が徹底的に震撼された人たちに、示している。そして祈りを終えるにあたって彼は死と神の怒りとを克服すべき教えをいっそう明瞭に告げ知らせるであろう。
だが、読者はまたモーセが用いている修辞学上の表現に留意すべきである。彼が「あなたは<人の子よ、帰れ>と言いたもう」と述べるさいに、独自の考え方にもとづいて日常会話の形式を保存しているからである。
実際、彼は創世記において「<大空、太陽、月があるように>と神は宣うた」等々、また同様に「さあ人間を創ろう」と述べて、万物がみ言葉によって創造され保持されていることに注目している。彼がこのような会話体を用いているのは、一語でもって万物を滅ぼしまた創造するペルソナの偉大さを示すためである。
言葉ほど重みのないものが考えられ得ようか。それに反し神が言葉を発せられると間髪を入れず語られたことは現成する。かくて神が私の母に「懐妊せよ」と言われると、彼女は懐妊するし、私に向かって「生まれよ」と語られると、私は生まれ出るのである。
※冒頭の新改訳はルター訳でそうなる(引用者注)
(文章は『生と死について―詩篇90篇講解―』マルティン・ルター著金子晴勇訳創文社 50~51頁からの引用。写真は昨日3ヶ月ぶりに訪れた茨城県日立市で、福音集会・交わりの後、Fさんのお宅で拝見させていただいた庭の水道栓の造作。かわいいので写真に納めさせていただいた。)
昨日は新しい司法制度が始まった日だと夜テレビは伝えていた。すでにブログで紹介したように昨日は主イエス様の昇天記念日だった※。人により「日」は様々の思いを与える。
私は48年前のこの日を忘れることはない。その日も太陽は照りつけていたが、絶対的な喪失感に襲われて病院を離れ、葬儀の用意のために家へ帰った。
幸い、母はメモを遺していてくれた。市立病院に入院する前、自宅での病臥中ではあったが。
3月29日
主人、豊郷病院へ薬貰いに
帰り早々下痢は止まらんかも知れんと ガクッと来る
昨夕から何とか努力してもう一度起ちなおりたいと思っていた
時だけに眼の前が真っ暗になりそう
何とか温かい励ましの言葉が貰えないものかしら?
死を覚悟しているとは言え
○○○万利へ7時ごろ泊まりに行く
3月30日
来年栄冠を獲得した時
去年の失敗があったればこそと喜んでくれたら
どんなにか嬉しいことだろうと もうそれだけで満足
医者に捨てられても生きなければならないとそればかり
3月31日
腹がはるので・・・不快
昨日よりは力が出るが丸い鏡掛けに映った顔、目もくぼみ
頬こけ死の一歩を思わせるようでギョッとする
彼女の日記は毎日の食事記録があり、その後このような所感が書いてある。その日記も4月5日で終わっている。それからすぐ市立病院に入院し、2ヶ月弱で亡くなった。事情があって彼女の生前の写真は数枚に過ぎず、必要最小限の日記が遺された。(極めつけは以前初めのころのブログ7月7日に紹介したものがある。)
母が亡くなって、8年して私は主イエス様の救いにあずかった。母の死をとおして私は主のみもとに来れたと思う。だから理屈に合わない論法かも知れぬが、母が天国にいないはずはないと確信している。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(新約聖書 ヨハネ12・24~25)
(※復活節の決め方が年によって違うので主の昇天日も年によって違います。写真はここ何日か前から、にわかに古利根川に出現した二羽の白鳥です。「ロシアへ帰らないのかなあー」と道行く人は言いながら、それでも愛しんで眺めている日々です。)
今朝は雲ひとつない晴天で、久しぶりに清々しい。ここ数日日中は気温も上昇して汗ばむほどだ。電車は軒並み冷房を入れている。通勤通学時に水準を合わせるのだろうか。そうでない時間帯にもその余波は続くのだろうか。人により様々な好みがあるが、私は冷房は苦手の方である。
火曜日、吉祥寺からの帰り道、三男の家に物を届けに、荻窪から方南町へ丸の内線に乗車した。時ならぬ冷房で朝からくしゃみは出るは鼻をぐずぐずさせていた。疲れもあったのだろうか。ぐっすり寝込んでしまった。夢うつつの中でどなたかに肩を叩かれ「終点ですよ」と言われた。親切を謝しながら、辺りを見回すともなく見回すと乗客の方はそれぞれ降りられて折り返しの電車に乗るために新たな乗客の方が乗って来られるのを感じた。声をかけてくださった方もそうして乗り込んで来られた方だった。あわてて飛び降り、改札口に急ぎ、外へ出た。
突然、ショルダーバックのみの自分に気づく。電車にうっかり三男に届ける大切なものを入れた手提げ袋を置き忘れたことに気づく。再び慌てて改札口に戻り、停車してあった電車に飛び乗る。この路線はワンマンで車掌さんはいない。だからいくら「待って!」と呼びかけても効果はない、しかし、不思議と間に合った。車輌内を走りみると件の手提げ袋だけが鎮座ましましていた。その手提げ袋を安堵の思いで手にしたころには、再び電車はもと来た荻窪方面に進んでいる。やくなく隣の駅まで乗って行き、引き返して事なきを得た。
もし気がつかないで取り戻せなかったら、三男には迷惑をかけるし、折角の孫へのお土産もパーになるところだった。「危うし危うし」であった。電車に乗ると一度ならず、こうして居眠りの結果乗り過ごすことがこのところ多い。それにしても電車で声をかけてくださったお方には感謝だった。本来、車掌さんが乗っていれば、車掌さんがやる仕事である。社内の合理化の結果、丸の内線はワンマンにせざるを得なかったのだろうか。そのための安全装置は二重三重にしてあるようだ。けれども乗り合わせている乗客の方の親切心が機械一辺倒の社会に潤いを与えることは間違いない。
天気の話題から一気に電車の冷房、自己の失敗談と話は脱線したが、いつもNHKで天気予報氏として活躍しておられる平井さんは地元の方だ。いつかも線路際を自転車で走っていたら、反対側を軽快に走ってくる若者がいた。すれ違いざま、特徴ある顔立ちから平井さんだといっぺんにわかった。時々古利根川を走っておられるとも聞く。その平井さんが火曜日の夜のニュースの折は明日は気温が下がると言われた。そのつもりでいたらそうはならなかった。別に平井さんの責任ではないだろうが、人間くささのあふれた平井さんの天気予報に期待したい。
あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。(新約聖書 マタイ16・2~3)
(写真は隣家にものの見事に咲き誇る白い花々。何という名の花なのだろうか。隣の奥さん曰く、「もともとお宅からの株分けですよ」と。肝心の本家本元ではいつの間にか姿を消している。花は土を選ぶのだろうか。これもまた不思議な人知を超えた領域のできごとだ。)
昨日は何ヶ月ぶりかで家内と一緒に散策に出かけた。家から古利根川への行き帰りだが、3キロほどの行程である。行く途中それぞれのお宅の花々を鑑賞しながらゆっくり歩く。ここ二,三日初夏の陽気もあって、花々がいっせいに咲き揃っている。その中でもバラが圧倒的に多い。赤あり、黄色あり、ピンクあり、実に様々だ。バラは何となくわかるが、それでも「カクテル」なんて言われるとなるほどと思うが、ましてやその他の花はわからず、その度に花の名前を家内に確かめる。ところが何度聞いても名前が覚えられないのは亭主としては癪だ。
古利根川の土手ではすでに草刈が行なわれていた。その草地には黄色いくちばしの椋鳥(ムクドリ)が数羽あちらこちらで餌をついばんでせわしげである。別のキャベツ畑に近づいたらなにやら細長い青いものをくわえている椋鳥を間近で目撃した。家内がキャベツの青虫だと言う。私たちは二人とも農家育ちだからその辺はよくわかるのだが、家内の方が小さい時よく家の手伝いをやったせいであろう。虫食いのキャベツを指す。こちらはなるほどと思うだけだ。
こんな散策を続けながら大分家の近くまで戻ってきたが、あるお宅で花がすばらしいので見とれていたらご主人が「見ていきなさい」と通りに面しているところだけでなく、奥の立派な花園を案内してくださった。花を愛でるだけでこうして人の心は通い合うのだ。
さらに家の近くまで近接した。このお宅とは線路を挟んでほぼ対角線上の位置にある。普段交流が殆んどないはずだ。ところが私たちの散歩姿を見てあれ久しぶりだねと呼び止めてくださる。やはり花の愛好家である。家はおろか街路にも、線路際にも土があるところには花を植えていらっしゃる。数十種に及ぶだろう。花に呼びかけられる、「おまえはきれいだよ」と、おまけに花を「撫で撫で」される。ここまでくると圧倒される。線路向こうとは言え、私たちが最近庭師に入っていただき、樹木をたくさん伐採したことまでご存知だった。こうして花を通して様々な人のふれあいのありがたさを思う。
とうとう家に帰ってきたら、二軒隣の方が「変わりましたね」とおっしゃった。一見何のことかと思ったが、了解した。みことばを変えたことを指しておられた。この方は私の家に掲げてあるみことばをいつも注目しておられる方だ。そのみことばを書いておこう。
百合を思い見よ、
紡がず、織らざるなり
神はかく装い給えば、
まして汝らをや、
ああ信仰のうすき者よ。
人々の上に、主イエス様を心に迎えるまことの平和が訪れるように祈りたいと家内と思いを一つにしながら家に入った。
(写真は最初のご主人の家で拝見させていただいた「アマリス」。撮影の許可を得た。)
知人がたまたま電車に乗り換えたところ、目の前にいつもお話をうかがい遠くで拝見している方が座っておられたので、お声をかけたかったが、面識がないし人違いでは失礼になる、あれやこれやで迷った挙句、声をかけられずそのまま電車から降りてしまい、その方とは会話を交わさず仕舞いで残念だったという話を聞かせてくれた。
これとは違うが、高校時代だったか、冬の登校途中だと思うが彦根駅の上りホームに一人の白髪の柔和な老紳士が立っていた。長身だったその方がオーバーに身を包んでおられたのが印象的であった。一瞬はっとした。亀井勝一郎であった。遠くから仰ぎ見るようにして離れ去った記憶がある。もちろん彼だという確信はないが・・・。浪人時代には京都駅で巨人軍の選手と遭遇したこともある。当時同年齢の柴田が法政一高から鳴り物入りで入団したころだったと思う。その柴田を見かけた。京都同志社出身の国松が傍らにいたのでわかった。
電車における人と人の出会いを爾来今日に至るまで私は度々経験させていただいている。かつてもこのブログで書いたが『三四郎』の中で主人公が汽車内での乗り合わせた一女性との遭遇など小説のプロットとして欠かせない役割を果たしている。
もう40年以上前になる、結婚する前、家内と京都駅で会う約束をした。私ははるばる関東から西下した。ところが朝のその約束の時間には会えなかった。やむを得ず、その日は半日美術館めぐりなどして棒に振った。その帰りの時間に当時の京都駅二階にあった観光デパートの階段で二人は互いの姿を偶然見つけたのである。私は半日これで二人の関係は終わりだと相手に対して憎しみさえ持たんばかりであったから、もし出会っていなかったらどうなっていたのだろうと考えることもある。当時、その彼女を通して延々と続く自身への神からの問いかけが始まるとは露も想像しなかったから、やはり自分史にとっては大切な一齣にちがいない。
あれやこれや思いながらパスカルの『パンセ』のクレオパトラ云々の警句を思い出し、どこにあったか調べようとした。開けたところに、163「空しさ―恋愛の原因と結果。クレオパトラのこと。」とあった。前の節の「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変わっていただろう。」をすぐ見つけることができた。続いて〔恋愛がどんな原因、どんな結果をもっているかを、とくと考察してみることほど、人間の空しさについて教えられることはない。全世界がそのために変化するほどである(クレオパトラの鼻)〕。とあり、さらに164この世の空しさがわからない人は、まさにその人自身が空しいのである、と続く。
『パンセ』の件の文章は見なさいとばかりすぐ開けられた。これも偶然というには余りにも出来過ぎた話しにちがいない。けれど事実だ。様々な事がらを今日一日も経験することであろう。目に見えない神様のご意志に聞き従うものでありたい。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(新約聖書 使徒17・28)
(写真は昨日花を咲かせたポピー、虞美人草とも言う。さすが漱石が小説の題名にしただけはある花だ。)
今日は土曜日とあって念願かなってFさんと二人でAさんを見舞うことができた。これまで一人でお交わりにうかがっていたからである。また祈り会の皆さんの寄せ書きも持参した。そのうちの一人の方は最近集会に集い始められたばかりの方であったが詩篇23篇を文語体で諳んじておられるようで、それを書いてくださった。
主はわが牧者なり
われ乏しきことあらじ
主は我をみどりの野にふさせ
いこいの水浜(みぎわ)にともないたもう
主はわがたましいをいかし
御名のゆえをもて我をただしき路にみちびき給う
たといわれ死のかげの谷をあゆむとも
禍害(わざわい)をおそれじ
なんじ我とともに在ませばなり
それぞれの方のお心がAさんに伝わったことだろう。談笑する中でAさんが、キリスト信仰と他の新興宗教の違いを愛ということばを用いて言われた。いわゆる新興宗教は信じなさいと言う(ことはできても)が、愛しなさいとは言いませんね、と。二人ともうれしくなった。その通りだからである。またこれまで非合理ゆえと信仰を否定してきた彼の親友が先日もお見舞いに来られたとき自分自身が「生かされている」と言うようになった、そうですよね、私たちは(主によって)生かされているのですよね、とも言われた。病人のAさんをお見舞いに出かけたが終始主のことを分かち合い、初対面であったのに打ち解けて互いに話の出来たFさんがお祈りしてくださり、私たち二人は満たされた思いでそのまま帰ってきた。
この日は夜、浦和の集いをいつもとは違う施設をお借りして持つ初めての集会であった。収容人員は36名だった。当日は札幌の集いがあり、そちらの方に行っている方もあり、果たして人数が埋まるのだろうか、と心配であった。もちろん多くても困るとも思っていた。ところがプラスマイナスゼロその通りになった。しかも大人33名子ども3名というパズルの答えであった。それぞれが示されるまま集まったにもかかわらずである。
メッセンジャーはHさんであったが詩篇32篇を4つに分けて学んでくださった。その中にみことばに即して「主の学校」という普通の学校とちがう学校の説明があった。お聞きしながら、主の算術もすごいなあーと思っていた。36席が過不足なく36席として用いられたからである。もちろん浦和の方々の参加が意外に少なく、自己満足に陥ることなくさらに祈りなさいというメッセージをいただいた思いだった。
家に帰ると、先週に引き続き三男家族が帰っていた。次男も明朝フランスへ帰国するあわただしい中、家族を思っていつもよりは早めに帰宅した。振り返ってこの一日も主が豊かに導いてくださった一日であった。
(写真はベランダから見下ろしたバラ。あちらこちらでバラの花が咲き乱れている。今まで無関心であった花も興味を持つようになった。このブログのお蔭か。)
今日は定例になっている月一回の蘇畑さんをお招きしての家庭集会を主の祝福のうちに持たせていただいた。司会は次男に依頼した。外国にいて普段はなかなか春日部の方々ともお交わりする機会がなく祈りに覚えていただくためにも良かったのでなかっただろうか。職場にBorn againしたキリスト者が与えられていると家族の会話の中で聞いていたものだが、こうして集会の中でその証を聞くことが出来たことも恵みであった。
蘇畑さんのメッセージは「よくなりたいか」と題してヨハネ5・1~9を引用聖句にしたものだった。御代田でもお聞きしたのだが、家庭集会では時間もあり、たっぷりお話をうかがうことが出来た。語られる話が人間のことばであるが、幾つか主が示されなければわからないみことばをいただくことができた思いだった。そのようなうちの一つにルカ10・42「どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。」があり、ずしりと私の心を占領した。
本当の意味で自分をたいせつにするなら主イエス様を求めない法はないでしょうと、その意義を認めないで滅びに向かってゆく人々に半ば驚きをもって語られていたように思う。ご自身が学生時代どっぷりこの世の生活を謳歌している中から奇蹟的に救い出されたという思いが蘇畑さんの話の端々からうかがい知ることが出来た。
集われる人はいつもほど多くはなかったが、始めてこられた方も2名ほど加えられ主を真剣に求める者の心は満たされた。
顧みると2日から昨日の6日まで、御代田に2日3日、彦根に4日5日6日と滞在したが、家族の交わりやその他のたいせつな交わりも一つ一つ必要な交わりが与えられた。一堂に会することは許されなかったが、親である私たちは子どもたちとそれぞれのレベルで交わりが与えられたことも感謝であった。
特に後半の彦根行きは第一日目は先に行っていた三男家族と合流し義母をともに見舞えた。翌日は御代田から急行した次男と一緒に見舞えた。最後の日は私たちだけになったが、このことも主は導いてくださった。まるで未知数だらけの連立方程式のようにゴールデンウイークにおける交わりがどのように導かれるのかわからなかったが、終わってみると家内の二人の妹、一人の弟たち家族とも「必要な交わり」が与えられた。
彦根に帰る主目的であった義母のお見舞いも、祈りによる交わりを導いてくださり、一つ一つ「ありがとうございます」と繰り返された義母の声を聞くことが出来た。「胃ろう」を通して栄養分を摂取せざるを得ない義母としては精一杯の応答であるだけに私たちに対する主イエス様のあわれみだと感謝した次第である。
最後に今日の蘇畑さんのメッセージの最後に引用されたみことばを紹介し、義母もまたこの大路を通って天の御国へ凱旋させたいただく望みを抱いたことを記しておこう。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。・・・主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。(旧約聖書 イザヤ35・8~10)
(写真は昨日に引き続いて滋賀県犬上川の川床に降りて野蒜採りに夢中の孫二人。姉はしっかりと野蒜を手放さずにおり、妹はじっとその様子を観察している。)
昨日は孫二人と田舎の川原で思わぬ「拾い物」をした。と言っても物ではない。もっと素晴らしい「想い出」という物だ。
昨日5月5日は「こどもの日」だった。親はこどもをどのように楽しませてやろうかと気を遣う日ではないだろうか。折角、東京から滋賀という祖父の土地にやって来た孫たちだ。祖父である私としても何かしてやりたいと思っていた。
両親がご飯の片付けや洗濯など忙しそうにしているとき、特にあてもなく孫二人を連れ出して車の往来の激しい通りを避け、裏道を通り抜け、数百メートル離れた犬上川の土手を目指した。裏通りは小・中学と9年間、通いに通った想い出の場所・場所で、昔の勘を取り戻しながら歩きに歩いた。(田舎のゆえ幸いなことにそんなに土地は変わっていない)下の孫はまだ4歳なので時折ストライキを起こしそうになるが、何とかなだめすかしてそれでも2、30分して土手にたどりついたのではなかろうか。
土手には両岸に渡した鯉のぼりがたなびいているのを既に前日電車から確認してあった。当座の目当てはそれを見せることだったが、折角だから川床に降りて鯉のぼりを背景に写真でも取ろうと挑戦した。ところが川床は雑草が一杯の草原でとても子どもが踏み込めそうにもない。でも土手の斜面を孫二人とともにそろそろ足を踏み固めながら降りて行くことにした。今年6歳になる上の孫は下の子を健気にもリードしながら降りて行く。先頭はもちろん私だが・・・。途中このまま降りていって果たして登って来れるのかと気がかりになる。
けれども斜面を滑りそうになりながらも子どもたちは楽しそうだった。苦労しながら川床に降り立つ。私にとっても小学校6年の時の植物採集以来かもしれぬ。その当時は牧野富太郎博士が子どもの人気者でその筋の先生が指導してくれたように記憶する。その折私は川床に降りるのが怖かった、その川床にもっと小さい二人の孫が降り立ったのである。
そのうち上の孫が野蒜(のびる)を見つけ歓声を上げる。私にも捜せと言う。不思議なもので一面雑草だらけの草原だが目を凝らせば見つかるものだ。下の孫も見つけ、とうとう三人で野蒜抜きに夢中になった。上空には町特製の鯉が何匹も泳ぐ。しかもそのうちの一匹の鯉は地面に落ちていた。大きな大きな鯉を二人して引っ張る。遠くを黄色い車体の一両だけの近江電車が走ってゆく、更にその向こうを新幹線がすごいスピードで走るのも見える。もっと奥には湖東の柔らかい山並みが走る。こんな自然に興ずる遊びこそ、こどもたちのもっとも願うものでなかろうか。一遊びしてそれぞれ三人が両手に野蒜を手にして得意満面に帰ったのは言うまでもない。
野蒜手に 誰がリーダー こどもの日
イエスは小さい子どもたちを呼び寄せ、・・・言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(新約聖書 マタイ18・3)
4日の早朝、私たちは慌しく御代田を離れた。東京を回り、関西に行くよりは、しなの鉄道で篠ノ井に出て、そこから特急で名古屋に出て彦根に行くのが時間はかかるが料金は割安になると事前に知っていたのでそのコースを選んだ。
先刻、朔太郎の「旅上」を紹介したが、しなの鉄道の旅は眼下に千曲川を見、川向こうの山々は文字通りうら若草の萌えいずるままで、はしなくも「みずいろの車窓」によりかかる旅となった。その後さらに篠ノ井、松本、塩尻、木曽福島と中央線の新緑に萌える黄金地帯を走った。かつて高山から友人の車で何回か富山まで抜けたときの全山碧潤う地帯を通過した時のことも同時に思い出していた。残念ながら睡魔に勝てず写真に納める暇はなかったが、夢うつつのうちに短期間の滞在に終わった御代田の集いを回想していた。
今回御代田の西軽井沢国際福音センターで4日まで開かれた喜びの集いの最終日は彦根行きで参加できなかったがそれでも要所要所で必要な交わりが与えられた。センターに着くなり、一人のご婦人と再会した。以前お手紙を下さった方だったのでお礼を申し上げた。
夕食の席でまたそのご婦人と同席になった。6人テーブルであった。ところがその方の隣席に母子の方が座っておられた。にこやかなご挨拶をお受けした。玄関でお会いしたご婦人から言うと一つ席を隔てての位置だった。にわかに合点した。私が先ほどご挨拶したご婦人は人違いで、今テーブルでご挨拶を受けた方が私がお礼を申し上げたかった方だったことに気づいたからである。先のご婦人に非礼をわびた。お二人同士は初見のようだったが、姉妹と言ってもいいほどお顔がよく似ていた。そのことを言うと、「お互いに(主にあって)姉妹ですから、大丈夫ですよ、気になさらなくっても。」と話は弾んだ。その夜、私が話そうとしていたテーマは「兄弟姉妹と呼び合う幸せ」であったから、粋な主のお取り計らいに違いなかった。
翌日は朝から晩まで、礼拝、福音集会、喜びのコンサート、夜の集会、洗礼式と切れ目なく集いがあった。昼食をいただいて、長女家族が滞在しているセンターの上層にある嫁ぎ先の方の別荘へ歩いて出かけた。山道と言ってもゆるい勾配で適度な距離である。三人の孫はそれぞれ元気であった。
お暇を告げて帰ろうとしていたら向かいのFさんに声をかけられた。「教会の方がいらっしゃるから、交わって行きませんか」というお誘いであった。教会と言えば無関心でいられない、早速お邪魔した。ところがお相手の方は私にとっては旧知のIさんであった。しかし今まで個人的にお話ししたことはなかった。
Iさんは率直に言われた。「友だちにイエス様を紹介したいのですが、出席している教会にお誘いできないのです・・・」。まさしく以前私が悩んだ問題だ。早速私の経験を申し上げる。その時はお話しなかったが私自身洗礼を受ける時はフリーパスで何の試問もなかった。ところが私が関わった教会では洗礼を受ける時には役員の試問があった。私はその教会の創設期に関わっていたので、そういう規則をつくりあげた一人であった。教会在籍中その矛盾は私につきまとった。自身が負わなかったくびきをこれから主イエス様を求める方々に私は課していたからである。一事が万事である。その教会で挫折した。
洗礼は受けたからクリスチャンになるのではない。すでに主を受け入れ、御霊の働きを通して救われている証として洗礼を受ける。これが聖書が明らかにしていることである。したがって主を信じてパンとぶどうジュースにあずかる聖餐を受けている人はすでに神様の子どもとして新生の経験をしているのである。組織された教会はその神聖な領域に土足で踏み込むかのように様々な人の技を付加する。教会で人々が最初の救いの喜びも束の間いつの間にかアップアップするのは時間の問題である。私は20年間そのことを知らずに教会の中で主イエス様を退ける生活を繰り返していたのである。考えてみるとIさんをふくめ招いてくださったFさんも既に先に来て交わっておられたMさんも全員が教会経験者であった。
日曜のメッセージではベックさんが「主と私たち」という題で、また夜の集会では蘇畑さんが「よくなりたいか」青柳さんは「もう一度会いたい」と題して語ってくださった。短時日の間にここでは紹介しなかったが喜びのコンサート・証も用意してくださり、その合間合間にふさわしい交わりを用意してくださった。仕事で遅れてきた長男も夜の集会と洗礼式には出席できMさんをふくむ9名の方の洗礼に立ち会う恵みを得たことも感謝であった。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(新約聖書 ヨハネ3・6~7)
(写真は中央本線上松・倉本間のあたりの車窓より見た木曽川の様子。木曽川は大石ごろごろ、まわりは緑、いつ通過してもよいところだ。残念ながら特急であるせいと、こちらのカメラワークのせいで今一つきれいな写真とはなっていない。)
Mさん。受洗おめでとうございます。Mさんが洗礼を受けられたら良いのにとは思っていましたが、このことはMさんと主イエス様との関係だから私たちは黙っていようと思いました。何でも自分の意志で動いてしまう私たちの性質がありますから、イエス様に頼らないで受洗を勧める危険性があったからです。でも主イエス様は私たちだけでなく多くのMさんを愛する方々の祈りに答えて、こうして5月3日という日を選びMさんに受洗の決心をつけてくださったのですね。
39年前、私も受洗の恵みにあずかりました。そのときの詳しいことは覚えていませんが、ただ両親に洗礼のことは話さず、隠したままで洗礼を受けたことは確かなことです。そのために洗礼で濡れた下着の処置に困って、ここでは書けない恥ずかしいこともやってしまいました。「頭隠して尻隠さず」とは私のことで、敬虔から程遠い者です。主なる神様はそのこともすべてご存知で、今日まで私の信仰を守って来て下さいました。
その点、Mさんは少なくとも愛するお母様の前で洗礼を受けることが出来たのだから感謝ですね。またMさんはご自分の名前が聖書の中でもっとも頻出するので、さぞかしその度に恵みに満たされる経験をなさっていることでしょうね。Mさんの恵みがこれからも周りのまだ主イエス様を知らない人々に伝えられますようにお祈りしています。
イエス様は父なる神様から「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われたと聖書にあります。そしてその主なるイエス様が罪人を救うために、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(ヘブル1・3)から、罪人である私たちも聖なる者とされ、天の御国に入ることが出来、畏れ多くも私たちも主の兄弟(姉妹)とされたのだとみことばは語っています。これからともに天の国籍を持つ者として「兄弟姉妹」としてお交わりを続けて行きましょう。
最後にみことばをお贈りします。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(新約聖書 ピリピ3・13~14)
(写真は「しなの鉄道」御代田駅構内の花桃の木である。)
昨日は次女の運転する車で御代田の西軽井沢国際福音センターに夫婦で出かけた。朝7時前に出て、2時間ほどで着いたように記憶する。(老人ボケで記憶が定かでない)宿舎に着いてみると、多くの車が既に着いていた。中には高速での渋滞を避けて夜中走って来られたが、かえって渋滞に巻き込まれたという話も聞いた。その点、私たちの選んだ時間はたまたまその穴場を狙った形になり、渋滞もなくスムーズに走ったようだ。ゴールデンウイークの期間混雑に混雑を極めた高速1000円の「洗礼」を人並みに経験した形だ。
御代田でフランスから一時帰国し成田から直行した次男と午後合流する。少し熱ぽっかったことや北米の人と会食したことなどを話したため、文書による簡単な検疫チェックを受けたようだが無事で何よりであった。ここにも豚インフルエンザの「洗礼」に巻き込まれた姿があった。
夜の集会にともに出席する。喜びの集い第一夜だが多くの方が集まられていた。ガンで余命宣告一年を受けられたNさんの証を踏まえた司会で集会は進行した。二人の方の聖書からのメッセージを聞く。一人の方はHさんで『わたしはあなたの名を呼んだ』と題してヨハネ10・27~28からであった。もう一人は私だったが、『兄弟姉妹と呼び合う幸せ』と題してヘブル3・1を語らせていただいた。偶然のごとく『呼ぶ』が呼応している。二人で打ち合わせしたわけではない。早朝からみことばの用意をさせていただいたが、なぜか「神語り給う」ということばが私の耳から離れなかったがその通りになった。
集会の後、遅くまで日曜日の夜「洗礼」を受けるMさんを交え久方ぶりに次男次女と一緒に家族で交わる。長女家族はこの場にはいないがすでに嫁ぎ先の家族とともに御代田に来ている。長男も日曜日には来る。三男家族のみがこちらに来ていないのは残念だが・・・。
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。(旧約聖書 詩篇133・1~2)
(写真は西軽井沢国際福音センター内の洗礼槽の上のステンドグラスの絵)
昨日Aさんとまた一週間ぶりに会った。元気だった。左足の上げ下げができるようになった。イエス様のおかげかな、と言われた。それに引き替え二週間程前、庭に綺麗に咲き誇っていた花水木は花が落ち、見る影もなくなっていた。
二週間ほど前、Aさんは春めくまわりの気配を感じて、天の御国と言うけれど、地上のこの世界も捨てたものでないね、と言われた。私はと言えば、彼の言い分に同意しながらも複雑な思いでお聞きするばかりであった。そのおり次のみことばを思い出していた。
人はみな草のようで、その栄えは、みな花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(新約聖書 1ペテロ1・24、23)
今日はそのことをお伝えしたいと思ってお伺いしたら、Aさんも今日庭の花水木を見て同じ思いを持ち、私が行ったらがっかりするだろうから、綺麗な花でも生けておこうかな、と思ったと言われた。以心伝心と言うか、主イエス様は手探り状態で続けているAさんとの交友をこのように導いていてくださるのだと思った。
もっともAさんは「花は枯れ、しぼんで行くが、来年には又花を咲かせるね、その生命力はすごいね」と言われた。私は、ヨブ記の次のことばを思い出した。
木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。(ヨブ記14・7~11)
しかしこんなはかないいのちの存在である私たちが今や十字架にかかられ、三日後によみがえられた主イエス様を信ずる(受け入れる)だけで「永遠」のいのちが与えられるとはっきり約束されている。ただそのことだけを感謝し、ともにお祈りして辞去させていただいた。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)
(写真は庭に咲いたクレマチスの花。この花も何日かすると散る。「永遠」を想いなさいと主は語られる。)
今日は昭和の日。多くの昭和生まれの旧世代にとっては天皇誕生日だろう。祝日は年金生活者にとっても何となくありがたいものである。私は午前中から午後にかけて本の整理処分に勤しんだ。これで第三回目の処分になる。第一回は停年前後のときだから今から5、6年前になる。その後第二回をいつごろしたか記憶が定かでない。
家内は段ボール箱の数から、引き取り価格まで覚えている。私は処分してから、しまった処分しなければよかったと臍をかむのだが、そういうことはすぐ忘れてしまう。今回は十一箱になった。今まで生き延びていた多くの本が処分の対象となった。前回はやっと吉本隆明の本を処分したのだけは覚えているが、今回は生き延びていた森有正の本を処分した。その他マックス・ウエーバー関係の本もばっさり処分の対象となった。ドストエフスキーの小説類も。ジョン・ロックや福沢諭吉、丸山真男関係も処分した。多くの本は頁も開けられず、積読から私の手許を離れていったことになる。
永年、処分の対象になりながら生き延びていたマルクスの『資本論』も処分した。社会人になって最初に買った本であった。結局第一巻の最初の部分を少し見た程度だった。私自身がまもなく主イエス様の救いにあずかり、積極的に関わらなくなったし、世界的にもまさかのソビエト崩壊に象徴されるような脱イデオロギーの時代、冷戦の終結と移行し、多元化の時代で急速にマルクス離れが進んでいったが、青春の思いもあり残っていた。
整理しながらもこのように一つ一つの書籍にはもちろん愛着があった。しかしこのブログでもハドソン・テーラーが再臨の主をよく知るようになってからは、いつも意識していて、書架の不要な本に気を配るようになったと証したことを紹介したが、私こそ読みもしないで貯めこんでいる張本人であった。そのころから処分しようと考えていたことだったが・・・
それでも何冊かの本はいったん処分の対象に入っていながら段ボール箱につめる関係で今回も生き延びたものが相変わらず出てきた。そうして残された書籍に自分のこだわりを改めて思う。一例として大岡昇平の『レイテ戦記』がある。この記録文学はまだ捨て去りがたかった。
次回の処分は何年後になるのだろうか。それとも私自身が主の御許に行ってしまい、残された家族が処分する羽目になるのかもしれない。けれど今回の処分で、もう私の蔵書はほぼ峠を越したので、誰がどう処分しようと問題はないと思う。そういう意味ではきわめてさばさばした思いになった。ただ全く偶然だが、結果的には「昭和」に敬意を表したわけではないが、昭和史に関する中村さんの本など日本近代史に関する本は数冊残した。
家内は内心ほっとしたのではないだろうか。二階に書物が置いてあり、その重量を絶えず心配していたし、何よりも亭主が積読でその部屋に入らず、無用の長物に化していることを知って、何度か勧めても一向に耳を貸してもらえないで困っていたからだ。果たして古本屋さんは今回幾らの査定をしてくるのだろうか。先ほどペリカン便で業者の方が重い重いと言いながら引き取って下さり、一路江戸へと向かって行った。もはや未練がましいことを言わない。下記のことばに改めて目を留めたいものだ。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(新約聖書 マタイ24・35)
(写真は古利根川の今夕の姿。この川は江戸へ通じている? 昔なら船頭さんが米を運んだことだろう。今はペリカン便で書籍が運ばれる。)
「けんか」と言っても「喧嘩」ではない。一般にはなじみのないことばだが、家を主にささげるという意味の「献家」である。今日は親しい年少の友がその献家の集いを持つというので、熊谷まで行って来た。彼は春日部で生まれ春日部で育ち、私たちの子どもが親しくしていただいたほぼ同世代にあたる方である。結婚して、仕事の関係やその他の理由で過去、大宮・札幌・流山と移り住まわれ、40歳を前にして終(つい)の棲家(すみか)として熊谷を選び、そこに新居を構えられることになった。
親戚の方や建設に携われた方などを中心に総勢30名前後の方が集まられお祝いをした。ベックさんご夫妻も吉祥寺から駆けつけてくださり、ベックさんからはメッセージを給わった。引用聖句はヨシュア記から二箇所(24・14~15、23~24)であった。ここでは最初の部分のみ紹介する。
今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。(ヨシュア24・14~15)
新しい家が主に仕え、光である主イエス様だけを紹介したいとして建てられていることをともに喜び、神から離れやみの中を歩んでいた私たち罪人の救いのためにのみイエス様が来られ、イエス様はいのちを与える光そのものであるとベックさんは語ってくださった。
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。(ヨハネ12・46)
明かり取りと換気に注意が払われたリビングの集いの中で参加者全員で主を賛美をした。また奥様の伴奏で奥様の親友でもある二人の声楽家の方によって日本の歌曲も披露された。集った一人ひとりが心を開いて主の恵みを受ける一時となった。
紹介されたところによると、建築の設計はいとこのご主人が担当され、施工は奥さんの同級生のお父さんがなさり、周囲のキリスト者に祈られて竣工に至ったったことなどすべての点で恵まれたということであった。庭の植栽はこれからというところだが、玄関前面に駐車スペースを充分取られるなど人々に来ていただきたいという思いが伝わってくる装いだった。部屋の間取りで特徴的だと思わされたのはピアノ室が玄関の上がり鼻廊下に隣接して置かれていたことだ。庭に面して渡り廊下形式でリビングに入り、たくさんの人が自由に座れる仕組みになっていた。
熊谷は埼玉県北部の中心都市である。みことばがこのご家庭を通してひろがり、人々の救いの場として用いられるようにと思いながら帰って来た。
(写真は和田三造の絵。昔、人々は湖のそば、草地の上でイエス様からことばを聞いた。今日それにかわるのは家の集いである。光なる主がやみを照らしてくださることを期待しつつ・・・)
人には様々な記念日がある。誕生日は言うまでもないだろう。そして結婚記念日と言うものもある。実は昨日は私たち夫婦の結婚記念日であった。1970年4月26日も日曜日であった。京都の教会で、午後一時半が結婚式の始まった時間であった(ようだ)。
例年になく、今年は家内の方が数日前からその日にちを言い出した。例年、お互いに忘れていて、過ぎ去ってから気づく。それだけ私たちにとってはこのところ印象の薄い日になってしまっている。これまでも記念日だと言っても特別何もしないできた。家の真向かいの80代の方はご主人が結婚記念日に奥様の年齢の数だけバラを買って来るとか、私にとっては信じられないサービス振りを家内からうらやましそうに聞かされたが私は無頓着を決め込んでいる。一向に私が腰を上げないものだから、家内も諦めているのだろう。せめて肩を叩いてくださいな、と可愛そうに言うので申し訳程度に肩をほんの数秒叩いたに過ぎない。
もちろん心の中ではこんなすばらしい妻はいないと思っている。私には分の過ぎた女性だからだ。実は結婚式の日のことは互いに詳細は年とともに忘れてしまうのだが、その日のことをはっきり記録してある文書がある。亡父の日記である。父はメモ魔と親戚では冷やかされていた位だから、この日のことも克明にメモッていた。
久しぶりにそれを引っ張り出して読んでみた。当日のことだけでなく、結婚前後のことも克明に書いてある。読んでいて恥ずかしくって顔を上げられない思いだ。こんな間柄でよく結婚できたものだと、過去を美化しがちな私にとって、事実を突きつけられてぐうの音が出なくなった。自分がいかにいい加減な人間であるかは親がよく知っていたのだ。人間でさえも知っているのだから、ましてや生きておられる神様はすべてのことを知っておられる。そうした上で主にあって結婚に導かれたのだと思った。
誕生日は手放しで喜べる日ではないだろうか。もちろんそうでない方もいらっしゃるだろう。けれども結婚記念日は意志を持った人間同士が生涯をともにするように導かれる日だからもともと無垢な形での喜びは存在しないのではないだろうか。そこに行くまではどんな結婚も紆余曲折があり、当人同士の間には葛藤があるからだ。まして結婚は一生続くものだ。互いに相手にへりくだること、これほど人生を教えられる関係はないと言える。
誕生日は個人のものだ。結婚記念日は二人のものだ。私は親から依頼心の強い人間、虚栄心の強い人間だと言われて育った。最近、妻がやはり親から○○○の強い子だと言われたということを初めて聞いた。こんな二人が一つの家庭を持てていることが実に不思議だった。主イエス様がおられなければとっくに破壊していただろう。
二人にはそれぞれ特技がある。家内は土いじり、花好きで、たまには絵も描くし、実際的でアナログの世界に生きており、携帯ですら持っていない。私はどちらかと言うと無趣味で本さえ与えておけば満足しており、ケチな癖にきわめて世事に疎い。こんな二人だが互いに影響しあってきているのも面白い。私がこのブログで紹介する花々は家内のアドバイスなしには名前さえも分らないのが現状だが、段々花に興味を持つようになってきた。
最近夫婦でちょっとしたやりとりがあった。私が「君には唯一出来ないのがネットで、それができる亭主を持って良かったね」と得意そうに言ったら、家内も手編みしていた編み物の手を休め「そうだは、でも私もネットやっているのよ」とその編み物のネットを高々と拡げて見せた。絶妙なタイミングではあった。これから何年ともに生きられるか分らないが、心から妻を尊敬し愛する夫でありたいと思っている。
最後に結婚式の招待状(久しぶりに取り出して先の開始時間も分った次第)に載せた聖句を紹介しておこう。
主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい(旧約聖書 詩篇127・1 口語訳による)
(写真は言うまでもなく、一輪のバラ。ブログを見そうにもない家内にささげるもの。しかしこれとても家内の手になる数ある庭の花々の一輪に過ぎぬ。真向かいさんはバラを自腹をはたいて歳の数ほど上げるというのに・・・)
今日は何の日か。亡母の誕生日である。生きているとしたら92歳だ。一方、確かシェイクスピアの命日でもある、と思う。かつてこの二つを組み合わせて大真面目に母はシェイクスピアの生まれ変わりと空想したことがあった。自分でも一体自分の精神構造がどうなっているかわからないが、余程のマザコン少年であることは確かであろう。
ちなみに1955年の自由日記の4月23日には母(当時38歳)が次のように書いている。
十時頃からわら上げをした。四束宛、道迄出すのが中々苦労である。三回に三十束運んだ。一束二〇円として六百円也お金の有難味がつくづく分った。
主人夕方帰着○わらばき始末に出かけて呉れる。夕食の支度をして置いて、急いで手伝いに出掛けた。今年度は珍しく○の内の中に持って帰れ、安心して眠れる訳。(○は達筆で判読不能の字)
誕生日の「た」の字も出てこない。それだけ生活に追われていたのだろうか。もっとも元旦に次のように記している。
昭和三十年元旦を迎えるに当たり今年こそ充実した年でありたいと願う。
一、家計簿、主人、主婦、子供共々支出を明細にし予算生活をなし生活の合理化を計る。
二、日記を続け反省する。
三、健康にして明るい家庭にする。一週間宛計画表を作り一日一日を楽しい余裕のある物にしよう。先ず早寝早起きを励行しよう。そうして一日一時間読書に宛て視野を広め子供の期待に背かない心の豊かな親になり度い。
こんな堅苦しい親に育てられたのかと今にして思うが、冒頭に述べたようなことは反面母の教育の成果(?)だったのだろうか。その後私自身は母が亡くなり遅れた大学生としてスタートしたが、そのおり森有正の本を読み、彼が自分の娘に極力影響力を与えないようにし、自分を頼らないで生活するようにと注意しているという意味の感慨を読んでそうしようと思ったのもその反動であったかもしれない。しかしその後キリスト者になってこれらすべてから解放された。
参考までにさらに1958年(昭和33年)に母が書き上げた今年の予定を列挙する。
1月 セーター一枚 学生服 上着一枚 袷長着 菜種 土寄せ 施肥 麦 中耕
2月 袷長着 羽織 麦土入 わら上げ
3月 セーター編み直し一枚 ズボン 仕立替 筵 下敷 あみ 春蒔 仕掛
4月 大掃除 冬物洗濯
5月 田畑の耕作
6月 同上
7月 田圃除草
8月 布団 仕立替 冬物仕立直し
9月 大豆 小豆 収穫
10月 稲の収穫
11月 稲の収穫 裏作仕付
12月 漬物 年末大掃除
ちなみにこの年はミッチーブーム、フラフープ流行とあり、五味川純平の『人間の条件』がベストセラーになったとある。また今話題の衆議院の解散は自民党岸、社会党鈴木両党首の話し合い解散が4月25日に行われたとある。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。(新約聖書 エペソ6・2~3)
(写真は庭の石楠花。私の母にふさわしいイメージのような気もする。)
写真は横川のバス停車場の脇にあった桜である。写真を見れば見るほど一枝に様々な花がつぼみをつけて開花に備えていることに今更ながら驚かせられる。当日(4月17日)は高崎から信越線で横川駅まで来、バスで軽井沢駅まで行こうとして、この停車場に降り立ったばかりであった。
夕方、5時前後になっており碓井峠をふくむ山々は濃霧が立ち込めていた。画面のバックにその山々と濃霧が写っているのがそれである。うぐいすが人気の少ない広いバス停車場の上を「ほーほけきょ」とさえずりながら舞う。鳴き声に聞きほれていたが、見上げたときにはいつの間にか立ち去っていた。その代わりに数羽のひばりがそれぞれ二群れほど上空高く揚がっては下りまた揚がる交互の飛翔を繰り返すのが見えた。乗客は私たち夫婦をふくめ5名に留まった。谷底に固まった少数の私たちもそれぞれの思いを持ちながら碓井峠を越えて行くのだ。
高崎の平野部から山里に入り、左右に展開する風景に遅咲きの桜を見ながらの群馬・長野の県境を走ろうとする信越線の旅は横川以降が削られたためわずか半時間かそこらの乗車時間だが野趣に満ちていて好きだ。削られた路線を補強すべくJRが今もバスを走らせてくれているが、肝心の碓氷峠越えは濃霧に閉ざされてしまっていた。最終バスだからやむを得ない。
だからこの一枚の写真は私にとって貴重だ。
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。(旧約聖書 イザヤ35・1~2)
先日、ある方からお手紙をいただいた。最後に「同封しました切手は、又、私の様に心待ちにしている方がおられるかも・・・と思い、少ないですけれどお使い頂ければ感謝です。」とあり、美しい「ふるさとの花」シリーズの切手が2シート同封してあった。
短い文章の中に記されていたその方の悲しさ、辛さ、切なさをすべて包むやさしさが伝わってきて、胸が熱くなった。一人一人が傷つきやすいものをうちにかかえながら生きている。もしイエス様がいなかったら一体どうなるのだろうと思わずにはいられない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(旧約聖書 イザヤ42・3)
一週間ほど前、旧知のランさんから下記の祈りの要請が来ていた。
マダガスカルの政情のために引き続きお祈り下さい。およそ3週間前のクーデターの後、事態は少し平静になりました。けれども、それから投票によっ て選出された大統領(クーデターで追われた)の支持者が動員をかけ始め、地位回復を求めて毎日抗議行動を始めました。このような抗議行動は治安部隊による 催眠ガスが放出されたり発砲されたりして解散させられたりしています。(死者はいませんが、怪我人が何人かいます)アフリカ連合やEUや米国などは政権引継ぎはクーデターだと非難しており、次期大統領を国の合法的な指導者とは認めてきませんでした。したがって事態は依然として不安定です。
どうぞマダガスカルに平和が与えられるように、また政治的安定や良き政権が与えられるようにお祈り下さい。(中略)マラガシ語の翻訳チームがこのことによって大きな影響を受けたり、取り乱したりすることなく、引き続いて翻訳作業を進めてゆくことができるようにお祈り下さい。5月初旬に予定されていた翻訳セミナーが取り消されたこ とに対してマダガスカルに居住しているわれわれ4人のスタッフは少数の翻訳チームとともに小規模なセミナーを開催する計画です。この計画と準備のために 祈ってください。
様々なところで私たちは祈りを必要としている。先ほどの聖書の後半には次のように書かれていた。
彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。(イザヤ42・4)
(写真はライラックの花。以前2月3日のブログで紹介した枯死寸前と思われた木も、からみつくつたがはずされ、よみがえったのだろうか。まだまだ葉は少ないが・・・)
昨日もAさんのところへ行った。顔色もよく、元気だった。ベッドから仰ぎ見られる庭の「はなみずき」を指し、あの美しさ、庭にただよう様々な花の香りの良さ、これだけで自分は天国のような気がすると言われる。だから天国には夜がないというが、それでは星が見えないじゃないか、とすねてみられた。
彼は8月生まれで私より6ヶ月ほど歳をいっている。この前は権現堂の桜を家族と一緒に見ることができたが、今度は「あじさい」を見たい、あわよくば「まんじゅしゃげ」を見たい、誕生月を越えたいと言われた。でも、互いに先のことはわからないね、とも言い合った。昨日のブログで、異国の人の病中の手紙を紹介したが、何も今更そんな遠くの過去の人を紹介しなくても、目の前に病床生活を続けているAさんの胸中を自分は少しでも思いやることがあったのだろうかと、不明を恥じた。
二人で以下の聖書を読んだ。
あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか、紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
(新約聖書 ルカ12・25~28、32)
この世に対する未練・愛、家族への未練・愛をかかえながら病床生活を送り続けるAさんに主は最善のことをなして、今の生を豊かに与えてくださっているのでないか。最後にそのことを感謝し祈って別れた。
青空に はなみずきあり 涙ぬぐ
村田ユリ氏は『花の声』で次のように書いている。
「わすれなぐさ。名前が良い。ベルタ(この花をほしがったばかりに、恋人を水死させてしまった少女)でなくても、この碧は少女の心をとらえる。」
これだけではわからぬが、恐らくベルタがこの花を水辺で見つけ、それを欲しがったのだろう。相手の男性はベルタのためなら水の中火の中かえりみず尽くしたのだろう。結果的にいのちを落とす。だからこの花はベルタに取って忘れられない花となったのでないか。
春先、ここ1、2年体の調整がうまく行かない。ほぼ一年前も夫婦揃ってこけた。家内は10日入院した。私の方は入院こそしなかったが、家内よりは長く二か月余ぐだぐだ過さざるを得なかった。そんなことも忘れたかのように6月下旬からのこのブログを開始し今日まで継続してきた。
わすれなぐさは「forget me not」が原名のようである。聖書は絶えず語っている。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。(旧約聖書 詩篇 103・1~5)
今日の午後久しぶりに癌と戦っているAさんと交わることが許された。Aさんは病の中で体を動かす絶妙な主なる神様のご配慮をたたえられた。私自身、季節の移り変わりについてゆけない体をかこちそう(ぶつぶつ不平を言いそう)であったが、Aさんとの語らいを通して、主の恵みを忘れてはならないと思わされた。
友語る 神の恵みに 支えられ 動く肢体なり わすれなぐさか
写真は昨日に引き続きレンブラントの素描作品である。この、右側の一人の男性が一人の女性を立ち上がらせようとしている図を見ていると、両者の間にある信頼を思い、大きな慰めを覚える。題名は「病気の女を癒すキリスト」1659~60年(『レンブラントの素描』嘉門安雄著所収より)とあった。
私はこれまでどれだけキリストの十字架を直視してきただろうか。『キリストの最期』(ジェームズ・M・ストーカー著村岡崇光訳)の助けを得ながら、聖書をひもといて、そう言わざるを得なかった。そのことをこの機会に書き留めておきたい。
十字架刑が行なわれた現場では三つの群があったとストーカーは指摘する。すなわち兵士たちの無関心、イエスを憎み訴えたユダヤ教徒七十人議会の反感、ガリラヤ人の特に女性を中心とする同情・共感である。そして今日も生きておられるキリストご自身は、各人の家をたずね、その霊はひとりひとりのたましいに語りかけておられ、今もなお、反感、無関心、共感という三通りの反応をお受けになっているのだ、と。
私が彼の文章を読んで目を見開かされたのは、最も自分に縁遠いと思われた反感の輩の中に自分もふくまれているのでないかと思わされたことであった。すなわちユダヤ人七十人議会はなぜキリストに反感を持ったかと言うと、彼らが念願としたのは力であり、その力は物質的・外面的なものであり、また名誉と考えたのは自分たちの栄誉であったからである。
「彼らの夢に描く救い主というのは、政治的救済者であって、罪から人を救う人ではなかった。今日に至るまで、キリストの耳には、『今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。』※という叫びが届く。自分の罪を知って、自らの無価値さに全然気づかず、聖い神様の輝きや権威というものを求めようとしない霊的に浅はかな者の声である。罪が当然受けなければならない罰、それゆえにイエス・キリストが十字架で贖罪死を受けられたということに思い至らない。だから道徳的にも鈍感であり、その関心とするところはこの世のことばかりで十字架を必要としない人々の叫びである。だからキリスト信仰が頭の中で信ずる信条や、礼拝の雰囲気が良いとか、自分ひとりで安穏のうちに天国まで旅して行けるなら喜んで信じたいという者たちである。しかし、実際には、この信仰にはいるということは、すなわち、キリストを告白し、信仰ゆえの非難を甘んじて受け、逆に信仰ゆえにさげすまれている人々と交わり、キリストの旗を掲げることであるから、そういうものはまっぴらだというのである。自分の罪に悲しみ、謙卑というたましいの深奥部の本質に目覚めたものでなければ、キリストの十字架を尊ぶことはできない。」(同書163~164頁より引用。ただし引用にあたり、文意を優先し大幅に訳を変えた。※マタイ27・42)
そして十字架から決して降りようとされなかった主イエス・キリストの愛のみわざを次のように表現している。
「彼(イエス)を十字架の上に留めおいた力は、十字架を離れるのに要する力よりはるかに大きな力であった。彼が十字架に捕えられていたのは、手足をさし貫いている釘によってではなく、腕を縛っている綱によってではなく、あるいは、監視の兵隊によってでもなく、見えざる綱、あがないの愛という綱によってであり、神のご計画に拘束されておられたのである。」(同書162頁原文のまま)
ひるがえって初めの絵の感想に戻りたい。両者(イエスと女)の間にある信頼感に、十字架におかかりになった方とそれを信ずる者との切っても切れない関係を見るのは私の独断に過ぎるのであろうか。
わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。(旧約聖書 ホセア11・4)
受難週の真っ只中である。この機会に、イエスが十字架刑を甘受されるにいたるまでの一部始終のできごとを聖書を通してじっくり読んでみたいと思わされた。読んでみて2000年前のできごとが手に取るように四人の筆によって遺漏なきまでに記されていることに改めて大きな感動を覚えた。
普段、テレビも見ない、映画も見ない、小説は時には読むことがある。テレビや映画を見ないのは感動を覚えないからである。もっとも、感動を覚える作品を当方が知らなさ過ぎるのかもしれない。小説はじっくり自己を検証しながら作品の中に入って行けるので、愚鈍な私にはテレビ・映画の動く映像の世界が向いていないだけかもしれない。
しかし、四福音書はいかなる小説、テレビ、映画も太刀打ちできない真の書物である。たとえば以下の記述である。
それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。(新約聖書 ルカの福音書22・59~61)
ペテロはこの時大祭司の邸宅の中庭にいた。一方イエスは隣接する裁判室で有罪判決を受けておられた。そのとき、まわりの者からイエスの弟子であることを疑われて三度そのことを確かめられる。そして三度とも否認する。上の場面はその最後の場面である。四つの福音書はいずれもこれらの場面を描いているが、それぞれ特徴のある証言がなされている。その中で医者であるルカが描いたこの証言は、ペテロが最後の裏切りの言葉を口から発するか発しないかの瞬間に隣接するところにおられたイエスの耳にも伝わり、イエスが振り向かれ、ペテロを見つめられたことを記している。
取税人であるマタイが描いたものにも、ペテロの弟子マルコが描いたものにも、イエスの愛弟子であり漁師であったヨハネが描いたものにもそのことは記されていないのである。だからといってこれらの三つの福音書がルカの福音書に劣るということはない。ましてやこのように福音書同士が矛盾した証言をしているから、聖書は信用できないとして、それ以上読むことを諦めてしまうとすればまことに愚の骨頂ではないだろうか。年恰好も職業も性格も異なる四人が一つの行為「ペテロの裏切り」をそれぞれの立場で描いて、読者に伝える真実は並みのテレビ・映画にはるかにまさるものである。
昨日、テレビは金正日の姿を何度もテレビで映した。考えてみると何億という人間があの場面を見たのである。しかし伝わってくるものと言えば空しさのみでなかっただろうか。それに対して先述の聖書の場面を読み取るとき無限の慰めが沸いてくるのでないか。ここではストーカーの叙述を紹介しておく。
この一瞬の眼差しの中に、ペテロはゆるしと言いがたき愛とを見た。その中に自分自身を見たとすれば、さらに多く自分の救い主をそこに見た。キリストの心がこのようにあらわされたのを、彼はいまだ経験したことがなかった。自分がどのような主を否んだのかを知るに及んで、彼の心は痛んだ。人の心を痛ましめるものは常にこれである。われわれをして涙あらしめるものはわれわれの罪ではない。どのような救い主に対してわれわれが罪を犯したかを知るとき、われわれの涙はあふれる。彼は激しく泣いた。だが罪を洗い流すためにではなく、すでに罪が洗い流されたことを知っていたからである。前者は激しい夕立であるが、後者はひっきりなしに、長々と降りしきる雨であり、地に深く浸透してたましいの草木を根元から潤すものである。実際、ペテロがその後、この世においてなしたすべての良き働きは、ここに真の発端があった。(『キリストの最期』ストーカー著村岡訳44~45頁)
見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(新約聖書 黙示1・7)
いかなる裏切りも赦される。主の前に悔い砕かれた者は必ず赦される。愛する人々が主イエス・キリストの来臨とさばきを前にして嘆くことがないようにと切に祈るものである。
(写真は日曜日の大阪・大川、源八橋付近から見た大阪城。正面遠くに見えるが、瞳をこらさぬと見えぬ。主を見ることかくの如し?)
今日の写真は私の田舎の駅頭の写真である。実はこの駅頭をめぐっては昨日(高崎の方と同乗して帰ってきたという話)の話で省いた話がある。昨日の話は旅の終点の話であったが、あの時、この駅から私は出発して延々10時間足らずの「青春18切符」の鈍行の旅に出たのであったが、その出発点ですでにこんな出来ごとがあったのだ。
あの日の早朝、一人のご婦人があとからプラットホームに入ってきた私に会釈のような仕草をされた(と思った)。咄嗟に私は「吉川さんですか」とお聞きしていた。その方は怪訝そうな顔をされたが、図星だった。続いて「お兄さんはお元気ですか」とお聞きしたら「弟ですか」と言われた。
実はその方の弟さんが私の小学校・中学校の同級生であった。同級生とは中学卒業以来話を交わしたことはなく、もちろん会ってもいない、どこの高校へ進学したかも知らない。だからかれこれ50年来会っていない。ましてや同級生のお姉さんとは話してみると私より2年先輩であったから、私が知る由がないのである。ところが、私の口から咄嗟に「吉川さんですか」と苗字がすらすらと出てきたのである。決して住まいも近くない。逆にその方に私の家を説明するとやっと思い出されたような按配であった。
それにしても最初会釈されたように思いましたからお声をかけましたが、と言ったら決してそのつもりはなかったと言われた。田舎にある風習で見知らぬ間柄でも少し頭を下げる所作の一つであったようだ。もちろん自分が覚えてもいない人から急に出合ってたちどころに旧姓を言われては面食らうことだろう。その後電車の中でほんの10分足らずの間だが互いに話を交わして共通の知人の名前を出して話した。田舎のお母さんが97歳になられその介護に時々大阪から来るのですよというお話であった。彦根駅でお別れしたが、大阪へ帰られる下りホームのご婦人と東京方面に帰る上りホームの私とでお互いに名残を惜しんで互いに深々と礼をしたことは言うまでもない。
深い余韻を心の内に宿しながら私は車窓の人となったが、我ながらどうして彼女の名前が咄嗟に出てきたのか不思議でならなかった。50年前に親しくしていた人ならともかく、それほど親しくさせていただいたわけでもない。そうは言いながらも私の2年先輩だから学校の行き帰りをふくめておよそ6年近くその交流の中にいたことは確かだ。休火山が何年か後に思い出したように噴火すればびっくりするだろう。でもマグマが地下奥深くしまいこまれていたものが噴出したに過ぎない。言ってみれば私という人間の心の奥深くにその記憶がしまいこまれていてそれが一挙に出てきたのでないか。人間の深層心理は複雑だ。
ところが話はまだ続きがある。話がややこしくなるがもう少し我慢していただきたい。実はこの写真を撮ったのは二週間前でなく、ついせんだっての土曜日の朝の写真である。この日も彦根(たかみや)の私の里にいたのであるが、この日は大阪へと家内と一緒に「喜びの集い」に出かけた日であった。その「喜びの集い」で今度は逆に私に声をかけてきたご婦人がいらっしゃった。アメリカのメリーランド在住のTさんであった。私は彼女に「Hさんはどうしてますか」と尋ねた。「元気ですよ、電話礼拝に参加してるよ」と言われた。大変うれしくなった。Hさんとは何年か前御代田でお会いして以来二度ほど会っている。実はこのHさんの遠縁が吉川さんである。彼女から数年前にその話を聞いた。わずか二週間かそこらの間に人の出会いを通してここにも目に見えない糸が結ばれているのを発見する。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしは忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。・・・」(旧約聖書 イザヤ49・15~16)
今春の「青春18切符」もこの10日で終わりである。今春は結局2セット購入したが、関西への行きかえりを中心に使ったきりで終わりそうである。終わりそうである、と言うのは、実はまだ一枚残っているからである。
二週間ほど前だったか、関西から帰って来るとき、私より年配の方(70歳代の方)から声をかけていただいた。その方も関西から帰って来られたところだった。しかも同じ「青春18切符」だった。東海道線で私の場合は彦根から乗車したのだが、その方は大阪からのようだった。たまたま小田原でともに湘南新宿ラインに乗り換えるときに相席になった方だった。その方は終点の高崎まで、私は大宮までというので乗車したのであった。
小田原から大宮までずっと話し込んだ。特にその方が甲子園まで行かれご自身の母校の応援の帰りだったこともあり、私の母校はまだその時は試合が始まっていなかったので互いに話が弾んだことや合唱の話やその他その方の生きかたなど心惹かれる面があったからである。そしてこの二週間の間にはがきのやりとりをするまでになった。その方は最初のはがきに次のように書いておられる。
前略 昨日は車中でご一緒頂き御陰様でたのしいひと時を過す事が出来ありがとうございました。旅は道連れと昔の人は申しましたが、まさに実感した次第です。(中略)中央線の話等参考になりました。しかし高崎線には殆んど見かけませんが四人掛けの車輌はよい雰囲気ですね。(後略)
中々筆達者で達筆の方である。お名前をお聞きすると何と私の知人と全く同じお名前であった。それやこれやで今度はその同姓同名で私の知人が書かれた文章の載っている冊子と、合唱をやっておられるというので、早速メサイアのCDも一緒にお送りした。そしたらまた御礼のおはがきが来た。文面を拝見するとCDも聞いてくださったようだし、知人の文章も読んでくださったようだ。今日の写真はその方が下さった絵葉書だ。私の信仰を理解してくださったか、「最後の晩餐」の絵葉書でイタリアで買い求められたもののようだ。
二週間前にわずか一時間か二時間足らずのお付き合いであったが、こうしてお互いに消息をやりとりさせていただいている。送られた絵葉書に感激してその方が銀行勤めだったとお聞きしたので、以前このブログでご紹介したことのある青柳さんの『若い日に創造者を覚えよ』をまた今日お送りした。今度はどんな感想を下さるか楽しみだ。その方は私とは違ってネットは全然やられない方でもっぱら筆のようだ。筆での便りもネットでは味わえない味がある。できれば息の長いおつきあいが出来ないかと考えている。
今晩、夜の家庭集会に出たら、メッセンジャーから聖書に添って受難週の各曜日の出来ごとを教えていただいた。木曜日が「最後の晩餐」の日に当たり、時間の測り方がユダヤ暦は違うから、確かもうこの時間は水曜日だが木曜日だと承ったように思う。私は何年経ってもこの手の話にうといし、メッセンジャーの話を間違って伝えているかもしれないのでもし間違っていたらお許しいただきたい。実はこのメッセンジャーは教会以来の付き合いだからそれこそ2時間どころの付き合いではない。30年前後になるがいつも味のある話を聞かせてくださる。主なる神様はそれぞれに賜物をふさわしく与えておられると思った。メッセージで引用された聖句を一部掲載しておく。
私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛(十字架上にご自身のひとり子イエスを、罪人の身代わりとして懸けられたことをさす)を与えてくださったことでしょう。(新約聖書 1ヨハネ3・1)
このことばはベックさんと交わったり、その話を聞いた方なら、一度ならず耳にされたことのあることばでないだろうか。私はある時ベックさんのメッセージをお聞きして大変感銘を受け、ベックさんのところに飛んでいって、ベックさん今までわからなかったことがわかりました、と今にも自分の態度が改まるとばかり申し上げたことがある。その時、ベックさんは怪訝な顔をされた。図星だった。「理解できるもんじゃない」からだ。
人々は聖書を完全に理解したら信仰を持てると誤解している。先日ムーディーの例の本(邦題『聖書研究の快楽』1909年訳)を読んでいたら、一箇所どうしても理解できない箇所があった。それは同書22頁にある以下の文章だ。
パスカルの言葉を聞け、「人のことは愛して理解すべく、神のことは理解して愛すべし」と、聖書を批評するものの多く失敗に終わる点はこの所に存するのである。彼らはその脳髄―理性―をして心臓―感情―の僕とするを肯(がえ)んぜざるのである。
私が疑問に思っていたのは、上の文章の中でムーディーが引用しているパスカルの「 」内の引用句の言葉であった。ところが最近国会図書館でムーディーの著作の新しい訳(1953年訳)に触れる機会があった。そこにはこうあった。
パスカルは「人の知識はそれを愛するために理解せられるべきである。しかし神の知識はそれを理解するために愛せらるべきである」と述べている。聖書を色々と批評して失敗に終わる点はここにあるのではなかろうか。彼らは頭脳を心の僕としないのである。
私には先述のベックさんの言葉があるし、また聖書自身に次のことが記されていることから見て、このムーディーの引用句は新訳の方がふさわしいように思うのだが・・・
しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(新約聖書 1コリント8・1後半~3)
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ。あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとって、あまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。(旧約聖書 詩篇139・4~6)
ムーディーの原文やムーディーがパスカルのどの箇所から引用したのか現在のところ確かめていないから、わからず、はっきりしたことは言えないが、翻訳の大切さ、恐ろしさを思わされた。もちろん私たち主を信ずる者には「聖霊」という全能のinterpreterがおられるのである。この方を通して私たちは聖書を言語の壁を越えて理解させていただくのである。このことも不思議なことでないだろうか。
主イエス様を益々愛する者になりたい。
(写真〔04.8.30〕はフランスのオーヴェル・シュル・オワーズで見かけた花々と土壁。ゴッホも歩いたところか?)
「はるばると来つるかな」、こんな日本語があるのかどうか知らないがそんな思いがふと心をよぎった。昨日の家庭集会で蘇畑さんのメッセージをお聞きしながら、想ったことだ。教会を出て19年が経とうとしている。それ以前教会に20年出席していたから、今年でほぼその時期は均衡し、折り返し点になるという私にとっては重要な年だ。
もし教会にあのままとどまっていたら、聖書が記す人間の罪の現実、それを圧倒する神様の愛をついぞ知りえなかったのでないか、と思うからである。昨日、蘇畑さんはパウロの証を紹介してくださった。その中から、かつての自分のあり方を「糞土」のように思うと言ったパウロの信仰を改めて知った。パウロのことばを引こう。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(新約聖書 ピリピ3・8)
パウロはローマ市民権を持つユダヤ人であった。ユダヤ人が神様の選びの民、エリートである意識は日本人の理解できない想像を超えた領域だ。その自らの誇りを「ちりあくた」と思ったのだ、ということだった。自らを省みてみるとそれほど誇るものを持ち合わせていないのに、相変わらずキリストよりも自らに恃むことが何と多いことか、と心を探られた。
昨日のブログでも紹介したが、38年前に酔漢の先輩が私に対してなされた問いは、結局、神が存在するかどうかそれをはっきり教えて欲しい、だったら神を信ずる、神を信じてやるというのがその帰結であった。多かれ少なかれこれが何もご自身に悩みを持たれない一般の人々の神様に対して取られる態度の典型でないだろうか。そして当時教会に出席したばかりのほやほやの私はこの問いに対して哲学的に答えようとしていた。主イエス様を自らの内に宿すことはなかったからである。宿さなくっても教会内ではキリスト教徒らしく生きることはできた。しかし全部それはニセモノであった。その自らの新たな偽善が露呈されたのが教会生活の後半の生活であった。そしてそこから脱出した。
だからと言って今自分が偽善者でないというつもりはない。むしろ逆にキリストをかしらとしキリストのみに従おうするこの群の交わりに加わっていると、益々、そのことが示される。蘇畑さんは昨日言われた。「世の人は神を否定することは自分を否定することだということを知らない」私にはそこまでの確かな主イエス様との結びつきがない。昨日の蘇畑さんの話の題は「救い―父と子と聖霊の御業」という題であった。一時間を越すメッセージになったのでないか。
その後、知人に頼まれて84歳で重篤で病院に入院しているIさんというご婦人をお見舞いした。その方はほとんどご自分では話すこともできなくなっている方だった。いつもは目を閉じておられるのに、この時は珍しく目を開いておられるという話だったが、その方の目を見ながら必死に語った。ことばが宙に舞わないようにと祈りながら・・・。最後はお祈りして帰ってきた。
改めて19年目を思う。もし教会に自分があのままいて相変わらず哲学的に物事を処理しようとしていたら、とてもこのような家庭集会やIさんとの交わりは与えられなかっただろう、と。私をふくめて主イエス様の救いのみわざを必要としていない者は誰もいないことを肝に銘じたい。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公けにお示しになりました。(新約聖書 ローマ3・25)
(写真は今朝も元気にやって来たひよどり。「つがい」で来るが、餌はとことん食べ尽くす。目がこちらを向いている。)
38年前のこの日の早朝、妻に陣痛が襲ってきた。互いにうろたえた。私はと言えば、前日先輩の先生と一対一で喫茶店か何かのお店で対座してまだ興奮冷めやらず、しかしいつの間にか寝込んでいたときだった。時ならぬ陣痛に私が天罰だと思ったのにはわけがある。そのことは後に回すとして、妻は新婚早々6月ごろ妊娠したことが分かったが、私たちはそれとは知らず妻の友人が遊びに来たので一緒に当時住んでいた足利の山をのんきに登ったことがあった。ところが妻はその後たちまち身体に変調を来たし、何ヶ月か安静を求められ病臥しなければならなくなった。後にも先にもこのときは私も健気に妻の身の回りの世話をした。予定日は確か4月18日かその辺であった。
新婚一年目というのは誰にとってもすべて無我夢中の時でないだろうか。まして子どもが誕生するということが加わり、異郷の地に新居を構えた私たちにとっても新しいことばかりの連続であった。一方職場は4年目が終わり5年目に入ろうとしていた。冒頭の先輩の先生との対座はそのようなときのできごとである。この先生は海軍兵学校だったか何かその筋の出身だったが敗戦のため早稲田仏文に進んだ人だった。私はこの先生には人間的に大変惹かれていた。赴任早々の私は校内で『経済学批判』を読書会形式で有志の先生と読み進めるなどしてマルクス主義者を気取っていた。ところがその私がそれもやめいつの間にかキリスト者に変えられてしまっていた。もともと教条的な共産主義に愛想を尽かしていたその先生は私の変身振りに興味を持たれたようであった。
彼は滅法アルコールに強い酒豪であった。一方私はアルコールは好きだが崩れるほど飲む意志もなく、逆にピューリタンとして酒は遠ざかりたかった。しかしその日、すなわち38年前の4月1日は別だった。彼に何としても、イエス・キリストの救いを知って欲しく、飲めないお酒の相手をしながらその先輩の先生と対座したのであった。彼はモンテーニュを自己の生き方の指針としていた人だった。私は逆にパスカルを通して福音を受け取れたことがあったから(それが救われる根本原因ではないが)会話は恐らくその辺をうろうろしていたのではないだろうか。先輩の先生は直裁に「ひろしさん、あなたは本当にイエスを信ずるのか。」と聞いてきた。理由云々でない。ズバリである。私もそれにたじろぐはずがない。「信じます。」と言い張る。そしてまた互いの話は進む。およそ一時間ほど経ったら、先生は再び同じ質問を繰り返した。私は当然「信じます。」と答えていた。それからまた互いに戦争責任をふくめ話を発展させていたのでないだろうか。その後また一時間が経過する。三度その先生は同じ質問を私に浴びせかけた。しかしこの三度目は凄味を帯びていた。彼の目はすでに酔眼のそれであったからである。私が「信じます。」と答えたのは当然であったろう。
ところが事態は容易でなかった。彼と別れて以来、彼の問いが今度は私を揺さぶり始めたからである。私は悪魔にしてやられた、と思った。別にその先生が悪魔だと言おうとしているのではない。一方、このとき新婚早々の妻は帰りの遅い亭主の醜態をそうとは知らず心配の余り、何度も家から国道50号線のバス停へと往復したと言う。身重の妻が自身を省みず、何度も往復したからたまったものではない。胎内にいる赤ちゃんは予定より3週間ばかり早く出ようと身構えたのであろう。陣痛は明け方襲ってきたのである。私は前夜の先輩とのウイスキーを傾けてのあの座談のせいだと観念し反省した。爾来、酒は誰に言われるまでもなく、ご法度にしている。
かくして長男はこの日午後2時に誕生した。かわいい子だった。
酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(新約聖書 エペソ5・18)
みことばを、すなおに受け入れなさい。(新約聖書 ヤコブ1・21)
(写真は送電線にいのち綱をつけて作業する人々。この人たちの労苦なくしてわがネットは成り立ち得ない。春日部市内緑町付近で撮影。)
昨日の東京新聞・夕刊の文化欄「思うままに」(梅原猛)で、「ある高級官僚の詩」と題して標題の詩が紹介されていた。作者は安嶋彌氏であり、高級官僚とは元文化庁長官であることをさす。以下はその新聞からの引用の詩である。
孫たちよ。
不思議な縁でお前たちと出
会った。
寂しいけれどもいづれ
別れのときがくるだらう。
孫たちよ。
健やかにあれよ。
弱い者をいたはれよ。
友を選べよ。
自らを限るなよ。
何ものを侍(たの)まず
誇をもって励めよ。
安楽は人間を卑俗にする。
急ぐな。しかし休むなよ。
憤りを発せよ。
明日では遅いよ
貪(むさぼり)と瞋(いかり)と痴(おろかさ)を去れば
心は平静とならう。
厭世は不毛だ、慨いたとて
何にならう。
蹉跌(さてつ)にもめげず
溌剌(はつらつ)とあれよ、燈朗であれ
よ。
涙をふるって、ほほゑめ
よ。
時には空を仰いで流れる雲
を見よ。
煌く真紅の日の出、日の入
も見よ。
ごきげんよう、さやうな
ら、さやうなら。
土曜日に久しぶりに長女家族が帰り、三人の孫を連れてきた。もし、私が安嶋氏のような文才・度量・識見があればこんな素晴らしい詩を送ることができるだろう。残念ながら私には氏の文才その他何もない。代わりに次の聖書の句を送ろうと思う。
子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。(新約聖書 コロサイ3・20)
私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。(新約聖書 ヨハネの手紙第三 4節)
(写真は昨日古利根川で遭遇したコガモたち。彼らも鴨の世界では幼き者である。じじがもは何を残すのだろうか。待てよ、カモたち鳥の世界に三世代同居が可能なのだろうか。)
連日、野球の話で恐縮する。今日はセンバツの話だ。昨日はセンバツ高校野球第5日目であった。その第三戦で彦根東は惜しくも敗退した。家内も私も彦根東の出身だ。ところが家内の高校時代の親友夫妻は同級生同士が結婚に導かれたのだが、今は習志野に住んでいる。標題はその彼ら夫妻に呼びかけたいセリフだ。彼らは何と答えるのだろうか。「東高残念でした」であろうか。
私としては甲子園での校歌を是非聞きたかった。残念ながらテレビで1回表だっただろうか、校歌が流れたに過ぎなかった。それでもさすがに家内は歌っていた。私は3回までの両校無得点を見届けて、さっさと幸手のAさんに会いに出かけた。見終わってから出かけるのでは遅くなると思ってそうしたのだが、無様な結果を見るようになるのは嫌だったこともある。
ところが帰ってきて家内に聞くと中々善戦であり、ハラハラドキドキさせられ、こんな試合を見るのは嫌だなあーと思いながらも、最後まで結局応援したということであった。くわしく聞いてみると試合は互いに抜きつ抜かれつであったが、4対5の東高のサヨナラ負けであったそうだ。惜しいことをした。12年前、勤務校が夏の甲子園大会に出たときには全校でバスを連ねて応援に行った。まさかの出場だったが、その上初戦突破を果たした。その時、甲子園のアルプススタンドで校歌を生徒と一緒に歌ったときは感動した。あの感激をもう一度と今度は甲子園に出かけて母校の校歌を歌うんだとも秘かに思っていたが、それは叶わぬ夢となった。代わりに校歌(一番だけ)を書いておこう。
開けよ この窓 呼べよ 緑
銀杏は きらめく 風と光
萌え立て いざ友 明るく きよく
薫れよ 雲さへ 山河に 映えて
鐘は鳴れり この朝
彦根東 彦根東 さやけし われら
それにしても習志野高校のブラスバンドの迫力は凄かった。さすが全国一だけはある。対する我が母校は赤一色で色の点では効果があったのではないか。「赤鬼魂」という前時代的なスローガンは校舎の垂れ幕になっていたが、私は恥ずかしくって先日のブログの写真にはその部分はわざと載せなかった。ところが先日の日本のプロ野球選抜チームはそんなことも意に介せず「侍ジャパン」で成功した。「赤鬼魂」も勝っていたら、「ヒコニャン」に劣らない流行語となり人気を呼んだかもしれない。こうなったら習志野高校に一勝でも多く勝ってほしい。
ところで習志野高校のブラスバンドの健闘振りを見て次のみことばを思い出した。
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。(旧約聖書 詩篇32・7)
「習志野高校おめでとう。」
(写真は校歌。作詞者は、戦前は東京農業大学教授で戦後は東高の教師、町の教育長などを歴任した明星派の歌人でもあった。私はこの方から小学校の時始めて「アインシュタイン」について聞いた。先年この方のご子息から、と言っても私より一回り上の方だが、呼ばれ、ほとんど50年ぶりにお交わりしたことがあった。この方は建築学のある方面でご造詣があったが私より先に主イエス様の救いにあずかっておられた、不思議なことであった。3年前の春先に召された。)
Aさんは技術者であった。大学では電気と機械の両学科を専攻されたと聞いている。「制御」を軸に機械メーカーである会社に貢献されてきたようだ。そのAさんが昨年末、病の発症に気づかれた。それまでも予兆はあったが見過ごしてきたと言われる。しかしこの時永年の親友であるSさんに「救い」を求められ、Sさんを通して物の見事に主イエス様の救いに預かられた。その後Sさんから聖書などを送ってもらわれたりしていた。
私がAさんとお会いしたのはその後一月余り経過した今年1月21日に親友のSさんに紹介されてベックさんと一緒に市内の病院でお会いしたのが初めででであった。親交を得てからちょうど今日で2ヶ月になる。私の身の回りには技術者はいない。接点は主イエス様だけであるが、このことが今私たちの友情の最大の源泉となっている。もう今では互いに何十年来のつき合いだと思っているから不思議だ。
病院内にお見舞いしたあるとき、癌が転移してきて頭で考えることが下肢に伝わらないとボヤかれ、「制御」をやっていた人間だったからよくわかる、機械だったら部品交換で済むが、人間はそういうわけには行かぬ、自分は確実に死に向かっていると言われるのを聞くのは辛かった。でもそこまで腹を割って話ができるように主イエス様は働いてくださったとしか言いようがない。
その後、自宅療養の道を選ばれ自宅に戻られたので、以前ほどお見舞いに行けなくなったが、先日はたまたまお見舞いの席で職場の30年来の先輩の方と同席させていただいてAさんから様々な過去のお話をお聞きすることができた。病院内で福音のメッセージを聞き心を平安に保つかたわら、これまでの越し方(生まれてから今日までの66年間)を家族、職場などの関係ごとに時系列でノートに書き留めたと言われた。技術者として「身」も「心」も良い加減にすまされない方なのだ。
自分は聖書を知らなかったので聖書が示している罪をすべて行なってきたというのがAさんのこのところの口癖だ。主を信じていなかったので泥の器の中はサタンの支配する巣窟だった。でも「永遠のいのち」を呼び求めてイエス様を信じた結果、聖霊が臨んで心の中の罪・咎がはっきり示されたのだ、とおっしゃる。それがそのようなしんどい作業になったのだろう。その結果を職場の先輩と交友関係のまだ新しい私を前にしての悔い改めのことばとなった。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新約聖書 1ヨハネ1・9)
その後もそのAさんの正直な罪の告白が圧倒的な印象となって私を支配している。そのことを思うごとに同時にまた次の聖書のことばを思い出さずにはおれなかった。
もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(新約聖書 ローマ8・9~11)
Aさんの罪の言い表しは、このAさんの内におられる御霊が言わせられたとしか言えないからだ。その御霊は肉が死んでも霊が生きると約束してくださり、Aさんは今や「永遠のいのち」をイエス様を信ずることをとおして確信しておられるから、そんな罪の告白ができるのだと思わされた。Aさんは自分は職場においても家族に対してもへりくだっていなかった、そのことを今謝りたいと言われた。そして次のみことばの意味することををご自身の思いに照らして言われた。
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(新約聖書 マタイ6・19~20)
今では地上のたくわえが何にもならないのがわかりました、と。今思うにAさんのこれらの証は聖書の預言に照らし合わせたものであり、1コリント14・24~25のみことばどおりで、折角その場にいながら、私には主にひれふす思いがなかったことを恥ずかしく思った。このような御霊が与えて下さる感動は人間業では到底不可能だ。背後にAさんの救いのために私たちだけでなく多くの方の祈りがあることを覚えさせられた。
徐々に痛みが出てきて今までどおり安眠はできないと言われるAさんのために私たちの知らないところで祈っていてくださる方々とともにこれからも心を合わせて祈り続けたい。
(写真は彦根城内にある彦根東高校の昨日の風景。同校は今日3月21日から始まる甲子園に出場することになった。)
この日、外務省で対モンゴル無償経済援助協定に調印がなされた。賠償・無償経済協力の総額は5250億円であった。これにより日本の第二次大戦の賠償が全部終了した。今から32年前のできごとである。
私の家では大きな男の子が生まれた。彼は四番目だったが、上の二人は病院であったのに対し、三人目の姉に引き続いて産院で生まれた。古利根川の川べりにあるその産院に上三人と一緒に出かけたことが懐かしい。家庭的でご飯もおいしく妻が大変安心して出産したように覚えている。男親である私の唯一の役割は赤ちゃんの命名であったが、以下のみことばから引用した。
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(新約聖書 2コリント9・8)
ところが長ずるに至り、家内が別の節だったと言い出した。家内が言うのは次の節である。
罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(新約聖書 ローマ5・20)
私としては、当時子沢山で決して経済的に豊かでなかったのに神様がすべて必要を満たしていてくださる感謝の思いがあり、そのように命名したつもりだった。ところが家内は別のみことばだったと言う。何しろ家内自身が産みの苦しみをしているのだから、このことで余り争わないようにしている。このみことばも素晴らしいからである。
そんな風にして誕生した彼だがエピソードには事欠かない。いつも微笑ましく思い返すのは一枚の写真である。滋賀の私の実家の縁側で子どもたち5人を私が撮影したものだが、それぞれの個性が出ていて面白い。そのときこの子は、両手でマルをつくって撮影者に向かっているのだ。思うに、私が写真を撮影するのが珍しかったのだろう、あるいはうれしかったのだろうか、それともおどけたのだろうか。本人に確かめてみたことがないのでわからないが、一番好きな写真の一つだ。
あともう一つ有名な家族内でのエピソードは、母親に自転車に乗せられていたのに、その自転車から知らぬうちに落とされていたことだ。母親と教会付属の幼稚園の帰りに、こども賛美歌を歌っての帰りだそうだ。その賛美歌は
小さい私の手はイエス様のもの。すべてはイエス様のもの。十字架で死なれたイエス様のもの。
という単純なものを繰り返して歌うのだが、この歌を歌うときは動作が伴う。「小さい私の手は」というところで両手を挙げて歌うのだが、奴さん自転車にしがみついていた手を離して大きく両手を挙げて賛美したからたまらない。自転車から落下した。彼にはこの他たくさんのエピソードが「満」載している。
(写真はパリ市内公園で見つけたユーモラスな像。教養がないのでこの像が誰だかわからないし、この物語も出所がわからないが、面白い図柄と思い掲載した〔06.11.23撮影〕)
久しぶりに土曜、日曜と車窓の人となった。行きは車内で聖書の「コロサイ人への手紙」を読み続けた。日ごろでも時間が充分にあるのにじっくり聖書のみことばを味わっていないことに改めて気づかされた。あわせて忙しい現代日本のサラリーマン諸氏が本当にくつろげるのは一体どのようなときなのかと思った。
朝7時過ぎに春日部を出て午後5時前に米原に着いた。この間乗り降りの移動をふくめてだが10時間程度経っている。ロビンソン・クルーソーは孤島に聖書一冊を持って漂流したはずだ。現代社会のオアシスは意外とこのような異空間にあるのではないか。列車が目的地に向かって走っている。時間は確実に進んで行く。人生そのものを暗示するかのように。そのような中で「永遠のいのち」の書である聖書を味わうのである。
米原から近江線で義母の病院へと直行した。ほんの2、30分であるが、義母と一緒にお祈りできた。私の祈りに合わせて、「ありがとうございます」と繰り返す。最後の「アーメン」にもまた「アーメン」と繰り返す。全く不思議としか言いようがない。聖書は主イエスの死からのよみがえりと主を信ずる者がそのよみがえりにあずかることが明記してある。そこには確実な希望がある。この、人の心が容易に受け入れられない真理を義母は受け入れている。感謝である。主のみわざとしか言いようがない。
日曜日は近江八幡の方々と一緒に礼拝をし、今度は午後2時に出て、再び車窓の人となり、12時前に春日部に戻れた。帰りの電車は懸案の「D.L.Moody」を読み終えることができた。この本はここ一月ほど読んでいるがブログで紹介できるものか、確信が持てなかったが、ややゴーサインを出せそうに思っている。なお主に慎重に尋ねたいと思う。
なお、どうでもいいことかもしれないが、土曜・日曜の交通費は「青春18切符」のお蔭で、締めて約5000円強であった。「18切符」5枚のうちまだ3枚残っているのでもう一回は関西へ帰れそうだ。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者(死んだ者)の初穂として死者の中からよみがえられました。(新約聖書 1コリント15・19~20)
(写真は言わずと知れた「青春18切符」。3月15日南彦根の印があるのは、当日南彦根→近江八幡→大宮とJRを使ったが最初乗った駅が「南彦根」だったからだ。)
昨日病院から自宅に戻られたAさんをAさんの親友のSさんとともに訪ねた。Aさんの住んでおられるこの町は5年前非常勤講師として通った懐かしい町だ。この町にはわずか一年しかいなかったが、良い思い出のあるところだ。それは多分に常勤で勤務していたときに比べ、気持ちにゆとりがあったからだろう。
けれども、それだけでなく、町全体が人情を残しており、落ち着いた人々の往来と町の中に位置するその商業高校が充分融合しているように私には思えたからである。かつては恐らくこの高校を出て、商店経営に勤しまれた方も多かったのではないだろうか。今もそんな人がその高校を大切にしていた。そんな親しみがあふれる町だった。
ところが5年ぶりに訪れた町は駅前がすっかり変わってしまっていた。そして今度はその 時は全く未知であったAさん家族をお見舞いに出かけ心を通わせようしている。Aさんの病状は決して生易しいものではない。そのような中で計画した最初の訪問は遠く福岡から来られた親友のSさんとご一緒してのお交わりになった。楽しい歓談を終えたら、すでに二時間弱経っていた。帰りがけにふっとお庭の沈丁花を感じた。
原色牧野植物大図鑑によると「中国原産、日本で は室町時代には庭などに栽植されている常緑低木。高さ1m位よく分枝する。葉は長さ4~8cm、革質。花は早春、旧年の枝先に頭状にかたまって開花し強い 香りがする。日本では雄株が多く結実しないがまれに雌株がある。和名沈丁花は沈香と丁子の花の香りを合わせもつ、また香りは沈香で花形は丁子に似ると2説 ある。漢名瑞香。」とあった。
病床にいるAさんに沈丁花の馥郁とした香りとと もに「永遠のいのち」を約束しているみことばをお伝えし続けたいと祈らざるを得なかった。
福音に 生きる望み 沈丁花
しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。(新約聖書 2コリント2・14)
以下の文章は『祈りによる力』(旧版1952年版)の抜粋である。日々キリスト者生活を歩む上で自分に最も欠けているものが、この祈りである。私は、祈りによる力を知らない愚か者である。
祈りに満ちた奉仕を造り出す祈りは、ちょうど私どもが風味をそえるために薬味を投じたような、わずかばかりの祈りではなく、その祈りこそ、私どもの体内にあって、血と骨とを造るものでなければなりません。
祈りは、一隅に押し込められてしまった、わずかばかりの務めではありません。また仕事や生活上の諸事のあいまに得た寸刻をそれにあてるというような断片的な務めでもありません。これは実に私どもにとって、最上の時間と最良の時と力とを献げて、なされなければならないものです。
密室といっても、それは研究に熱中し、職務上の活動に心を奪われてしまうような密室ではなく、祈りを第一とし、研究や活動を第二とする密室であります。研究も活動もこの密室の祈りによって更新され、有効なものとされます。
祈りは私どもが、幼少のころから教え込まれた小さな習慣ではありません。また一時間の食事に対して唱えられる、十五秒足らずの感謝の祈りでもありません。祈りは実に私どもの生涯における、最も重要なときの最も重要な働きです。祈りには、どんなに長い時間をかけた食事よりも、どんな山海の珍味に対するよりも、さらにまさる時間と欲求とを投ずべきです。
神に代わって人々に語るのは大いなることであります。しかしながら、人々に代わって神に語ることはさらに大いなることであります。人々に代わってどのように神に語るかをよく知らない説教者は、神に代わって人々に語ることにおいても、決して真の成功を収めることができません。ただそれだけではなく、講壇においても、あるいは講壇外であっても、祈りのないことばは害を与える言語となるのです。
(『祈りによる力』E.M.バウンズ葛原定市訳31~33頁抜粋。)
しかし人間のことばはあくまでも人間のことばでないでしょうか。イエス様は単刀直入に愛をもってすべての人に祈ることの素晴らしさを次のように教えていてくださいます。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(新約聖書 マタイ6・6)
このイエス様のすすめに日々従いたいものです。
(写真は彦根藩主井伊家の下屋敷・楽々園の室内。今や主〔あるじ〕はいない。主イエス様が不在でなく、いつもはいってくださる奥まった部屋を持ちたい。)
Aさんとの出会いは1月のブログでも紹介した通り40年来の親友のSさんとベックさんに同道しての病室内が初めてであった。まだ知り合って二ヶ月も経たない。それなのに今の私は明けても暮れてもAさんになっている。特に最近ではAさんに集会の方々が話される聖書に基づくメッセージの収録をアイポットシャッフルに録音して持参するのが日課になった。私はその運び手である。
昨日も八王子からメッセージに来てくださった方とご一緒に病院へ出かけた。Aさんは私との出会いを不思議そうに話され、「このアイポットシャッフルのお蔭で発狂せずにすみました。今の日本の政治をテレビで見ているといらいらするばかりで心に平安はありません。でもこのシャッフルを通して語られる聖書のメッセージを聞いていると心に平安が与えられ、病苦や痛みも忘れ安眠できるのですよ。」と言われた。
八王子の方とAさんは昨日が初対面であった。しかしシャッフルではベックさんとともに何度もその方のメッセージを声で聞いておられたから、喜ばれた。ともに九州男児で親しみも倍加したことだろう。長崎の様々なキリシタン迫害の有様が自分のキリスト(教)認識の原点として暗くあるのだ、自分はとてもあのような迫害にめげないような信仰の持ち手にはなり得ないと言われた。それに対して若いときからベックさんの薫陶を受けてきた八王子の方がかつてベックさんから聞いた話を紹介された。「殉教死は大変なことのように見えるが、それよりも日々主にどのように従ってゆくかはもっと難しいことで、それにくらべれば簡単なことだ」と言われたそうだ。それにつけ加え、「あなたは、この世はいらいらさせる、しかし主のいるところに平安があると確信されている、もうこの世の価値観の支配するところに戻りたくないと思っておられるでしょう、それこそ殉教死ですよ」という意味のことをその方は話してくださった。
Aさんも納得されたように見えた。Aさんは私によく自分はにわか仕立てのキリスト者だと言われる。その伝で行けば私もそのAさんのにわか仕立ての親友である。しかし今やAさんと私は本物の主にある兄弟、信仰の友であると確信する。Aさんの死を前にした病魔との闘い、それは毎日一瞬一瞬の主への明け渡しの自分との闘いであろう。八王子の方も最近10日間ほど入院生活を送られたが、一方その闘いが一人だけの闘いでなく、すでに勝利してくださった死からよみがえられた主イエス様がともにいてくださる闘いであり、その上に祈りを通して支えてくださる方々がたくさんおられるということを、改めて体験されたようだ。
これからも日々本物のキリスト者であるAさんとともに天の御国を仰ぎ見て祈って行きたい。それがAさんを主によって愛する兄弟として与えられた私の喜びである。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(新約聖書 ヘブル12・1)
(写真はホーチミン市内の果物。昨日メールで送られてきたもの。多くの証人のひとりであるこの方もホーチミン市で主の証人として戦っておられる。果物は人間界の出来ごとを何も知らずげに神様の恵みをどんなものにも平等に与える。)
私たちの生活は様々な事象の連続である。そこには思いがけないこと、自分には起きて欲しくないことが起こる場合がある。昨日もある方とお交わりしていたら、もしあの時こうしていたら、こうはならなかっただろう。だっから私たちはそのような悪の声に耳を貸してはいけない、という意味のことを聖書は言っているのでしょうと言われた。でも、その方はそのような不幸な体験を通して主イエス様を見出された。私はそのことだけに目を留めなさったほうが良いですよ、と申し上げた。
私の尊敬するあるキリスト者は、よく困り抜いている人に、神様のせいにしたらいいでしょうと助言なさることが多い。その意味がわかるようで、私にはもう一つ理解できていなかった。ところが最近二冊の本を読んでいたら、「第一原因」ということばが使われていることに気がついた。そして神様のせいにしたら良い、ということは事象の第一原因が神様にあるのに、第二原因に私たちは目を奪われ右往左往することだと知らされた。
そのうちの一冊は『日照りの時の緑の葉』(イゾベル・クーン著)であるが、主人公であるアーサー・マシューズ一家が宣教師として1952、3年当時中国政府から出国の許可をいただいているのに何度もその政府の約束が反故にされ、中々中国から出国できないときに書いた次の手紙の中で自身の経験を黙示録の著者ヨハネと比較して次のように語っていた。
ヨハネは、私はパトモスという島にいたと言っています。―彼はネロの治下のローマの権力については、一言半句も言及していません。そして彼が、パトモス島にいる自分自身を見いだす以前に受けたに違いないむち打ちや非難について何も言っていないのです。
彼がそこにいたのは、ピリポがアゾトにおり、マシューズの家族がここにいるのと、まさに同じだったのです。彼がそこにいる自分自身を見いだすに至った方法、環境、決断は、重要ではありません。それは、一時的な事がらにすぎません。信仰は、獣の背後にすら、神の御手を認めるのです。第二原因は、巧みに変装し、信仰の目以外のどのような目をも当惑させます。そのように、「なぜ」とか、「なにゆえに」とかを拡大して考えること、自分自身を責めたり、自分自身に対してなされた告発を非難すること、過去においてなされた有利な、あるいは不利な決定を比較考量すること(私の手紙には、過去において起こった出来ごと以外ほとんど何も書いていないのですが)―このようなことは、ヨハネの頭には全くなかったのです。また、彼はどのような想像、批判、物ほしそうなため息が彼の思いを占領することをも、許しませんでした。彼は、そのような思いをいだきやすい環境にあったのですが、それを拒否したのです。それゆえ、黙示録の最初のほうのヨハネの記述には、私たちにとっての大いなる慰めがあります。(同書116~117頁)
もう一冊は『創世記講演(下巻)』(パゼット・ウィルクス著)である。そこで著者がヨセフについて次のように書いていた。
彼はいつでも事物の第一原因すなわち神御自身に目をつけ、第二の原因すなわち人間の罪、残酷あるいは失敗より起こる困難なる事情境遇に目をつけなかった。ヨセフにとって最も現実なものは神であった。彼の精神も心も念も神に囲まれ、神に包まれ、神の中に宿って居ったから、・・・美しい聖霊の果が自然に結んだのである。(同書424頁)
第一原因こそ人々が忘れ去っているものであり、それを見えなくさせようとするのが悪魔の働きでないかと思う。黙示録1章や創世記の37章から終章まで展開するヨセフの生涯を聖書を通して深く教えられたい。
あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのために計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(旧約聖書 創世記50・20)
(写真はクリスマスローズ。今日行われた拙宅での家庭集会をこの花は見ていた。最近病が癒えわざわざ八王子から足を運んでくださったメッセンジャーの方の話も、むなしい世にたましいを奪われることなく、永遠の御国を目指して神様の栄光を仰ぎ見て生きなさいと奨めてくださる、かぐわしい美しさに満ちたものだった。)
ちょうど2週間万年筆の所在がわからなかった。実は2週間前さる方からイエス様のことを教えて下さいと乞われてお宅をお訪ねしたことがあった。2時間余りお交わりいただいて、その帰りがてらに、今は一人住まいのその方から息子さんのお名前をお聞きし、手帳にその万年筆で書きとめたところまでは覚えているのだが、その後の万年筆の足どりが思い出せなかった。もしその方のお宅に忘れてでもいるなら、初対面のその方ではあったが私製の名刺を置いて来たので多分電話してくださるだろうと期待していたが電話はなかった。その方に直接電話して聞いてみたいのだが、残念ながらこちらはその方の電話番号を聞いていなかったのでなす術がなかった。
それから三日ほどして電車の中で別の旧知の知人に会った折り、何かの話のついでにその方が20歳のころの万年筆を修繕して使おうとしておられることをお聞きした。お聞きしながら、内心忸怩(じくじ)たる思いがした。その方は40年ほどその万年筆をなくしもせず、未だに丁寧に使おうとしておられたからだ。私の万年筆は以前10月17日のこのブログでも書いたように一人の卒業生の方からいただいた記念すべき万年筆だ。物を大切にしない自分に腹立たしかった。
第一、万年筆で様々なメモをするのに、それ以来シャープペンシルやボールペンで代用せざるを得なくなった。字を書くことはできるのだが、なんとなくしっくり来ない。あのインクが流れ出て字が作られてゆくのが快かったのに。まだ薄明のうちにある自己の思想や聖書のみことばをノートに書き留めると宝物を一遍にいただいた気持ちになるのに、だ。
もうほとんど諦めかかっていた先週金曜日すでに紛失してから10日余り経過していたが、件(くだん)の方から別件でお電話があった。その用件を済ませ最後に失礼だったが、勇気を出してソファーに万年筆が置き忘れていなかったですか、とお聞きしたが、色好い返事はいただけなかった。要するに、そのようなものは見ませんでしたよ、というご返事であった。万事休すだった。最後の望みが絶たれ、代わりの万年筆を早速買わざるを得ないと観念した。
ところが昨日の朝、その方からお電話があり、万年筆が見つかりましたので日曜日お会いできると思い持参致しましたが、いらっしゃらなかったのでBさんにお預けしておきましたよ、ということであった。(私は当日宇都宮で礼拝していて、春日部にはいなかった)一遍にうれしくなって、その方に平身低頭ありがとうございましたと電話口ではあったが何度も御礼を重ねた。実はその方は初めて日曜の礼拝に集われたのだった。そのことこそ大変うれしいできごとであった。一方なくなった万年筆が見つかったこともあって私の喜びがさらに倍加したことは言うまでもない。
そんな大事な万年筆は、日曜日のうちにすでにBさんから更に家族の者の手に渡っていたのだが、私の手許には渡らなかった。お互いに忙しくしていたため、昨朝(月曜日)その方からかかってきた電話ではじめて知ったという次第だった。それにしても万年筆君は2週間もその方の家にじっと座って待っていて、やっと持ち主の私の手に帰ることができたというわけだ。そして私にイエス様を知りたいと乞われた方はその万年筆君を携えて初めてこの日曜日に礼拝に集われたということになる。
その方はすでに73歳におなりになり、様々な人生の蹉跌を経験されてきたが、高校時代の恩師がキリスト者でありその方の影響もあっていつもイエス様のことが気になっていたと2週間前お訪ねした時言われていた。だからその方もまたご自身の創造主である神様のもとに帰られたと言えるのでないか。何と嬉しいことであろうか。イエス様が2000年前に放蕩息子が帰ってきた喜びを次のように言われたことがわかる。
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。(新約聖書 ルカ15・32)
(写真は2年前ローテンブルクから嫁いで来た三人娘。彼女たちは日本にいて淋しいのだろうか。)
火曜日、吉祥寺、西荻に出かけ、遅かったがその足で国会図書館へと出かけた。20数年ぶりだった。一冊の本がどうしても古本でも見つからず、国会図書館にあることがわかったからである。新館から入場し、早速何台もあるパソコンの一つに向かい検索し閲覧の手続きを取った。昔はカードを一々繰ったことを思えば格段の進歩だ。
昔と同じように番号で自分の注文した本をカウンターから受け取る方式だ。ところがしばし待てども番号が表示されない。こんなこともあろうと、読みかけの『日照りの時の緑の葉』(イゾベル・クーン著)を持ち込んだのでそんなに苦痛にはならなかった。でもそのうち番号が出てこない原因に思い当たった。「雑誌」の引渡しのカウンターであったのだ。あわてて「書籍」の方へ移動する。
書籍の方は旧館と表示があった。カウンター前面に表示されている「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばに懐かしさを覚えた。20数年前夏休みを利用して何度か通って以来、目にすることになったからだ。私のお目当ての本は『ピーターという男』である。この本はアメリカで1951年当時ベストセラーであった。それが日本でも村岡花子さんの翻訳で創元社から出版されていたのだが、いつの間にか市場からは姿を消していた。
やむを得ず、アマゾンで本を仕入れ読んだが、今一つ読んでいる内容に自信が持てなかった。果たして本腰を入れて読むに値する本かどうか不安だったからである。まして村岡花子さんの訳があるとあっては喉から手が出るほど見てみたかった。国会図書館に入ったのは4時過ぎていたので、閉館時間までは3時間を切っている。意外に翻訳されたものは軽い本であった。原本にある、各章の冒頭にある聖書の引用句はすべてカットされているし内容も一部省略されているように思った。結局、最終章に至る後一歩のところでアウトであったがおおよそは理解できた。
訳者あとがきにも中々面白いことが書いてあり共感するところがあった。そしてこの本はやはり「アメリカンドリーム」の一つであったのでないかと思い始めた。何しろスコットランド出身の貧しい恵まれずして海軍提督を夢見た一少年がアメリカに移住して上院付の牧師にまでなり、最後はあえなくも心臓麻痺(?)も同然の状態で若くして召されてしまう内容だからだ。そして妻であったキャサリン・マーシャルの著作になる最初の本でもあった。
昨日もオバマ大統領の議会での演説がテレビで放映されていた。演説の要所・要所に来ると共鳴するかのように拍手と笑顔と起立で演説を盛り上げてゆくように思えてならない。恐らくアメリカ建国以来の伝統・習慣なのだろう。あのようなシーンの中で、「神のご加護があるように」とは彼らの常套文句であり、アメリカ・キリスト教の習俗にすぎないと思った。
60年前のトルーマン大統領の就任式での様子を試みに前々回のブログで載せたが、トルーマンが原爆投下のゴーサインを出した当の大統領であったことを忘れていたわけではない。ピーターの信仰がどういうものであったかを知り、少しでもご紹介したいと思っていたが若干違和感を感じ始めてきている。
「理神論」という考えがある。要するに神の存在を否定しない。ちょうど時計のねじを巻くと後は自然に時計自身が動く。それと同様に神の存在は認める。しかしあとは勝手に人間が行動するという考え方であろう。アメリカ・キリスト教はさすがにそこまで堕することはないだろうが、ピーター夫妻の信仰の証が「アメリカンドリーム」の一つであったのでないかという思いが出てきたからである。1951年という年は冷戦の真っ只中であった。人は洋の東西を問わず時代に影響される。いつの間にか市場から姿を消してしまった『ピーターという男』にもその手の事情が背後にあったのかもしれないと思った。でも国会図書館がそのような本をしっかり保存してくれているのはありがたい。
影響されないのは真理である聖書だけだ。永遠のベストセラーに耳を傾けるものでありたい。
もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(新約聖書 ヨハネ8・31)
(写真は水戸藩の学の殿堂であった「弘道館」入り口の門)
どんなものでも、あまり大きい娯楽は、キリスト者の生活にとっては危険である。しかしこの世がつくり出した数ある娯楽の中でも、演劇ほどにおそるべきものはない。演劇は、さまざまな情念を、きわめて自然に、実にこまやかにえがき出してみせるので、わたしたちの心の中に、そういう情念をかき立て、目ざめさせる。とくに、恋愛の情念なんかそうである。とりわけ、たいへんきよらかな・まじめな恋愛のすがたなどを見せつけられるといっそうそうなる。つまり、その恋愛が、よごれのないたましいの人々にとって、清純なものにうつればうつるほど、人々はそれに感動しやすいのである。その恋愛のはげしさは、わたしたちの自愛心をよろこばす。そして、こんなふうにみごとにえがき出されたのを見たと同じ結果を、自分でもつくり出してみたいという願いをいだく。それとともに、そこに見いだされた感情について、そのまじめさを心の底から確信するようになる。その感情は、純粋なたましいのいだくおそれを取りのぞき、あんなふうにつつしみ深い愛をもって愛するならば、純潔さが傷つけられることはないと思いこむ。
こうして、恋愛のあらゆる美しさと楽しさにいっぱいにみたされた心で、また、そのたましいと精神は、恋愛の汚れなき清らかさを確信して、人は劇場を出る。そのため、さっそくそういう感動にであったら、すぐにもなびこうという状態になっている。それどころかむしろ、だれかの心にああいう感動を起こしてやろうとその機会をねらうような状態になっている。劇中であんなにもみごとに表現されるのを見たのと、同じよろこび、同じ犠牲を、自分もまた味わいたいからである。
(『完訳 パンセ』パスカル著田辺保訳角川書店1984年版40頁 一、精神と文体についてのパンセ十一より引用)
パスカル(1623~1662)という人はあの若さでこういうことを書き連ねたおそろしい人だとつくづく思う。17世紀に発せられたことばが痛烈に私に迫る。映画アカデミー賞にわきたつ日本で私はこの快挙を喜ばしいと思うが、パスカルのこの指摘を大切にしたい。
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。(旧約聖書 エレミヤ17・9~10)
(写真は昨日西荻のいとこのお舅さんに見せていただいた鉢植えの寒蘭。芳香を放ち高貴さを覚えた。いずこにあっても真実でありたい。 「真実よ 寒蘭に寄す 汚れなさ」 )
私は今極めて速やかに見えざる世界に移されることを期待しつつ、永遠の縁に立っている。私はもはや自分が地上の住民であると思っていない、しかして時折『世を去りてキリストと偕(とも)に居らん』(注1)ことを切に願う。神はこの数年に亘(わた)り、御自身に一切を献げなかったなら理性ある者が真の幸福を楽しむことは出来ないとの深い自覚を与え給うた、このことに対して私は神に感謝する。
この自覚の下にあって、私は幾ばくかのことをなした。ああ、更に多くをなしたらんには! 私は生活の中における聖潔がいかに重要であるかを知っていたが、死の境より引き戻されたばかりであるこの時ほどこのことを痛感したことはかつてない。
弟よ、聖潔を求められよ、この幸いな目標を指して前進されよ。そして渇ける魂をして、絶えず、『御像(みすがた)に似せられるまで飽き足らず』(注2)と叫ばしめよ。
かつて私の考えの中には、幾多の利己的なものが入っていた。私はこのことを恥じ、我が魂はそれを思う毎に謙(へりくだ)らしめられる。しかし神に感謝せよ、大部分の時私は神の栄光が顕わされ、この世に御国が拡められんことに対してかくも大なる関心を実際に持つことが出来たので、過ぎにし年を顧みる時に満足を覚えるのである。
愛する弟よ、私は御身がみずからの聖潔を追求し、健康の許す範囲において断食と祈祷に身をゆだね、一般のクリスチャンの標準以上の生活をなすことを切に望むとともに、御身が伝道のわざに励み、真の宗教と偽りの宗教とを区別するために労し、かつそのために、心に臨み給う神の御霊の働きに心を留めんことを、厳かに願う。私は御身がいかに多くの偽宗教がこの世にあるかを充分に知っていないではないかと思う。
死に臨みつつある働き人の名により、および死して今活き給う主の御名により、福音にふさわしく過しかつ歩むことを我が民に奨められよ。彼らに対する神とその民の期待がいかに大であるか、また、もし彼らが悪に陥るならば、他の哀れなるインディアンに致命的な害を与えるのみならず、いかに神の御旨が傷つけられるかを告げられよ。
また、もし彼らの生活の中心が霊的で用心深く、かつ聖くなかったならば、たとえ自己の幻想により第三の天まで引き上げられたとしても、彼らの経験は蝕まれたものであり、その喜びは当てにならないことを強調されよ。これらのことを勧めることにより『己と聴く者とを救うべし。』(注3)
またもし御意に適うならば、過去の年月におけるすべての労苦と艱難が依然として続いても、私はなお生き長らえて伝道のわざにより神に仕えんとの切なる願望を持っていることを、神は知り給う。しかし今や神の御意はそうではないので、私はそれに全く満足し、かつ全き自由をもって『主よ、御意をなし給え』(注4)と言い得る。
御身を罪の世に残して行くことを考えると、私の心は痛む。恵みにより私は世の嵐や試みより殆んど自由とせられたと信じているが、これらのものがなお御身の前にあることを思うと、憐みを催さざるを得ない。しかし『エホバは活きていませり、わが磐はほむべきかな。』(注5)彼は変わりまさぬ大能の友にていまし給う。また私は、彼が私に対すると同様に御身の導師であり助け主であられることを信ずる。
愛する弟よ、『われ今御身を、主およびその恵みの御言に委ね、御言は御身の徳を建て、すべての潔められたる者とともに嗣業を受けしめ得るなり。』(注6)個人的にかつ公けに、御身が神の臨在を楽しみ、『ヤコブの全能者の手によりて手の臂を強くせんことを。』(注7)これ我が切実なる願いであり祈りである。
死に臨める御身の兄
デイビッド・ブレイナード
(『ブレイナードの日記』104~106頁引用。引用者注1 ピリピ1・23、注2、注3 1テモテ4・16、注4、注5、注6 使徒20・32、注7。いずれも文語訳ですが7つの内私には3つしかわかりませんでした。読者諸氏が見つけてお教えくださいますように。)
(写真は井伊家下屋敷・玄宮園から見た彦根城。井伊直弼は十四男であった、だのに兄の養子となり、後に藩主になった。ブレイナードは直弼より100年前の人である。彼の地上での姿は井伊家のようなものは何も残されていないだろう。兄が弟に宛てたこの手紙は真情にあふれ、霊の古典となっており、彼は今もなお主イエス様を心から愛する者の心に生きている。)
「電車」という不思議な乗り物にはいつも感心する。今朝も春日部から柏行きの電車に乗ったら、知人とばったり遭遇した。およそ40分近い乗車時間だっただろうか。じっくり互いに話が出来た。何しろ2年ぶりくらいだろうか。
知人はいつもよりは遅く出て仕事先に向かわれるところだった。様々なところへ仕事に出かけて行かれるということだったが、この路線は座れて中々楽だということであった。お母様が2年半ほど前に主にあって召されたことを大変喜ばれていたことが印象的であった。お仕事の関係で土曜・日曜もびっしり仕事が建て込んでいて朝早くから夜遅くまで働いておられるので中々日曜礼拝には出られないとこぼしておられた。
「がんばらなくってもいい」と言われても、「生活の糧を得るためにがんばらざるを得ませんね」と言われた。私が、「そうですね。でも前向きに生きることは必要ですね。死は終わりじゃないから、天国を目指して生きて行きたいですね。」とお母様の事を思い出しながら申し上げたら、眼を輝かせて「そうですね」と同意されて、メモ帳の文字を示してくださった。そこには次のように書かれていた。
どんなことがあっても心を静めよ
ご自身で感ずるところがあって、書かれたのだろうが、今まで様々な試練に会われてきたことを知っているだけに、その意味がピンと来た。メモ帳にはびっしり線が引いてあって、毎日の仕事先が小さな文字でびっしり書き込まれており、3年先まで線が引かれているのには驚かされた。(年金受領開始の時までだそうだ)物を粗末にしないで生きておられる毎日がしのばれ、ご健康を祈らざるを得なかった。
今は20歳のときに買った万年筆を修理しているんだとも言われた。知人は60歳前後だから40年以上も捨てないで大事に持っておられ、インクの出が悪いのを直すのだと言っておられた。職業も様々な経験をされたことだろう。器用貧乏という言葉にあてはまるのだろうか、実直に人生を生きて来られた。ペンしか持ったことのないちゃらんぽらんな私の対極を行かれるお方だ。
でも車中で誰はばからず、お互いに胸襟を開いて話し合えることは感謝であった。ましてこの世のいのちで終わることがない永遠のいのちの確信を持ち、お互いに主イエス様を信じ従う者同士として兄弟として話し合える幸せを思った。知人にとっては私はひょっとして有難迷惑な闖入者であった(車中で疲れを癒すために眠ろうとしておられたのだったら)かもしれないが、柏駅でお別れし、まだこの先乗り換えて行かれる知人の心にも私の心にも、心なしか何かぽっと灯がついたような思いであった。
これだから、電車コミュニケーションは捨て難い。
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(旧約聖書 イザヤ30・15)
(写真は滋賀県の近江電車多賀線を走る電車。単線で二駅しかないのに会社が誘致して新駅ができるというので撮影に出かけたもの〔07.12.21〕。これからしばらくして新駅が開業した。西武のルーツは近江電車にあり。)
月曜日、数年ぶりに彦根城に登った。土曜日、彦根での家庭集会が行われたとき、「65歳以上は観覧料がただだ」という耳寄りの話を聞いたので、出かけた。ところが、窓口であっさり断られた。市民でないからだ。固定資産税を納めていると言っても駄目だった。
観念して、料金600円を払って入った。城にまつわる思い出は多い。小学校のときの写生大会や、小・中の昆虫採集や植物採集がそうである。入りっぱなしの石段を上がるときの感覚はそれこそ手を引かれて登った時の幼児の記憶が今もよみがえる。
高校時代は生徒手帳を見せれば自由に入れた。だから昼休みを利用して友達と出かけたスリリングな記憶もかすかにある。しかしそれも時間内に帰って来ない不心得者がいたせいだろうか、それとも折りしも観光ブームが始まり、観覧料を取るようになったせいだろうか、いつの間にか入れなくなった。
少しブランクがあって、大学に入ってからは良く親友と城下の梅林をくぐりぬけ哲学を語りながら自由に散歩できた。記憶違いかもしれないが今ではその界隈も観覧料の対象になっている。大学の先生は大仰に日本のハイデルベルクだと言う人もいた。卒業してからも家内と婚約時代に登ったこともある。
小さな市のシンボル的な自然公園としても城一帯が残っているのはありがたい。江戸城の恐らく10数倍分の1以下なのだろう。石高からしてそう想像する。井伊家35万石に対して徳川幕府は400万石を越えるだろうからだ。皇居が東京都という巨大都市の聖域として残っているように、地方の田舎都市の聖域として豊かな自然をこれからも残していって欲しいと思う。
それにしても65歳以上ただだと聞いたばかりに久しぶりにお城へ出かけたのに、市民でないと言う理由であえなくも退けられた。今は他郷にいても身も心も彦根人のつもりでいる。今度は「本籍」が彦根にあるということで対抗しようかと思って帰ってきた。窓口の人は今度はどう言うだろうか。
鮒寿司や彦根の城に雲かかる 蕪村
愛慕する彦根の城よ受け入れよ ブログ氏
すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(新約聖書 黙示21・27)
(写真は母と叔母に連れられ、小学生のときにいとこと一緒に城を描いた場所。アングルが難しく私の手には負えなかったがいとこはすいすいと描いた覚えがある。)
先週の土曜日、ベックさんが義母をお見舞いに訪ねてくださった。義母は1月3日危篤状態に陥り、すぐ大学病院に搬送され、そこでの大動脈乖離の手術が成功し、九死に一生を得た。先月の23日からはもとの病院に帰り、今リハビリに努めている。二、三日前からやっと流動食が食べられるようになったが、まだ自分の力では立ち上がることはできないでいる。
そんな義母にベックさんを通して聖書の真理が伝えられた。望みの神であるイエス様はわがままな私たちのかわりに罰せられ死んでくださった。私たちのすべてのあやまちは赦され忘れられている。だからそのことを信じて、私のわがままをごめんなさい、ありがとうと感謝すればよいのだ。義母は魂の奥底でそのことを受け留めることができた。
その場には家内と義弟も同席していた。まことに不思議な主イエス様の導きと思わざるをえなかった。振り返れば今から46年前、私は遅れた大学生であった。本来の志望学科を3回とも落ち、挫折感と同時に、わがままと罪・咎の極致におり鬱屈した学生生活をスタートさせたばかりであった。その時、伯父から一人の中学生の家庭教師を依頼された。その姉を主イエス様は救いに導かれた。そしてその姉を通して私に福音が伝えられ二人は結婚にまで導かれたからである。
そして今最晩年期に入っている義母が不思議な導きのもとに主イエス様の与えて下さる罪の赦しと永遠のいのちの約束をいただいたことを目前にしたからである。義母は病を通して弱くされている。罪を犯すしかない人間はがんばることができない。しかし弱くされた人に主イエス様は働かれるのでないだろうか。
もともと2月7日は早くから妻の実家の祖母の法事が予定されていた。ところがそれから何日かして彦根で家庭集会が開かれることが決められた。いずれにしても私は彦根に帰るつもりでいた。二つの行事はぶつかっていた。ところが義母が急遽正月早々倒れて法事は延期せざるを得なくなった。
ところで2月7日は私にとって66回目の誕生日であった。幼子のように満面に笑みを浮かべて喜んでいる義母の姿は何よりの主イエス様が上から下さった誕生プレゼントであった。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ8・28)
(写真は彦根城下で見つけた今日の梅の花)
私が主イエス様を信じて受け入れたのは家内より数年後である。この差は埋められそうで、中々埋められそうにないと思っていたが、ある時からそんなことはどうでもよくなり、ともに同じ地点に立った。ところが、困ることが一つあった。それは夫婦で祈る時のことである。私が妻にわだかまりがある時はてきめんに祈れなくなることである。
よく考えてみると、これは夫婦間だけではない。人が人と祈ろうとする時この問題は必ずつきまとう。そして自分でその相手に対する良からぬ思いを解決しないと祈れないことに気づく。そういう意味では生けるまことの神様に祈ることを知っている者は困るどころか幸せなのでないだろうか。祈れないのは、神様に一万タラント免除された者が自分に百タラント借金のあるものを頑として赦さないかたくなな心にあるからである。その罪を知り、悔い改めさせられ神様の愛をより深く体験できるからである。『愛はいずこに』(G.マーシャル著)はこの原点についてマタイ18・21~35を通してじっくり考えさせてくれる。本当はその部分を載せたいし、肝心なことなのだが長文なのでここでは結びの部分のみ以下に載せる。
イエスは話し終わった。ものを見通すような目は弟子たちをぐるっと見回し、一人一人の顔を覗き込んだ。このときだけは、ペテロも一言も言わなかった。物語の教えることは、みんなの心に染み透った。天の父への私たちの負い目は、莫大で払いきれない。だから私たちは、父の情に縋るより外ない。私たちの父への負い目に比べれば、人間が人間に負うものは如何に大きくても、ものの数ではない。
神の前では、私たちはみんな罪人である。肉体の罪とともに、心の罪も魂の罪もある。恥ずべき動機もある。まあまあと思いながら、そのまま見過ごしてしまう機会も度々ある。次善のことしか選ばないことも常にある。それでも私たちが何をしようと、神はいくらでも私たちを喜んで赦されるのだ。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4・32)ならば、神はどこまでも私たちを赦したまうのである。
今日私たちの文明は、赦しを求めて泣き叫んでいる。夫と妻の間に赦しが必要である・・・親と子の間に・・・友と友の間に・・・政治家と政治家の間に・・・事業家と組合指導者の間に、赦しが必要である。
そうだ、そして国と国との間にも。イエスは言うだろう、アメリカは真珠湾のことで日本を赦さねばならない、同様に日本は、広島のことでアメリカを赦さねばならない、と。ユダヤ人はドイツ人を赦さねばならないことがどんなに多いことか。ドイツ人もロシア人を赦さねばならないことが多い。ロシア人はまたドイツ人を。エチオピア人はイタリー人を赦したであろうか。そしてお互いあんなに憎みあっている、イスラエルとアラブはどうだろうか。幾百万人の傷を癒すのに、赦しによるより外に道があろうか?
少なくともイエスは、選択を許さない。命令は厳しい。条件は限られている。「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6・15)
神の赦しと人間の赦しは、一つのものである。
(『愛はいずこに』G.マーシャル著堀田勝郎訳「われを害する者を赦す」135~136頁引用)
(写真はレンブラント「エッケ・ホモ(民衆にさらされるキリスト)。」岩波 世界の美術 レンブラント279頁より写す)
昨日は久しぶりに暖かかった。暖に誘われてライラックの木にこれまで蔓(つる)をからませっぱなしにしておいたものを断ち切りバサミで切りに切りまくった。この蔓は蔓花茄子(つるはななす)という花の木のようだ。
最初は面倒がって家内に言われ不承不承やりだしたに過ぎなかった。おまけに、ライラックの木にしっかり蔓が絡まっていて始末に終えなかった。忍耐力がなく途中で何度も放棄しそうになったが、青空に月が覗くのは気持ちよかった。めじろも二羽ばかり、「おじさん仕事しているの」と言わんばかりにライラックの枝に近づいてきた(いつも庭先に来るめじろのようだ)、とあってはいつの間にか引き下がるわけにいかなくなった。
要領が悪いので優に二時間はかかっただろうか、はずしてもはずしても蔓が次々出てくる。それだけでなく、蔓はしっかりライラックに巻きついていて、木に食い込んでいて寄生虫のように木の養分を吸っていたのでないかと思うほどであった。最初こそ高所ゆえにはずしにくかったが、段々こつをつかみ次々と蔓をはずしていったら逆に面白くなってきた。その内ご近所の方も、「今日は珍しいね、旦那が。」とばかり声をかけてゆかれる。
写真は全体から言うと九分どおりの仕上がりだが、目を凝らしてよく見ると蔓は中々執拗にからみついているのが見えるようになり、最後は面白いように蔓をはずしていってほぼ100パーセントに近い形で仕上げることが出来た。(この写真は小さいので見分けがつかないかもしれないがよく目を凝らしてみるとライラックの木の伸びに交差するように蔓の残骸が絡まって見えるのが判る。これらも全部はずした)
近年ライラックの木は枯れるばかりで勢いがなく心配していたが、こんなに蔓にからみつかれていては、さぞ息苦しくあっただろうと今頃後悔している始末だ。庭が出来て12年になろうか。このところ木が次々枯れて行く。原因はこれだけでなくもっと別のところにあるのだろうが、手入れをしなかった私にも責任があるようだ。
夜読んだレビ記の次の箇所が何となく心に染み透って来た。
もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。もし、・・・行わないなら・・・あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。(旧約聖書 レビ記26・3~5、13、18)
(写真の左手上方にうっすらと三日月が覗いているのだが・・・暦を見ると月齢5.8とあった。)
日毎、皆さんの朝食はご飯でしょうか。それともパンでしょうか。私達は9割方パンです。たまに三男家族が来るとご飯にするときがあります。お嫁さんの家庭ではパンよりご飯の生活習慣があり、孫も「しらす」が大好きだとあって、ホカホカのご飯は私たちにとっても魅力的なので喜んでそうしています。でも普段はパンです。
パン食が常態になったのはドイツに何度か行く機会にパンのおいしさに目覚めたからです。さすがにパンを常食にするだけであってドイツパンは豊富ですね。日本ではそういうわけには中々行きませんが、それでも最近ではパン焼き器が普及しそれぞれの家庭で思い思いのパンを作るようになっているようですね。義妹のパンなど肌理が細かくおいしく仕上げるのでいつも感心させられます。気の毒なのは街のパン屋さんですね。私の近くにあった2軒のパン屋さんもこの5、6年の間につぶれてしまいました。一方特色ある都会のパン屋さんは専門店として生き残りをかけておられるのではないでしょうか。
先日来、そのようなパン屋の一つ、吉祥寺のリンデ製造の「オーツ麦パン」をいただいてから、毎朝食べています。私は舌の中で少しとろける感じのこのパンが気に入りました。ご飯に比べると、どちらかと言うとパサパサの感じがするパン食の中でご飯の湿り気を秘かに味わわせてくれるパンのような気がします。実は、そのくせ食い気だけの私は、このパンの名前をよく知りませんでした。
ところが家内からパンに入っている黒色のぶつぶつのようなものは「おーつむぎ」だと教わりました。そして庭にこの「おーつむぎ」があると言います。今朝などは自分で採ってきて、さやを開いて見せてくれます。確かに黒い片がかすかに見えました。机上の理論家である私に対し家内は実践派です。
以前、ゴマを食料にした日本の先人についての本を走り読みし、その知恵はすごいと思わされましたが、オーツ麦を食料にしたヨーロッパ人の知恵もまたすごいと思わされます。創造主である神様はこんな小さな種子をもすべてのものを網羅し人間の食料としておられるのですからすごいですね。
ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。・・・」(旧約聖書 創世記1・20)
(写真は庭に自生しているオーツ麦。ウィキペデクにサミュエル・ジョンソンとその弟子との言い合いの面白いエピソードが記されている。)
以下ははるかに深刻なことですが、実はランが一緒に仕事をしたアンタカラナ・チームにワークショップが終了する二、三日前チームのリーダーである牧師が教会から身分を剥奪され除名されたという報せが届きました。牧師は優れた翻訳者でありましたが、ランも他の顧問たちも彼の霊的な事柄やその動機についてはこれまでも幾分心配してきたところでした。ランはこのチームが彼を抜きにしてどのように仕事を進めてゆけば良いか確信が持てておりません。どうか神様がアンタカラナ・チームに新しい指導者を起こしてくださるようにお祈り下さい。アンタカラナ・チームには極めて少数の信者しかいません。
このような様々な問題にもかかわらず、私たちを支配されるお方は神様であり、神様がそれぞれの状態に対して準備と解決を備えておられることを見ることができるのは感謝です。テサカ語グループの翻訳者であるデフィジーは逆境のもとで生活しながら神様に頼っているすぐれた例であります。デフィジーは2年前にテサカ語の翻訳の作業を始めた時、自分はクリスチャンだと思っていました。しかし彼が言うにはテサカ語で神のことばを味わって本当の信者となったということで す。翻訳チームに加わって以来、彼は父親、母親、兄弟それに姉妹をなくしました。姉妹が亡くなった知らせは彼が作業チームで仕事をしている間に伝えられました。葬儀に村へ戻ろうと用意していた時、村の人々がこの翻訳の働きに携わったために神様や先祖がこらしめているとうわさしていると言っていました。しかし彼はこの悲しみに直面できるのはイエス様とともにあって初めて可能だったと言っています。どうかすべてを慰めることのできる神様が短期間にそんなにたくさんの家族をなくしたデフィジーの悲しみを慰めてくださるようにお祈り下さい。また神様が彼の信仰を強めてくださり、多くの方が彼の証を通し、また完成されるテサカ語の聖書を読んで神様を信ずるようになるように祈って下さい。
ランはマダガスカルにいない時は「翻訳者の留意点」シリーズの仕事を続けます。ルカの福音書の1章から8章は9月末に発行されました。これからの数ヶ月は17章から24章の作業を二人の新たな編集者を指導することに集中することになるでしょう。どうかランがこの二人の方にふさわしい指導と監督ができるようにお祈り下さい。
もう一度感謝します。皆さんが励ましてくださり祈りとささげものを通し私たちを支えてくださっていることを。私たちも皆さんを愛し、主が皆さんの全ての必要を満たしてくださるように祈っています。
愛をこめて レスリー
(資料は「News From Ron, Leslie, Nathan, Sophia & Lydia Radke December 2008」)
マダガスカルの暴動騒ぎは邦紙ではほとんど報道されていないようです。ただJAPAN TIMESは報道していました。一方英語圏よりフランス語圏AFPにはさらにくわしくその様子が報道されているように思いました。マダガスカルのかつての宗主国がフランスであることが影響しているのでしょうか。もちろん同国のアメリカ大使はマダガスカルの国内の沈静化に腐心しています。そのような中で現地の聖書翻訳にいそしんでいるウイクリフの聖書翻訳チームにとってはこのような事態は気が気ではないでしょうね。最新報道によると死者数は68人に増えています。日本国内で平和裏に自分の言語で聖書を読めることをもっと大切にしたいと思います。
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(旧約聖書 詩篇119・102)
(写真は庭の山茶花の木。毎日決まって、同じめじろ、すずめが数羽花の蜜を吸いにやってくる。しばらくするとひよどりもやって来る。鳥たちは雨の日もせっせと庭にやって来る。わたしは、せっせと「みことば」の蜜を吸っているだろうか。)



昨日、ウイクリフの宣教師ランさんからマダガスカルの政情不安のために祈ってほしいと多数の方に出されたメールが私のところにも入ってきました。早速CNN やWashingtonpostのネットで調べましたら、死者43人を出した騒動もこの二日間の間でやや沈静化しているようです。大統領と首都の市長の対立、ひいては2002年以来のこの国の底流にある二つの政権対立に原因があるようです。くわしいことはわかりません。この機会に年末にランさんの奥さんが支援者に寄せられたマダガスカル便りを今日と明日にわたり掲載します。
ランは10月に翻訳の作業のためマダガスカルに戻りました。これは彼にとって2003年の秋以来8回目のものになりました。今回はインド洋上にあるマダガスカル島の南西の熱帯環境のもとで作業が行われました。
全部で45人でした。内10人は7カ国からやって来たスタッフと顧問で、あとは8つの言語を代表する34人のマダガスカル人の翻訳者でした。これらの翻訳チーム(第2期の作業)の5つはルカの福音書の翻訳の草稿を作ったり、チェックをしており、第1期からの作業チームは校正し直したり、他の本の翻訳を手がけたりしています。
現地にいる間にランは二、三のがっかりさせる戦いと逆に幾つかの非常に励ましになる出来事を聞かされました。最も励まされたものの一つはルカの福音書が最近第一期の作業の言語の一つであるマシコロ語で発行されたことを知ったことでした。今までルカの福音書は印刷することが政府の許可がなかったため、音声もののみが配布されていたに過ぎませんでした。しかし、マシコロ地域の中心的な教会の一つが資金を与えられ、政府の許可があるなしを問わず、ルカの福音書を印刷することを決定しました。印刷されたルカの福音書を手にすることはマシコロの人々にとってはるかに興奮をもたらすことでしょう。
最近マシコロ語の「ジーザス」の映画を見たある男の人は最初次のように言いました。「こりゃ俺の心にまっすぐ入ってくる、逃れようがないよ」 私たちはこういう人々が彼らの言語で神様の逃れようのないことばに近づく手助けになる小さな役割を演ずることを感謝しています。祈りを通してまた資金を通してマダガスカルの人々が翻訳に必要な道具を与えられていることを感謝します。皆さんの役割は私たちと同じように大切です。私たちは皆さんが私たちと同じ翻訳チームの一員であることに大変感謝しています。
また励まされたことは2006年の秋に翻訳が始まった5つの言語チームが確実に前進していることです。それぞれのチームがルカの福音書を通して章ごと節ごとに翻訳を進めるのに比例してみことばを理解する上でも成長が見られることです。それぞれの完成された節々はマラソンにおける一足一足のようなものです。翻訳を完成するにはマラソンのように多くのスタミナと忍耐力と特にそのコースを走り続ける強さが必要です。どうぞ主がマダガスカルの人々が男性も女性もコースを走りぬく力と知恵を与えてくださるように祈ってください。
ランは、作業の間に耳にもし、自身でも感じた多くの建設的な出来事にもかかわらず、翻訳チームが直面している困難さを敏感に知るようにもなりました。多くのチームが戦っていることの一つにチームとして働くことができるかどうかがあります。どうぞ、めいめいがメンバーの全員を互いを受け入れることができるようにお祈り下さい。幾つかのチームは翻訳の過程で鍵になる要素を誰が「翻訳しなおす」かで困難さを経験してきました。翻訳を練り直すことはランと他の顧問たちが翻訳をチェックするために彼らが知らない言語を使用するということです。どうぞめいめいのチームがそれぞれの役割を果たす人々が見つけられるようにお祈り下さい。
マダガスカルの翻訳者の数名の人もまた、依然として自然に彼ら自身の言語で翻訳するようにし、マダガスカルの公用語の影響を受けないようにするために悩みを抱えています。どうぞ主がめいめいの翻訳者を助け自らの言語を尊重し、公用語こそが教会の「適切な」言語であるという一般の教会の姿勢に左右されないようにお祈り下さい。
(資料は「News From Ron, Leslie, Nathan, Sophia & Lydia Radke December 2008」)
私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けよう(新約聖書 ヘブル12・1)
(写真は『基本高等地図』二宮書店2001年版19頁のもの)
日本経済新聞は長年「履歴書」と称して一月単位で有識者の自伝風のものを連載している。そこに登場する人々はまちまちでその選択が面白い。もう随分昔のことだが、俳優の池部良が書いたことがある。読んでいて学ぶこと多く、当時は若い高校生諸君とともに学んでいたので時々授業で紹介したことがあった。
他社の新聞もこれに似た欄を設けている。私が現在購読している東京新聞には夕刊にその欄がある。今はノーベル物理学賞をお受けになった小柴氏が「この道」というタイトルで連載されて1月28日現在で20回目を数えている。ところが、これがそう言っちゃ言い方が悪いが、中々面白い。毎日楽しみにしている。
一昨日などご自身の成績を載せておられた。アルバイトに精出さなければならなかった苦学生のせいもあって振るわなかった科目もお有りだったようだが正直に載せておられる。すでに大学の卒業式の祝辞の折、学ぶことが何なのかを考えさせるためもあってあえてこのご自身の悪いペーパーテストの成績を発表されたとのことだ。何しろその折はすでに文化勲章も受章しておられる碩学であったからインパクトも大きかったのではないだろうか。ペーパーテストが全てではないと、次のようにしめくっておられる。
「私は成績が悪かったけれど、能動的な力が他の人に負けないぐらいあったので、ある程度のことはやれた。だから、成績が下の人はあきらめないで、能動的に力を発揮するように努めなさい。成績が上の人も慢心してはダメだよ」
私のようにペーパーテストのみの力で生きてきた人間には耳の痛い話だった。(もちろんそのペーパーテストも小柴さんのようにできる人から見ればきわめて出来が悪いのだが・・・)しかし小柴さんが様々な良き先輩や先生に恵まれ、ご自身の等身大の姿を何とか読者に伝えようとされる姿勢を通して、雲の上のような存在の小柴さんが身近な存在になることは感謝である。
ところで聖書には小柴さん以上にうそ偽りのない人間のありのままの姿が描かれている箇所がたくさんあることをご存知であろうか。C.H.マッキントシは旧約聖書の創世記27章を読んで次のように書いている。
第27章には、快楽主義と偽りとずるさの最も恥ずべき有様が示されている。これらのことを神の民と関連させて考えなければならない時は、極度に悲しく、また心苦しいことである。しかし、聖霊は何と真実であり忠実であろう。聖霊はすべてを語らなければならない。また情況を一部だけ語るわけにはいかない。もし聖霊が誰かの歴史を書くならば、その人のありのままを書くのであって、その人でないものを書くことはできない。(中略)このことは特に心の慰めとなる。そしてそれは、多くの人々との伝記の大部分と、非常に際立った対照を成している。それらの伝記文学の中には、ほとんど人間の歴史が書かれておらず、誤りと弱さのない生物の歴史が書かれている。そのような伝記ものを読む人々を励まさずに、むしろ落胆させる効果がある。それらは、人間が実際にどんなものがあるかの歴史ではなく、人間がどのようにあるべきかの記録にすぎない。それゆえ、それらは私たちには無益であり、無益ばかりでなく、かえって、有害である。人間をありのまま取り扱われる神を書き表したものほど私たちを励ますものはない。そして実にこれを霊感の書が私たちに与えているのである。(『創世記講義』C.H.マッキントシ著311~313頁抜粋)
しかもそれだけでなく聖書はイエス様を指し示している。人が心を固く閉じてイエス様を外に追いやり、提供されている「いのち」をみすみす逃されないようにと願うものである。
昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(新約聖書 ローマ15・4)
(写真は「アブラハムの犠牲」レンブラント1635年作の一部 Hermitage Museum蔵。創世記22章を題材にしたもの。約40年ほど前、日本で行われたレンブラント展で購入したもの。画面の下に目隠して今にも屠られようとしているイサクが描かれているが、見るに忍びないので上半部にした。神のひとり子イエス・キリストの十字架刑の原型だ。)
義母が大学病院から元の病院に戻される。ひとまず生命の危機は去ったようだ。高齢のゆえに手術後の回復がはかばかしくなく、今後も最初入院した病院でリハビリを続けて行くことになりそうだ。
回復がはかばかしくない一つの現象として中々意識が元に戻らず、何日間か眼を閉じている期間が多かったことがある。意識が回復してからも、時々意味不明なことばを発し、付き添っている家族が理解できないことがあった。
先日も私たちが付き添っているとき「高い山の上に家がいっぱいある」と言った。中々私たちには理解できないことばであった。多分何らかの夢を見ているのであろう。真相はわからない。
聖書にはアドナイ・イルエと言うことばが記されている。アブラハムがわが子イサクを燔祭のささげものとしてささげるように命ぜられ、それに従って山に登って行った時のことだ。神はアブラハムがまことに主なる神を恐れていることを知られ、イサクに代わって一頭の雄羊を備えられていた。それがアブラハムのささげものとなった。聖書は記す。
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。(旧約聖書 創世記22・14)
またイエス様は心騒がせる私たちに向かって
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの家には住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(新約聖書 ヨハネ14・1~2)
と約束してくださった。
この水曜日、一人の重篤の方を親友の方に案内されてベックさんと一緒に病院にお見舞いした。その方は40年以上その親友によって祈られていた方であった。ところが12月突然の発病であった。その病を通して短時日のうちに主イエス様の救いにあずかられ、永遠のいのちののぞみを持たれた。今はご家族にこの救いを知ってほしいと切に望んでおられる。
このお交わりのとき、ベックさんは「備えあれば憂いなしですね」と言われた。「備え」とは「天の御国」が用意されているということだった。だから人は死んで終わりではない、悔い改めて主を信ずる者には「備え」が用意されている。
「高い山の上に家がいっぱいある。」果たして、義母はどんな夢を見させられたのだろうか。
あなたはあなたの神に会う備えをせよ。(旧約聖書 アモス書4・12)
(写真は城町方面から眺めた彦根城天守閣。手前のお堀は中堀。石垣の向こうに更に内堀がある〔09.1.16〕)
神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それ
で、地は植物、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。(旧約聖書 創世記1・11~12)
笹尾鉄三郎氏は上記の創世記のみことばを次のように読んでいる。
幾千年を貫いて草木が各々その類に従い果を結び、種を生ずるのは、実に偉大なる保存力ではないか。わたし達はまた松、樅(もみ)を見るならば永遠のキリ ストを思い、棕櫚(しゅろ)を見れば安息と勝利の主を思い、林檎(りんご)を見れば甘味満ちあふれる彼を思い、ぶどう、いちじくを見ればわたし達を楽しま せてくださる主を思い、百合花(ゆり)を見れば美しく栄あるイエスを思う。これはなんと興味深いことではないか。(『笹尾鉄三郎全集』第1巻3頁より)
植物の一つ一つを見て、ことごとく主イエス様を覚える。造られた者が造り主を覚える。極めて当然なことだ。これこそ初めの人が持っていた神との交わりの至福のときであったのでないだろうか。笹尾氏の研ぎ澄まされた霊性に改めて感動を覚える。
そんなことを思うとき、数輪の花の活けられた花瓶の花にも、心休められる。人間に折られてなお美しく見世物になった贖い主イエス様に感謝したい。
寒椿 汝(な)れのすがたは イエス様
(写真は友人谷口幸三郎氏の作品である花瓶に挿された椿の花)
一月もすでに二十日が過ぎようとしている。正月早々義母が突然の病気で入院した。四日早朝2時半、枕元の携帯が異変を知らせてくれた。義弟からの電話で危篤ということだった。遠くにいるため何も知らされていなかった私たちは吃驚仰天させられた。早速家内と二人で祈った。その後大学病院へ移送されたことが分り、手術に入ることも分った。病名は「急性大動脈乖離」であった。
その日は次男がちょうどパリに戻るために早朝出発する手筈を整えていたときでもあった。次男も後ろ髪を惹かれる思いで七時過ぎには出発せざるを得なかった。家内は八時過ぎには家を出て新幹線で大学病院へ急行し、すでに現場で心配そうに事態を見守っている二人の妹家族一人の弟家族に合流し、手術直後の母に会えた。ところがこの大学病院には、たまたま、いとこが勤務しており、家内も「すべて備えられていた」と大変な中にも感謝の電話を寄越した。
それから二週間余り経ち、兄弟で交互に付き添いを交代しながら、見守るうちに、徐々に回復方向に向かいつつある。ただ年齢が年齢だけに一進一退の状態が今も続いている。長男も出張の帰途を利用して二回お見舞いに行け、義母に喜んでいただいたということだ。私も遅ればせながら二回往復し4、5回お見舞いでき義母とも会話できた。いとことは三年前の祖父の法事以来二回目の出会いになったが、今回はお医者さんとして(直接の主治医ではないが)義母の病状について話をうかがうことができた。今も病棟が同じこともあって陰ながら深く関わってくれている。感謝に堪えない。
こうして一刻一秒を争う病変の中で救急車の方々や大学病院で難しい手術をしてくださった医療チームの皆さん初め様々な方々の配慮の中で義母は今生かされている。普段は携帯は枕元に置かないのに、その日に限り置いていたことも、今思い返すと不思議なことだ。携帯を通してそれ以後の病院との連絡も出来た。文明の利器を通して一人の尊い命が生かされている。それにしても医療現場でいつも死と背中合わせに働いておられる医療従事者の方々のご苦労は大変なものがある。それを少しでも知ることが出来た思いでいる。
今日午後一時から、仙台の病院で知人のTさんがやはり手術をする。多くの方が祈っておられる。Tさんは信仰の良き先輩で、ご自身は平安でいらっしゃる。Tさんの体が支えられ、主の御栄光があらわされるようにと皆さんとともに祈りたい。
神は、実に、そのひとり子をお与