みことばの泉

2009年10月 4日 (日)

わたしにとどまるなら アンドリュー・マーレー

Dscn8043  久しぶりに『まことのぶどうの木』安部赳夫訳からの引用文である。これで16回目になる。折り返し点である。あと15回続く予定である。花は先週の日曜日、日立のFさん宅に出かけたおりお庭で拝見した花。花の名前を聞くのを忘れた。

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ15・7) 

 ぶどうの木と枝とがクリスチャンの生涯の絶好の譬ばなしに用いられるわけは、両者の性質が一つの源から出、両者が一つの霊によって生きているからにほかならない。植物界は神への完全な依存と、その依存によって得られる安全さを人間に実際に教えるために造られたのである。

 野のゆりを装わせる神は、私たちにはもっともっと美しい装いをお与えになられるのだ。木々に美と実りとを与え、ご自身のみこころのとおりにお造りになる神は、私たちをそのみこころの望むとおりになさるのは当然のことである。ただ一つ違うことは、神は木が意識しない力によって木に働きかけられるが、私たちには同意を求めになるという点である。これが人間の優れているところで、人間は神の仰せられることを理解し、神と協力する意志を持っている。これが自然の枝と霊的なぶどうの枝との違いである。

 前者は自然の力によってぶどうの木にとどまり、後者は神から与えられた、神のみこころに同意する力によって主につながるのである。自然の力と恵みの力の働きがこのように異なるのは、神の驚くべきご配慮によるのである。

 もし私たちが正しい祈りの生涯を送り、祈りに愛と力と熱情とをはっきりと示すならば、主にとどまることのできるのは疑いのないところである。ひとたび主にとどまるならば、望むものを求める自由と、望むものが与えられる確信とを持つことができるのは明らかである。

 主にとどまることができるかどうかとためらってはならない。私たちがほんとうに主にとどまることを学び取るまで、あの小さい枝と、これほどまでに美しい実を結ぶすばらしい力とを見つめ続けようではないか。

 主にとどまる秘訣は、身も心もすべて主にゆだね切ることだ。私たちの信仰と愛と従順の中にあるいのちの根を主の中に深く下そうではないか。ほかのすべての立場を離れて主にとどまるべきである。すべてのものを捨てて、栄光の神の子の地上の枝となる、想像もできぬ大きな特権を手に入れようではないか。

 キリストを第一とせよ。キリストをすべてとせよ。キリストにとどまることに心を捕えられないで、キリストに心を捕えられるのだ。キリストにとどまる私たちを、キリストはしっかりと握って離すようなことはなさらない。キリストは常にご自身の中に私たちをとどまらしめ、また私たちの中にとどまっておられるのである。

 キリストは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と言っておられる。キリストはこれを「わたしはあなたがたにとどまっている。もしわたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」という、もう一つの表現と同義語として使っておられる。換言すれば、私たちの黙想、記憶、愛、信仰―これらはすべて大切なものであるが―の中にだけではなく、とりわけ従順の中にとどまっておられることを指している。

 もしこのみことばが私たちの意志、私たちの存在の中に入り、私たちの生涯を形づくるならば、もしみことばが私たちの品性を造り変え、私たちを、みことばが語り、意味するような人にするとすれば、私たちは何でも望むものを求めてよいのだ。そしてそれは必ずかなえられるのである。私たちの祈りの中の神へのことばは、キリストの実となり、キリストのみことばは私たちにとどまることになるのである。

 「なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」というこの約束の真実であることを信ぜよ。いつもさらに豊かな恵みを祈り求め、私たち自身を人々のための執り成し人としようではないか。このような信仰と祈りとは、私たちがキリストの中に、全面的、かつ絶えることなくとどまることを不思議なほど助けることになるのである。

祈り

「『もしわたしにとどまっているならば』とあなたは言われます。そうです。主よ。祈る力と祈りがかなえられる力とは、あなたにとどまることによって得られます。あなたはぶどうの木ですから、私たちにあなたの霊を吹き込む神の執り成し人です。あなたのみ恵みによって、私たちはあなたに単純に、そして全面的にとどまり、大きな願い事をお願いいたします。アーメン」。

2009年9月13日 (日)

新しい名 小原鈴子

Dscn7905  聖書においては名ということが重んぜられています。確かに名というものはその所属を現わし、性格を示すものです。

 神は創造の初めにおいてアダムに命じ、アダムがすべての生物に与えた名が、その名になったと記されています。

 創造者なる神は「数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる」とイザヤは讃嘆しています。また牧者なる主は数多い羊の名を呼んで導き給うとあります。神の御前に隠れ得る名(個人)はありません。

 ヤコブは兄エサウの家督権を奪い、さらに父よりの祝福をも横取りした時「よくもヤコブ(おしのくる者)と名づけたものだ」とエサウは怒りにふるえて叫んだとありますが、このヤコブが最後の試練の夜、神と力くらべをして、遂に自らの名を正直にヤコブです、と告白した時、神は彼に「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエル(神の皇子)と言いなさい」と、これを祝して新しい名を与えられました。

 アブラハムとその妻サライは年老いても嗣子がありませんでしたが、多くの試練の後遂に神は彼を恵み、あなたは多くの国民の父となる、サライは国々の民の母としようと、アブラムはアブラハム、サライはサラと新しい恵みとともに新しい名を与えられ、事実そのようにイスラエルの始祖となりました。神の祝福は石女を多くの国民の母とされたのです。新しい名は新しい使命への表象です。

 主イエスはその十二使徒を選定されました時、シモンにペテロと言う名をつけ、ヤコブとヨハネにボアネルゲと名をつけられました。彼らはこの新しい名にふさわしく新約の教会の土台となったのです。福音の力は人を変化させ、臆病なペテロが聖霊に満たされた時三千人もの人々は悔い改めました。ヨハネは燃ゆる心をもて終わりまで主を愛し福音の真理を鮮明に伝えました。

 迫害者サウロは福音の闘士パウロと脱皮しました。何という変化、古き自己をぬぎすてて新しい人を着たのです。これこそ新創造の恵みです。彼の新しき名とともに教会は建設されて行き、福音の足は伸びて行きました。

 怒りの子であり滅亡の子であったわれわれが福音の力によって新しい生命と新しい名が与えられますとは何たる奇蹟でしょう。ヤコブを化し、アブラハムを祝福し、シモンをペテロとし迫害者を福音の闘士となし給うた神は、今も倦み給う事なく疲れ給う事なく新しき御業をすすめ給うのです。見よ我万物を新たにせんと!!

 われわれも歴代の聖徒たちとともに大胆に生命をかけて証の金鈴をなりひびかせ、聖戦をすすめたいものです。

わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。(黙示録2・17)
あなたは、主の口が名づけられる新しい名で呼ばれよう。(イザヤ62・2)

(文章は久しぶりに『泉あるところ』小原夫妻共著262頁より引用。写真は先週通過した山陽本線の駅。この町の名は何を意味せん。幕末の阿部正弘がこの藩出身の老中であった。)

2009年7月31日 (金)

新しく生まれ変わっているか

Photo_2  人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(新約聖書 ヨハネ3・3)

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(1ヨハネ5・12)

 これらのみことばほど私たちに根本的なことを問う聖書のことばはないのでないか。これについて19世紀に活躍したアメリカ人のD.L.ムーディーは「生まれ変わり」と題するメッセージの中で次のように語っている。最後の部分だけを書き写す。

 次の質問は実に恐ろしいほど厳粛な問いで。今それを自分自身にあてはめてみてください。

 「私は生まれ変わっているだろうか。私は私たちのいのちである神の賜物を受けているだろうか。」

 もしまだ受けていないとしたら、あなたは絶対に神の国を見ない、という真理をあなたの肝に銘じなさい。あなたはこの世の王国を見るかもしれませんが、神の御国を見ることは決してないのです。

 あなたは大西洋を横断してロンドンへ行き、英国皇太子を見、オランダ女王に会い、そのほか他の国々に行けるかもしれません。しかし、平和の君を見ることは絶対にないのです。あなたの目は、生まれ変わらない限り、平和の君に注がれることはないのです。あなたはロンドンに行き、英国女王と会うことはできるでしょうが、栄光の王の上にはあなたの目は決してとまらないのです。

 この大陸を横断して、太平洋岸に行けば、美しく生い茂っている木々を見るでしょう。しかし、あなたの目が決して見ることのない一本の木があります。それはいのちの木です。それは神のパラダイスの真ん中にあります。

 あなたは地上の美しい都市を見、古都ローマやロンドンやパリやニューヨークの豪華さを見ることはできるでしょうが、しかし、堅い基礎の上に建てられた都、その建築者・造り主が神である都には、あなたの目は決してとまりません。

 またあなたは、地上の美しい川、大ミシシッピー川、アマゾン川やそのほか壮大な川を見ることはできるでしょうが、あなたが生まれ変わらないなら、神の王座からあふれ出る川に、決して目をとめることはないのです。

 愛する子どもを失った母親の方たちに申し上げます。あなたはイエス・キリストに希望を置いていないかもしれません。つい数ヶ月前に取り去られたあの小さな子どもは、あなたの胸のあたりにからみつくようにして暮らしていました。しかしやがて死が襲って来て、あの小さな子どもをもっと輝かしい、よりよい世界に連れて行ったのです。あなたは神から生まれなければ決して二度とあの子どもを見ないのです。

 このような思想は、なんと、厳粛で恐ろしいものでしょう! もしもだれか皆さんの愛している者が不滅の栄光に輝く希望を持っていたら、彼らは皆さんを、よりよい、いっそう輝かしい世界に招いているのです。おお皆さん、賢くなってください。今晩賢く振舞いましょう。皆さんが神の国にはいることを確信してください。今、固く信じてください。

(文章は『神にできないことはありません』D.L.ムーディー著いのちのことば社刊37~39頁。写真は先日いただいた絵葉書より編集。シャガール作「詩篇作者ダヴィデ王」。ダヴィデ王の視線をたどってください。一羽の小鳥がいます。何とやさしいダヴィデ王の目でしょうか。)

2009年7月19日 (日)

何でも望むものを

Dscn7457  「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ15・7)

 ぶどうの木の枝は絶えず祈っている。片時も休むことなく、「あなたの実を結ぶために必要な養分を送ってください」と叫び続けている。この祈りは必ず答えられ、枝が求めるものは、今必要なものも、将来必要であるものもみな与えられるのだ。

 キリストを信じる者の健全な生涯は、このぶどうの木の枝と同じように絶えず祈る生涯である。意識すると意識しないとにかかわらず、私たちは絶えず主に頼って生きている。「あなたがたは何一つできない」(ヨハネ15・5)という主のみことばは、主にひたすら祈り続け、求め、受けねばならないことを教えている。「なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」という約束のみことばは、私たちを限りなく大胆にさせる。

 しかしこの約束は、「実を結ぶ」ために与えられたのである。もし私たちが自分のためにだけ利用しようとすると、自分でこの約束の力を奪ってしまう結果になるのだ。キリストの弟子たちはいつでも世のためにいのちを捨てる覚悟であったから、キリストは彼らに天の宝を自由に用いることをお許しになり、彼らの祈りに応じて、その働きのために必要な聖霊と力をいつまでもお与えになったのである。

 「なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」との約束は、聖霊の降臨と直接の関連を持っている。この譬には、聖霊のことは記されていない。それはぶどうの木の養分のことについて記されていないのと同様である。しかしよく注意して見るならば、聖霊のことも養分のことも全文をとおしてその意味が含まれているということだ。ヨハネの福音書14章では、主は聖霊の内的生命について語られ、聖霊の中に主ご自身を啓示しておられる(15~23節)。また16章では、主は聖霊の働きについて語られ、世の人に聖霊についての確信を与え、主の栄光を示しておられる(7~14節)。祈りによって与えられるこの無限のお約束の恵みを受けるためには、私たちは聖霊に満たされていなければならない。また主のみわざと栄光にすべてをささげねばならない。そうするならば、聖霊は私たちにそのほんとうの意味を教え、それがまちがいなく達成されることを知らせてくださるのだ。

 私たちは多く祈ることによってのみ、豊かに実を結ぶという私たちの召命を達成できることをまず理解せねばならない。キリストの中には私たちの周囲の人々の必要とするすべての宝が隠されている。キリストは恵みとまことに満ちておられる。しかしこの恵みを受けるには、強い信仰をもって祈らねばならない。祈りに祈らねばならないのだ。また人々のためにいのちをささげ尽くすことがなければ、私たちはこの約束の実行を求めることができないことを合わせて記憶しなければならない。さて多くの人々は、いざこの約束の実行を求める段になると、何を求めればよいのかと考えるが、これは全く逆である。魂が主の救いを求め、そして主がこれらの魂を救えと命じておられることを知るならば、主の救いを求める力はおのずから生じて来るのである。

 主にこの約束の実行を、ぶどうの木につながら私たちのすばらしい人生の啓示の一つとして要求しようではないか。というのは、キリストのみ名によって求めるならば、キリストとの結びつきによって、何でも望むものが与えられることをキリストは私たちに語っておられるからである。魂はこの瞬間も滅び去ろうとしているではないか。それは祈りが足りないからである。神の子供たちが弱々しく力がないのはなぜか。それは祈りが足りないからである。主の約束を信じることは祈りを力強いものに変える。祝福が実現されるまで、たゆまず一生けんめい祈り続けようではないか。キリストの中に完全につながることが、多く祈るということを意味しているのだ。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳65~68頁より引用。写真はもう一月前になってしまったがドイツ・ミヘルスベルクで見かけた「さくらんぼう」の並木。今頃はもう収穫されていることだろう)

2009年7月12日 (日)

わたしは祈ります 十三司

Dsc05718  「彼らはわが愛にむくいて、わたしを非難します。しかしわたしは彼らのために祈ります」(旧約聖書 詩篇109・4 口語訳)

 「わたしは・・・祈ります」と。これはダビデの心であった。他の訳によると「我ただ祈るなり」とか、また「我はただ祈祷に心を専らにするなり」と。「されど我は・・・我は祈祷なり」と訳されているのもある。とにかく、この有名な呪いの詩の中に、この一句が記されてあることは何と言ってもすばらしい事である。ダビデの偉大さ、その人格のすぐれてうるわしかったことが「わたしは・・・祈ります」と言うこの一句の中に見いだされると思う。

 わたしたちが、非難される時・・・これはある訳には「わが愛の代わりに我に反対(サタン)す」とあって霊界の消息を見せられるような気がする。誰であっても、理由のいかんにかかわらず、非難されて気持ちのよいものではない。しかも納得のいかない場合、殊に困難を感じ、また時には堪えがたい場合もある。しかしダビデのように「わたしは彼らのために祈ります」と、聖霊に助けられて祈れる時の勝利はまた格別なものである。

 主よ、わたしたちの目を開き給え。箴言3章6節には「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」と記されている。ダビデが、きびしい非難を受けた時に、直ちに主の臨在を仰ぎ、「主よ、これがあなたのみ手のわざであること、あなたがそれをなされたこと」(詩篇109・27)を認め、積極的に「呪わば呪え、されど汝は祝し給え」(同28、ヴルガタ訳)と祈っている。

 ダビデには不思議なほど、恵みの霊と祈りの霊が注がれていた。さらにパウロの言う信仰の盈満していた事を認めざるを得ない。ダビデの時代も決して容易な時代ではなかった。使徒行伝13章36節に「事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えた」とあるが、何とすばらしい存在であった事であろう。旧約時代にも、かかる聖徒のあった事を思うて心より聖名を崇むる者である。

 そこでわたしたち新約の恵みに与かった者が、さらに優れる者であってこそしかるべきではなかろうか。この不信な時代にあって、いかなる場合に臨んでも「わたしは・・・祈ります」と言い得るほどに恵まれ、また聖霊に満たされているならば、あらゆるでき事に直面して主の栄光を拝し前進して止まないであろう。

 「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ11・40)と主は仰せられた。ローマ8章28節に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」と記されてあることを額面どおりに受け取るべきではないか。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著199頁より引用。写真はドイツ・ミヘルスベルク宿舎の中庭、親友Mさんの撮影したものを拝借。)

2009年7月 5日 (日)

枯れた枝 アンドリュー・マーレー

Dscn7351  「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」(新約聖書 ヨハネ15・6 口語訳)

 ここに述べられている教えは、単純ではあるが極めて厳粛な教えである。自分ではキリストの内に住んでいると考えている人でも、まだほんとうにキリストに完全につながっていないため、投げ捨てられ、枯れて焼かれてしまうような結果を招くことがありうる。キリストとの最初の結びつきができているように見えたとしても、その信仰が一時的なものに過ぎない人は枯れ枝のようなものである。私たちの教会の中を見回すときに、もしかして枯れ枝があるのではなかろうか。私たちは自分を省みて、私たちの心が果たしてキリストにつながっており、実を結んでいるかどうか調べて見ることは、私たちの大切な義務である。

 キリストにつながっていない原因はどこにあるのだろうか。ある人々は、クリスチャンの使命が神への従順と愛の奉仕とにあることをどうしても理解しようとしない。このような人々は、ただ信仰を得て地獄に落ちないことで満足していただけである。したがって、キリストにつながる動機も能力もなく、その必要さえも知らないのである。またある人々は、日々の生活や自分の財産のことに気を取られ、みことばを無用のものとさせてしまっている。したがって、何もかも捨ててキリストに従うことを全く知らなかったとしか言いようがないのだ。さらにある人々は、宗教や信仰は人間の知恵によってできたもので、神の力によるものではないと考えている(※)。この人々はただ恩寵が与えられる手段を信じ、自分自身の誠実を信じ、自らを義と認める信仰の健全さを信じていたのである。しかし、彼らの唯一の安住の場所として、キリストにつながることを求めることは全くなかったのである。誘惑や迫害の熱風が吹いた時、彼らは枯れ果ててしまった。彼らはほんとうはキリストに根ざしていなかったのである。

 私たちの目を大きく開いて、教会の中で私たちの周囲にもしや枯れ枝がないかどうか捜して見ようではないか。若い人々はどうなのか。彼らの信仰告白はかつては輝かしいものだったが、今ではさめ果てている。年を取った人はどうだろう。彼らは信仰の告白を持ち続けてはいるが、かつての新生の喜びは消え失せている。牧師や信者は、主のみことばを深く心にとめて、枯れ始めている枝に何か打つ手がないかを主にお尋ねしてみようではないか。「主に住む」というメッセージを教会の中に絶えず語り続け、すべての信者に主の中に住むほかはほんとうの安住はないことを知らしむべきである。

 私たちの心の中をまず省みることである。私たちの生活は新鮮で、緑がいっぱいで、力に満ち満ち、季節ごとに実を結んでいるだろうか(詩篇1・3、93・13、14、エレミヤ17・7、8)。心から喜んですべての戒めにお従いしようではないか。キリストの中に住むことを急がねばならぬことを早く悟ろうではないか。正しい心にとっては、キリストの中に住む秘訣は容易に握ることができる。ただキリストが私たちを置かれた場所を意識し、ただキリストと私たちとの結びつきに幼児のような安らぎを感じ、キリストが私たちを守ってくださるという信頼をいだいておればよいのだ。私たちに枯れることを知らぬいのちのあることを信じようではないか。枯れることを知らぬいのちは常に緑も濃く、しかも豊かに実を結ぶのである。

祈り
「私の主よ。私が『枯れ』ないように監視してください。そして私をお守りください。ぶどうの木に完全にとどまっていることから来る新鮮さを、ひと時も奪われることがないようにしてください。枯れた枝のことを考えただけでも、私を聖なる恐れと用心深い心とをもって満たすようにしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳61~64頁より引用したもの。文章中※を配した一文にふくまれる「宗教と信仰」ということばはむしろ「イエス・キリストに対する信仰」と置き換えたほうが意味が通ずるのでないか。なぜなら「宗教」ということばは様々な宗教の並置を認めた上でのことばであり、その概念どおり「宗教」は人間の造り上げたものだと思うからである。自らのキリスト信仰を「宗教」と規定することは十戒の第一の戒め「主は私たちの神。主はただひとりである。」申命記6・4にもとるのでないか。このことに関する深い洞察は、いずれもベック兄の著作『実を結ぶいのち』(1981年刊行)136頁以降や『神の聖なる戒め』(2009年刊行)84頁以降にくわしい。写真はドイツ・ミヘルスベルクの宿舎の窓から眺めた緑生い茂る樹木群)

2009年7月 2日 (木)

キリストは美なり 笹尾鉄三郎

Dscn7290  先日、ドイツからの帰りの飛行機の中で笹尾氏の「雅歌講義」を読む機会があった。以前にも紹介したが、「雅歌」についてはハドソン・テーラー、ウオッチマン・ニーがそれぞれ書いている。しかし笹尾氏は明治期の日本人である。彼がどのように読んだか、下記に写してみたい。

「その口ははなはだ甘く誠に彼には一つだにうつくしからぬ所なし」(旧約聖書 雅歌5・16文語訳)

 その次は口である。これはその口自身が甘く美しいものであるという意味である。世界で最も甘いもの美しいものといえばキリストの口である。そしてその口から詩篇119・103にあるように、蜜よりも甘い御言葉が出てくるのである。

 以上新婦はエルサレムの女たちに10節の冒頭の下に、順序よく主イエスを説明し、その十の美しさを示した。つまり頭(11)、髪(11)、目(12)、頬(13)、唇(13)、腕(14)、体(14)、足(15)、姿(15)、口(16)。

 このように説明してきてここに「誠に彼には一つだに美しからぬ所なし」と結尾をつけた。今までここあそこといっていたが、もはや一々言えなくなり、そっくり美しい、どこ一つとして美しくないところはなく、慕わしくないところはないといった。彼こそは美の結晶というべきである。元来美は美から出て、外のものからは決して出ない。画家が画を描くのはその画家の脳中に、美が刻みつけられてあるからである。

 世の中の美はどこから来たか、世の人は美術などを盛んに研究するがその源を知らない。すべての美の源はキリストであるのに、彼らはこれを知らないでただその枝葉だけに恍惚としているのである。彼は「我は真理なり」と仰せられたと同じ言葉で「我は美なり」といい得る御方である。

(『笹尾鉄三郎全集第1巻』254頁より引用。なお原文は画家が書家、画が書となっている。書家・書では意味が不明なので、画家・画に変えた。)

 果たして笹尾氏がどの程度美を解する人であったか知らぬ。しかし、かつてオズワルド・チェンバーズの伝記を読んだとき、彼が美を解し、自身画を描いた人であることを知った。その彼が聖書に即した生きたみことばを後年私たちに伝え得た。彼の人生に矛盾はなかったと思った。今日掲載させていただいた絵は先般のドイツ旅行で行をともにさせていただいた「こうこさん」が描くミヘルスベルクのパステル画である。

2009年6月28日 (日)

近づき給う主イエス クララ

Dscn7531 「イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた」(ヨハネ6・19)「イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」(ルカ24・15)

 「エノクは三百年、神とともに歩み」「ノアは神とともに歩んだ」と、これは旧約の歴史に輝いている人間生活の目標です。

 しかし新約においては神が人の世に来まし、人とともに歩んで下さったのです。

 「みよ神の幕屋が人とともにあり、神が人とともにすみ、人は神の民となり、神自ら人とともにいまし」とあります。

 神に近づく道を失ってしまった人類は、一歩一歩、ただ遠ざかって行くのみでした。その時神は御子を遣わし、救いの道を開き、ザアカイに対しては「きょう、あなたの家に泊まる」と自らを提供して近づき給いました。

 弟子が海で逆風にもまれてせん方尽きている所へ、主は浪を制して近づき「わたしだ、恐れることはない」といわれ、イエスがともなり給うことによって、舟は目的地にすぐ着きました。

 エマオ途上の弟子に主は自ら近づき、聖書を説き聞かせ給いました時、彼らの目は開けその心は内に燃え、ともにいますキリストを悟ることが出来ました。

 羊の大牧者なる主は、九十九匹を野に置いて迷った一つを求めてさがし歩き給うたのです。迷った小羊が岩かげに啼いている時、牧者も涙しつつ尋ねるのです。愚かにも迷い出た羊、嵐の恐怖に主を見忘れる心、助けを要するその心に近づき給うのが主イエスです。私どもは心を騒がせず、神を信じまた彼を信じましょう。彼を信ずる者は失望に終わることがありません。

(絵は昨日お邪魔したお宅のご主人の「天谷」と言う作品。奥様の話だと「あまごい」と読みかつて水田耕作をしたさらに何キロか離れた場所の地名だと言う。しかし天の谷と書くその場所はイエス様が恵みをもって降りて来て下さったとしか思えなかったところだったと言う。絵はその彼らの思いをものの見事に表現している。文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著183頁の鈴子ことクララさんのものより引用)

2009年6月 7日 (日)

信仰と行為 クララ

Dscn7239  「ああ愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか」、「御言を行なう人になりなさい」(ヤコブ2・20、1・22)「信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」(同2・22)

 一体人間は思想と行為とによって各自の生活を押しすすめて、家庭を建設し、社会を形成しているものであって、思想をもたない行為は本能に基づいた存在に過ぎません。同時にまた行為をもたない思想だけに生きると言うことも、考えられない生存の不具者です。

 聖ヤコブは己が信仰生活の経験を通して、信仰と行為について語っています。「自分には信仰があると称していても、もし行ないがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか」と言っている所をみても彼は主イエスが御在世中に語りたもうた教訓を如何に心に深く納めて思い返して学んでいた事でありましょう。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行なうものを・・・」とか「みな守って実行しなさい」などとみ言の実行について命ぜられています。その教えの尊さは実行力において証明されるものです。信仰による変化こそ力のあかしです。

 父なる神の愛は独り子を賜わった程にと記されていますが、もし人類の救いのために聖子を賜わったと言う事実がなかったとしたら、その愛とは我々にとっては思想上の言葉に過ぎないものとなります。しかし事実、神は独り子を賜わった事によって人類の救いを完成してその愛を証明されたのです。すべての徳性または美徳は実行以外にこれを示す道がないのです。

 一度生命の種が心に蒔かれます時、それが成長して行為の実を結ぶのは当然です。木は実によって知られるとはイエスの御言葉です。信仰は思想のうちに閉じ込めておけるものではありません。新しい酒は皮袋を破って流れ出るように爆発します。信仰が行為の実を結ばないでも果たして生きて行けるでしょうか。信仰は証するか自滅するかということも経験の事実でしょう。

 「義人は信仰によって生きる」とあるように、信仰はその人の全生活を支配すべきもので、これに服さない行為は信仰を辱しめる事となります。結局その人の信仰は行為を司る能力をもたない無力なものだと言う事を証明しているからです。これでは人生を支える柱となるには力のない葦の杖に過ぎません。周囲の者から気休めな宗教、自己満足と言われても黙するほかありません。

 「世に勝つ者はだれか、イエスを神の子と信じる者ではないか」「わたしが弱い時にこそわたしは強いからである」とあるように、我らが自分の弱さに徹する時、聖霊は我々の目を自分からキリストへと移して下さる、そこに支配と権威とのかしら、彼にあって完備する事のできる主が「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と約束したもうのです。

 このキリストを信じ、この神に望みをおきます時、福音にふさわしい生活をなす事は可能となり、信仰と行為は不分離なものとなります。神と偕に歩むと言う事は信仰の極致です。暗黒の現代に求められている灯もまたこの道ではありませんか。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著162頁より引用。今日の写真は以前紹介したルナリアの今の姿。別名「銀貨草」、「大判草」と言うのもここまでくれば合点できるというものだ、着実に子孫を残すために種を葉中にしっかりと納めているとは、我もまたかく信仰の実を納めたい。「ルナリアに 鈴子姉妹の 思いあり」)

2009年5月31日 (日)

あなたがたは何一つできない アンドリュー・マーレー

Dscn7209  「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15・5)

 主はご自身のことについて、「子は・・・自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5・19)と言われた。そして神に完全に頼り切られた結果、さらに「父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」(同節)と、前のみことばにつけ加えて言われた。子として父からただ一回だけいのちを受けるのではなく、一瞬一瞬いのちを受け続けておられたのである。キリストの生涯は、ご自身がなさなければならなかったすべてのことについて、絶えず父に頼っておられた。したがってキリストの真の弟子としての生涯を送り、実を結び、神を賛美しようとする者に対しても、「あなたがたは何一つできない」とはっきりと言われるのである。「人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶ」というみことばは、ここでは最も単純ではあるが、しかし最も力強い論拠によってさらに強調されている。「わたしの内に住むことは、あなたがたにとって避けることのできないことである。それは、あなたがたも知っているとおり、あなたがた自身では、天から受けたいのちを保ち、生き抜くために何もすることができないからだ」、というのがその論拠である。

 このことばの真理を固く信じることは、強い霊的生涯の根底となる。私たちが死人の中から人を生き返らせることができないように、私たちは自分自身に神のいのちを与えることはできないのだ。私たちの一つ一つの行動はキリストと聖書をとおしての神のみわざである。私たちがこのことを信じることが、信仰の生涯の真の本質である、完全かつ不断の神へのより頼みという立場に自らを立たせるのだ。私たちは心の目で、深まっていく霊的生涯に一瞬一瞬恵みを与える主を見ることができる。私たちは心から「あなたがたは何一つできない」というみことばに対して、アーメンと言うと同時に、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4・13)と言えるのだ。自分ではどうすることもできない無能を自覚し、そのために神の中に住むことが最善であると知らしめられてこそ、真の豊かな実りと良きわざへと導かれることになる。

 「わたしを離れては、あなたがたは何一つできない」というみことばは、私たちにキリストの内に住むように絶えず呼びかけている。ぶどうの木のところへ行って、その呼びかけが真実であることをもう一度確かめてみようではないか。ぶどうの木から養分を受けなければ、全く力なく、実を結ばないあの小さい枝をもう一度見て、キリストから離れては何一つすることのできないという確信を学び取りたいものである。ここにおいて私たちは、どの道を選ぶべきかについて何の疑いも持つ必要はないのである。譬から学び取ることのできる教えは、私たちは枝と同じように、確かに、そして自然にキリストの内に住むことができるということだ。それはキリストはまことのぶどうの木であり、神は農夫だからである。そして私たちは枝であるということである。永久にキリストから離れることなく、常にキリストの内に住むことができるように神にお願いしようではないか。キリストはどういうおかたであるか、何をなしうるおかたであるか、その神としての力、そして私たち一人一人に対する優しい愛のことを考えると、「私はあなたの内に住みます。私は豊かに実を結ぶでしょう。私は無力なことが力なのです。それでよいのです。あなたを離れては私は何もできないのです。あなたの内に住めば、私は豊かに実を結びます」と、私たちはいっそうの確信を持って申し上げることができる。

祈り
「主よ。『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』とあなたは言われます。あなたのこの定めを、私は喜んでお受けいたします。あなたはすべてであり、私は何もすることができません。私に何の力もないことが私の最高の祝福です。主よ。私は常にあなたの満ちあふれる恵みを待ち望んでおります。どうか、この祝福されたいのちの栄光を私に現わしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』<アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳>56~60頁の引用。写真はお隣のぶどうの木。毎年秋になるとこのぶどうの実のおすそ分けにあずかる。今日は5月最後の日である。マーレーは上述の文章のとおり「小さい枝をもう一度見なさい」と勧めていた。ご主人が枝切りをしておられた姿とともに脳裏に刻んで置こう。)

2009年5月27日 (水)

鹿が谷川を クララ

Dscn7200  「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う」(詩篇42・1、2)

 人の子は託されたこの世界に、なんと華々しい発展をとげたことでしょう。地を征服しつづけたばかりではなく宇宙にまで手を伸ばしました。夜空に輝いた星さえ、今は文明の光にけおされて都会の空から姿を消し、人類はバベルの塔の再建を夢見ています。こことかしこの距離は追放され、いながらにして世界の端を見るとは驚くべき進歩ではありませんか!! 更に前進せよ!! 前進せよ!! 人知の限り競いあえ!! との無声の号令に、目ざす所を知らず知恵の戦車を馳らせています。

 しかし神を見失った人類は、生命の法を逸脱して、自然法に生きる動物にも劣る堕落の沼に埋没し、止め度もない神の憂いとなっています。愚なものは心のうちに神なしと言う!!

 人の心は原始も今も同じ軌道を走っています。パウロの目に写った人の世は、終わりの時には苦難の時代が来る、その時の特徴、人々は自分を愛して他を顧みない一すじ途を走り、金を愛する者、快楽を愛する者、この三つの愛に徹底して生きる(2テモテ3・1~5)。その時外面的特色は神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、無知と愚かな行動を得意とする者となり、ダンテに言わせれば「世に忘恩ほどおぞましいものはない」と断言し警戒していますがまさにその通りです。

 人の子の尊厳の思念をすて去り、生命をかけて育てられた親に逆らい、その情をかき裂き、更にあらゆる恩恵を感じない恩しらず、忘恩の者となり果て、無情な者、融和しない者、無節制、善を好まない者、乱暴者、高言する者等々、なんとおぞましい心の姿でありましょう。

 しかしこれは神なき心、自我に生きる人のますます落ち込み行く途であるとともにノアの時代、ロトの時代と同型の姿です。パウロがよくも分析した人の内なる姿であって、心の糧ともなる愛情は退け、乾燥しきった人間関係となります。もし赤子であったら飢餓熱に生命を失うことでしょうと慄然とすることです。炭鉱内のガスの濃度しらべに小鳥をつれて行く習慣があるとのことですが、濃度をこえると小鳥は身もだえして苦しむそうです。現代はまさにそういう時代ではないでしょうか。

 エレミヤはイスラエルの民が不振に陥った時「山犬さえも乳房をたれてその子に乳をのませる。ところがわが民の娘は曠野のだちょうのように無慈悲になった」となげき、サファイアのように美しかったものが枯木のようになってしまったと嘆息しています。

 牡鹿が渇きにあえいで、谷川の清水を慕い求めるように、わたしの魂も神を求めてあえぎますと、切ない思いをもって叫んでいる歌人の切願はまた私どもの現状ではありますまいか。生命の泉に来たれ!!

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著151頁より引用。写真は今日の春日部交わり会の会場となったKさん宅で拝見した「透かしゆり」とバラ。)

2009年5月24日 (日)

豊かな実り アンドリュー・マーレー

Dscn7110  「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15・5)

 主はこれまで、「実」と「もっと多くの実」について語られたが、ここでさらに新しい考えをつけ加えられる。それは「豊かな実り」についてである。ぶどうの木は恵みに満ち、父なる農夫の手入れがよく行き届いているので、枝が多くの実を結ぶのは当然の約束であって、命令によるものではない。キリストと互いにつながり合って生きる枝が豊かな実をならせることのできるのは確実なことである。

 私たちは、クリスチャンの生涯における「働き」と「実り」との違いに気づいたことがあるだろうか。機械は働くことができる。しかしいのちだけが実を結ぶことができるのだ。法律は働きを強制することができる。しかし愛だけが自発的に実を結ぶことができる。働きは努力と労力を意味する。だが実の本質的な意味は、私たちの精神生活の静かな自然の成果である。栽培人はリンゴの木のために働くが、リンゴの実を造ることはできない。木が自分の力で実を結ぶのである。

 「御霊の実は、愛、喜び、平和である」(ガラテヤ5・22)と言われている。健全な生活は豊かな実を結ぶ。働きと実の関係は、たぶん「あらゆる良いわざを行なって実を結び」(コロサイ1・10)という表現に最もよく示されている。良い働きが神に受け入れられて、はじめて働きは私たちの中に住む御霊の実となるのだ。法と良心の下に、私たちがよい仕事を最も勤勉に行なったとしても、それで霊的な成果をもたらすことはできない。もしあったとしてもほんの少しに過ぎない。その理由は何か。私たちの働きは人間の努力であって、御霊の実ではなく、私たちの中の聖霊の働きから生まれる憩いに満ちた、御霊による自然の生産ではないからである。

 すべて働く者は、聖なるぶどうの木のもとに来て、まずその語るところを聞こうではないか。ぶどうの木は「人がわたしにつながり、わたしもその人の中につながっているなら、そういう人は多くの実を結ぶ」という、確かな、豊かな実りの法則を明らかにする。もし私たちが実を結べば、私たちの霊的生活が健全であることと、私たちと主との関係が明るく密接なものであることを示すことになる。

 朝起きて、まず私たちが主の中にあり、主が私たちの中にあることを確かめて、主とともにその一日を始めようではないか。主は私たちにそれだけのことは必ず求められる。それは私たちの意志と知恵とによるのでもなく、力によるのでもなく、「わたしの霊による」(ゼカリヤ4・6)のであると主は言われる。「人がわたしにつながるなら、その人は多くの実を結ぶ」という主の声に、まず耳と心を開いて、これからのすべての新しい仕事と取り組むのだ。私たちは主につながることに心を配り、主は実に心を配られる。なぜなら主は私たちの中に、そして私たちをとおして実をお与えになるからである。

 まことに、すべてのことをなさるのは主ご自身である。ぶどうの木は養分といのちと力とを与える。枝はそれを待ち、受け、憩い、そして実を結ぶ。枝であることだけが祝福なのだ。枝をとおして聖霊は流れ、神のいのちを人々にもたらすのである。

 神のみこころの中に私たちが占めている地位の、ことばではとうてい言い表し得ない厳粛さを、私たちが理解できるようにと、聖霊に時間をかけて祈り求めるべきである。神は神の子の中に私たちを植え、豊かな実を結ぶ使命と力を与えられたのであるから、今、その地位を受け取ろうではないか。絶えず神と主とに目を注ぐのだ。そして神が私たちを植えられた目的であるところの、豊かに実を結ぶ枝となるのを喜びをもって待ち望もうではないか。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳51~54頁引用)

2009年5月21日 (木)

今日は何の日―本日の浦和でのベック兄のメッセージより

Dscn7127  今日は主イエス様の昇天日で、ドイツでは休日である。主イエス様は復活後40日間500人以上の人々に姿を現わされ、それから天にのぼられた。復活祭が4月12日であったので、ちょうど今日で40日目になる。聖書の記すところによると七つの「神の大きなみわざ」(使徒2・11)がある。クリスマス、受難節、復活祭、昇天日、五旬節、再臨、小羊の婚姻の七つである。それらの中であと10日後に相当する五旬節の5月31日は聖霊降臨日で大切な神様のみわざがなされた日だ。

 主イエス様は永遠の先からおられ、永遠まで生きておられたが人となってこの世に来られた(クリスマス)。そして全人類の罪の贖いのために十字架にかかられた(受難節)。そして私たちが義と認められるためによみがえられ、40日後に天に戻られたというわけだ(復活節、昇天日)。

 けれどもこれらの神様の大いなるみわざが私たちのものになるためにはどうしても聖霊のお働きが必要であった。聖霊降臨の時、風が家全体を満たし、皆が聖霊を受け、満たされ、今まで話したことのない言葉で話した。それはたった一度だけの出来事だ(使徒2章)。

 今日一人一人の罪からの救いに、すなわち人生が目的のないものにならないために聖霊は遣わされた。サルトルもヘミングウエーも気の毒にその聖霊を追い出してしまい望みなき人間となったり、自殺への道を歩んでしまった。

 聖霊とは影響力ではない。人格あるお方である。真理、恵み、いのち、約束、力、愛、節制、きよめ、知恵、啓示、栄光、信仰、そして主の各御霊なるお方である。短い主イエス様のおことばがある。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(新約聖書 ヨハネ16・8)

 聖霊だけが罪だらけの人間の姿を明らかにし、イエス様だけが義であることを認めさせ、もし認めなければ罪人として永遠に死に服さなければならないことを明らかにする。だから人は聖霊を通してほんとうの悔い改めに至り、ほんとうの生けるいのちにあずかるのだ(ヨハネ3・3、3・5、テトス3・5、2コリント5・17、ローマ7・9)。

 これらはいずれも御霊の賜物だが、実はすくわれた者にとってはさらに御霊の満たしが必要だ。賜物は一回限りだが、満たしは失われるものであり、何度も満たされる必要があるのだ。御霊に満たされることにより、古き人は死に、新しく生まれ変わり、イエス様に似た者になり、神との戦いを終え、悪魔との戦いが始まる経験をする。神との平和から、主ご自身の平和を身に受け、もはや罪の罰は気にする必要なく、罪を犯さないように守られ全き献身へと導かれる。

 確かにイエス様を受け入れる人は多いが主とともに歩む人は少ない。すなわち御霊に満たされること、主に支配されることが少ないのだ。私たちははたして御霊に支配されるより、人間により支配を受けていないだろうか、問うべきだ。もし人間に支配されているに過ぎないなら、それは単なる銅線、単なる一枚の紙切れに過ぎない。なぜなら、ほんとうはこの銅線は御霊の満たしを受けていれば高圧電流を流すものであり、一枚の紙切れは神様の無限の富から振り出される小切手であるからだ。くれぐれもどのように歩んでいるかに注意が必要だ(コロ2・6、1ヨハネ1・7、2・6、ガラ5・16)。

 終わりに神様の大きなみわざ二つを抜かすわけには行かない。それは「再臨」と「小羊なる主イエス様の婚姻」というこれから私たちが経験することだ。これぞ今まで誰も思いつかなかったことである。しかし私たちは御霊に満たされながらその日を待ち望むことができる(黙示19・9、1コリント2・9)。

(文章は小生の一存で勝手にまとめています。正確にはベック兄のメッセージを直接聞かれることをお勧めします。写真は小生宅の自転車置き場に一人生えしている二ゲラの花。)

2009年5月17日 (日)

二篇の詩

Dscn7117  二篇の詩を紹介したい。
 いずれも、ポーロ・リースの「聖なる装い」(『神もし我らの味方なれば』松代幸太郎訳91~92頁所収)に載っていたものである。
最初の一篇はファーバーという人のもの。

 彼が祝福されるならば
 それが悪しきことであっても
 われにとりてよきことなり。
 されど、祝福なきよきことは
 われにとりて悪しきことなり。
 彼のうるわしきみむねならば、
 最も悪しく見ゆることも正しい。

 「彼」とは主なる神のことであろう。この詩を作ったファーバーがどういう人かはわからない。次の一篇はハリエット・ビーチャー・ストウのもの。

 暴風が大洋の上に荒れくるい
 大波が怒り、とどろくときも
 騒ぎたつ波の下に支配するのは
 永遠の静寂であるという。

 はるかなる下で暴風雨は消え去り
 銀色の波は平和な旋律をかなで
 いかに嵐がたけりくるうとも
 海の底の深き安息を乱さない。

 おお、至純なるおかたよ、
 なが愛を知るこころには
 とこしえにきよき宮あり。
 人生の怒れる声の水泡は
 その戸口で絶えて静かなり。

 はるか遠くに激情の叫びは消え
 静かに平和に愛の思いが起こる。
 いかに嵐が激しくくるうとも
 主よ、なが中(うち)に住む魂は害(そこ)なわれじ。

 ハリエット・ビーチャー・ストウはいわゆるストー夫人で『アンクル・トムズ・ケビン(アンクル・トムの小屋)』の著者である。この詩がどこにあるか知りたい。『アンクル・トムズ・ケビン』の作中でトム爺がどうしてあのように生きることができたか、ここに作者の深い霊的ルーツの根源があったことがわかる。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。・・・あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(新約聖書 ヨハネ14・27)

(写真は昨日に引き続きホフマンの絵を撮らせていただいた。全幅ではない、一部だが。荒れ狂う海の波の中で絶望する弟子たち、舟のともに寝るイエス様、ヨハネ6章やその他聖書記載の記事に基づくものである。)

2009年5月13日 (水)

3回のメッセージ

Dscn7102_2  火曜、水曜とベックさんから3本のメッセージを聞かせていただいた。火曜は吉祥寺に出かけ、水曜は春日部の午後と夜の家庭集会でだった。3本のメッセージは私の中でどのように醸成されるのだろうか。思い出すままに書き連ねる。

 火曜日は学び会のものでベックさんが力を入れておられるものの一つだ。テーマは「いっしょに」ということで、40年間足なえの状態であった人がイエス様の御名によっていやされ、そのあとどのように他の信徒との交わりに加えられて行ったかを聖書テキスト(「使徒の働き」)に即して詳細にたどられたものであった。

 ともするとひとりよがりの生活を始めそうになる私にはキリストのからだとしての教会がいかに形成されていくかの原点を見る思いであった。聖霊降臨の後、信ずる者は日増しに増え、ある時点では男5000人であったと記されている、そのような初代教会の歴史がそのまま刻まれているのが「使徒の働き」の特徴だが、そこに個々の信徒、しかも無名の足なえの方の信仰がいかに生きたものであるかを読み取ることができるのだ。それを伝えてくださった。

 一方春日部の午後の集会では「自己吟味」の必要性を哀歌3・40を初めとして語ってくださった。自己吟味は「定期的」に、「徹底的」に、主の光の前に出て「正直」になされねばならないと語られた。夜は夜でヨナという預言者がいかに主の御顔を避けて下へ下へと降っていったか、しかしそこでも主が捕らえてくださり、12万人というニネベの町の全員が悔い改めに導かれたかを話してくださり、神様の御心とそれに従う信者の責任について厳しく問われた。

 出席者の中には私のように二日間で三回もベックさんからメッセージを聞く者もいる。なかには火曜の夜も麻布で語られたからそれと合わせると四回メッセージを聞く人もいる始末だ。事情のわからない他者からみると何と飽きないことよと思われることだろう。一方語り手の立場に立てば、同じことを四回語るのでなく、四回とも異なるのである。語り手の労苦がしのばれるというものだ。

 その上、彼は一方通行の人ではない。メッセージの前後には実に多くの問題を持った人と交わり、真剣にその話に耳を傾け、的確に助言される。そのメッセージは、聞く者を断罪し自身はみことばの圏外に安住するというような、いわゆる自分を棚の上に上げるものでなく、ご自身がそのメッセージどおりに生きておられる。だからそのメッセージは単なる「話」ではないのだ。彼の生き様そのもの、即ち内に住まわれる主イエス・キリストの証そのものなのだ。それがあるから私たちは他の人が何と言おうともベックさんのメッセージを聞きに行くのである。前にも引用したことがあるかも知れぬが、以下のマックシェーンのことばを髣髴させるものだ。

 永遠を標準として語れ、何事よりもまさって、あなたがた自身の霊魂をつちかえ。良心が清澄で、心が神の御霊によって満たされているならば、あなたがたの語るひと言は、不信と罪とにあって語られる一万言よりまさる価値のあるものとなるだろう。人はそうでなくても神は栄光を受けられねばならないということを銘記せよ。この世界上の運動をおおっている、おおいが取り除かれた暁には、神の子たちの祈りによって、どんなに大きなことがなされたかを私どもは知るであろう。(『祈りによる力』E.M.バウンズ葛原訳101頁)

私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。(旧約聖書 エレミヤ哀歌3・40)

(今はバラのシーズン真っ盛りである。写真のこのバラは隣家のもの、撮影の許可を得た。)

2009年5月10日 (日)

あなたがたは枝

Dscn7056  「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15・5)
 主は今まで、枝について多くのことを語って来られたが、ここでは、そのみことばが私たち一人一人にどのように当てはまるかについて教えられる。主は「あなたがたは今まで話して来たところの枝なのだ。わたしはぶどうの木として枝が必要とするすべてのものを与える。だから、わたしがあなたがたに約束して来た聖霊の新しい働きによって、あなたがたは地上でのわたしの枝になるのだ」と言われる。

 主が打ち建てようとしておられるこの関係は、完全に個人的なもので、わたしあなたという二つの短いことばで表現される。主と最初の弟子たちとの関係と同じく、主と私たちの関係も完全に個人的なものである。主が私たち一人一人に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と力強く語りかけられた。私たちは心からこのことがわかるようになるまで、主のみ前にとどまっていなければならない。

 私たちはたとえ若く、また力がなくても、「あなたがたは枝である」というみ声をまず聞くことだ。私たちは枝以下のものではない。だからいたずらに卑下したり、肉体的な犠牲を恐れたり、自分は何事もすることはできないと、信仰のない人が常にいだくような疑いを持つことはやめようではないか。「私は枝になりましょう。枝はたとえ弱くても、ぶどうの木と枝である私とは、同じ性質で同じ霊を受けることができます。自分では何もする力もない枝ですが、神と人との前に一本一本はっきりと区別して置かれ、実を結ぶためにすべてをささげているのです。それ自体は何の値打ちもない枝ですが、神がすべてを与えてくださるという信仰のうちに憩い、喜びを得ています。そうです。神の恵みにより、神は私をとおして実を結ばせてくださるでしょう」と、胸を張って申し上げようではないか。

 私たちは枝である。それ以上の何ものでもある必要がないのだ。私たちはぶどうの木の責任を取る必要は全くない。私たちが全面的により頼み、限りない信頼を持っているその部署から離れて行く必要は全くない。私たちは天の奥義を理解しようと努めたり、その条件を満たそうとしたり、その祝福された目的を達成しようと気をもんだりする必要も全くない。ぶどうの木がすべてを与え、すべての働きをされるのだ。父なる農夫は、枝である私たちとぶどうの木とのつながりと成長とを見守っておられる。私たちは枝以上のものである必要はないのだ。ただ一つの枝! これを唯一の願望としようではないか。この願望は、主のみわざに絶えず身を任せて主のすべての命令に心から服従し、すべての恵みを喜んで待ち望む道に私たちを導くに違いない。

 どのようにすれば、私たちは一つの枝として正しく生きていけるのだろうかと言う人があるかも知れない。枝の性質、力、実りは、すべてぶどうの木にかかっているのと同じように、私たちの人生はすべて、わが主イエスを私たちがいかに理解するかにかかっている。したがって「わたしはぶどうの木―あなたがたは枝」という二つのことばを決して分けて考えてはならない。主を礼拝し、主を信ぜよ。主を私たちのただ一つの望み、ただ一つの心の拠り所とすべきである。私たちがどうしても主を正しく知ることができないと感じる場合に、ぶどうの木としての主を私たちに知らせる責任の一部は主ご自身にあるということを思い出そうではないか。主は知識によってご自身をお知らせになるのではなく、主に心を低くして安らかにすべてを任せる生涯に、主ご自身がひそかに臨在されることによってお知らせになるのだ。主は枝の中に住み、みわざを行なわれる。枝はただみわざを待っているだけである。父はおん自ら農夫として、私たちを天のぶどうの木の枝としてふさわしくすることができるのだ。このゆえに私たちは絶対に失望させられることはない。

祈り
「主よ。『あなたがたは枝である』というみことばも、ほかのみことばと同様、権威をもって私の魂に話しかけてください。地上のぶどうの木の枝がはずかしめを受けることがないようにしてください。枝はぶどうの実を結ぶたまにだけ生きているのですから、地上の私のいのちがほかの願いや目的を持つことがありませんように。私の願いや目的とは、あなたが私をとおして実をならせられることです。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳46~50頁より引用)

2009年4月30日 (木)

どれが第一のものですか 十三司

Dscn6862  律法学者が来て、・・・イエスに質問した。「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか。」イエスは答えられた。「第一の戒めはこれである。・・・聞け・・・心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ・・・これより大事ないましめは、ほかにない。」(新約聖書 マルコ12・28~29)

 この答えは「あなたは神の国から遠くない」と、イエスにほめられた律法学者を驚嘆させた聖言である。

 「すべてのいましめの中で」とは三百六十五あるいましめの中でどれが第一のものかとの問いに対して答えられた主イエスの御言葉である。主は仰せられた、全人格を傾倒して「主なるあなたの神を愛せよ」と、何というありがたいご命令であろう。私たち人間は何も愛さずに生きてゆけるものではない。もし何も愛さずに生きているとしたら、それこそ「生けるしかばねにすぎない」。人生は何を愛して生きて行くかと言うことで万事が決定するのではなかろうか。もし、金銭を愛して生きるなら、金持ちになるかもしれない。また学問を愛して生きるなら、学者になるかもしれない。そしてスポーツに夢中になるなら、チャンピオンになって名声を博する者となるかも知れない。もし劣等な肉欲におぼれて夢中になるなら、その結果はだれに聞くよりも早く、その実を刈り取るのは自分自身だからすぐにわかる時が来るだろう。すなわち滅びである。しかし熟考して見るならば、金持ちになる事も、学者になる事も、また一流の選手になることも容易な事ではない。もし万一、望むように成功したとしてもそれが何だろう!! 結局は空の空と実感しつつ、この世を去るようになるのは、人生の悲哀ではないだろうか。

 しかるに去る日の夜のことであった。その日は実に多忙に過した日である。十三通もの通信と、事務整理、そして夜になって来客、それが終わって聖書を読み、またしても事務、これで一日の奉仕が終わり、神の聖前に静思することしばし、その時不思議な実感におそわれた。それはなんとも言う事のできないすき腹のような満たない感じである。

 なぜだろうと深く思索にふけった。その途端に、「お前は何のために労しているのか」との問いかけである。もちろん福音のため、神さまのため、み栄えのためと答えるのに躊躇逡巡はない。

 しかしなお満たないのだ、なんだろう・・・ただ忙しく暮らすのが能ではない。ローレンスのように「神さまを愛して、神さまのために、み前にあって・・・」と思いついた時、そうです・・・「あなたを愛して、あなたのために、一枚のハガキでも書きます。いと小さいことにも、神さまを愛し、主イエスを愛するゆえに」と口ずさんだ時、天よりのものが止めを破って注がれるように、神の愛の注がれることを経験した。以来心は愛に満ちている。心をつくし・・・力をつくして神を愛せよとのご命令は、蜜の甘さを覚える言葉となっている。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著121頁より引用、写真は苧環。)

2009年4月26日 (日)

勝利の秘訣

Dscn6830  引用聖句 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。(新約聖書 1コリント16・13~14) 他 1コリント1・4~9、15・1~4、55

 コリントの人々は勝利の生活を願っていながら敗北者の生活を送る人々の集まりであった。ところが聖書はいかにして勝利が与えられるかをはっきりしめしている(ヨハネ8・32、ローマ6・14、8・37〔圧倒的な勝利者〕、2コリント2・14〔いつでも、至る所で〕)。

 引用聖句は軍隊調の命令文である。それもそのはずである。なぜなら将軍は戦いが勝利に終わることを知っていたからである。主の兵卒として信者は信ずるだけでなく主に喜ばれることを願う者となっているであろうか(2テモテ2・3~4、2コリント5・9)。

 命令は5つに分かれている。第一に「つねに警戒し用心せよ」である。見まわりをする兵士のように、戦いを挑んでくるこの世、肉の力、悪魔の三者に、目を覚まして備えていなければならない。コリントの町はギリシヤの重要都市・商業教育の中心都市として、折角悔い改めた者をまたとりこにする力を持っていた。この世に対しては1ヨハネ2・15~17がある。また生まれつきの罪の性質・肉の力はパウロが述べたとおりである(ローマ7・18、24、ガラテヤ5・19~21)。しかしイエス様のうちに肉の力からの解放がある(ローマ7・25)。さらに悪魔は様々な顔を持ち誘惑する(〔ほえたけるしし〕1ペテロ5・8、〔光の天使〕2コリント11・14、2・11)。だからいつも用心しなければならない。

 第二に「堅く信仰に立て」である(1コリント15・58)。このことは主によって可能である。土台は主のお約束、みことばである。したがっていわゆる聖書批判は聖書の曲解である。私たちは絶えず聖書全体は何を言っているかを知りその上に立つ必要が命じられている(2テモテ2・15)。私たちを襲うどんな困難なときでも主を信頼して堅く立つことが必要である(〔主ご自身がこう言われる・・・そこで〕ヘブル13・5後半~6)。

 第三に「成長して完全な大人になれ」とある。1コリント13・11「子どものことをやめた」か。未成熟が「ねたみ」(1コリント3・3)となる。信仰の一致、御子を知る一致、完全におとなになる(エペソ4・13)ことである。

 第四に「主にだけより頼み依存すること」が命じられている。これまで述べてきたことはいずれも自分の力では絶対にできない。それをさせて下さるのが御霊である。「主にあって、その大能の力によって強められなさい」(エペソ6・10)とある通りである。すなわちエペソ6・13~17にあるように神のすべての武具を、すなわち腰、胸、足に備え、さらに大盾、かぶとを身につけ、最後に御霊の与える剣であるみことばを受け取ることである。

 最後に「すべて愛をもって行なう」ことが命じられている。主の愛によって満たされることは信仰者すべてに与えられている事実(ローマ5・5)である。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。・・・」(ヨハネ13・34~35)。大切なのは知識が知識に終わるのでなく、実践に移されることだ。

 「イエス様は勝利者である。このイエス様の勝利は私の勝利である」と告白した老聖徒のようでありたい。

(4月21日火曜日ベック兄の学び会のメッセージを引用者の独断で再構成してあります。写真はエルサレムセイジの花。) 

2009年4月22日 (水)

わたしはぶどうの木

Dscn6792  「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(新約聖書 ヨハネ15・5)

 この譬の初めに、主は「わたしはまことのぶどうの木」と言われたが、ここでもう一度それを繰り返して言われる。このことばは簡単なようであるが、キリストにつながる生涯の鍵となるものであるから、よく心にとめておきたい。主は「わたしにつながっていなさい」という命令に服従するただ一つの道は、主ご自身に目も心も注ぐことであることを私たちに理解させたいのである。

 「わたしはまことのぶどうの木」という聖なる奥義の意味がよくわかるまで学ぶことだ。そうすればキリストにつながることは自然にできるようになる。まことのぶどうの木である主を、天の奥義が何であるかを感じ取るまでよく仰ぎ見ることである。そうすれば私たちは聖霊の助けによって、父の天の奥義を明らかにするようお願いしない訳にはいかなくなる。まことのぶどうの木の栄光が神によって示され、これによって主を知った人は、この主につながるほかに生きる道はないのである。キリストを心に描くことは大きな魅力である。キリストは私たちを磁石のように引きつけて離さない。生ける主が、今なお私たちに話しかけ、「わたしはぶどうの木」ということばの意味と力とを私たちに示そうとして待っておられる。私たちは今、耳を傾けて聞こうではないか。

 キリストにつながることの真意を理解しようとして、私たちはどれほどむだな努力をして来たことだろうか。それは、キリストにつながることが私たちの義務であると考えたことによるのだ。これは全く誤りで、生ける主は私たちを常にしっかりとつかまえておられるのに、私たちはただつかまっておればよいことがわかっていなかったのである。私たちは主につながることが、絶えざる緊張と努力との連続のように考えて、安住を求める人への憩いを意味することを忘れていたのである。主が「わたしは枝を生み、支え、力づけ、実らせるぶどうの木である。あなたはただわたしに任せ切ることに同意すればよいのだ。そのほかのことはすべてわたしがあなたの中に行なうのだ」と言われたことに深い注意を払うべきである。

 キリストにつながることを今まであまり考えたことのない魂が、いつもキリストにつながっている事実を時々見かけることがある。それはその人たちがキリストに心をとらえられているからである。キリストにつながるということばが必要なのではなく、キリストが常に語られるように、キリストにつながることがクリスチャンの生涯の鍵そのものであるということだ。主はこのほんとうの意味を私たちに理解させたいと考えておられる。「ほかのどんな場所、拠り所からも離れるのだ。あなた自身の外に出て生きるのだ。あなたがわたしの中にいることを認めよ。わたしの中にいつまでもつながっているのだ」とは、主の言われるほんとうの意味である。

 「わたしはぶどうの木」という奥義を、主は弟子たちに少しも隠そうとはされなかった。最初はこの譬で語ったみことばによって、次には聖霊が降ってからはその力によってこの奥義を現されたのである。また主は、私たちに対しても同じように、最初はこのみことばが呼び覚ました信仰の告白と願望とによって、次には聖霊によって、その力をもってこの奥義を現されたのである。主がこの奥義のすべての意味を示されるまで待ち望むのだ。日々心を静かにして、主とそのみことばとを心に刻み、主がぶどうの木にされるように、私たちにもしてくださることをしっかりと心にとどめようではないか。

 いつも主にあって神のみ前に立ち、神のみ恵みを待ち望もうではないか。主がぶどうの木の天の奥義を私たちに静かに語り、説き明かされるのに耳を傾けようではないか。そして私たちの中でもキリストの上にとどまる神のすべての奥義を現わしていただくように、切に祈り求めようではないか。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳41~44頁より引用、写真は庭の野生バラ三輪。今日は造園家の方に庭木の刈り込みをお願いしたのでこのバラが今期の見納めになってしまった。)

2009年4月21日 (火)

わたしが生きるので・・・

Dscn6783  イエスは大声で叫んで言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(新約聖書 ルカ23・46)

 ストーカーは十字架上のキリストのことば七つを分析し、その最後のことばが上述のものであったことを確認し、それが「祈り」のことばであり、かつ詩篇31篇のことばであったことに注目している。なぜなら主イエス・キリストの日常はいかに父なる神との交わり、すなわち祈りと聖書に費やされていたかを最後まで証しているからである。その上、この主の祈りは、私たちが死に臨み、いかに霊が守られるかを祈願して召されてゆくべきかの亀鑑であるとも言って、さらに次のように語っている。

 臨終の床にあるもの、あるいはまだ生きているものが、死を予測して問いうる最も重大な問いは、「人は死んだら、生き返ることがあるのだろうか」ということである。

 すっかり死んで、永久に死んだままなのだろうか。そうかもしれないという恐ろしい予想が、人間の心の中にはある。そして、この予想を動かしがたい教理に変えた教師はこれまでにも数限りなくいる。彼らは、心というものは物質の一形態ないしは機能にすぎず、したがって、肉体的物質の分解とともに人間も分解して、物質的宇宙に混入されるのだと信じている。

 他の教師たちは、物質と精神とをはっきり区別し、肉体がちりに戻るとき、精神は存在の大海に戻るのであり、ちょうど大海の中の一滴のごとく、その中に人格性は姿を消し、もはや再結合はありえないと教える。しかし、われわれの中には、こういった教理に抵抗する、高い、聖なる何物かがある。人類の最良の教師たちも、よりよき何物かを待ち望むべきことを教えられた。それでもなお、彼らの確信は揺らぎ、信仰は曇った。

 われわれがたずねて行くべきはキリストであり、彼は永遠のいのちのことばをもっておられる。彼は、この主題について、ためらうことなく、疑問の余地のないようにはっきりと語られた。彼の辞世のことばは、彼が他人に教えられたことを、自分でも信じておられたことを立証している。彼は、その教えによって、いのちと不死を明るみにもたらされたのみか、彼自身がその教えの保証であられる。彼はわれわれの朽ちることなき永久のいのちなのだから。

 われわれは、自分が彼と一つにされているがゆえに滅びることはありえないと確信している。何物も、死すらも、われわれを彼の愛から引き離すことはできない。

「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(新約聖書 ヨハネ14・19)

(『キリストの最期』ジェームズ・M・ストーカー著村岡崇光訳249~250頁より引用)

(写真は今日の午後神楽坂で泉さんの個展に出席し、中国茶の振る舞いを受けたおりのもの。泉さんの手の働きは版画に生かされているだけでなく、もてなしにも用いられていた。特に、この者のそそう―ポットをひっくり返した―を片付けるためにも敏速に動いた。主が「あなたの御手におゆだねします」と言われた「御手」はこのような愛ある人の手のすべてを凌駕する圧倒的なものであろう。)

2009年4月19日 (日)

私たちの主は生きておられる

Dscn6756  引用聖句 ヨハネ10・1、10~18、24~29
 主は生きておられることを確信できることほど大きな喜びはない。ロシアでは革命前には主の復活、またその後の40日間の顕現に基づいた様々なお祝いの風習があった。人々は互いに「主イエスはよみがえられた」と挨拶しあい、その間に行われた葬儀では普通の賛美以外に「よみがえり」の歌も歌ったものだ。

 1コリント15章はパウロによるよみがえりの書であり聖書中重要な書だ。パウロはよみがえりを「上から」受けた(3節以下9節まで)。パウロがどうして主を信じたかと言えば、復活した主にお会いし捕えられたからだ。当時のコリントの教会の人々は様々な問題・失敗の渦中にあったが、ひとえにその原因は彼らがよみがえりの土台の上に立っていなかったことにあった。だからコリントの人々にこの15章が必要だったのだ。今日の私たちもそれぞれの生活の中で、いつも自分はよみがえりの土台の上に立っているか自問する必要がある。

 イエス様の死は神様ご自身が見過ごすことの出来ない全人類の罪の除去にあった(ヘブル9・26)。釈迦も孔子も日蓮も死んだ。けれども復活されたのは主イエス様だけだ、イエス様だけが生きておられ、今日も支配しておられる方だ。初代教会の人々は勝利者として墓からよみがえられた主を喜んで証言した(使徒2・32、3・15)。どうしてよみがえりはそんなに大切か。①神性(初めのない終わりのない方)を証明するからであり②イエス様の死は私たちの罪の贖いにとり十分であったことを意味し③死に対する勝利を示すからである。人が「死」から「いのち」にうつる根本(ヨハネ5・24、ロマ8・1)にあるのがよみがえりである。

 このような主イエス様の死が「いけにえ」として受け入れられた証拠として3つに分けて考えることが出来る。まずエルサレムの宮の神殿の幕は真っ二つに引き裂かれたという事実である。聖所と至聖所をへだてる幕はイエス様の贖罪死以前には存在し、大祭司が年に一回犠牲を携えてのみ入ることが出来たのであった。しかし主の死と復活により、へだての壁は取り払われ、いけにえは受け入れられ毎日私たち一人一人が何回も聖なる主に近づくことが出来るようになった。

 次に主が葬られた墓が空っぽであったことがよみがえりの証拠である。空の墓は私たちの罪の身代わりの主の死が十分であり、死からの復活という神の全能の働きをあらわし、それゆえ救いが確実になり、預言が成就した場所である。だからマタイ28・6~11を丁寧に読むと、空っぽの墓が希望(6節)、喜び(8節)、慰め(10節)、崇拝(9節)、奉仕(10節)などの場所となったことが確かめられる。

 最後にイエス様がよみがえられて高められている、すなわち神の右の座に着かれ、その死が受け入れられたことが証明されている。御子は・・・罪のきょめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(新約聖書 ヘブル1・3後半)イエス様がよみがえられたので再臨の証拠も与えておられる。イエス様はこのご自身の死が無駄で終わることなくいのちを与えるものであることをおっしゃるためご自身を「一粒の麦」と言われたのであった。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(新約聖書 ヨハネ12・24)

 この主のよみがえりを信ずる者は、暗闇から光へ移され、罪の奴隷からの解放を経験し、死からいのちへ導かれるのだ。この何でもできるイエス様を体験として知る者は心から「私たちの主は生きておられる」と喜んで証できる。

(写真は昨日の朝の浅間山。文章は今朝の御代田でのベック兄のメッセージを引用者の責任でまとめたもの。)

2009年4月12日 (日)

よみがえられた主

Dscn6730  「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」(新約聖書 ルカ24・31)
 「すると、イエスが立っておられるのを見た。」「夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立たれた。」(ヨハネ20・14、21・4)

 旧約の夜は天使の賛美とともに明け渡った。マリヤの賛歌、ゼカリヤの賛歌、そしてシメオンの信仰にみちた賛歌とともに、新約の光は世を照らした。

 主イエスの鮮やかな聖足の跡はユダヤの野に山に「これは道だ、これに歩め」と示している。その生命の流れはものみなを生かし、岩に砕けては奔流となり、静かに流れてはシロアの河となって舟を浮かばせ、岸辺を豊かに潤しその実りは人々を喜ばせた。その恵みの足跡にはすみれが香り、聖手のかげには小羊が伏す。

 彼の行く所、やもめの独り子は死の衣をぬぎすて、学者は愕然としてその教えに目をみひらき、罪人は己が罪の絆よりとき離され、群衆はその恵みの言葉に驚いた。

 その足もとには婦人がみことばにきき入り、心うえた者はあくことを得た。エルサレムの娘らは汚れた血のうちにころがりまわっていて、生まれては去り、去っては生まれた罪の子を贖うために主はその血の汚れのうちに聖足を下ろし人の世に来り給うた。彼こそはわが贖い主、人類を罪より救う贖い主であった。

 神は「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」をみことばの誓いのゆえに実現され、神の独り子は燔祭の羔となって十字架の上に死にたもうた。かくして完成された贖い、父なる神のゆるしの愛!! 偉大な犠牲と痛みを伴うゆるし、天も地も面をそむけた聖子の苦悩、はかりしれぬ父の愛を深く思う。

 絶望の暗(闇)は去って、宮の幕は上よりさけ、人は神に近づき、神は人に近づきたもう。新しい生命の道は開かれた。一週のはじめの朝、あたらしい創造の夜あけ、人の世の終止符である墓場の石はまろばし去られて、生命は死を征服し「実に主は甦られた」。暗黒と恐怖のうちに失われていた小さな群には「弟子たち主を見て喜べり」との快報が次々伝えられた。

 ペテロの混乱した心は夜あさりも不成功であった。空しい舟を岸辺に近づけた時、失望の彼らを迎えようと主は岸に立っておられた。心取り乱した墓場でマリヤがふり向くと、主はそこに立って「だれをさがしているのか」と自らを示された。エマオの下り坂を行く二弟子、その心は夕ぐれゆく淋しさであった。彼らに近づいて主はみことばもて彼らの心の火をかき立てて使命の地に引き戻された。これぞ甦られた主であった。何という恩寵であろう。人生に行きくれた者の望となり、力つきはてた者のささえとなり、生の喜びを燃え立てて下さる甦りの主、「これぞわが福音」と叫んだパウロの心に共鳴の糸の高鳴るのを覚える。もし主の墓場の石が今もそのままであったとしたら、我らの希望はいずこをさまよっていることであろう。甦りの主よ、世の終わりまで我らとともにいませ!!
(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著104頁から引用)

(写真はレンブラントの作品「エマオ途上のキリストと二人の弟子」1655~56年ごろ、『レンブラントの素描』嘉門安雄著より。)

2009年4月 5日 (日)

わたしにつながっていなければ アンドリュー・マーレー

Dscn6523  「枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」(ヨハネ15・4)

 このみことばは、枝が実を結ぶために欠くことのできない条件は、枝がぶどうの木の一部であることで、その他には何の方法もないことを示している。この切っても切れない関係は、キリストがすでに「わたしにつながっていなさい」ということばで表現された。これは自然界を見ても、枝の存在がこの戒めをはっきりと教えている。

 天のぶどうの木につながることを許されるのは、枝にとってすばらしい特権である。「わたしはあなたがたとつながっていよう」と言われたすぐ後で、主は「わたしにつながっていなければ」という戒めのことばをつけ加えることなど必要がないと考える人もいる。しかしそうではない。その訳は、「つながる」行為の中に自分を捨て切るという意味が含まれていることを、主ご自身がよく知っておられるからである。自分だけの努力で実を結ぼうとする傾向がいかに一般的で、かつ強いものか、キリストにいつもつながっていることがいかに必要なことか、それらを私たちに信じさせることがいかに難しいことか、主はよく知っておられるのだ。

 ところで、この「つながる」ということばは、文字どおりに解釈すべきものなのだろうか。私はこのことばはあらゆる意味で、絶対的に文字どおりに解釈すべきだと信じている。枝の存在と同じように、私たちの全生命を主ご自身だけにささげねばならないと信じている。どのような例外も、どのような修正も許されるべきではない。

 「つながる」ということは、強い意志によって、心を込めてする行為でなければならない。神を求め、神に奉仕することには、いろいろの種類があるように、「つながる」ことにもいろいろな程度があるように思える。霊的に新しい誕生をすると、神のいのちが私たちの中に入るのだが、それが直ちに私たちの全人格を満たし、支配するとは限らない。これは私たちが神の命令に従うかどうかにかかっている。

 したがって、私たちは神のために働き、実を結ぶために自分をささげようとしながら、実際は、神にほんとうにつながることが少なく、主と共なる生涯に心を傾け尽くすことができないという大きな危険性が、私たちの信仰生活の中にある。つまり、主とのつながりに絶対に欠くことのできない関係を持たないために、労多く実りが少ない結果となってしまうのだ。もし私たちの中にわがままと高ぶりがあるならば、みことばがこれを捜し出して取り去り、きよめるという働きを認めることによって、私たちはこの大きな危険性から解放され、見ことばの真意を受け入れることができるのである。

 聖なる主は、私たちの自我と自らの力を捨てて、主と主の力につくことを望んでおられるのだ。私たちはこの「わたしにつながっていなければ」との戒めを守り、主を恐れ、自らを低くし、主がみわざをなされるために、主に従おうではないか。「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのである」(コロサイ3・3)と記されているが、このいのちは天の奥義であって、いかに思慮深いクリスチャンの目にも隠されている。しかし幼子には現わされるというのである。主イエスの教えを素直に受け入れて、何事もぶどうの木に求める魂に対して、このいのちが時々刻々に与えられていることを、幼子のような無邪気な心こそがこれを学び取るというのだ。ぶどうの木につながることは、主にすべてをお任せするために安んじて自分の魂を主にお渡しすることである。これは自然の世界で、ぶどうの枝がぶどうの木のほかは何ものも知らず、何ものも求めないのと完全に一致することである。

祈り
「主よ。『わたしにつながれ』とのみことばを、あなたのすべてのご命令として聞きました。あなたはまた服従する力も与えられました。あなたが『起きて歩け』と命じられると、足なえは元気よく立ち上がりました。『わたしにつながれ』との力強いみことばが力を与えることを信じます。主よ。そうです、私は今すぐに、あなたにつながりますと申し上げます。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳36~40頁より引用。写真は木の枝。枝は確かに木にしっかりつながっている。だから、安心して一羽のひよどりもとまることができるというものだ。鳥の全重は枝をとおして木に。結局は木が一手に引き受けているのではないか。)

2009年3月30日 (月)

3/24のメッセージより(下)

Dscn6537  最後にイエス様の御名のために悔いることがない、すなわち「私は、死ななければならないのなら、死にます」という態度を取った7人の実例を聖書を通して考えたい。

 先ず約3500年前のモーセである。彼はエジプトの富・学問・楽しみを全部捨て、永遠の冠を得るために貧しき生涯をささげた(ヘブル11・25~27)。この世の富、教養、楽しみの結果が死であり、死後さばきを受け永遠の滅びに向かうことを知っており、この世とちがった別の世界に住んでいたからである。この彼の態度ゆえにイスラエル人は救われた。第2番目は約3300年前のルツである。彼女は父母・故郷を捨て、それまで知らなかったところに来た(ルツ2・11)。故郷に留まるようにと言われたが、姑を通して全知全能の神を知り喜んでそうした。そして人間的な安全よりも主の御翼のもとに安全を見出し、豊かな報いを受けた(ルツ2・12、ルカ18・29~30)。

 第3番目は今から約2600年前に生きたダニエルの三人の友だ。彼らの特徴は妥協なき態度だった。それゆえに火の炉に入れられた。空想主義者、理想主義者でもなく、また決して思慮を失った者でもなかった。ダニエル3・15~18。彼らは自らの命を粗末に見ているのでなく、目に見えない神を心の目で見ていたのだ。彼らの態度ゆえに異邦人の王ネブカデネザルは次のように言わざるを得なかった。ダニエル3・28~29。第4番目はダニエルだ。彼は祈ることを禁じられていたにもかかわらず一月も祈ることをやめなかったので命を奪われる危険性に瀕していた(ダニエル6・10)。窓を閉めて誰にも気づかれないで祈ることもできたが、窓を開けて祈るという一見愚かな行為を主の名誉のためにした。そしてこの彼の態度ゆえにダリヨスもまた次のように書きしるした。ダニエル6・25~27。

 第5番目の例は約2500年前のエステルだ。彼女の取った態度は獅子の穴に手を入れるより危険であった。しかしこのようなことを無思慮に行なったのではない。3日間断食し祈って確信し、「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル4・16)という態度を取ったためにユダヤ人は全部救われ、逆にユダヤ人を殺そうとした人が皆殺されたのだ。第6番目は約1900年前のバプテスマのヨハネだ。殺される直前来るべきメシアを確かめようとした。イエス様のおことば(マタイ11・5)を聞き、何の躊躇もなくすべてを主の御手にゆだねて死に赴いた。何年か前三島由紀夫は割腹自殺を遂げ首が転がされた。彼はつねに自分が中心であったため、壁に突き当たり生きる希望をなくしてしまった。しかし同じように首が転がされたバプテスマのヨハネは、人間が中心となることを拒み続け、ただ主イエス様だけの栄光を求めたのであった(ヨハネ3・30)。

 最後にパウロと彼の同労者たちを考えて終わりにしたい。パウロはローマ市民権を持ち最高の学問を身につけ将来有望であった。そしてイエス様は最大の偽善者偽り者として迫害し続けた。その彼が自らそれまでの人生は悪魔によってめくらにされていたと知り、このかつての迫害者は燃えるような福音の伝達者となった。その彼が身につけていたものはこれまでの6人と全く同じである。「私は死ななければならないのでしたら死にます」であった。ピリピ3・7~8、使徒20・24、使徒21・13、1コリント8・13、10・33、2コリント12・15、2テモテ2・9~10。エパフロデトもそうであった(ピリピ2・30)。パウロは何千人の信者とともにネロによって殺された。しかしパウロは殺される前に証した。「私は今や注ぎの供え物となります。・・・今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(1テモテ1・12、2テモテ1・12、2テモテ4・6~8)。

 結局これらの人々はみな自分の命を失う備えを持っていた。それは命を粗末にすることを意味せず、失われた者が救われるため、信ずる者が新しく造りかえられて霊的に成長するために生きたのだ。私たちも主の御栄光だけが大切という態度を毎日取ることができたらどんなに幸せであろうか。

(今回のメッセージはきわめて密度の濃いもので十分まとめられていない。メッセージの時間も約一時間強かかっており、その割にはお聞きしていたおり、時間の長さを思わされなかった。写真はこのところ毎日餌台に訪れる「ひよどり」の今朝の英姿。)

2009年3月29日 (日)

3/24のメッセージより(中)

Dscn6485  パウロは福音を宣べ伝える人、伝道者に対して悲しいことだが次のように言わざるを得なかった。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」(ピリピ2・21)。しかしこのみことばは私たちにも当てはまるのではないか。

 一般に人は4つの大きな願いを持っている。第一に、身の安全である。お金、保険、教育そのようなもので身の安全を図ろうとする。しかし、聖書は、地に宝をたくわえるな、思い煩うな、先ず神の国と義とを求めよ、と言っている。人は神学でさえも身の安全に用いる。しかし、パウロの証は、イエス・キリスト以外は何も知らないことに決心した(1コリント2・2)とある。しかも彼が絶えず不安定なところにいたことを覚えるべきだ。二番目に安楽な生活を求める願いである。しかし、イエス様は全然これを願われず、ご自分のいのちを与えられた(マタイ20・28)。「私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです」(詩篇22・6)という態度を取られ、一切弁護されなかった。そして信ずる者にもそのようにすることを望んでおられる。

 第三番目に楽しみだ。疲れたので休みたい、そのために、みことばを学ぶこと、祈ること、集うことをやめるなら霊的に死んでしまう。そうではなく私の持っているものはみなあなたのものです。あなたのみこころの通りなさってくださいと祈るべきだ。四番目に人には他の人々に認められたいという思いがある。しかしこの思いはみじめな結果に終わる。救われた人の中にも伝染病のようにこれが広まることがあるが、そのような人は御用に叶うものではない。主は人よりの人気を求めず、上よりの力を求めるようにと言われる。

 これら4つの願いはどこから来るかと言うと、ごうまんなパリサイ人的な心から出て来る。ガラテヤ5・19~21の通りであり、肉の働きは私たちの誇り高ぶる心から出てくる。だからイエス様もマルコ7・20~23で言われた。信者・未信者を問わずあらゆる人の内側から悪が出てくる、と。人は環境が悪い相手が悪いと言うがそんなことはない。私たちが悪いのだ。

 なぜ何百万という滅びに向かってゆく人が一度も福音を聞かされないまま歩み続けているのか。それはみな信ずる者の罪のゆえだ。自分のことを考えているからだ。なぜイエス・キリストのからだである兄弟姉妹はこんなにも悪の霊と戦うことにおいて弱いのか。それは信ずる者がみな自分のことを考えているからだ。なぜこんなにも多くの兄弟姉妹が生ぬるく不熱心で自己満足しているなのか。それは自分のことばかり求めているからだ。

(写真は埼玉県幸手市の街灯である。私はこの市の桜の市章がことのほか好きである。幸手と書いて「さって」と読む。「幸福」とは自分を見ることでなく、上なる主を見上げることである、と今日のメッセージで教えられる。幸せの手が主の手中にのみあることを覚えたい。)

2009年3月28日 (土)

3/24のメッセージより(上)

Dscn6505  引用聖句 「私は死ななければならないのでしたら、死にます。」(旧約聖書 エステル4・16。他に エステル3・1~6、4・13~18、ヘブル11・32~40。)

 ダニエルと三人の友は、主なる神に対する信仰を捨てて妥協するよりは、死んだ方がましだと考えた。初代教会の人々の取った態度も同じだった(2コリント4・18)。見えないものに目を留める者にとって、死ぬことについて話すのは、奇妙ではなく当たり前のことと理解されるはずだ。

 「理性と信仰」というテーマがある。そのことを最初に少し考えてみよう。「理性」は概念を立て、結論を導き出し、判断を下す力を持つ。それにもかかわらず人間は何と見当違いをすることか。理性だけにたよると必ず壁にぶつかる。ソロモンは命令した、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3・5)と。罪によって人間の理性がいかに堕落させられているか、聖書は語っているではないか(エペソ4・17~18、ローマ1・28、2テモテ3・8、7、1コリント13・9)。だから人間の知識が限られていることをわきまえている者は主に対する信仰を必要とする。そして信仰を持つものは経験することができる。「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです(コロ2・3)」と。

 この認識は上からの啓示によってのみ可能だ。イエス様を体験的に知ることは上からの啓示を必要としている。パウロはそのことを経験した(ガラテヤ1・12、16)。博学のパウロは聖書の教えに精通していたが、それによって主イエスを受け入れることができたのではない、かえって聖書の知識は邪魔になった。それに反して上からの啓示によって自分の罪を知りイエス様を体験的に知ることにより主の恵みにあずかったのである。

 この恵みを知れば知るほど理性の限界を正しく知ることができる。初代教会の人はそのことを体験的に知っていた。ペテロは勧める。「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」(2ペテロ1・2)。イエス様は私たちのために祈ってくださった。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17・3)

 イエス様はいのちを与えるお方であるよりも、いのちそのものである。道しるべでなく、道そのものだ。だから人間の理性だけに集中することはこの世的であり遅かれ早かれ必ず限界にぶつかる。理解力は論理的なものを与えるかも知れぬが突き詰めると内面的なむなしさに帰着せざるをえない。パウロの数々の証のみことばはそのことを語る(ピリピ3・8、「人知をはるかに越えたキリストの愛」エペソ3・19、ピリピ4・7)。

 結局、信仰とは主なる神に対する絶対的な信頼を意味するものだ。それに対して人間の理性は自分の身体や命を心配するが、その結果は不信仰に終わる。

(吉祥寺の学び会でのベックさんのメッセージを自分のことばで例によりまとめようとしたが、今週は中身が濃く、とても一回でまとめられなかった。上・中・下と3日間にわけて掲載する。写真は昨日の散歩途中で見かけたお花畑にあった水仙。どうしてこんな美しい花が咲くのか、理解できない。創造主の妙を覚えたい。)

2009年3月22日 (日)

信仰生活における「従順」のたいせつさ

Dscn6422  引用聖句 使徒5・32、ローマ5・19、ピリピ2・8、2テサロニケ1・8

 これまで見てきたように、モーセ、ダニエルと三人の友だちはそれぞれ主によって祝福された。信ずるだけでなく従ったからである。彼らは主の栄光を見たのである。モーセの場合、主はモーセに告げて仰せられた、モーセはそのようにした、すべて主が彼らに命じられたとおりを行なった、そのとき雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた、とある(出エジプト40・1、16、34)。荒野の幕屋に主の栄光が満ち満ち、モーセでさえ入る余地がなかった。同じことはソロモンにもイエス様の弟子たち、ステパノにも起こった(1列王記8・11、エゼキエル44・4、ヨハネ1・14、使徒7・55)。しかし今の私たちにもパウロを通して、次のようにみことばは主の「栄光」へと召されていることが、語りかけられている。

(私たちは)ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。(新約聖書 1テサロニケ2・12)

 それでは主の「栄光」とは何か。御子(ヘブル1・3)に現わされた神の栄光であり、私たちに現わされる御霊ご自身である(1ペテロ4・14)。父なる神様のみこころにかなうことが主の栄光を知ることである。ここでは主をよりよく知るために三つのことを考えたい。(1)主に従う重要さ、(2)従順と不従順の結果、(3)全き信仰の要求、である。

 先ず主に従う重要さについて5つの例をとおして考えてみよう。①モーセに関する次の数節である。出エジプト40・19、21、23、25、27、29、32。モーセは自分の考えでなく、ことごとく主の命に従った、その結果が34節であった。②弟子たちはどうであったか。迫害にしり込みしたが、従ったとき驚くべきラザロの復活・主のご栄光を拝した(ヨハネ11・7~8他)。③ラザロの姉マルタの場合も同じであった。ヨハネ11・39、40。④アナニヤ(使徒9・10~11、13~14⑤ペテロ(使徒10・13~14)の両者の場合も不従順だったが、従ったときにそれぞれパウロの救いや異邦人の救いにあずかり、主のご栄光を拝することができた。

 したがって、従順であるか不従順であるかによって結果が異なるという事柄は重要である。すなわち栄光を拝するか、それとも、とりのがすかは私たちの決意にかかっているからである。先述の5つの例を従順・不従順の目で見てみれば一目瞭然だ。

 最後に、それゆえに私たちに求められている全き信仰について考えたい。本来、「信仰」と「従順」は同じものだ。聖書の原語はそのことを示している。たとえばヘブル3・19、4・6がそうだ。私たちは不従順の根が不信仰にあることに気づくべきだ。それに対してモーセは示されたとおりに幕屋を使い、マルタは信じて墓の石を取り除けた。弟子たちやマルタ、アナニヤ、ペテロは、それぞれ理解できないことや考えられない事態に直面し、それが頂点に達したときに、逆に従順に従ったから、主のご栄光を拝することができたのである。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(旧約聖書 箴言3・5)

 確かに理性は概念を構成し決断する力を持つすばらしいものである。しかしそれにもかかわらず人間は何と多くの間違いをすることであろうか。あるときは主のみことばが馬鹿らしく見えることがあるかもしれない。しかし、私たちは主のささやく声に聞き従いたいものだ。エレミヤはイスラエルの敵であるカルデヤの土地を主のことばに従って買った(エレミヤ32・6~9、32・17、19)。

ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。(旧約聖書 エレミヤ32・17)

(今日の文章も先週火曜日に行なわれたベック兄の学びの聞き書きを筆者の独断でまとめてあります。ただ聖書の引用箇所については正確を期しているつもりです。写真は一昨日撮影した彦根城佐和口多聞櫓のお堀端にある桜の木です。東京は開花したそうですが、彦根はまだ開花までいきません。しっかりその時をひたすら待っているようです。)

2009年3月19日 (木)

初めの愛

Dscn6403  引用聖句 新約聖書 黙示録3・14~22

 人が何をどのように見るかという見方はもっとも大切なことだ。イエス様は証人としそのことを明らかにされいる。ここで主が問題とされたラオデキヤの教会は成長がなかったがそのことに気づいていなかった。しかし、この教会はひとり過去の教会を指すだけでなく現代の「終わりの時代における教会」を指していると言えるのでないか。その教会の特徴とはイエス様が教会の外に立っておられるところにある。

 たとえば、人から認められたいという思いが中心で、聖書が何と言っているかという神様に問う姿勢がない(1サムエル3・10)。そのような教会は効き目のない塩と同じで、イエス様を紹介しない教会で、神様の目から見て「あいまいな教会」であることに間違いはない。

わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(15~16節)

 これがこの教会に対する厳しい主イエス様のことばだ。主はラオデキヤの状態を「生ぬるい」と言われる。主は熱いことを望んでおられる。(ローマ12・11)しかし、ここでは生ぬるいことは、主を徹底的に拒んでいる・冷たさよりもっと悪いと言われているのだ。ラオデキヤの教会は人とうまくやっていこうとする人にも神様第一の人にもともに席が与えられている、あいまいな教会である。そのような集まりは、互いに楽しく生きようとする仲良しクラブに過ぎず、「からだとしての教会」をなしていない。人に対する無関心だけでなく主イエス様に対する無関心さに囚われている恐ろしい状態にある。悔い改めを忘れた教会の姿を主は明るみに出される。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(17節)

 すべてを知り給う主の判断は、教会内の人が思っている思いと全く異なる。主との親しい交わりをなくし、自分の知恵・力に頼る教会は決して実を結ぶことはない(ヨハネ15・6)キリストが生きる目標となっていない(2コリント5・14~15)。そうではなく、からだなる教会はお互いが必要とされる存在であり、互いに祈り合う間柄である教会である(1コリント12・21)。主から離れては何もできない状態であることを主は知ってほしいと望んでおられる(ヨハネ15・5)。

 しかしこの真の診断者であるお方は、救いと解放を与えられるお方である。なぜなら一番駄目な教会に主が次のように祝福されるからである。この約束のおことばは悔い改めて初めの愛に立ち返り、外に締め出していた主イエス様をお迎えするときに実現する(19、20節)。

勝利を得る者をわたしとともにわたしの座に着かせよう。(21節)

 主を恐れて、自己満足に陥らないように私たちの主への信仰を吟味させていただこう(詩篇139・23~24、詩篇26・2)。

(文章は昨日の浦和でのベック兄のメッセージを聞き、筆者の観点でまとめたものです。なお写真は昨日拝見した幸手のAさん宅の椿の花です。前回の沈丁花に続いて昨日はこの椿の赤さが私の目を惹きつけました)

2009年3月13日 (金)

聖書の神は美の神

Dscn6336  聖書の神、わたしたちの主イエス・キリストの神は美の神であられます。彼は美を愛しておられ、それゆえに美の創造者であります。輝かしい光を放っているすばらしいかなたの星から、足もとに舞い落ちる雪片の美しい模様や絶妙な光彩に至るまで、神は美を冠せられたご自分の宇宙の上に、美しい署名をしておられるのです。たとえ、詩的表現のためであるとはいえ、だれかが人知れず咲いている花を歌って、「人に見られずに咲き、そのうるわしさを砂ばくの大気に浪費している」と言うならば、それは、低い人間の側からのみ言えることです。高い観点から見るならば、神と天使がそれを楽しんでいるかぎり、それが見られないということは断じてなく、またそのうるわしさが浪費されていることはありません。もしあなたが、バードの写した南極の写真を見、またナンセン博士の北極に関する記述―特に北極光に関する―を読んだことがあるならば、次のことを知られるでしょう。この小さな遊星である地球の最もさびしい遠隔の地方―そこには人類が足を踏み入れたことも、人類によって飾られたこともない―においても、そのふしぎな魅力に答える人々に対しては、数えきれぬほど多くの、思いもよらぬ美が蔵されていることを。

 しかし、神が美を愛するかたであると言いながらも、わたしたちがその証拠を形、色、調和、配合の目に見える世界だけに限るならば、単に表面だけを見ているにすぎません。日の出や日没の輝き、果実や花の愛らしさが、神の着ておられる外衣を織りなしているとすれば、その目に見える衣服の下には、目に見えぬしかし永遠に価値のある神のご人格の美しさがあるのです。彼はすべての道徳的な美しさの個人的な根源であり、中心であり、そして制裁力であられます。また、聖と愛の無限な、個人的な精髄であられます。それゆえ、彼が人類を彼の道徳上のかたちに創造されたのは、聖なる愛においてでした。聖い愛にあって、彼は胸の張り裂けるような悲しみを経験しておられます。なぜなら、罪がそのかたちを汚して、みにくくしているからです。聖い愛にあって、彼は永遠に、人々がご自身に対して自発的な全き明け渡しをするように求めておられます。なぜなら、彼らのうちに聖い霊的な美しさを創造するために。このことについて、使徒パウロはエペソのキリスト者に、次のように書き送っています。「真理はイエスにある。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ4・21~24―英訳)

(『神もし我らの味方ならば』ポーロ・S・リース著松代幸太郎訳84~86頁引用)

(写真は再びクリスマスローズの花。この美しさをどなたが創造なさったのか。)

2009年3月11日 (水)

「主とともに働く大切さ」

Dscn6341  引用聖句 ダニエル9・23、10・11、10・19

 ダニエルはこれらの聖句を見ると三度も「神に愛されている人」と呼びかけられている。呼びかけられるにはそれ相応の理由がある。彼は祈りにおいて主とともに働くひとであったからだ。私たちも主によって愛されている者であるから、主とともに働く者である(ヨハネ3・16、ローマ5・8、1ヨハネ4・9~10)。

 先週に引き続いて、「天にまで届く祈り」について更に考えたい。これには大きく二つのことが伴うことに注意すべきだ。(1)聖書に基づく祈りであること(2)生活の中に生きた証が見られること。この二つだ。

 まず聖書に基づく祈りとは何か。「ダニエルは、・・・主のことばによって、・・・文書によって悟った」(ダニエル9・2)とある。主のみこころを聖書をとおして知って祈ったことがわかる。さらに祈りは単なる提案でなく命令であることをパウロを通して知ることができる。エペソ6・18の示すとおりだ。

 ダニエルはバビロンに捕われていたが、天に属する民はそれに支配されないことを知りエルサレムを望み見て祈っていた。同じように刑務所内に囚われていたパウロは神の御住まいである「教会」を確信をもって祈っていた。エペソ1・22~23、2・21~22、3・9~11、3・20~21、4・12~13、5・27、5・30である。これらの主の御標準に対して私たちはいかに遠いものであろうか。今の時代に対する主の御心を私たちは教会としても個人としても知るべきだ。周囲の状況に妥協することなく、苦しみに対して主の定めておられる目的を明確に知り、必ず目的がなると信じて祈るべきだ。ダニエルの祈りは低き所にいる悪魔を超え、いと高きところの天にまで届く祈りであった(ダニエル10・12~14)

 次に天に届く祈りは生活のうちに生きた証を持つことを覚えたい。その証は先ずこの世のいかなるもの(自分の欲をもふくみ)にも心を奪われない分離が特徴としてある。ピリピ2・21、ピリピ1・21、コロ1・10。ダニエルにとっての神は信ずるだけでなく、仕える神であり、それゆえ人を恐れることがなかった(ダニエル3・16~18、ダニエル1・8、6・10~11、6・16、6・23)。次に目的に忠実だった。ダニエルはへりくだってそれを求めた(ダニエル10・12)。パウロは「教会」と「栄冠」を目指した(2コリント11・2、1コリント9・24~25、ピリピ3・14、ヘブル12・1)。

 また「忍耐」がともなった。ダニエルは21日間祈り続けたことがわかる(ダニエル10・12~14)。アブラハムも主の前に立ち続けた人であった(創世記18・22、19・29)。さらに「節制」がともなったと言える。ダニエルのへりくだり(ダニエル10・12)、パウロの自制(1コリント9・25)がそうだ。

 最後に、主とともに働く祈りは必ず聞き届けられるが悪魔の攻撃の目標になることに注意したい。使徒たちはそのことを自覚していた(コロ4・2~3、1テサロニケ2・18)。しかし主の主権は絶対的である。主のしもべがどこにいるかわからないで隠されているように思えるときがあっても主のご計画は着々と実現する。(ダニエル、ヨセフ、モーセ、エリヤ、バプテスマのヨハネ、パウロみなそうであった)ダニエル書5章、6章(特に5・12、6・10)にそのことが書かれている。年老いたダニエルはメディア・ペルシアの掟より、その上に立つ主のご支配と権威を知り天に届く祈りをなし勝利を得た。この主が今も私たちの神であり内に住んでおられる神であることを信じて祈り続けよう。

(この文章は昨日の吉祥寺のベックさんの50数分の聖書の学びの聞き書きである。例により筆者の観点でまとめてあるので正確ではない。ただ引用聖書箇所については正確を心がけた。)

(写真は先週土曜日御代田のレストランで見かけた<わし?>の造作。旧約聖書 イザヤ書には「主を待望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」とある。これもまた天に届く祈りの型か。)

2009年3月10日 (火)

主イエスをよろこばせよ(後半)

Germany0048  第二にエノクの生涯の秘訣をとおして主イエスを喜ばせる秘訣を学びたい。創世記5・23~24、ヘブル11・5にあるようにエノクは神とともに歩み、そのことが主に喜ばれた。主のみことばを受け入れる幼子であるだけでなく意識して主によりたのむことだ。これは信仰によらなければできない。2コリント5・9、コロ1・9~10、2テモテ2・4、ヘブル12・28。エノクという名前は「神にささげられた者」という意味がある。イエス様を喜ばせる生涯を意味することばだ。ローマ12・1~2、6・11、13、ヘブル13・15~16。

 最後に別れ道に立っている私たちは一体どういう態度を取ればよいかを吟味したい。人は何のために生きようとするのだろうか。可能性として三つ考えられる。①自分自身を喜ばせる生き方、②他の人を喜ばせる生き方、③主を喜ばせる生き方の三つである。

 しかしそのうち最初の自分自身を喜ばせようという生き方は必ず不幸になることを人は知るべきだ。情け容赦のない武器製造のために莫大なお金が使われ、そのために食べ物がなく餓死する人が出るのもその一例だ。むしろ力のない人たちの弱さをになうべきで自分を喜ばせるべきでないと使徒は言う(ローマ15・1~3)。自分自身を喜ばせるのは自己満足である。主イエス様は自分自身を喜ばせなかったただ一人のお方である(1ペテロ2・4~5、マタイ11・28~29、ヨハネ5・30)私たちの最大の敵は自分の自我であり、イエス様が私たちのために十字架で死なれたのは債務のためだけでなく、私たちの古きもの・自我が死に値するものであったからである。ピリピ2・3~5を絶えず覚えるべきだ。

 なぜ実りが少ないか、御霊の一致がないのか、御霊を悲しませているのか、それは自分が役割を演じ自分を喜ばせたいからであって、イエス様を喜ばせようとしていないからだ。イエス様はこの私たちと正反対の立場を取られ、そしられることものろわれることも厭われなかったお方だ。ヨハネ8・50、詩篇115・1、ガラテヤ5・26、1コリント10・33、ローマ15・2、ガラテヤ1・10、1テサロニケ2・4、エペソ6・6~7、コロ3・22~23。

 次に人を喜ばせようとする者は知らないうちに他の人の奴隷となってしまうことを知るべきだ。だからある講演会で主のことを知らない方が、青少年の犯罪は間違った教育にあり、それは他の人に対してどのように行動するべきかを教えているだけで、主なる神様とどのようにかかわるかを教えないことにあると指摘されたのは至言である。

 カインは私はなぜ弟の番人にならなければならないのですか、と言ったが、私たちも自分が救われたのは自分がきよめられるためであったとし、他の人の救いに無関心であるなら同じ態度を取っていると言える。私たちは他の人が救われるための主の器となるために救われたことを覚え、まわりの人が救われれば自分はどうなっても良いとする態度を取るべきだ。使徒20・24、詩篇143・10、詩篇25・4~5、詩篇119・33~35。これらが主を喜ばせる生き方の証だ。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(旧約聖書 2歴代誌16・9)

(写真は崖の上から鳥瞰できたドイツの一村落の風景。今は盛岡在住の友人のK氏撮影〔2003.6〕の写真)

2009年3月 9日 (月)

主イエスをよろこばせよ(前半)

Dscn6345  主イエス様を信じ知るようになった者はイエス様なき人生の無意味さを知るようになった。またいかなる尽力も努力も主と人間との間の隔ての壁を取り除くことができないことも知るようになり、自分が破産したことを宣告し、自分の債務をイエス様に告白する恵みにあずかるようになった。幼子のような信仰をもって罪の赦しを要求することの結果として、イエス様の血によって自分が神の子とされたことを知るようになっている。もはや裁かれることもないことも知っている。そのような者はどのようにしたらイエス様を喜ばせることができるかを切に望んでいるはずである。三つのことを考えてみたい。

 (1)もっとも大切なことは何か、(2)エノクの生涯の秘訣は何であったか、(3)別れ道に立っている私たちはどういう態度を取ったら良いか。

 まず第一にもっとも大切なことはあれもこれもしなければならない中にあって一番大切なことがなされるように選択することだ。言うまでもなく一番大切なことはイエス様を喜ばせることである。問題は喜ばせることの中身・意味である。人は外見を見て喜ぶ。しかしいつも内面的なものが問題にされなければならない。だから光そのものであるイエス様に喜んでいただくことはどんな人間にも不可能だと言える。なぜなら人間の内側は偽善をはじめ自己中心の心で満ちているからだ。主なる神が満足されるのはイエス様ご自身だけだ。幸いなことに私たちは信仰をとおしてそれにあずかれる道が備えられている。(エペソ1・4、ローマ5・8)

 しかし、この時多くのキリスト者が失敗する道がある。それは自分でクリスチャンらしく生きようとして、すなわち主を喜ばせようと自分の力で歩んで結局敗北に次ぐ敗北を経験する道だ。そうではなく主なる神に受け入れられるのはイエス様だけであることを肝に銘じ、イエス様の贖いの中に生き、イエス様と結びつく生涯を歩むべきだ。(ルカ2・9~14、エペソ1・5~7、コロ1・12~14)

 それでは、主は私たちキリスト者に何を望んでおられるのだろうか。まず私たちが主に対して裏表のない二心なき態度で主を愛しているかである。(申命記6・5、ホセア6・6、1サムエル15・22~23)愛することは信じる以上のことであり、ペテロが三度「愛」を主イエスから求められたころからも明らかだ。何かある律法が私たちを導くのでなく、愛が私たちを導くのでなければならぬ。私たちは主が何を望んでおられるかを絶えずたずねなければならない。

 次に私たちが喜びをもって主に仕えることを主は望んでおられる。イエス様に喜ばれる奉仕とは自分自身を無にした奉仕である。2600年前のイザヤはそのことを明らかにしている。(イザヤ58・5~10)徹底的な自己否定と自我の死、自己の利益を捨てることが求められている。

 最後に正直な態度が望まれる。失敗することは大したことでない。それよりも陰でこそこそしたり、あいまいにしたり隠すことは望まれていない。光である主の前に歩む秘訣は私たちの内におられるキリストに従い、この主により頼んで歩み続けることにより可能だ。(1歴代誌29・17、箴言11・20、27、箴言12・2、22)

終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。(新約聖書 1テサロニケ4・1)

(日曜日、長野県御代田で語られたベックさんの50分程度のメッセージの聞き書きの前半部分ですが、正確ではなく私の観点からまとめてあります。ただ引用された聖書箇所については正確を期しています。明日は後半部分を載せます。)

(写真は日曜日の浅間山。土曜日は快晴に恵まれていたのに撮りはぐってしまった。噴火はおさまっているようだ。現地の人に聞くと半年ぐらい続くということだが大したことないと楽観されていた。) 

2009年3月 8日 (日)

わたしにつながっていなさい アンドリュー・マーレー

Dscn6340  「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたにつながっていよう」(ヨハネ15・4)

 ぶどうの木に新しい接木をして、それが活着すると二通りの変化が起こる。第一の変化はぶどうの木の中に起こる。接木が幹の中へ細い毛細管と生成組織を下ろすと、幹は接木の中へ生長して行き、いわゆる構造的結合が生じる。接木はぶどうの木と結合して一体となり、たとえぶどうの木が枯れても離れることはないのだ。次に第二の変化が起こる。この段階では、ぶどうの木の養分は新しい組織を通路として流れ始め、若い枝や葉、そして実にも達する。これが生命の結合である。

 主が「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」と言われる時、主は今述べたことによく似た事実を指摘しておられるのだ。主につながるには、私たちのがわで多くのことをしなければならない。それはまず、私たちは信じて従い、他の一切のものから遠ざかり、主にのみ近づき、主にすがり、主に身をお任せすることである。そうすることで、主が与えられる恵をとおして一つの性格が形成され、主が私たちの中にとどまるという、さらに豊かな体験をする心の準備ができる。主は私たちの魂の中におられる聖霊の力により私たちを強め、主は私たちの信仰により私たちの内に住まわれるのである。

 主を信じる者の多くは、聖霊によって満たされ、主が内に住まわれることを熱心に祈り、かつ望んでいるのだが、それが実現しない理由がわからずに悩んでいる。その理由は、主に「つながる」状態が維持されないために、主が私たちに「つながる」状態が現われないことがしばしばあるからだ。「からだは一つ、御霊も一つ」(エペソ4・4)というみことばがあるが、聖霊によって満たされる前に、体の準備をしなければならない。養分が接木の中を流れる前に、幹につながっていなければならないのと同じことである。私たちが主につながることを願う時、外には身も世も捨て、内には体が主のみこころに添うようにし、心を低くしてキリストに服従しなければならない。

 主が私たちに命じられたように、私たちが主にとどまれば、主が私たちにとどまられることへの私たちのがわの準備ができるのだ。

 「わたし(とどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」(ヨハネ15・4新改訳)このみことばの命令の部分と、これに続く部分とは、中心となる意味の深いことばである「中に」よって一つになっている。聖書でこれほど意味の深いことばはほかにない。神はすべての「中に」おられる。神はキリストの「中に」住んでおられる。キリストは神の「中に」おられるのだ。キリストは私たちの「中に」おられ、私たちのいのちはキリストの「中に」取り上げられ、キリストのいのちは私たちの「中に」受け入れられる。このことは、私たちが神につながり、神は私たちにつながるという神的事実によるものであって、とうていことばで表現できるものではない。

 「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」。このみことばは私たちに、「中に」という聖なる神の奥義を信じ、農夫である神、ぶどうの木であるキリストがこれを天の真理とされることを私たちに期待するように語りかける。考えることも、教えることも、祈ることも、これを会得するには少しも役に立たない。これは主の愛の奥義である。主とのつながりが少なければこれは理解することができないのだ。私たちを愛し、私たちを支え、私たちの中でみわざを行なう、限りなく聖なる全能のぶどうの木を見上げようではないか。ただ主にのみ常に心と望みとを向け、主のみわざを信じ、主につながり、そして憩い、主が私たちの中にこの奥義を実現されることを神に期待しようではないか。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳31~34頁より引用)

(写真は長女が数年前エクアドルに友を訪ね出かけて購入してきたもの。上から吊り下げている。この場合つながっていなければ、この作品は落下するばかりである。)

2009年3月 4日 (水)

天に届く祈りを ダニエル書の学びから

Dscn6322  主を信ずる者は主とともに永遠に支配することになるとは前回学んだようにみことばが示している真実である。またそのような者にふさわしい特質はすでに述べたように「きよさ」であり、主の支配する世界と悪魔の支配する世界とを正しく識別する力である。ダニエルたちは主に従おうとしたからきよさも身につけ、識別力もいただいた。パウロもガラテヤ1・10で「私がいまもなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」と言っている。ダニエル3・18にはこの世のものはむなしく、主にある世界が永遠であると告白されている。

 さらに全宇宙を支配する者には「謙遜」が必要であることを学びたい。ダニエル書4章のネブカデネザル王はそれを主によって経験させられた。彼は傲慢であった。しかし主は忍耐された。(ダニエル4・29、33~34)その結果王は「へりくだ」らされ、主への真心からの賛美が口をついた。(ダニエル4・37、35)まことに主は一人一人の心をこそ見られるお方だ。(1サムエル16・7、マタイ5・3)サタンでさえも自分勝手に行動はできず、人をへりくだらされるために用いられるにすぎない。(2コリント12・7)

今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。(ダニエル4・37)

 ダニエルと三人の友は主に用いられた。どうしてそうなったのか。彼らは主とともに働きたいと切に望んだ。だから祈った。祈りの塊であった。ダニエルに対する主の判断は「神に愛されている人」であった。このことばは三度も繰り返されている。(ダニエル9・23、10・11、10・19)けれどもよく考えてみると、私たちもまた主の目から見て愛されている存在なのだ。ヨハネ3・16、ロマ5・8、1ヨハネ4・9~10などがそうである。私たちに対する主の愛の証拠は十字架につけられたイエス様にある。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5・8)

 主に愛されている者は「罪人」や「さからう者」としてでなく、主とともに生きることができたからその祈りは天にまで届いた。天に届く祈りはみことばに基づく祈りである。ダニエル9・2の示すとおりである。主のみことばがダニエルの第一の場所を占めていた。だから、聖書だけ、祈りだけ、ということはありえない。聖書と祈り、祈りと聖書というように一つにならねばならない。

 このようなことに気づかされるときダニエル書から学ぶべきは預言のあれこれよりも、ダニエルの「人格」を学び取る必要があるのではないか。今の時代は主のご目的を知らずして生きて行けない。ダニエルが苦しみをとおして天に届く祈りをなしえたように、新約時代パウロは全世界へ福音を宣べつたえる絶頂のとき牢獄に投じられた。そこには主のご目的があった。信ずる者が天的なものでありかつ霊的であり世界的であることを知らせることにあった。このご目的は必ず実現する。その目的のために祈ったのだ。私たちもまたまとはずれにならぬようこの標準(「絶えず」、「御霊によって」、「すべての聖徒のために」)を目指して天に届く祈りをし続けよう。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(新約聖書 エペソ6・18)

(この文章は昨日の吉祥寺集会でベック兄が語られた40分足らずのメッセージを筆者の責任でまとめていますのでベック兄のことばそのままではありません。また内容が変質しているかもしれませんので、その点は直接ご本人のメッセージの収録やきちんとした聞き書きをご利用下さい。)

(写真はレディバードブック『ダニエル物語』41頁より拝借。ダニエル6・10にちなむ絵)

2009年3月 2日 (月)

主の再臨(後半) 笹尾鉄三郎

Dscn6273  三 再臨と聖潔
 「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」(1ペテロ1・14~16)
 然り、神の子供の特質は聖潔である。たとい天使の言を語り、すべての奥義とすべての学術に達し、山を移すほどの信仰ありても、潔からざれば、神の子としての三文の価値もない者である。しかのみならず「聖くなければ、だれも主を見ることができません。」であるから、我らは今現に潔きや否と省みねばならぬが、ある人は云うであろう、「自分は何年前、ある聖別会で聖潔められた」と。それは真実であったろう。しかし、貴下は今潔きかである。何故なれば、過去の経験ではダメである。主の前に恐れなくしてとうてい立つわけに参らぬ。貴下は短気ではないか、偽言を言い、借金したり、食物に呟いたり、人を議したり、情欲に処を得られ居るというようなことはないか。よしかくの如きことがなくとも、聖霊に満たされて凡ての人を愛し、敵をも愛するというまで進んでいないならば、主の御前に出ずる時、責めなしとせられる事は出来ない。

 四 再臨と聖徒の携挙
 主の第一降臨の時には天の万軍は大いなる賛美をもって主を地上に奉送したが、罪に眠れる地上の人々にはこれを知るものははなはだ少なく、ただ粗野純朴なる牧羊者数名のみであった。かくの如く主のご再臨のときも、それを知るものは小数であるが、主は携挙するものを集めるために、号令と使長の声と神のラッパとをもって、自ら天より降りたまうのである。(1テサ4・16参照)その時、我らは真実に潔められ満たされ、主のために尽して居るならば、携挙せられ、空中において主に会い、かくていつまでも主と偕に居ることが出来るというのである(同17)。
 ある人はこれらの福音を耳にして、かえって失望するかも知れぬ。何故ならば、その人々はかくの如き大いなる祝福にあずかり得る資格のない薄信の者であると、自ら観念してしまうからである。然し兄姉よ、失望したもうな。我らが罪から救われたのは、決して自分らにとり処があったのではない、ただ主の大いなる恵によったのである。ご再臨の時にも同じであって、切に切に主の憐みを求め、主の再臨し給うことを慕い居るものに、この幸いになることを許し給うことを信ずる。

 五 再臨と未信者
 主は未信者が思いもよらぬ時、「盗人ように来る」。また、「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかる」のである。
 「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」(1テサ5・2~3)
 これは実に恐ろしいことである。これは直接信徒に何の関係のない様であるが大いにある。すなわち、自分等に対して絶えず醒覚し居ることと、未信者に対しては、つねにこの事をもって警告すべきことである。
 「見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」(ヤコ5・9)

(『主の再臨』笹尾鉄三郎著より引用、今回は聖句を新改訳に統一したので笹尾の名文にそぐわないがご容赦を願いたい。※ヘブル12・14〔引用者注

(写真は右側に「諸車進入禁止」の立て札のある水戸偕楽園内の好文亭の表門。「好文」とは梅の異名のようだ。上記の文章によると天の御国の門口にはさばきの主が立っておられる、ということか。さばきの主はすべての人が悔い改めて主のみもとに来ることを両手を広げて待っておられる。)

2009年3月 1日 (日)

にがきを忍びて クララ

Dscn6254  (弥生一日である。小原鈴子さんは毎月、月初めに詩を披露しておられる。彼女はわたくしたちに受けるべき盃をすすめ、たたかいに倦みつかれるわたくしたちに花嫁として迎えてくださる主イエス様を待ち望めと歌う・・・)

 一、にがきを忍びて ほす盃も
   心弱くして 流す涙も
   栄えの主より やがて受くべき
   冠にきらめく 玉とこそなれ

 二、うれいに沈める 信仰の友よ
   たたかい疲れし み神の民よ
   御旨に固く 心をよせて
   いのちの限りに なおもたたかえ

三、まもなく栄えの朝となりなば
  主はなが涙を あとなくぬぐい
  よそおい全く 花嫁として
  うたげのむしろに 坐らせ給わん

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著61頁3月1日の項より)

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら、刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(旧約聖書 詩篇126・5~6)

(写真は先週日曜日に拝見した水戸偕楽園の梅林。百品種3千本あるという梅林のほんの一角だ。上方に見えるは千波湖である。)

2009年2月28日 (土)

主の再臨(前半) 笹尾鉄三郎

Dscn6302  以下は明治40年4月に笹尾氏が語ったものであり、その後、ある小冊子に昭和39年にも再録されたものである。

 主の再臨のいよいよ切迫し来ることは、聖書の預言にかなうて、日々に起こり来る様々なる世界の出来ごと、及び、聖徒の心に聖霊の暗示なし給うことにより、明らかである。
 さて使徒パウロの書簡中、テサロニケ前後書は主の再臨を殊更に明白に説いたものであって、いわば、再臨の福音書ともいうべきであるから、この切迫し居る時に、これらの書を研究して、ご再臨に対する準備をなすことは、はなはだ有益なことと考えるのである。
 そして前書においては、ご再臨に対する聖徒の準備と、未信者に関する出来ごとを記され、後書においては、再臨に関する教理の誤謬をきょう正し、あわせて前書説明の不足を補うたものであるが、ここに前書の中より重要な数件を挙げるなれば、次の如くである。

一、再臨と聖徒の待望
 米国などには、無知と迷信とによる極めて極端なる再臨待望者がある。すなわち、主の再臨の期日を算定し、何年何月何日に主は必ず再臨するとの偽預言を信じ、職業を止め、財産を捨て売りにし、家族を引き連れて野山に退き、今か今かと主の来臨を待ち望んで居たという連中があるが、かれらは主の来らざるために失望し、遂につまずくという次第で、実に気の毒千万である。
 さらば敬けんな聖徒は、如何なる態度をもって主の再臨を待ち望むべきかならば、見ゆる所によらず、神の言に基づく活ける信仰をもって行動し、時々刻々、神を愛し人を愛するために労苦を忍んで、主のご再臨を待望む事、あたかも朝を待望む様に切に切に主を待望むべきである。(1テサロニケ1・3、4、9、10参照)

 二、再臨と褒章
 人が所用ありて遠方に旅行するものあれば、必ずその帰宅の節には、最愛なる妻子を喜ばせんとして、相当なる土産物を持ち帰るは、けだし、人情である。丁度それと同じように、再臨の節の主は、その忠実なる僕らに対して、相当の報いをなし給うのである。「主人いう、宜いかな善かつ忠なる僕、なんじはわずかなる物に忠なりき、我なんじに多くの物を掌らせん、汝の主人の歓喜に入れ」(マタ25・21)と。パウロもまたのべて、「我らの主イエスの来たり給うとき、御前における我らの希望、また喜悦、また誇りの冠は誰ぞ、汝ならずや。実に汝らは我らの光栄、我らの喜悦なり。」(1テサ2・19)。これ主のために受くべき報酬である。

(『笹尾鉄三郎全集第5巻』115頁、パンフ『新天新地』5~6頁より引用)

「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。・・・」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。・・・主は、・・・その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(新約聖書 2ペテロ3・4、9)

(写真は明治37年の第一回文展入選作林竹治郎氏の作品「朝の祈り」の一部。「子らに残すことばはひとつ わが家は 朝な夕なに祈りする家」)

2009年2月27日 (金)

愛―人生で最高のもの ヘンリー・ドラモンド

Dscn6300  ヘンリー・ドラモンド(1851~1897)はスコットランドの生物学者で信仰についての本も著している人です。この彼の『人生で最高のもの』も最近中々見つからない本ですが、この本が国会図書館の近代デジタルライブラリーで紹介されており簡単にネットで読むことが出来るのを最近知りました。明治22年には『愛は最上の賜なり』として訳されており著作権が切れているからです。そんなに早くから日本人の手に渡っていた古典と知り、改めてこの本の価値を知りました。とまれ、途中からですが現代訳を写しておきます。興味のある方は明治の訳で是非ご覧ください。

 愛はパウロの長所ではありませんでした。観察してみると、パウロが年老いてゆくにつれて優しさがその人格の上に顕著になっていることに気づくでしょう。しかし、「その中で一番すぐれているのは愛です」と書いた手は、かつては血にまみれていたのです。

 また、このコリントの手紙だけが、特に愛をスムムム・ボヌム(最高善)として強調しているわけではありません。聖書の記者たちは、その点で一致しています。ペテロは「何よりもまず、互いに熱心に愛しなさい」と言います。何よりもまずです。さらにヨハネは、一歩進めて、「神は愛です」と言いました。あなたはまた、パウロがほかのところで、「愛は律法を全うします」という意義深いことを言っているのを思い出すでしょう。あなたは今までにその意味を考えたことがありますか。

 当時の人々は十戒を守ることによって、さらに自分たちが勝手に作り出したそれ以外の百十もの律法を守ることにより、天国へはいりたいと努めていました。キリストはもっと単純な道を示そうと言われたのです。もしあなたが、ほんの一つのことをすれば、これらの百十の律法を全く念頭におかなくとも、それを行ったと同じことになるわけです。もしあなたが愛するならば、あなたは無意識のうちに律法のすべてを守っていることになるのです。その理由は簡単です。

 たとえば、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」という戒めを取り上げてみましょう。かりにある人が神を愛しているとすれば、その戒めを語って聞かせる必要はないでしょう。愛はその律法を全うしているからです。「あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」にしても、その人が神を愛しているかぎり、どうして神の御名をやたらに唱えるようなことをするでしょうか。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」の場合も、その人は愛するお方のために喜んで七日のうちの一日をささげるにちがいありません。これらの神に関する律法を、愛はすべてを全うします。

 それと同じように、彼が人を愛しているなら、「あなたの父と母を敬え」と言い聞かせる必要は絶対にないでしょう。彼は父と母を敬わずにはいられません。そういう人に向かって、「殺してはならない」と言うのは非常識というものでしょう。また「盗んではならない」と言うなら、彼を侮辱するだけでしょう。自分が愛している者から盗むようなことをだれがするでしょうか。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と言う必要もないでしょう。隣人を愛している人がそんなことをするとはとうてい考えられません。

 ましてや、あなたはその人に向かって、「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」と言おうなどとは夢にも思わないでしょう。彼は自分よりもむしろ隣人が持っていることを望んでいるはずです。こうして「愛は律法を全うします」。それはすべての規則を全うする規則です。すべての古いおきてを守るための新しいおきてです。クリスチャン生活のためのキリストの示された一つの秘訣です。・・・・

(『人生で最高のもの』ヘンリー・ドラモンド著 松代幸太郎訳 いのちのことば社 1976年刊行 12~15頁引用)

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。(新約聖書 一コリント13・13~14・1)

2009年2月22日 (日)

刈り込み鋏 アンドリュー・マーレー

Dscn6222  「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」(ヨハネ15・3)

 天の農夫が使われる刈り込み鋏とは、神が人の心に与える苦しみを意味するとしばしば言われている。果たして神はそのような道具を使われるのだろうか。世の中には全く逆境を知らない人も多いし、また一生神の恵みだけに浴して過す人もいる。このような人々は神の刈り込みを受けることがないのだろうか。神は鋏を使われるのではなく、神のみことばが鋏なのである。みことばは両刃の剣よりも鋭く、人の心を刺し貫き、切り裂き、人が何を考え、何をしようとしているかをすぐに見抜く。苦しみによってみことばの戒めを知るようになってこそ、はじめて苦しみは祝福に変わるのである。みことばによるこの心のきよめのないことが、苦しみがしばしば聖別されない理由である。パウロの肉体に与えられたとげさえも、「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(2コリント12・9)というキリストのみことばが、パウロに高ぶることがいかに危険であるかを教え、彼が自分の弱さに甘んじるまでは祝福とならなかったのである。

 神のみことばが刈り込み鋏である。「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」と、主イエスはきびしく語っておられる。そしてまた、主イエスは「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14・26、マルコ8・35、ヨハネ12・25)と弟子たちに教え、彼らの愛のないことを叱り、彼らがみなキリストを捨て去ることを予告された時、主イエスの口をついて出たみことばが鋭い両刃の剣であったのだ。山上の垂訓から最後の晩餐の戒めに至るまで、主イエスのみことばは、彼らの心を試み、そしてきよめたのである。主イエスは彼らの自我から出るすべてのものを見つけ出して断罪されたので、彼らは今やいつでも聖霊を受け入れることができるようにむなしくされ、きよめられたのである。

 人が信仰についての自分勝手な見解を捨てて、心からへりくだって、聖霊によってみことばの教えに身をゆだねるならば、父はみわざにより、聖霊の働きを妨げる私たちの性質と自我を刈り込み、きよめてくださるのである。農夫が私たちのためにすることのできるあらゆること、ぶどうの木が私たちにもたらすことのできるすべてのことを知る人は、みことばをとおして、この祝福されたきよめに心から身をゆだねることを熱心に求めようではないか。私たちはみことばをいかなるものをも打ち開く鉄槌として、すべてのものを溶かしきよめる火として、肉から出るあらゆるものを裸にして切り捨てる剣として受け入れようではないか。それによって、断罪のことばは慰めと望みのことばに変わり、父がみことばにより私たちをきよめられるのだ。まことのぶどうの木の枝である私たちは、みことばを聞き読む度ごとに、まず第一に神が技をきよめるために、みことばを使われるのを待ち望むべきである。もっと多くの実を求められる神の望みを私たちの望みとしようではないか。農夫としてのみわざをされる神を信ぜよ。幼子のような純粋な心で、みことばと聖霊のきよめのみわざに身をゆだねようではないか。それによって神のご計画が私たちの中で成就することが期待できるのである。

祈り

「父よ。どうかみことばをとおして私をきよめてください。みことばにより私の心の中にある、すべての自我と肉とを探し出して、明るみにさらしてください。みことばにより、すべての高ぶりの根を断ち切ってください。それにより、私がすべて解放され、ぶどうの木のいのちと聖霊とをいつでも受け入れることができることを、ぶどうの木が見つけるようにしてください。私の聖なる農夫よ。ぶどうの木と同じように、枝も顧みてくださることを信じます。あなただけが私の望みです。アーメン。」

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳27~30頁)

(写真はご近所の盆栽作りを楽しんでおられる方の剪定バサミ他の小道具。)

2009年2月17日 (火)

信仰の戦い(ダニエル書から)

Dscn6051  ダニエルたちは真のイスラエル人であったが、捕囚の民となり、バビロニア王国、ペルシア王国で主への信仰を拒絶される戦いの中に放り込まれた。旧約聖書のダニエル書には1章から6章にその激しい戦いが描かれている。彼らは栄冠を目指して走り続ける(ヘブル12・1)競技者のようにして戦い抜いた。

 あらゆる信仰の戦いにはれっきとした目的がある。パウロは言う。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14・22、エペソ3・10、6・12)と。主の国にふさわしい者となるために苦しみがあるということだ。ところが「神の国」は主が永遠に支配されるところであり、主を信ずる者も永遠の支配者と同じように永遠に支配すると聖書は言明する(ダニエル7・13~14→ダニエル7・27、22)。

 それでは、どんな人が主とともに支配する人としてふさわしいのだろうか。

 先ず霊のきよさが必要である。「きよさ」は万難を排して主に従おうとすることから生まれる(ダニエル1・8)。王が代わろうが国が代わろうが、ダニエルが一貫して主に従い、かつ王に仕えていたことはその象徴である(ダニエル1・21)。このように必要とされるものが、主に対するきよさであるが、きよさをもつことは誰にでも実際に可能であり、そのきよさはまわりの人々に恵みをもたらす性質をもっている(ダニエル1・9、14、16可能であったことの例示、ダニエル1・15、20恵みの例示)。あわせて2コリント7・1、イザヤ6・1~8も覚えたい。

 次に考えねばならないことは、主とともに支配する人にはこの世に属することと神の国に属することとを見分ける力がどうしても必要であるということである。イエス様がペテロへ警告されたことを想起すべきだ(マタイ16・23)。新約聖書の手紙にもこのことは強調されている。たとえばガラテヤ1・10、エペソ5・10、コロサイ1・9~10である。そしてこれらは決して議論することによってでなく、祈りをとおして与えられることに注意すべきだ。ダニエルの2章における証のとおりである。

 主に対して真実であり、自由な人として永遠に続く主の国を目指したのはダニエルだけでなかった。ダニエル書の三章にはダニエル抜きで三人の友がダニエルと同じ信仰の戦いに投げ込まれたが、彼らもまた世と妥協させようとする戦いに勝利したことが記されている。他の大部分のイスラエル人がこの悪の力の術中にはまってしまっていた中で、彼らは主の勝利を確信して揺るぐことがなかった。(ダニエル3・18。)

 冒頭にも述べたが、私たちも、この戦い(苦しみを与える戦い)に驚かされることなく、勝利の栄冠を得るために走り続けたいものだ(ピリピ3・12~14、1ペテロ4・12~13、2テサロニケ1・5)。主はそのようなご自身と心が一つになっている者を今日も捜し求めておられる。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(旧約聖書 2歴代誌16・9)

(今日の文章は、本日のベック兄のメッセージをお聞きし、筆者がメモ書きしたものをもとに、筆者の責任でまとめていますので、ご了承下さい。)

(写真は彦根城西の丸から眼下を見下ろした風景。正面深緑色の建物の見えるあたりは滋賀大学経済学部キャンバス。琵琶湖の対岸は湖西の山々。右奥に見える小さな島は多景島、無人島である。)

2009年2月15日 (日)

わたしに来る者は クララ

Dscn6176  「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」。
 「わたしに来る者を決して拒みはしない」(ヨハネ6・35、37)

 この短い二句の中に「決して」と言う強い誓いの言葉が、三回も繰り返し用いられています。この確かな約束の言葉は、真実な救い主、私どもの主イエス・キリストの仰せられたものです。「自分はただ人であるということを知らせてください」と叫ぶほかない弱い私どもに与えられた不変の恵み深いお約束です。

 静かにふり返って人の世の歴史を見ます時、この世の生活には思いがけない飢餓が待っています。アブラハムは神の仰せに従ったところで飢餓に出あい、それをのがれようとエジプトに下りました。イサクも同じことをしています。ユダのベツレヘムの住民ナオミ一家は飢餓をのがれようとモアブ(呪われた民)の地に行きました。

 彼は神に求めるより目に見える所にのがれ場を求めましたことによって試みられました。アブラハムの生涯に汚点を残しナオミ(楽しみ)はマラ(苦)となりました。

 イシマエルは母とともに家を追われました時、父が準備してくれました皮袋の水はつきて激しい渇きに、聞く人もない曠野の木かげで声をあげて泣きました。

 アハブの代に、その悪政の故に三年六か月、天は閉ざされケリテの川も羊を湿すことが出来ず、渇きのために生物は倒れて行きました。

 しかしイシマエル親子の泣く声は神の耳に至り、神はこれに答えて泉の口を開きたまいました。エリヤが山頂で神に叫びました時、大雨が天より注がれて地を湿しました。神の応答は完全です。代々の預言者は人が罪に迷い出た時、渇いた時に叫びました、「神に帰れ!!」と。神は仰せられました、「我に帰れ」と。

 歴史の解決は神以外にはありません。その心が主に向かう時、主は恵み深く自らを現わしたまいます。

 時は去り、時は移りイスラエルの民は、生命を失って律法化した宗教の儀文のもとに枯死しようとしていた時、主イエスは立ち上がって叫び給いました。「わたしに来るものは決して飢えない、わたしに来るものは決してかわくことがない、わたしに来るものは決して拒まれない!!」と明確な希望と寄り所、なやみの避けどころを示したまいました。人生の行路にはしばしば途方にくれる分岐点がありますが、しかしこの確実な約束は暗に輝く灯であり、私どもの生命の限り添い来る恵みです。約束に生きるということは当然な、平凡な道のようですが、実は非凡な道路なのであります。

 昨日も今日も永遠に変わりたまわぬ主イエスこそ永久の岩です。エジプトに、モアブに逃れて安全を計るのではなく、来るものを拒みたまわぬ救い主、助け得ると約束したもうた主、歴史を肩に負いたもう主に心をつくして依りたのみましょう。信仰とは弱者の途ではなく、生命をかけてもなお惜しくない勇者の道なのです。弱き者も強しと言え、永遠の進歩をめざしつつ心を主に向けよう!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著46頁より引用)

(写真は昨日散歩途中で見かけた梅ノ木。真っ青な空に梅の花が散りばめてあるは、仰ぐ者に「純潔」を示して余りある。小原鈴子さんの文章も汚濁する世に対してかくやと思わせる。)

2009年2月12日 (木)

主の薬棚

Dscn6108_2  この宇宙は大きい。光の速さで今も大きくなっているという。その偉大な創造主は水一滴に過ぎない私たちに「どうしているの」と語りかけてくださる。だからこの偉大なる創造主に求めない法はない。求めたとおりになるとは主の常套文句だ。

 人は病気、煩い、束縛に悩まされている。病気になると元気がなくなる。霊的に病んでいると惨めになる。しかし薬はこの病気を治したり予防することができる。ところで聖書はあらゆる病を治し予防することのできる薬棚のようなものだ。詩篇37篇はそのような薬棚・宝に満ちている。その薬棚から薬を取り出そう。

 たとえばどんな病気が考えられるか。試みに7人の病人がいるとしよう。①悪を行う者の繁栄に戸惑っている②すべての要求に応じられるかどうか心配している③意気消沈し、打ちのめされ、がまんできないでいる④憤慨し腹を立て神経質になり執念深くなっている⑤自分が救われているかどうか病的な不安に陥っている⑥主の導きに動揺している⑦絶望の淵にいる、これらの7つのタイプの病人である。しかもこれらの病気は伝染性を持つ。

 けれどもこれらに対して副作用のない完全な薬があり、かつ無料の薬がある。それが聖書のみことばだ。治すだけでなく予防のためにも有益だ。薬棚から有効な溶剤を取り下ろそう。①詩篇37・1~2、10、13、35~36 このような主のみことばをして語らしめよ。②詩篇37・3、1列王17・3~6、9、エリヤの神はわれらの神。詩篇37・19、25、創世記22・8「エル・シャダイ(すべてを備えてくださる主)」、民数23・19③詩篇37・4~7。朝と晩この薬棚から取り出せ。そして錠剤(みことば)を信頼せよ。④詩篇37・8、エペソ4・26~27 頓服薬のようにすぐ効く薬だ。寝る前にみことばという薬を飲むべきだ。

 ⑤詩篇37・18、24、28、33。惨めな状態には強い薬が必要だ。「永遠」ということばの服用をしよう。ヘブル13・5 「決して捨てない」⑥詩篇37・23~24 主は私たちを(将来・伴侶など)導くことに関心を持っておられる⑦詩篇37・39「苦難のときのとりで」である。

 このように主イエス様は決してこれらの病気に煩わされないように万事備えてくださっている。昔、薬棚には必ず鏡が常備されていた。そのようにみことばは鏡の面があることに注意しよう。鏡は私たちの姿を現す。その鏡を通して惨めな状態に気づく。(ヤコブ1・21~25)またそれと同時に薬棚にはたくさんの薬があることに気づく。主の薬棚を有効に使わせていただこう。Ⅲヨハネ2、黙示22・17。

(昨日の14時から行われた拙宅の家庭集会のベック兄のメッセージの要約です。次回は3月11日です。)

愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。(Ⅲヨハネ2)

(写真は彦根城内堀の白鳥。白鳥はなぜか人を恐れず、近寄ってくる。信頼があるからであろう。私たちも主の薬棚から安心して薬を服用しよう。)

 

 

2009年2月 8日 (日)

明け渡しの道

Germany0022  ヒゼキヤは・・・主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ・・・。(旧約聖書 イザヤ37・14)

 ある特定の場合、どう振舞っていいのか判断に困るということはよくある事です。あなたの人生は、決して平坦ではありません。また、あなたの道は決して広くありません。どちらの道も、等しく均衡がとれているようで、あなたはどちらを選べばいいのか分からないでしょう。たぶんあなたの願いは一方を指差し、あなたの恐れは、もう一方を指差していることでしょう。あなたは、間違った道を選びはしないか、また結局は自分を傷つける方を取りはしないかと恐れているでしょう。

 この苦しい葛藤に引き込まれるのは、全くつらいことです。そしてそのどちらかを選び取って、すぐに前に進まなければならない場合には、さらに苦悩を増し加えます。どのようにしたら、心からの安心を確実に自分のものにすることができるか教えましょうか?

 主の前に行って、あなたの問題を置いて来なさい。

 ヒゼキヤがアッシリヤ王の手紙を持って、そうしたように。しかし多くの人がするように、自分を欺き、神のみこころによってではなく、自分の意思に従って行動しようとすでに決めているのに、神の知恵を求めようとしてはいけません。ただ単純に、しかも正直に、神があなたを導いて下さるように求めなさい。あなたの問題を、天の父なる神に委ねなさい。小さな子供がするように、自分を明け渡して、主が喜ばれるとおりに導かれるようにしなさい。これが正しく導かれる方法であり、天のカウンセラーの祝福を得る道です。

                          A.ウクセンデン

 

あなたのなすべき事を主に委ねよ、そうすれば、
 彼があなたの計画のすべてを手配して下さる。
     (旧約聖書 箴言16・3 フェントン訳)

 明け渡します。
 あなたに、ただひとりで導かれるように、
 そして待つ、あなたの導きを。静かに。

(『谷間の泉』カウマン夫人著55~56頁引用)

(写真はドイツ・ミヘルスベルクの畑道を何やら談笑して歩むお二人。二人して同じ道を歩む幸せ。〔2003.6 友人の片桐さんが撮影された写真〕)

2009年2月 7日 (土)

天国を描写する文章の断片

Germany0025popi  人は地の家を求めるがいい。
 それは、炎に飲まれ、波に洗われるのだから。
 私は、はるかに勝る住みかを持った。
 天にある御座近くの邸宅を。
 地は衰え、星は落ち、
 月や日は輝きをやめ、
 森羅万象は消え失せた。
 しかし、天の家は私を迎える。
    ウイリアム・ハンター

 天国は光輝に満ちあふれる。
 しかし、そこに住む人はさらに光輝に満つ。
 聖徒たちは、神の栄光にあふれる。
 キリストが聖徒たちを飾られるからだ。
 救い主の秀麗さ!
 その美は、聖徒たちの目をきらめかす。
 ああ、冠の日は日に日に迫っている。
 われわれの苦悩の日は、やがて終わる。
 そうすれば罪で苦しむことはない。
 われわれの過去はことごとく悲哀。
 しかし、前途に待つのは歓喜のみ。
 それはわれわれの贖い主にある歓喜。
 その方に会う日は近い。
 ああ、冠の日は日に日に迫っている。
    E.M.バウンズ

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現われます。(新約聖書 コロサイ3・1~4)

(写真はドイツ・ミヘルスベルクでのポピー〔03.6友人片桐さんの写真から〕)

2009年2月 1日 (日)

いのちの流れ クララ

Cimg2475  「水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた」(黙示録22・1)

 静かに歴史の流れの岸にそって上り行く時に、小さい事の日のうちに含まれる尊さをしみじみ思い浮かべる事です。よきことは神が少数者の心にひそかに語りかけ給うそのささやきから、泉は静かに流れはじめます。また一つの尊い種が、神の聖手によって蒔かれる時、大地がこれを受けて育てはじめます。そして遂に、生命の実は結ぶ時が来ます。小さい事の日を軽しめてはいけない、泉の源よ清くあれ!!

 かつてアブラハムはカルデヤの地にあって偶像礼拝のハムの天幕のうちに生活していた時、将来の選民の父となるため「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」との神の呼びかけに目ざめて出で立ったのです。F.B.マイヤーの言葉のように、「彼等自身はわなをのがれたとしても、その子供たちがわなにかかるかもしれない。私達は何の権限があって、若い生命を腐りきった環境にさらし彼らを永久に汚してしまうことができるだろうか」、アブラハムは神の細き御声に従って移動してカナンの地に移りました。しかし更に神はアブラハムを屈託の天幕から抜け出させ、音なき大空の星を仰ぎ見させ、その心に新しい天的活動が始められたのです。また「アブラハムは神を信じた」と無より有を呼び出される全能の神への厳かな一歩がふみ出され、多くの人の祝福のもととなるためあらゆる試練を神よりうけました。飢餓の日の歩み、エジプト王宮においての試練、独り子イサクを得るまでの合理的な失敗、イサクを燔祭せよとの神の命、あらゆる点に試練を経て遂に神の友と呼ばれるようになったのです。

 神の御声がただ一人のアブラハムの魂に呼びかけられ、受け入れられた時、彼は信仰の父となり、信仰の生きた流れが「この水の行くところ、ものみな生きん」と生命の木の実は河の岸辺にみのりました。

 神の御声を生命の指針とし、細きみ声に従う者は神の偉大な御計画の実行者であるのです。己が天幕のうちに首(こうべ)をたれて、細り行く希望と対坐するものは禍です。

 うす暗い天幕の中から勇ましく抜け出して大空に輝く全能者のみわざを仰ぎ、信仰の耳にのみひびく神の声に導かれて前進したいものです。

 神のみ声がただ独りのアブラハムの魂に受け入れられた時、彼は信仰の父となり、生ける流れが「この水の行くところ、ものみな生きん」と凱歌を上げました。

 この信仰の父アブラハムより十四代の裔に約束の救い主イエス・キリストは星に導かれ生まれたまいました。些細な信仰も流れ流れて遂に大きな永遠の御国の嗣子を生みます。初めの一歩に忠実であれ!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著31頁より引用)

(写真は上方オーストリア・アルプスMittelbergから下方ドイツに向かって流れ下る渓谷〔06.6.15by容子さん〕。150kmほど北上してドイツ南部を東流するドナウ川に流れ込む。スクロールしていただくと迫力が少々伝わる?)

2009年1月25日 (日)

きよめ アンドリュー・マーレー

Dscf1969  「実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15・2)

 ぶどうの木には二つの著しい特徴がある。ぶどうの木ほどその実が霊に満たされたものはなく、その実からさらに豊かな霊がかもし出されるものもほかにない。またいっぽう、ぶどうの木ほど早く野生化する果樹もない。野生化すると実がならなくなるので、思い切って刈り込むことが大切である。〔わたしはこの書斎の窓から広いぶどう畑を眺めているところだ。〕ぶどうの木の手入れする人の最大関心事は刈り込むことだ。ぶどうの木は良い土に深く根を張る。ゆえに耕すことも、水や肥料をやることもあまり必要でない。しかし良い実をならせるためにはどうしても刈り込みを欠かすことができない。果樹の中には時々刈り込みをすればよいものもあり、全然刈り込まなくてもよく実のなるものもあるが、ぶどうの木は最も刈り込みを必要とする果樹である。実を結ぶ枝に対して父がなさることは、もっと多く実を結ばせるために枝をきよめることであると、主はこの譬の初めに私たちに語られたのはこのことのためである。

 刈り込み、またはきよめとはいったいどのような意味であろうか。それは、ぶどうの木の生長を妨げる雑草などの外部のものを取り除くのではなくて、徒長※した枝など、ぶどうの木のいのちによって造り出された内部のものを取り除くことである。ぶどうの木の力の証拠であるものを取り除くのであって、生長力が強ければ強いほど刈り込みの必要も大きくなるのだ。切り取らねばならないのは、ぶどうの木の溌剌たる健康な枝である。養分は去年伸びた全部の枝を養うには十分ではないので、これを節約して実のためにだけ使わねばならない。枝は時には二、三メートルも伸びるが、枝元の際まで切り詰められ、七、八センチを残すだけになる。これで実を結ぶのに十分である。このようにして、実を結ぶのに不必要なものは容赦なく切り捨てられ、最小限の枝だけが残された時、はじめて豊かな実りが期待されるのである。

 何という厳粛で貴重な教訓であろうか。農夫がきよめるのは罪だけではないのだ。私たちの信仰活動についてもこのことは当てはまる。神に奉仕する時、私たちは知識、雄弁、説得力、熱意などの生まれつきの才能を利用する。しかし、これらの才能は常に濫用され、過信される危険がある。したがって、人間のどうにもならない弱さ、過ちを犯しやすい危険性を意識し、深く反省して、自分が全く無力であることを、折に触れて自覚することを神は私たちに求められるのだ。私たちのなすべきことは、聖霊がいのちを与える養分のすばらしい力を受けることだけである。人間はあくまでも謙遜な心を持たねばならない。キリストへの全面的な奉仕と調和しない一切のものは捨て去らねばならない。自我の一切を切り捨てることにより、聖霊との交わりはますます深くなり、聖霊の思いのままに私たちの人格は練磨されるのだ。これが真の割礼である。これが主イエスの死を体で覚えるため、キリストと共にほんとうの十字架につくことなのである。

 神ご自身のきよめにより、もっと多くの実を結ぶことができると保証されることの喜びの大きさはいかばかりであろうか。

 祈り
「私たちの聖なる農夫よ。私たちのうちにあるうわべだけをよく見せるものや、自信や誇りのもととなる恐れのあるすべてのものをきよめて取り除いてください。主よ。あなたのみ前で、肉が誇ることがないように、私たちをあくまで低いものとしてください。私たちはあなたのみわざが行われることを信じています。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳23~26頁引用。※引用者注:作物の葉・茎がむだに伸びること。)

(写真はドイツ・ローテンブルク城門外のブドウ畑の見える風景〔07.6.13〕。画面を下にずらしてみていただく必要がある。)

2009年1月18日 (日)

主の目が常に クララ

Dscn5886  「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終わりまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」(申命記11・12)
 「今の時を生かして用いなさい、今は悪い時代なのである」(エペソ5・16)

 またも新年と言う渡り鳥のさざめきがたのしげに聞こえて来ます。しかしあの渡り鳥の歌もたちまち流れ去ることでしょう。わたしどもは過ぎ行く時に対して悔いる事の多いものですが、今年はどうでしょう。

 過去は足跡を残して永遠へと去り行きます。ナルドの香油の姿なき香りは、いつまでもわが胸にただよっていますように、まだこない未来は幻を画きつつ近づいて来ます。わたしどもこの世の曠野を行く者にとって大切なのは目標であり幻です。これはわれわれの楯です。

 過去は再び捕えるすべもなく、未来はまだ手に入りません。大切なのは今の時、これこそ現実なものです。パウロはこの事について賢い注意を与えています。「今の時を生かして用いなさい、今は悪い時代なのである」と。悪しき時代を生かして用いるとは、時の善用をせよと言う事です。もしわたしどもが周囲の事情にまけるなら、善に対して希望はもてません。人類の歴史は悪しき時代の記録にすぎません。しかしどんなに周辺の事情が悪しくとも賢い途はその歩みかたによって定まります。

 わが主イエスが十二歳で初めて宮もうでをなさった時「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と、その生涯の使命は神に仕える事であると明らかに自覚された見事な使命感は、そのご生涯の終わりまでゆるがぬものとされました。

 有名な画家ドラクロアが、まだ画家になろうなどとは考えてもいなかったある一日、ルーブル展を見物しました。彼が会場を出ました時、彼の心は画家ドラクロアになっていました。使命感は彼を捕え、あのすばらしい画家にしたのです。

 ダマスコ途上においてのパウロ、イエスによって捕えられたその使命感、ここにパウロは再生したのです。「今の時を生かして用いなさい」との言葉は心にしみることです。

 神が人を祝福したもう時「いつもあなたがたと共にいる」との臨在のお約束でした。この道理は申命記の昔から変わりはありません。「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終わりまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」一年中、見聞していて下さるとは何と心強い事でしょう。

 神は世の終わりまでともなって下さいますとは、イエスが最後の別れのお言葉です。主のお約束を固く信じてまいりましょう。臨在こそ我らの力であり生命です。インマヌエル、最善のめぐみなれ!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著19頁より)

(写真は野洲川の上流、鈴鹿山系を望む景色〔09.1.11〕。滋賀県の中では湖南は暖かい。昨日の彦根駅構内から見た写真とは雲泥の差だ。でも主の目が注がれる時にたとえどんなに冷たい心も常に温かくされることを覚えたい。)

2009年1月11日 (日)

もっと多くの実 アンドリュー・マーレー

Dscn5877  「実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15・2)

 物事の真の姿を見られる神のおん目には、実は非常に優れたものと映るので、実は神が真にみこころにかけられるただ一つのものである。したがって、主は実を結ばない枝は取り除くと言われたすぐ後で、実を結ぶ枝はもっと多くの実を結ばせることが農夫の唯一の願いであるとつけ加えられた。神の恵みの賜物として、霊の力のしるしとして、神とキリストとの栄光の啓示として、この世の必要を満たすただ一つの道として、神はもっと多くの実を結ぶことを切に望んでおられるのである。

 「もっと多くの実を」。これはたいへんきびしいことばである。教会としても、また個人としても、私たちが自己満足に陥る危険が今や極めて多いのである。ラオデキヤの心がいつのまにか忍び込んで、私たちは富み、豊かで、もはや何も必要としないという考えが、そのような考えのあるはずのないところまで広がっているかも知れないのだ。貧しさや惨めさに対する神の警告が、そのような警告が最も必要とされるところでほとんど無視されているのである。

 私たちはクリスチャンとして、他のクリスチャンと同じ程度の役割を果たしているから、それで十分であるといった満足感に浸ったり、私たちのキリストへの奉仕の努力に人々は満足しているだろうなどと考えてはならない。私たちの唯一の願いとすることは、キリストと密接に結ばれて生きている枝である私たちが、キリストが望んでおられるような実を結んでいるかどうか、もっと多くの実を求めておられる父である偉大な農夫の愛の心を満足させているかどうかを知ることである。

 「もっと多くの実を」というみことばは、神の権威によって私たちの生活を試みに来る。まことの弟子ならば、この聖なるみことばの光に心から従い、自分の結ぶ実の量や質に欠けるところがないかを、神ご自身がお示しくださるように熱心にお願いするに違いない。このみことばが、父の愛の目的、キリストのあふれるばかりの恵み、そして人々を救うために多くの実を結ぶすばらしい特権を、私たちに十分に経験させる意味を持っていることを、今、私たちは心から信じるものとなりたい。

 「もっと多くの実を」というみことばは、人に強い勇気を与える。今、私たちが耳を傾けるならば、実を結んでいる枝へ語りかける神のみことばが聞こえてくるはずである。神はエジプトのパロのように、酷使する立場から多くの実を要求するものではなく、またモーセのように律法の上から要求するものでもない。神は父として来られ、ご自身の求めるものをまず私たちに与えられ、ご自身の命じられるとおりのみわざを私たちに行われる。神ご自身が生きているぶどうの木の生きている枝として、まず私たちのところへ来られた。ただ私たち自身を神のみ手にゆだねさえすれば、私たちにもっと多くの実を結ばせるというみわざを行なうと、神が申し出られる。私たちはこの神の申し出を受け入れて、神が私たちの中でみわざを行なわれるようにお願いしようではないか。

 ぶどうの木の持ち主は、実りをもっと豊かにするためにはあらゆる手段を講じる。そのように父である農夫も、私たちにもっと豊かに実らせるためにはどんなことでもされる。今、神が求められることは、私たちが心から豊かに実りを望むことである。神が私たちのうちに全きみわざを行なわれるように、喜びに満たされて待ち望もうではないか。私たちの神なる農夫と天のぶどうの木とを信じ仰ぎ見て、私たちがもっと多くの実を結ぶことを約束しようではないか。

 祈り
 「父にいます私たちの神よ。あなたは天の農夫、キリストは天のぶどうの木です。そして私は一本の天の枝として、神のいのちにあずかり、神の実を結ぶ者です。父よ。あなたのみ名の栄光のために、いつまでもいつまでも、もっと多くの実を結ぶことができますように、ご自身のいのちの力を私の中に満たしてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー 安部赳夫訳18~22頁引用)

(写真は今日の東海道線能登川付近の車窓から見た湖東平野。画面奥に見えるのは琵琶湖湖西の冠雪した比良山系。)

 

2009年1月 8日 (木)

手術を終えたばかりの友へ エミー・カーマイケル

Dscn5858  ひと晩中あなたに手紙を書き続けていたような気がします。愛の主が今、あなたに休みを与えてくださり、あなたを元気づけ、力づけてくださいますようにと祈っています。

 手術のあとの日々ってどんなものかしらと考えそうになると、わたしはあわてて心の扉を閉めてしまいます。そんなふうに考えることに、耐えられないのです。わたし自身はこれまで大きな手術は一度もしたことがありません。けれど手術を受けた人の看病は、たびたびしました。それで、どんなにひどい痛みに苦しむのか、少しはわかるのです。あなたから次の知らせを受け取るまで、わたしの心は安らかでいることができないでしょう。

 重苦しい毎日が続くことでしょう。このような日々のあとに元気を取り戻すのは、たやすいことではないと思います。けれども、安らぎに満ちたいくつかのみことばをさしあげたいと思います。たとえば、ゼパニヤ書3章17節※とかヨハネ15章9節※※です。

 さらにまた休息について語る詩篇や福音書のみことばがあります。
 「私のたましいよ、おまえの全きいこいに戻れ」(詩篇116・7)「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11・28)「私の神は・・・あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4・19)同じような聖句がほかにいくつもあります。

 今これらの聖句を、特別にあなたに与えられたみことばとしてください。あなたは今”羽”でおおわれているのです。そのおおいを取りのけようとして、無理な力を加えたりしないようにしてください。魂を疲れさせて、回復を遅らせることがありませんように。「主はご自分の羽であなたをおおわれる」(詩篇91・4)その羽の下で安んじていてください。自分にかぶさるおおいを取りのけたいという誘惑にかられるときは、それが”羽のおおい”だということを思い出してください。やわらかく、ふさふさとして、それでいて大きな鳥の翼のように頑丈なおおいです。

 これからの日々、その”羽”があなたにとって慰めとなりますように。

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。
※※父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

(『やみを照らすともしび』エミー・カーマイケル著棚瀬多喜雄訳24~25頁より引用)

(写真は大阪のIさんから今日お便りとともに同封してあったしおり。「手元にありました絵葉書にノートを貼ってのしおり。もったいないという心から作った、おそまつな物です。」とあった。便りは人の心を表現するもの、うれしくなって7枚のうち4枚を並べて撮影した。その他今日は高知の方からもお便りをいただいた。手書きで心を表現する中高年かな。)

2009年1月 4日 (日)

雅歌1章2節 笹尾鉄三郎

Dscn5828  「雅歌」についての文章を目にしましたので転写します。恐らくハドソン・テーラーの『主イエスとの一致と交わり』、ウオッチマン・ニー全集の『歌の中の歌』と共通するものだと思いますが、これらの翻訳物とちがい、日本人の手になる霊想として注目すべきでないでしょうか。

あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。(旧約聖書 雅歌1・2)

 ここからは新婦の言葉である。我ら救われたキリスト信者は聖書に記されているようにキリストの新婦とされたものである。とすれば、このことばは我らの叫びでもある。すでに救われ、また数々の恵みを受けてはいるが、なお一種の渇望がある。どうしても今のままの状態では満足ができない。そこで、どうか彼―我らの主なるあの御方―がその口をもって愛のくちつけをしてくださるようにと祈るのである。どういう恵みが欲しいとか、知恵が欲しいとか力が欲しいとか、または働きがしたいというのではない。主御自身との深い交通を願うのである。

 多くの信者は唯恵みを求める。これは勿論よいことである。しかしこれは雅歌の信者ではない。主との楽しい交通の幸福な経験に入れられた真の信者は勿論多くの恵みをも頂戴するが、更に進んで常にその交通の絶えないことを願う。これは恵みつまり主よりの賜物を受けるよりもなお楽しいことである。恵みではなく、恵み主が欲しいのである。

 恵みだけを求めるのは、まだ霊の経験が浅い、真に神を愛するようになれば、詩篇42篇1、2節のように、賜物でなく生きた神ご自身を慕うようになる。ちょうど子どもが落ち着かない時に菓子や玩具をやってもだめで、母親をつれて行かなければ満足しないように、恵みでは満足ができず、恵み主なる主御自身が慕わしくてやまないのである。しかも唯主の御声が聞こえるとか、その聖顔が見えるというくらいでは十分でなく、そのくちつけを願う。つまり真に愛情が通じるところまで行かなければ満足しないのである。

 勿論我らは皆ある意味では神のくちつけの味を知っている。ルカ15・20にあるように悔い改めて神に立ち帰り、汚れた衣を脱がされて再生の恵みに入った時にそれを経験したのであるが、なお進んで潔められて新婦としての資格が整うならば新郎である主のくちつけの味を知り、なお一層深い交通に入るのである。恵みでなく、賜物でなく、愛の神御自身が我らに接して下さる時に、言葉以上に愛が通じるのである。(詩篇2・12参考)

 聖霊は我らにこのような交通に入るようにと切に勧めておられる。けれども多くの人はちょうどユダのようである。ユダはキリストにくちつけをした。キリストを愛してであろうか。そうではない。唯自分の欲をみたし利を貪るためにその手段としてくちつけをしたのである。多くの人は口では主よあなたを愛しますというが、その腹の中には世に属する心があるために、真に神を愛する愛がない。これはユダの類である。けれどもそれとは違い真に主が慕わしくてたまらず、乳児がその母を慕うように、理屈はなしに唯慕わしくてそのくちつけを求める。これは表現できない渇望である。この新婦はそれを訴えている。

(『笹尾鉄三郎全集第1巻』1977年刊行210頁より引用)

(写真は次女がお正月にやってきた5歳の姪と一緒につくりあげたシフォンケーキ)

2009年1月 3日 (土)

すべてが新しくなった クララ

Dscn5820  「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(新約聖書 2コリント5・17口語訳)

 常に新鮮なものとは不変な神の愛と永遠の生命です。伝道の書には「日の下」には新しいものはないと記されています。先にあったものも既にすぎ去ってしまい、今あるものもやがては古びる運命にあるものにすぎません。時の流れはすべてのものを力の肩にのせて、刻々と運び去って行くのです。よしや時計の針は止め得ても、歴史のきざみをとどめる事は出来ません。

 世は去り世は来る、日は出で日は没する、不変の実在者「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者」の古びることのない愛を求めつつ新しい天の都へ前進する我々は栄光から栄光へと、主と同じ姿にかえられて行く旅路です。古び行く世にありつつ、常に新たな輝きをまし加えられて行くものです。

 人は過ぎ去ったものへの追憶によって前進を学び、未来に対する確信を捕える事が出来ます。先の日の環境もありし事情も消え去りすぎ去ったが、その追憶のうちにやどる数々の恵み、涙の露にやどる輝きはきたるべき日を新たに迎える信仰の確信に力を与えます。キリストに在って獲得した新しき日の下、新しき地の上に後の人々への確信ある足跡を印して進み行きたいものです。

 古き人は更に古きをまし加え、世はますます混乱の度を加え、暗きは深みをましていますこの時、暁の近い事をさとる者は幸いです。悪の枡目のみつる時、こつ然として新しき朝はおとずれてあしたの光が万物をてらします。

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しくされ、古びない生命の道を歩み、恵みより恵みへと祝福されます。

 かつて「愛は古びず」という画題の名作を見ました。それは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」の句を画にした様に、穏やかな愛にみちた老夫婦がいろり際で語っている所でした。その面は古びない愛でみがかれた年月の新鮮な香が漂よっています。

 愛こそは新鮮です。「神は愛である」との御言葉が心にしみるようです。キリストにあって、古び行く世は去った!『過ぎ去ることそのものが過ぎ去った』父なる神との愛の交わりによってますます新たにせられ『神忘却への堕落した姿』をぬぎすて、永遠の新鮮さに溢れますならば、この世は私共にとって過ぎ去ったもの、古びたものとなります。

 またもめぐり来た新しい年を、希望に満ちて迎えましょう。過ぎ去った多事な月日を思いかえします時、すべては恵みであったと追憶の喜びに、きたるべき年への信仰は燃えることです。

 「わたしはすべてのものを新たにする」と言われた神を仰ぎつつ希望にみちて信仰の戦いをたたかいましょう。

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著1976年刊行 1月3日 3頁より引用)

(写真は大晦日の信州浅間山の風景、御代田・塩野地区から見上げたもの。2008年12月31日撮影。)

2008年12月28日 (日)

実 アンドリュー・マーレー

Dscn5805  「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき・・・」(新約聖書 ヨハネ15・2 口語訳)

 実―これはぶどうの木、農夫、枝に次いで大切なことばである。神はここで実について何を語ろうとしておられるのだろうか。それは簡単である。もし実を結ばなければ、農夫は枝を切り取ってしまうということだ。

 ぶどうの木は農夫の栄光であり、枝はぶどうの木の栄光であり、実は枝の栄光である。もし枝が実を結ばなければ、枝には栄光もなければ何の値打ちもない。それは邪魔物に過ぎない。ゆえに農夫はこれを切り取ってしまう。天のぶどうの木のまことの枝の唯一のしるしは実を結ぶことである。

 では、いったい実とは何であろうか。それは枝が自分自身のためではなく、主人のために造り出し、それを主人が集めて持って行くものである。枝はぶどうの木から養分を受けて成長する。しかし養分を受けるためには、枝の生存の目的である実を結ばねばならない。もしクリスチャンが、この事実を理解するか、受け入れることがなければ、たとえ枝が切り取られないようにと心から望み、あれこれと書物を読み、考え、祈ったとしてもむだである。その上、もっと悪いことは、枝が切り取られるという理由がどうしてもわからないということだ。しかし、それはごく簡単なことである。実を結ぶことは枝が救われる唯一の条件であったことを知らないからである。

 キリストがただ一つの目的をもってぶどうの木になられたのと全く同じように、私たちも人を救うために実を結ぶというただ一つの目的をもって枝になったのである。ゆえに、ぶどうの木も枝も、その存在のただ一つの理由として、実を結ぶという不変の法則の下にあるのだ。キリストとクリスチャン、すなわち天のぶどうの木と枝とは、神の人に対する救いの愛を実行するという唯一の目的のために、この世に等しい地位をもって立つことが許されている。「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞく」という、あの厳粛なみことばがあるのはそのためである。

 私たちクリスチャンは、次に述べるような大きな過ちを犯さないように特に注意しなければならない。クリスチャンの中には、自分のこの世の仮のいのちと繁栄を守るため、自分自身の救いを第一とし、家族に対する配慮をその次に考える人が多いということである。そして、もし時間と関心があれば人を救う―実を結ぶことに身を入れようと思ってはいるが、などと言う。もちろん多くの場合、そのような余裕があるはずはないのだ。この考えはまちがっている。私たちがキリストの体の一部としてクリスチャンになることを許されたのは、神が私たちにその救いのみわざを実行させるためである。

 神が私たちを枝にしたただ一つの目的は、私たちをとおして人に救いをもたらすためである。そのためには、私たち個人の救いや、私たちの事業や家庭への配慮はその次に考えるべきである。人生をとおしての第一の目的は、そして日々の第一の目的は、キリストが私たちの中でその目的を実行するようにと願っていることを知ることである。

 これからは、神が考えられるように私たちも考えようではないか。キリストの教えを心から受け入れ、その教えに誠実に答えていこうではないか。私たちが枝であるただ一つの目的、私たちが枝であるただ一つのしるし、私たちがまことの枝であるただ一つのしるし、私たちが枝としてぶどうの木にとどまり、成長する条件は、私たちが天の実を結んで、死にかかっている人々がこの実を食べて生き返るためである。キリストを私たちのぶどうの木とし、父を私たちの農夫として実を結ぶ枝となることだけが、私たちが枝として持つことのできる最も完全なる保証である。

祈り
「私たちの父よ。あなたはぶどうの木の実を求めて、ここに来られました。実を結ぶことが私たちの生きているただ一つのほんとうの目的、そして私たちがキリストと結ばれているただ一つのほんとうの目的であることを、私たちが悟ることができるように、どうかここで教えてください。枝となり、豊かな実を結ぶために、ぶどうの木が聖霊によって満たされることを、私たちのただ一つの心の奥底からの望みとさせてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー安部赳夫訳にひきのさかな社1980年刊行13~17頁から引用)

(写真は庭の山茱萸(さんしゅゆ)木。かつてはヒヨドリが巣を作るほどであったのに、今や葉を落とし長い冬に備えている。しかし枝は確実に先端に花の実を結ばせている。学ぶべきは自然だ。)

2008年12月27日 (土)

今は恵みの時、今は救いの日です。

Dscn5808  旧約聖書・創世記によるとハガルというはしためは女主人サラにより子どもを与えるために召し入れられました。しかし、後に奴隷であるがゆえに、御主人アブラハムとの間に生まれた子どもとともに、ご主人のもとからパンと水の皮袋を与えられて追われます。(この追放というアブラハム夫妻の決断の背後には生ける真の神様以外にはわからない深い摂理が潜んでいるのですが)そしてそこで受けた苦難は次のように記されています。

 それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木(かんぼく)の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。

 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」

 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。(創世記21・14~19)

 このように絶体絶命の中でハガルは神の声を聞き、ついで絶対必要な命綱である井戸を見つけ、水を汲みあげ飲むことをとおして死からいのちに移されるのです。
 死に瀕する出来事だけでなく様々な困難の渦中にあるとき、私たちはどうするでしょうか。このハガルのように神の一方的なあわれみによって耳が開かれ、目が開かれることを経験するのでしょうか。それとも相変わらず神を見上げないで、いのちの泉を知ることなく座して死を待つのでしょうか。主だけが与えてくださる救いを喜ぶ純粋な信仰を、同じ旧約聖書のイザヤ書では次のように記しています。

 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ書12・2~3)

 そして新約聖書はもっと明確に神が人となられたお方を御使いの声をとおして紹介しています。

 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2・11)

 さらにイエス・キリストの先駆けとして登場するバプテスマのヨハネは次のようにこの方を指し示します。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1・29)

 歴史はこの主の生誕(クリスマス)を通して新しい時代、「恵みの時」、「救いの日」に突入してすでに2008年という歳月を数えてきました。聖書は、絶えず「聞け」「見よ」と呼びかける神の愛の声の集りです。紀元2008年も世界的な大不況のもとで後数日で終わろうとしています。大不況という負わせられた苦悩のもと、現実から目を転じて上なる主を見上げ、その神の呼びかけの声に素直に聞き従いたい行動したいものであります。

(写真は知人から送られてきた絵葉書を撮影した。中世修道院で制作された写本の一部だそうだが、この写真はまたその一部である。正面の女性が「徳」を擬人化した像となっているそうだが、よく見るとまわりの樹木の間から何やら動物が三頭ほど覗いており、絵の実在感をかえって与えているように思った。)
 

2008年12月25日 (木)

ああ、クリスマス クララ

Dscn5728  とうとう2008年のクリスマスの日を迎えました。私にとって最初のクリスマスは1969年のことですから、今から40年前になります。

 当時仕事を始めて3年目でしたが、春先に交通事故に会い、不安の中で神様を求めていました。その年のクリスマスに自分から教会の門を敲きました。その教会は、当時住んでいた足利からバス・電車でかなり時間のかかる春日部市内の教会でした。挙句の果てに住所を足利から春日部に移しました。そして19年前にはそんなにまでして集った教会を退会しましたが、住所だけはそれ以来春日部です。不思議な神様の御導きです。

 小さなころに体験したクリスマスは、父母が前の晩、枕辺に用意してくれた靴下の中の贈物を手にしたときの「喜び」のイメージでした。長じても何となく楽しく、その上雪でも降ろう(彦根や京都はよく雪が降ったものです)ものなら、美しさが加わって身も心も綺麗にしていただけるような独特の日の印象でした。でも本当の意味は全然知りませんでした。そして21年間出席していた教会でもクリスマス行事こそ消化しましたが、自分とイエス様の関係は決して近いとは言えませんでした。教会を出て聖書のみことばだけに頼る生活を始めてみて、やっとイエス様の御降誕が身近なものになったのです。

 今日もクララこと小原鈴子さんのメッセージをお贈りしたいと思います。

 「彼は天の使いと争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた。彼はべテルで神に出会い、その所で神は彼と語られた」(旧約聖書 ホセア12・4 口語訳)
 「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」(新約聖書 ヨハネ12・21 口語訳)

 今年も新年を迎えたと思う間に、早くも次の新年が我々の前に門を開いております。栄光の聖子が馬ぶねの中に王座を移し給うた厳かなあの一夜、ああクリスマス!! 神は愛にいます―

 「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」とギリシヤの人達がピリポにたのみましたこの祈願は、古より代々の人類の叫びではありませんか。我々が自らの弱さを悟る時、深い孤独感につつまれる時、神を求めずにいられないのは人間の本心でありましょう。

 ヤコブはあの暗夜べテルで神に出会い、モーセはミデアンの寂寞とした嚝野で神の御声に靴をぬぎました。苦難の日に、孤独の日に人の本心の叫びに答えたもう神、歴史の園を歩み給う恵みの神、これこそ我らの救い主です。

 たとい人間が知恵の限りをつくしてみ使いと角力して、勝ったように見えても、その時こそせん方つきた朝であり、途方にくれたゆうべです。よしや月の世界に手が届いても、人間自身はどうしようもない混乱と不幸に陥って行くのです。これは代々繰り返されている人間の愚かさと鈍さです。しかも人類はそれが文明の栄誉と気おい立っています。存在の恐怖におびえる人類には次の時代への生きた道をもち得ません。さめて神を待つべき時はすでにきているのではありませんか。ある人が「賢明な処置とは神によりたのむことである」と言いましたが適切な言葉です。イスラエルの民族は宿命的に強国の間にはさまれて、苦難の歴史を繰り返し遂にローマの支配下におかれました。

 しかしその中にも醒めた民は救い主をまち望み、慰めの日への信仰をもちつづけました。シメオンは救い主に会うまでは死なないと聖霊によって示され、時来たってイエスを胸に抱いて賛美しました。

 「わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

 東方の博士たちは預言のうちに約束されてあった救い主を拝そうと星をたよりに砂漠の原を旅し、やがてイエスにお目にかかり三つの宝を捧げました。その夜野に羊を守っていた牧羊者はみ使いの告げをたよりに尋ねて来て、飼葉おけの中に眠るイエスを拝しました。主イエスが通り過ぎられた道には何と大きな変化が人類を祝福した事でしょう。そこには罪のゆるしの福音が宣べ伝えられ暗黒のうちに座する者に望みの光が照り出でました。面会とは自らを与える事だと言いますが、我々も日々主にお目にかかりたいと切願するものです。ああクリスマス!! 万民の救い主、イエス・キリストをわが心に迎えまつりましょう。馬小舎の隅にではなく、全き心をもって主を心の王座に!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著1976年刊行365頁12月25日の項より引用)

(写真は先週土曜日の子どもクリスマスにおける子どもたちによる賛美の演奏の一場面です。何日か前も紹介させていただいたばかりですが、この場面では楽器が登場します。残念なことに右端にいる二人のお子さんたちを写すことができていませんが、子どもたちの表情は緊張の面持ちの中にも、生き生きしていると思われませんか。様々な所やまた家庭環境から集まってきている子どもたちではありますが、イエス様が大好きであることにおいては一つなのでしょう。バックの模造紙の右上方隅に描かれているのはイエス様でしょう!)



 

2008年12月21日 (日)

クリスマスの瞑想 クララ

Dscn5730  「パーテ老人は語った」の続きを、なお読みたいところですが、今日は日曜日なので中断して、小原鈴子さんのこの日のメッセージに耳を傾けたいと思います。以下の文章は、『泉あるところ』(小原十三司、鈴子共著1976年刊行)361頁の12月21日より引用しました。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって・・・御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(新約聖書 1ヨハネ4・10)

 栄光に輝く天の軍勢が御使とともに賛美した。あの真夜中のすばらしい出来事によって告げられたよき音ずれの故に、羊飼いたちは聖子を礼拝しました。第一の礼拝者!! クリスマスへの瞑想の泉は年毎に流れてつきません。今年もまたクリスマスの季節となり、思いは独り子を賜わった神の御愛へ帰り行くのです。

 造り主なる神が御心こめて造られた美しい天地の和を破った者は誰でしょう。あの花園の真昼を暗にした者は何でしょう。罪が近づき易い姿に身をやつし、滅亡が滅亡を偽りのカーテンで掩い、大胆にも神を偽り者と呼び、必ず死ぬとの御言を否定して木の実をすすめました。愚かにも誘われたエバは、肉の欲、目の欲、知恵の所有者を夢みつつ見上げた木梢には神の言をも押しのけるほど魅力に輝いた木の実が呼びかけているように見えました。

 ああ息づまる歴史の瞬間!! その実は遂に女の口に運ばれました。続いてアダムの口にも!! 残念にもサタンの毒矢はみごとに命中しました。何と言う痛ましい被害でしょう。世に悲惨の極みの言葉があるとしたら、神がエバに言われた「なんということをしたのです」との一言以上のものはありますまい。悔いも涙も洗うによしない忘恩、不真実です。神の愛は引きさかれ、罪と滅びは人の子の魂に王者となり、栄光の子は一瞬にして罪の奴隷となり、反逆の責任を負わねばならぬ身となりました。子々孫々罪の重荷につながれて、人は生涯死の恐怖につながれる者となりました。しかし神は愛である!!

 やがて散り行く運命をになった枯葉のように、滅亡へと落ち込む人類にくすしき望みが約束され、多くの試練の年月の後、父なる神はこの痛ましい事件の解決者として、独り子イエスを罪の世に遣わしたまいました。

 かくてイエスは罪の支払う報酬である死をもって人類を贖い、罪から解放し、滅亡にかえて勝利の杯を溢れさせて下さったのです。わがさかずきはあふるるなり!!

 サタンの悪意によって、神の創作である世界に滅亡と罪とが持ちこまれました。誰がこれを取り去る事ができましょう。天の会議はこの問題をどう扱われた事でしょう。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は、そのさばきは窮めがたくその道は測りがたい!!

 時はみちてベツレヘムの空の妙なる星の輝きに導かれた一群はみどり子イエスを拝し、破られし平和は回復されし新しき生ける道は開かれ、十字架の主を仰ぐ時、失望は希望に、死は生命に、おぞましき滅亡を滅亡させるために・・・人の世を混乱させる罪の凶暴な力を無力にさせるため主は贖いを成就したまいました。

 インマヌエル!! 神がまことにわれらと偕(とも)にいます。神の愛が我がうちに来たります日、われらの心は愛によって変質し、永遠の昔より神によって備えられた解放の日を迎えることです。クリスマス!! 主に榮あれ。

(写真は昨日の子どもクリスマス会での子供たちによる賛美の演奏。子供たちはいつ見ても私たち老人と比べて輝いて見える。後に見える模造紙の絵は直前に演じられた中高生の劇「靴屋のマルチン」で使われたもの。左横の額には「患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」とロマ書5・3のみことばが書いてある)

2008年12月15日 (月)

受けて取る行動において謙そんでありなさい ポ-ロ・S・リース

Dscf1584  愛する兄弟たちよ、この敵対する世の中で、あなたがたが直面する敵をめぐって、いらだち、また、恐れるようになりやすいことは、私にはわかっています。自分たちの立場や、人に認められることや、評判が気にかかる誘惑があなたがたの交わりの中にも多いことも知っています。しかし、そのすべては、実際には「わな」です。

 確かにあなたがたげ経験している試みは、耐えがたいものでしょう。しかし、神がその試みをあなたがたのためになるように用いておられることも確かです。あなたがたを別れさせ、あるいは分裂させようとして脅かす対立や野心は、打ち破ることの困難なものです。しかし、神があなたがたの上、周囲、またあなたがたのうちにいますことを、ひとりひとり悟ってほしいのです。その神は、試みのすべてが来るのを妨げず、すべてを命令し、すべてに勝って、ご自身の栄光に至らしめられるのです。だから問題をそこにゆだねておけばよいのです。

 若いジェオフリ・ブルは、逮捕され投獄されるしばらくの前に、チベット人の間で働いていましたが、困難な環境の下にあってどのように正しく対応してゆくかについて、主に扱われました。彼は昔のある聖徒のことばを思い起こしました、「パンをさきたもう主に従う者は多かった。しかし、御苦しみの杯を飲むところまで従う者は少なかった」。心を探られるようなことばの深い意味を考えながら、彼は次のような詩を書きました。

 主よ、私は泣くことを学びませんでした
 あなたと その荒削りの十字架に
 ほんとうに合わされるためには
 笑うことが多すぎたのでしょうか
 また 悲しみなしにあなたを愛そうとしたのでしょうか
 語っても触れようとせず 心に深く焼きつけませんでした
 おお 主よ だれが園で終わりまで目ざめていたのでしょう
 私もまた眠りました
 主よ 私を目ざめさせて下さい
 それが涙を伴う愛であるにしても

 私たちの行動においての謙そんは、聖徒にふさわしく、また役に立ちます。しかし私たちの受けて取る行動においての謙そんを忘れないで下さい。

(『苦難の中の勝利』ポ-ロ・S・リース著 舟喜信、松代幸太郎訳 1965年刊行いのちのことば社210~211頁より)

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(新約聖書 1ペテロ5・6)

(写真は彦根城お堀に咲く梅。もちろん、今ではない、撮影期日を見ると07、4、1とある。これから本格的な冬に向かう。植物は寒さの試練の中で頭を下げるだろう、しかし春にはこんなにすばらしい花を咲かせる。私たちもそうありたい。文中のジェオフリ・ブルGeoffrey Bull は殉教者である。英語の達者な方はサイトで詳しく知ることが出来る。)

2008年12月14日 (日)

枝 アンドリュー・マーレー

Dscn5649  「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・・」(ヨハネ15・2)

 今ここで、この譬(たとえ)にある「枝」について学びたい。言うまでもなく、ぶどうの木は枝がなければ実を結ぶことはできない。私たちはぶどうの木や農夫と同じように、枝について知ることが大切である。しかし、枝について主が語られたみことばを学ぶ前に、私たちはまず第一に、枝とはどんなものであるか、また私たち主を信じる者の生涯について枝が何を教えているかを、よく心にとめておきたい。

 枝はただ一つの目的のために生きており、そのためにすべてをささげ尽くす。ぶどうの木が望むところの実を結ぶのが枝の目的である。ここに「主によって完全に聖くされることについての教え」がある。同じように神を信じる者にとっても、自分が枝であることのただ一つの理由、自分が地上に生きるただ一つの理由は、天のぶどうの木が自分によってその実を結ぶということである。この事実を知って、これに同意できる人は幸いである。自然の木の枝が実を結ぶためにのみ生きているように、私たちは(罪から)贖われて天のぶどうの木の実を結ぶためにのみ生きるのである。私たちは神によってキリストに固く結ばれたのだから、ぶどうの木が実らせたいと願うような実を結ぶために、私たちのすべてをささげ尽くした、と言うまでになろうではないか。

 枝はあらゆる点でぶどうの木とそっくりである。性質、いのち、働きなど、どの点から見ても区別できない。同じように神を信じる者は、神の選びにより、キリストの性格と精神そのものを自分の中に持ち、キリストと完全に一致し、また一致しなければならないことを知っている。ここに「完全な一致の教え」がある。ぶどうの木と枝が異なっている点は、木は大きく強くて力の源であるが、枝は小さく弱くて、常に外から力を受け続けなければならないことである。

 ぶどうの木はいのちの力と養分とを自分のためではなくて、枝のために蓄える。枝はぶどうの木が分け与えるもののほかは何も持っていない。そのように神を信じる者は、キリストに全面的に、絶えずより頼む生涯に入ることが求められる。それが神を信じる者にとっての最大の幸福である。ここに「完全な信頼の教え」がある。キリストは夜も昼もひと時も休まずに、信ずる者のうちにあって、いつもその必要とするものを造り出しておられる。

 枝が必要とするものはすべてぶどうの木が与え、枝はただそれを受けるだけでよいのだが、この事実は、信仰によって得られるところの恵みに満ちた憩いを意味する。また力を与えられるキリストによって、私たちはすべてのことができるという信仰の真の成長と強化を意味する。ここに「疑いを知らぬ固い信仰の教え」がある。

 親愛なる神の子たちよ。もし私たちが、神の教えを学び取りたいと願うならば、それはただ一つのことをするだけで十分である。すなわち私たちが一本の枝になるだけでよいのだ。それ以上のことも、それ以下のこともいらない。ただ一本の枝になれば、キリストはまことのぶどうの木となって私たちにすべてのものをくださるのだ。ぶどうの木を今のような形に造られた全能の農夫は、きっと私たちを、その枝が当然あるべきはずの形に造られるであろう。

祈り
「主イエス様。どうかぶどうの木といのちのつながりを持ち、安らぎと恵みに満たされている枝の奥義を私に現わしてください。あなたは枝を支え、すべてのものを与えられます。この尊いみわざを信じることによって、私を信仰の安らぎへとお導きください。 アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著 安部赳夫訳 にひきのさかな社 9~12頁から引用。引用者が一部表現を変えたところがある。)

(写真は彦根市芹川の池洲橋から東方に眺めた風景。両岸には桜をはじめ様々な樹木が並ぶが、枝は葉を落とし冬に備えている。遠方にうっすらと広がるのは鈴鹿山系の山々?)

2008年12月11日 (木)

祈りによる力 E.M.バウンズ

Dscn5661  地上において、神のために最も大いなることを成し遂げた人々は、古来早朝から祈った人々であります。新鮮な朝の絶好の時を、神を求める以外のことに費やす人は、その日の残りの時に、神を求めるための船足を遅くする人々です。もし朝のときに、私どもの思想と努力とが神第一のものとなっていないならば、その日の残りの時にも、神は一番の末席になっておられるでしょう。早起きして、朝早く祈ることの背後には、私どもをして、迫るように神を追求させる熱烈な欲求が控えています。

 朝を心にとめないのは、その心の無とんじゃくなことを表わしています。朝に神を求めることに遅れる心は、神に対する嗜好を失っているのです。ダビデの心は切に神を求めました。彼は飢えかわくばかりに神を慕っていましたから、朝早く起きて神を求めました。寝床も睡眠も、彼の魂が神に向かう熱心を束縛することができなかったのです。

 キリストは神と交わることを熱望されました。だから彼は、まだ夜明けには程あるころから起きて、祈るために山におもむくのを常とされたのであります。やがて弟子たちは目をさまし、各自の怠慢を深く恥じたのですが、そのとき彼らは主の所在はどこであるかを知っていました。神のために力ある印象を世界に残した人々の名簿に目を通すならば、私どもはきっと彼らが、朝早くから神を求めていたことを見るに相違ありません。

 神を求めるといっても、それが睡眠の鎖を断つことができないようではその願望は弱く、みずからはその放縦な生活を十分に味わうことができても、神のためになしうることは、きわめてわずかであります。一日の始めに、神に対する欲求心が、悪魔と世との距離をうんと開けてしまえば、それらのものに追いつかれるようなことはないでしょう。

 人々を神の軍勢の先頭に立たせ、将帥とならせるものは早起きではなく、あらゆる放縦の鎖を断ち切ってしまう、神に対する切なる欲求心であります。しかし、早起きはこの欲求心を表面化し、増し、それを力づけるものです。もしも彼らが寝床の中で、みずから怠惰をむさぼっているならば、その欲求心は消されてしまうに違いありません。

 しかしこの欲求心は彼らを目ざめさせ、彼らをあらんかぎりの力をもって神の方に向かわせます。そうしてこのことに気を配り、それを実行することは、彼らの信仰をして神をとらえさせ、かつ最も甘美なあふれるほどの神の顕現を、彼らの心にもたらします。この信仰の力とあふれるほどの顕現とは、彼らを傑出した聖徒にしました。そうして聖徒である彼らの光芒は今日の私どもにまで及び、私どももまた彼らの勝利にあずかるもののうちに加えられたのです。しかし私どもは彼らのような勝利を得ることは望みますけれど、そのために努力することを好みません。私どもは彼らの墳墓を築き、また彼らの碑文を書いても、彼らのわだちを踏もうとして心を用いることをしません。

 私どもの求めるものは、朝早く先ず神を求め、みずからの新しい心と努力をささげ、その結果として、その日のどのような暑熱、あるいは労苦の中にも、神が彼らをうるおす露となり、全き喜びとなり、かつ全き力となるために、その祈りの場で天来の力を新たにされ、神の力に満たされる説教者です。怠惰なために求めないのは、私どもにとって大きな罪であります。この世の子らは私どもよりはるかに賢いではありませんか。彼らは、あしたに露をふみ、夕に星を仰いで世事に励んでおります。しかし私どもは、熱誠と勤勉とをもって神に求めることはいたしません。しかしながら、不撓不屈の精神をもって神を求めるものでなければ、神をとらえることはできないのです。しかも朝早くから神を求めることをしない人は、不撓不屈の精神をもって神に従っている人ではないのです。

(『祈りによる力』 葛原定市訳 昭和27年初版いのちのことば社刊行 62~64頁)

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(旧約聖書 詩篇42・1~2)

(写真は彦根城下町南部を西流し琵琶湖に流れこむ芹川河口の昨日の景色。無数の水鳥が河口部に群がっている。人の気配を感じて舞い上がる鳥もいる。その多くが湖畔へ湖畔へと水を求めて飛び交う。波しぶきと鳥の声に、われにそのような慕いあえぐ思いありや、と思わされる。)

2008年12月 7日 (日)

栄光の主 小原十三司

Dscn5611  12月はクリスマス商戦が盛んです。私が出席しているキリスト集会のある方は「毎日がクリスマスです」と言われた。小原十三司・鈴子夫妻は著書『泉あるところ』の12月の項では毎日のようにクリスマスについて語っておられる。いつも鈴子さんの文章ばかり拝見してきたが、今日は12月8日のご主人の文章を掲載します。

「見よ、彼が雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示1・7)

 現代のクリスマスは人間を救うために、無能者のようになって人間の誕生過程をとって現れた幼な子イエスに対する崇敬でなく、かえって侮辱とさえ考えられる。

 それであればこそ、人間本位の快楽をほしいままにし、サタンはクリスマス・シーズンを買い占めて、教会を俗化させ、新生せざる多くのクリスチャンと称するものを喜ばせるために、クリスマスにことよせて、何でもするようになった。現代の特徴ともいうべき快楽がクリスマスのタイムと場を買い占めて、教会はもちろんのこと、商店街、会社、学校、公署何でもかまわない、快楽と俗化のチャンスに用いるようにしてしまった。お祭り騒ぎとは異教のことではなく、今日ではクリスマスのシーズンと思うようになった。

 大正八年(1919年)はリバイバルの起こった年で、私たちはこの年のクリスマスから、いわゆるクリスマス祝賀会なるものを廃止してきたが、今になって顧みる時、決して無謀の策ではなかったことを痛感する。

 栄光の主!! 聖餐に関するコリント人への手紙に「わたしを覚えて・・・夕食の後・・・飲むたびに・・・わたしを覚えて、これを行いなさい。ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」と記されてあるが、今こそこの点に目さめる時ではないだろうか。主は仰せられる「見よ、わたしはすぐにくる」と、だからそのくるまで目をさまして信仰に生きぬいたのが代々の聖徒たちであった。

 主の降誕は過去となり、十字架の贖罪は完成し、復活の現実に生きる私たちは―現在の実生活において、聖餐における事実すなわち主の生命によって生きる私たちは―「主が来られるまで」目をさまし、「身を起こし頭をもたげ」生き続けるところにクリスチャンの勝利を見い出すのである。来るべき主は、幼な子イエスではない。栄光の主であり、勝利者、王の王たる主イエスであって、黙示録に記される神の子羊である。

 現代の教会は、この栄光の主を迎えるにふさわしいであろうか。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい」と、また「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください」とコリントの教会に警告を与えた聖霊は、今は更に強く私たちに語っておられるのではないだろうか。

 

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(一ペテロ4・7)

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著1976年初版348頁。著者の引用聖句は口語訳だが引用者が新改訳に直したところがある)

(写真は昨日の新幹線車中から見えた富士山)

2008年12月 1日 (月)

愛の主 クララ

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 クリスマスの月である。写真は以前紹介したことのあるパリ市内オペラ座の前のデパートで見かけた2年前の11月のクリスマスイルミネーションである。このデパートではこの不況下でも同じようにイルミネーションを飾っているのだろうか。カトリック信者の多いフランスのクリスマスの祝い方の一つであろうか。久しぶりに小原鈴子さんの今日の記事を見た。以下がそれである。(『泉あるところ』341頁より)

 一 愛はこの世にくだって来られた
    かわいた土から若木のように
    われらが慕うべき美しさもない
    これぞわが主のみ姿である
      愛はこの世にくだって来られた
     かわいた土から若木のように (おりかえし)
 二 主は侮られて人に捨てられ悲しみの人で病を知っていた
    かくもなやめるわが愛の主を
    ああわれさえも彼を尊ばなかった
 三 われわれのとがのために傷つけられ
    われわれの不義のために砕かれた
    迷い迷って背けるものの不義を
    主は彼の上におかれた
 四 暴虐なさばきによって取り去られ
    生けるものの地から絶たれたのだと
    よろこび給う神のみ旨は
    彼の手によって栄え行く
 五 ああ死に至るまで魂を注ぎ出し
    とがある者と共に数えられ多くの人の罪を負い
    とがある者のためにとりなしをした

 クリスマスと言う夜のかげに、いかばかり多くの涙が注がれたことでしょう。サタンのしえたげに泣く人類の涙、みこころ込めて創造された父なる神の憂いの御涙から生まれたその夜!!

 天使のみ告げに服従し、神のみ手に身をゆだねしよりのマリヤが恥と苦しみの涙、ヨセフが彼女のただならぬを知れる時の苦痛の涙、主が天の宝座を捨て罪ののろいにある肉体に、限りなきご不自由とご苦難の生活に移り給うその夜よ!!

 揺籃の上に指す十字架の閃きよ!!

 罪の犠牲に定められ給いしこの君のご誕生を見て、のどかな喜びをしておられるでしょうか。死に定められた小羊を見てさえ、わたしたちがあわれみの心は動くではありませんか。なおさら、咎なき神の御ひとり子が犠牲の御門出に涙なきものがあるでしょうか?

 天の万軍は恐れかしこみ、賛美の声を涙にうるおしたことでしょう。地の万象は涙の露に夜をうるおしたことでしょう。ああ、クリスマスの夜!!

 われらが罪の生みしこの夜!!

 神のご愛の現われしこの夜よ!!

 さりながら、罪のあがなわれんため、唯一の道なるこの夜よ!!

 恐れをもって感謝し、おののきをもって喜び
 尊き聖名に感謝せん

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

2008年11月30日 (日)

二つの湖 F・W・ナッシュ

Dscf0476_2 ((昨日の文章はポーロ・S・リースのものであったが、1940年発刊の「神もし我らの味方ならば」という説教集から抜粋した。その本が20年後の1960年に、日本で翻訳された。今ではこの本は手に入らなくなっている。最近その彼の本を読む機会を得た。その本の第二章に下の詩が引用してあった。パレスチナの二つの湖、「ガリラヤ湖」と「死海」とを暗喩にした詩である。ナッシュがどういう人物かスペルがわからないので調べようがないが、キリスト者であろう。)

 パレスチナに二つの湖あり
 ヘルモンの清い雪で養われ
 はるかに見れば光かがやき
 静かにヨルダンの渓谷に憩う

 一つは美しく
 いのちと新鮮さに満ちあふれ
 受け入れるものを自由に与え
 たえせず、川をながれさせる

 他の一つはいよいよ濃き塩となり
 にがき湖を生じ死の海となりぬ
 湖底にはヨルダンがそそげども
 流れいずるかわは一つだになし

 一つはその昔キリストに愛される
 主はそこにおいて嵐を静め
 岸辺につどう人の群れに向かい
 湖上よりしばしば、語られたり

 他の一つは、さびしき海なりき
 いのちなき岸は荒れすたれて裸
 花も、とりも、木もそこになく
 主が在しし記録も一つだになし

 はじめのは、与えるゆえに美し
 一つの川が流れ入りまたいずる
 真実に生きるすべての魂は、
 かく、己が囲りにあふれいでん

 されど神に与えられて死蔵するは
 しおからき、にがき湖のごとし
 そはキリストとの交わりを知らず
 満ちたりし、自由なる祝福もなし

主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われた・・・(新約聖書 使徒20・35)

(写真は私の故郷滋賀県彦根市高宮町を貫流している犬上川で、琵琶湖に注いでいる。手前側が東海道新幹線、白鷺がたくさんいた。2004年9月撮影。)

2008年11月29日 (土)

持つことは負うことである ポーロ・S・リース

Dscf0532  青年時代、わたしはカリフォルニヤにいたことがあります。そこで、わたしの父が牧していた教会に、土山鉄二という若い日本人が来ていました。

 彼は教職者となるために準備中であり、真に神の御霊に満たされていた人でした。彼は、未信者としてアメリカにやって来たのです。ただお金をもうけて、日本に持って帰ることだけに力を集中していました。しかし、今や彼は自分の同胞にキリストを伝えるために、帰国の準備をするようになったのです。幾年もの勉学を重ねて、彼は三つの学位を取って日本に帰りました。家に着いた彼は父の前にすわりました。

 「おとうさん、ただいま帰りました」
 年老いた父は言いました。
 「おお、おまえの帰るのを長い間待っていたんだよ」
 「おとうさん、お金を持って帰ることができなくてすみません。しかし、三つの学位を持って帰りました。そして、それよりももっとすばらしいプレゼントがあります。それはおとうさんだけのためではなく、日本のすべての人たちに対する最上のプレゼントなのです」

 こう言って、ポケットから一冊の聖書を取り出し、聖書を開いてキリストについて話しはじめました。彼は自分にとって新しい生活―罪のゆるしと聖い奉仕の喜びの生活―の門戸を開いてくださったキリストについて話したのです。老いた父は深い感動を受けて言いました。「おまえは、ほんとうにいちばんいいプレゼントを持って帰ってくれた」。

 しかし四十八時間ののちには、彼の父は臨終の床にありました。真夜中に父はむすこを呼び、自分の魂の運命について不安であることを打ち明けたのです。そして、できるだけよくわかるように、救いの道を示してほしいと頼みました。土山兄弟は、再びキリストの十字架の物語をしました。

 「イエス様は、わたしのために死んでくださったのか。そんなにもわたしを愛しておられるのか。」このように言う兄弟の父の心は全く砕かれ、罪の告白をするまでになりました。彼は「わたしはイエス様を信じる」と言いました。天来の光が彼の魂の中に差し込みました。聖霊の働きによって兄弟の母も非常に心を動かされ、キリストを受け入れました。平安を与えられていた父が、さらに全き平安に移される前に三人はともに喜びあったのです。

 土山氏は、自分が持っていたものを与えました。それは、この上なく偉大なもの、すなわち、人の魂をあがないたもう救い主であったのです。

(『神もし我らの味方ならば』 ポーロ・S・リース著 松代幸太郎訳 いのちのことば社1960年刊行 23~25頁より引用)

すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って・・・(新約聖書 使徒3・6)

(写真は滋賀県五個荘にある旧外村繁宅、外村は近江商人の家に生まれた作家。近江商人は他国に天秤棒片手に行商に出かけ、故郷に富を持ち帰ったと言う。外村の作品はその彼が近江を跡にし阿佐ヶ谷で書いた作品群である。2004年9月撮影。)

2008年11月23日 (日)

沈黙の歌 エミー・カーマイケル

Dscn5408  若者は愛する方のために「美しきものをたたえる歌」をつくりたいと心から願っていました。ところがどうしても、歌うのにふさわしい言葉が見つかりません。

 そのとき、愛する方の声が聞こえてきました。「わたしを愛する人たちが皆歩いてきた道を、おまえは歩いている。ある人は歌いながらその道を歩いた。そして自分たちの歌をあとに残していった。その歌を見つけるがよい。その人たちの歌を歌うがいい。それが、わたしのために歌うおまえの歌となるだろう。」

 けれども若者の心はやがて悲しみでいっぱいになりました。歌う歌が一つも見つからない日がきたからです。自分の歌も、ほかの人のつくった歌も、何も見つからないのです。でも、心の底から若者は願っていました。高みに上り、愛する方の前に立ちたいと・・・。すると永遠の愛であられる方は耳元にささやくのでした。「では、わたしが、おまえに近づくことにしよう・・・沈黙の愛の中で。」

 若者はこの沈黙の中に入りました。永遠の愛であられる方と出会うために・・・。しばらくして優しい静けさの中に響くものがありました。一つの声がささやきかけるのでした。「おまえの沈黙さえもが、わたしにとっては、『美しきものをたたえる歌』だ・・・。」
                       ―『彼はこう思ったが』より

 わが父よ。わたしは棄てられてしまったという思いに悩み、絶望に打ちひしがれるときがあります―それなりの理由があって。わたしの人生のある部分を思うと、祈るのがむずかしいのです。思いのままに礼拝するのは、もっとむずかしい・・・。
 ・・・なかなかうまくいかない人間関係・・・。
 ・・・もろくも砕け散る夢や目標・・・。
 ・・・何回も何回もやって来ては痛めつける古傷・・・。
 わたし自身の中に冷え冷えとした思いがあり、言葉を失います。・・・
 心の内側深いところに記憶を埋めてしまったこと、それが問題なのでしょうか。神よ、あなたは何日も何ヶ月も、忍耐をもって招きつづけておられるのでしょうか。心の深みをあなたに向けて開くようにと。
 今日、父よ、あなたにゆだねます。心の深みをゆだねます。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。・・・淵が淵を呼び起こし・・・。昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。(旧約聖書 詩篇42・5、7~8)

(『御翼の陰に隠されて』 エミー・カーマイケル著 棚瀬多喜雄訳 39~41頁)

(写真は文教大学手前の元荒川右岸の堤土手に続く桜並木である)

2008年11月17日 (月)

完成と破壊  クララ

Dscn5346  今日ご紹介するのは、今から三十二年前、昨日のブログで紹介した卒業生と苦楽をともにしていた時分に書かれていた文章です。当時は国内に学生運動の内ゲバあり、国外ではべトナム戦争の傷痕覚めやらぬ時代でした。今日、世界は全世界的な金融危機に見舞われています。カタストロフィーは刻一刻と進行中であります。混迷の時代にあって、何を私たちは礎にすればいいのでしょうか。ともあれ小原鈴子さんの以下の文章をお読みください

 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1・6)
 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12・2)

 ヨブは「地上における人の生涯は戦役にして」(ヴルガータ訳)と訴え伝道の書には「戦には免除はない」と記されています。使徒パウロも人生を建築にたとえ、また競技の参加者になぞらえ、この世の馳せ場を一歩ふみ出した人生には、後戻りや中止はゆるされないことで、使命完成か破壊者となるか真に厳粛な途上にあることを感じさせます。

 神はその被造物により、または歴史の事実を通して生存の秩序とその目標を明らかに示したまいましたので、人間は神に対して弁解の余地をもたないのです。

 旧約歴史において、初めの人アダムとエバは神の祝福にみちた立場にありながら、かえってみことばに対する反逆によってその祝福を破壊し、神を離れて木陰に身をかくし、当然の結果人間同士、ただ二人の人の心も分離しました。二代目の人カインは弟アベル(信仰の人)を殺して人生の破壊者となり、神を離れてその前を去りました。

 ネブカデネザル大王(権力の人)は神を忘れて己が栄誉を誇った時に、人たるの分別性を失って野の獣と住まいをともにし、また長い年月をへてようやく彼の目が天を仰いだ時に、分別性が我に帰って再び王の座によみがえったのです。歴史の流れは時にゆるく、時に厳しく、完成と破壊の渦が相たたかっています。現代の社会情勢を見ます時、なんと烈しい反逆と破壊にみちていることでしょう。一家の内に闘争あり、グループの内に分裂あり、国家に反逆あり、団体に反抗あり、共存共栄とは呼び声で、破壊の文明は最悪な頂点、人類破壊と言う悲惨にたどりつくのではないでしょうか。

 ところが一面聖書は秩序ある建設の完成を目ざして進んでいるのです。神は御心を遂げられるお方です。創世記に「天と地とそのすべての万象が完成された」(2・1)とあり、その対句のように「主イエスは語り終え、なし終え」最後に、すべてが終わったと記され、神の僕は衰えず落胆せずについに道を地に確立されたのです。

 父なる神は御子、完成者イエスを人類の救いのために世に遣わされました。私どもはこの完成者イエスを仰ぎつつ走りますなら私どもの生涯も完成され、時が来て花嫁はその用意をなしおえたとヨハネが黙示録に記していますように、聖前に立つ栄光が約束されています。もし私どもが完成の希望を千代経し岩にしっかりとすえませんなら、歳月に望みをつないだり、修養を救いのつなと思いちがえたり、教育が人生成功の基礎だなどと思いますなら・・・その希望は絶望に終わる希望にすぎません。それはそろばんの置きちがい、やがて違算と破壊の人生に終わるでしょう。神が「商売せよ」と与えられた生命を善かつ忠なる僕にふさわしく活用したいものです。信仰の生涯とは、完成をめざして進み行く日々ではありませんか。

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著1976年刊行327頁〔11月17日〕より引用。聖書引用は原文の口語訳のものから新改訳に変えた。)

 鈴子さんの文章を読み終えて、昨日のブログにおける卒業生主催の同窓会についての小生の感想が、いかにヒユーマニティーに流された感傷に過ぎないものか、深く示され、ただ恥じ入るばかりです。

(写真は散歩途中の道端に咲いていた生垣の椿の花。)

 

2008年11月 9日 (日)

さあ、あれを殺そうではないか クララ

Dscf2031  「その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。」(マルコ12・7、8)

 これが罪の世の叫びではありますまいか。殺してしまえばそれが最後の勝利だと思い込んでいるのです。このことはアベルの昔から幾たびもいくたびも繰り返された悲劇です。しかし真理は決して殺せるものではありません。アベルは信仰によって今なおもの言っております。真理の磁石は激動によって一時狂わされたように見えましても、またしばらくの静寂の後には、何事も起こらなかったように正しい方向を指さしているのです。歴史を撹乱する圧制の大きな手が、驚異の渦まきをつくっても、何時かその手は払いのけられて、真理は暗をうち破っているのです。

 イエスの御生涯においてもこのことが明らかに写し出されています。大祭司や学者たちは自らの安全のために、邪魔なイエスを除こうと計りました。「理解のできぬものは破壊する」との野蛮な精神は遂に神の御子を殺したのです。現世の嵐もつねに同じ方向から吹き下ろして来ます。自分の安全を破るものは除いてしまおう。そのためにはあらゆる理由づけがされます。これは単に世界や国家の問題だけではなく個人の日毎の生活のうちにも「さあ、あれを殺してしまおう、そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ。真理が何か、善が何か。それはわれわれの生活の範囲を犯し、搾取する方便に過ぎない。そんなものは殺してしまえ、そうすればこの偉大な人生は全部自由に出来るのだ。それは子々孫々の所有する自由なのだ」と理論づけてはそそのかし、遂に神の子を殺してしまい、これで人生の財産を確保できたと勝利の歓声を挙げます。しかし三日目の朝にはもう不安の黒雲が起こって来ます。自由を得るために、そして自由になったと思うその「自由」がかえってまた自分に圧迫を加えて争いは争いを生み、真理の自由は逃げ去ってしまうのです。

 その真理が確かであればあるほど、また人生に重要であればあるほど、取り除くことは危険です。それはかえって自分の死を意味し、撃った弾は自分に跳ねかえって来ます。

 人間は神から賜った知・情・意をあらゆる点において成長させ、資本を預かった商人のように善かつ忠でなければなりません。地下に埋めて置きますなら、その月日は全く空になってしまいます。

 私どもは神から受けた霊・魂・体を充分に成長させてその実をささげることが当然です。ある人が「子供に信仰を教えないのは一番下等な人間だけだ」と記していますが、道であり真理でありいのちであるキリストを知ることによってのみ完成を目ざし得るのです。めんどうだからと言って殺してみても、それでは解決にはなりません。忘れて見てもすててみても問題が終わったのではありません。

 完全に従うことによってのみ真理はわがものとなり、神は独り子にそえて万物を・・・その所有を、・・・われわれに賜わり、我々はその資産の相続者となるのです。

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著319頁の〔11月9日〕より引用。ただし題名をはじめ一部新改訳聖書にあわせて表現を改めたところがある。)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

(写真はドイツ・ヴァインスベルク市で出くわした珍しい白い花の咲く樹。さあ、どんな花か確かめてみよう、とは、やはり罪人の性(さが)? 2007年6月)

2008年11月 8日 (土)

農夫 アンドリュー・マーレー

Dscf1587_2  「わたしの父は農夫です」(ヨハネ15・1)

 農夫はぶどうの木を植え、手入れをし、実がなるのを何よりも喜ぶ。主は「わたしの父は農夫です」と言われた。主ご自身が神の植えられたぶどうの木であったのだ。主のご生涯は父のみこころと栄光だけを追い求められた。人が神に対してどうあればよいかを身をもって実際に示されるために、主は人として生まれたのである。主は、私たちの身代わりとなるために人となられたのだ。

 神のみ前での主のご生涯の信条は、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11・36)というみことばどおりであった。だから、主は私たちにもまたそのとおりにすることを求めておられる。主は「子は・・・自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ5・19)というみことばの精神にいつも生きておられたのである。ぶどうの木が農夫にすべてをゆだね切っているように、主は日々父のみこころを行なうための知恵と力とを全く父に頼り切っていることをご自分でよく知っておられたのである。

 主は、「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」(同14・10)と言われた。ゆえに主は、何も恐れるものもなく、父がご自分をけっして失望させることはないという、最も恵みに満ちた絶対的な信頼を持っていたのである。父なる農夫がおられるからこそ、主は十字架につき、死ぬことができた。それは神がご自分を再びよみがえらせられるという確信があったからである。主のうちにあるすべてのものは、みな父から来たものである。

 「わたしの父は農夫です」。このみことばは、私たちにとってもまた真実である。主は弟子たちに、彼らが枝であることを教える前に、まず父を指し示した。クリスチャンの生涯の根底をなすものは、神はすべてのことをしてくださるのだから、自分のなすべきただ一つのことは、自分を神にゆだねるということである。これは、神は私たちの必要とするものはどんなものも与えてくださるという固い信仰を基礎とし、自分というものに対する完全な無力感と神に対する絶対的な信頼から生じるのである。

 ある人の信仰生活の中には、主を信じてはいるが、神を重視しないという大きな誤りがあるのをよく見受ける。主は私たちを神のみ前に連れて行くために来られた。主は私たちの生き方をご自分によって示されたのだ。主が神を信じられたように私たちも信じたいものである。私たちの必要のすべては、ぶどうの木が必要とするものと同じように、天から与えられることを信じようではないか。預言者イザヤは、「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。」(イザヤ27・2、3)と言った。ぶどうの実や枝の栄光は農夫にこそあるという信仰で、私たちの心を満たしていただこうではないか。私たちの使命は高く、聖なるものであり、私たちの中に働かれる神は愛と力に満ち、いつくしみ深きお方である。農夫がぶどうの木を正しい形に造られるように、私たち一本一本の枝も正しい形に造られる。父なる農夫は私たちが成長して実を結ぶことを保証しておられるのだ。

(『まことのぶどうの木』 アンドリュー・マーレー著 安部赳夫訳 5~8頁)

(写真は彦根・スミス記念堂内の装飾意匠として随所に刻み込まれている「ぶどうの木」)

2008年11月 3日 (月)

対照された愛  ヘンリー・ドラモンド

Dscn5247  パウロはまず愛を、当時の人々が重んじていた他のことと対照することから始めています。それらの細部について述べることはしますまい。愛に比べて劣っているのはすでに明らかなのですから。

 パウロは愛を雄弁と対照させています。雄弁はなんと尊い賜物でしょうか。それは人々のたましいや意志に働きかけて、彼らを高潔な目的やきよい行ないに向かわせる力です。パウロは言います、「たとい、私が人のことばや御使いのことばで話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」(英訳)。私たちもその理由を知っています。情感を伴わないことばのしらじらさ、その背後に愛のない雄弁のむなしさ、説得力のなさを感じます。

 パウロは、愛を預言と対照させています。奥義と対照させています。信仰と対照させています。慈善と対照させています。しかし、なぜ愛は信仰より大きいのでしょうか?目的は手段より大きいからです。またなぜ愛は慈善より大きいのでしょうか?全体は部分より大きいからです。そうです、目的は手段より大きいから、愛は信仰より大きいのです。では信仰を持つことの効用は何でしょうか?それはたましいを神に結びつけることです。では人を神に結びつける目的は何でしょうか?その人が神に似た者となることです。しかし、神は愛です。それゆえに信仰という手段は愛という目的のためです。だからこそ明らかに、愛は信仰よりも大きいのです。

 くり返しますが、愛は慈善よりも重大です。全体は部分よりも大きいからです。慈善は愛のほんの一部分にすぎません。愛の流れ出る無数の通路のうちの一つでしかないのです。そして、愛のない慈善がずいぶん多くあるのかもしれません。いや、実際にあります。街頭でこじきに小銭を投げ与えるのはいともたやすいことです。たいていの場合、投げ与えないよりも容易なくらいです。ところが、愛はかえってそれを差し控えるほうが多いものです。人は小銭を投げ与えることで、あわれな光景を見て起こる同情心から慰めを得たりします。それはあまりにも安っぽい、私たちにとっては安っぽすぎることです。しかし、こじきにとっては往々にして高価すぎることもあるわけです。もし私たちがほんとうにそのこじきを愛するならば、それ以上のことをしてあげるか、それとも何もしないかのどちらかでしょう。

 それからパウロは、愛を犠牲と殉教に対照させています。私は、自称宣教師―こういう呼び方を初めて敬意をもってするのですが―の少数の人々にお願いしたいのです。あなたがたが自分のからだを焼かれるために渡しても、そこに愛がなければ何の役にも立ちません。何もです! あなたは異教の世界へ、自分の個性に 刻みつけられ、反映している神の愛以上のものを持って行くことはできません。愛は世界語です。あなたが中国語を話せるようになるまでには何年もかかること でしょう。またインドの方言を話せるようになるにも同様の年月を要することでしょう。しかし、あなたが上陸したその日から愛は無意識のうちに雄弁に語りま す。それは、だれでも理解できる言語です。宣教師であるのはその人であって、その人が語ることばではありません。彼の人格が彼のメッセージなのです。

 アフリカの中心の、大きな湖が点在する所で、私は黒人の男女に出会いました。彼らが記憶している唯一の白人はデヴィッド・リヴィングストンです。 かの暗黒大陸※に彼の足跡を尋ねると、何年も前に働いていた親切な医師リヴィングストンの思い出を語る人々の顔は輝いています。彼らはリヴィングストンの語 ることを理解できませんでしたが、そのハートに鼓動している愛を感じたのです。あなたも命を投げ出す覚悟で行くのでしょうが、その新しい任地へ、愛という 素朴な魅力を持って行きなさい。そうすればあなたの生涯をかけた仕事は成功するにちがいありません。それ以上のものを持って行くことはできません。それ以 下のものならば持って行く必要はないのです。もし愛以下のものを持って行くなら、あなたは行く価値がありません。

 あなたはあらゆる種類の教養を備えているかもしれません。また、どのような犠牲を払うこともいとわないかもしれません。それでも、たといあなたが自分のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、あなたのためにも、キリストのためにも、何の役にも立たないのです。
※「暗黒大陸」という表現は問題があると思うが、原文の時代を反映するもので、訂正を加えなかった。(引用者注)

(『人生で最高のもの』 ヘンリー・ドラモンド著 松代幸太郎訳 17~18頁より)

たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(新約聖書 1コリント13・3)

(写真は日本画家日高正子さんの院展出展の作品の一部。ご本人の許可を得て写真撮影したが、隅の部分が欠けており、実物は二メートル大でより明るい色調のもの。)

2008年11月 2日 (日)

ぶどうの木  アンドリュー・マーレー

Dscn5235  「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15・1)

 この世のすべての事物は、天に実在するものの影である。なぜならそれは、目に見えない神の栄光が目に見える形で現わされたものだからである。したがって、いのちとまことの実体は天にあることを知らねばならない。主が「わたしはまことのぶどうの木」と言われるとき、地上にあるぶどうの木は主ご自身の象徴であることを物語っている。主は天に実在し、ぶどうの木はその影である。ぶどうの木は主について語り、主を啓示する。私たちがほんとうに主のことを知りたいと思うならば、まずぶどうの木を注視しなければならない。

 どれほど多くの人が、この麗しい実を結んだ偉大なぶどうの木を眺めては賛嘆の声を上げたことだろう。私たちも今、ここに近寄って、ほかのものに心奪われず、ただこの木だけを注視して心から称賛しようではないか。どれほど多くの人が、このぶどうの木の木蔭で休息したことだろうか。私たちもここで、しばし暑さから逃れて静かに休息しようではないか。どれほど多くの人が、このぶどうの実を喜んで味わったことだろうか。私たちもここで、この天的なぶどうの実を味わおうではないか。そこできっと私たちの魂は、「わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった」(雅歌2・3)と叫ぶに違いない。

 「わたしはまことのぶどうの木」。これは天の奥義である。天のぶどうの木について、地上にあるぶどうの木は確かに多くのことを教えている。とは言っても、それだけで天のぶどうの木や、その涼しい木陰、そのいのちを与える実の性質を知ることはできない。その隠された奥義を十分に説き明かすことのできるのは、主ご自身が聖霊によってはじめてなし得られることである。

 まことのぶどうの木とは、私たちに絶えず語りかけてくださる生ける主ご自身である。私たちはこのことばの意味と力を単に知識だけで知ろうとしては ならない。なぜなら、それは私たちの願望や祈りを呼び覚ますことには役立つとしても、ぶどうのほんとうの姿を見ることができないからだ。主のみがご自身を 現わすことができるのである。ゆえに主が私たちの目を開いて、ご自身を見ることができるようにし、また主が私たちの心を開いて、ご自身を受け入れるために 聖霊を与えられるのである。しかも主ご自身が直接聖霊によって私たちに語りかけたいと望んでおられるということである。

 どうすれば私たちに天の麗しさと恵みに満ちたこの奥義が開かれるのだろうか。私たちはまずぶどうの木について知っていることを念頭において、私た ちのうちに聖なる臨在を感じるまで待ち望むことである。主の聖なる愛の影が投げかけられることによって、私たちはぶどうの木ができないことは何一つないこ とを知り、心からの平安と憩いを感じることができるようになる。

 「わたしはまことのぶどうの木」。語られるのは神ご自身である。神はその無限の力によって私たちのうちに住まわれる。神は私たちとともにおられ る。主は十字架につけられ、その死によって私たちのために完全な義と、神としてのいのちを勝ち取られた。主は栄光に満ち、その御座から私たちのために聖霊 を送り、ご自身の存在を真実なものとされた。ゆえに私たちは、主のみことばだけでなく、語られる主ご自身に耳を傾けようではないか。主は日ごと夜ごとにひ そかに、「わたしはまことのぶどうの木。ぶどうの木が枝にすることは、すべてあなたにもすることができる」と語りかけてくださる。

(『まことのぶどうの木』 アンドリュー・マーレー著 安部赳夫訳 1~4頁を書き写す)

(写真は殺風景な庭に色を添える千両の赤と黄の実。場合は違うが、こんな美しい実も一本の木が種類に応じて結ばせるのだ。)

2008年10月27日 (月)

ああ天が開けて  クララ

Dscf1961  「ああ、天が開けて、人の子が神に右に立っておいでになるのが見える」(使徒7・56)

 恵みと力に満ちてめざましい活動をしたステパノは、知恵と御霊とによって説教したので、誰も彼の説教に対抗できなかったと記されています。彼の説教はたしかにすばらしいものです。旧約の歴史に精通し、神を活き活きと語っています。信仰とはもちろん学問ではありません。これは経験の事実でありますが、人類の歴史をつくる個人の経験、歴史を一貫する真理、これらを学ぶために聖書の歴史に通ずることの大切さを思います。ステパノがいかに聖書に精通していたかを見る時、彼の説教に誰も対抗することのできなかったのも当然です。ですから結局キリストを殺し、代々の預言者を殺したその精神がここにも働いて、この世の凶暴の力の極地である墓においこんだら成功だとの思い違いをしました。しかしこんな場合、真の勝負はステパノが如何に死んだか、そしてその種が何を芽ばえ出したかということです。

 この時ステパノは歯がみしてつめよるユダヤ人に目もとめず、凶暴な群の上を越えて天に目を注ぎました。世の中の怒涛をこえて救い主を見たのです。その結果苦難の最中にある彼の上に天が開かれて、そこには人の子が神の右に立ち給うのが見えたのです。何という栄光でしょう。彼は見るべきものを見ましたがゆえ、勝利の証が口をついてほとばしり出ました。ところがこの証はユダヤ人の激怒をつのらせステパノは遂に殉教の死をとげました。キリストにさも似た姿をもって!この一粒の麦はやがて大使徒パウロを生み、パウロによってキリストはローマに伝えられ、そこに世界宗教が育成されたのです。

 きょうも天は門を開いて、キリストは立ち給うのです。 

(『泉あるところ』306頁「10月27日」から引用)

(写真はドイツ・ローテンブルクの六月の空 2007年)

2008年10月26日 (日)

心に刻まれる聖書

Dscn5165k  今日(こんにち)、聖書を自分の国のことばで読めない人たちがいらっしゃることは昨日のレポートでも分かることであります。かつてそのような中で何とか聖書を母国語へと多くの方が祈りつつ労されました。私たちはその恩恵にあずかって今日があるのではないでしょうか。

 いつのころ書きとめられたものか知りませんが、最近、次の「祈り」のことばを手にしました。題して「中国の一婦人の祈り」※です。副題として「読み書きを覚えた後で」とありました。

 故郷にもどれば
 読み書きのできない者がたくさんいます。
 ですから、主よ、私たち自身を
 聖書として下さい
 聖書を読めない人たちが
 私たちのうちに、それを読むことができるように。

 聖書の中でパウロは書いています。

 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(新約聖書 2コリント3・2~3)

 アンドリュー・マーレーの祈り※※
「聖なる主イエス様。神様ご自身が自ら植えられた天のぶどうの木である聖なる主イエス様。願わくはあなたご自身を私の心の中に現わしてください。私がただあなたを心に描くだけでなく、私の日々の経験の中で、神のみ子であるあなたが、私にとってまことのぶどうの木であることを、聖霊の助けによって余すところなくお知らせください。アーメン」。

※『祈りの花束』93頁より引用
※※『まことのぶどうの木』4頁より引用、一部訳を変えてあります。

(写真は先日Kさん宅の出窓から見た秋の景色)

2008年10月25日 (土)

ママ・パウリン・ロウゾロの証

Dscn5173  1、2年前、拙宅にホームステイしていた方から一通のメールをいただきました。今日はその方のメールをご紹介します。以下はその方の主催するRadke newsletterの私訳・意訳です。※

 2月4日はコンゴにおける聖書翻訳にとって重要な日を画しました。ムヌクトバ語新約聖書、コンゴにおける新約聖書の最初の完成をお祝いし、神様におささげ出来た日でした。ムヌクトバ語はコンゴの共用語の一つであり、この国の南半部を通して百万人以上の人たちによって話されている言語です。

 数ヶ月前ママ・パウリン・ロウゾロという一人の女性がコンゴ南西部の事務所にムヌクトバ語の新約聖書を求めにやって来ました。以下は彼女がどうしても話しなければならなかった物語です。

 「11月のある日私は悲しくなって目が覚めました。私は多くの問題に直面して、一人ぼっちで、誰も助けてくれる人はいないと感じていました。9時ごろ大きな市場に行くためにミニバスに乗りました。運転手さんは普通の音楽を数曲流していました。歌が終わる頃、乗客の間でその歌の価値を巡り、他のミュージシャンとの比較の言い合いが始まり大変騒々しくなりました。そのため運転手はキリスト教番組にスイッチを切り替えることにしました。ちょうどその時はムヌクトバ語で聖書朗読が放送中でした。ヨハネ15章の福音書の言葉が朗読されている間、静かな沈黙が車内を支配しました。私はまるで数年前に亡くなった父自身が私に話しかけているような感に襲われました。驚いたことに若い人が運転手に「あんたのテープは本当に素晴らしい、まるで俺の親父が俺に語っているような気がする。もういっぺんかけてくれないか。」と言いました。すると運転手は笑いながら、ラジオの放送だから繰り返せないよと言い、その代わり毎日9時に神の言葉がムヌクトバ語で読まれているので聞けるよと話しました。

 バスを降りてから私の心の内側で「ム ケ ゾラカ ベノ ムティンドゥ タタ ケ ゾラカ ムヌ。 ベノ ヴワンダ ナ ルゾロ ヤ ムヌ」すなわち「わたしは父がわたしを愛されたようにあなたを愛している。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15・9)と朗読されている声がいつまでも耳に聞こえていました。

 家に帰って、私はプライマー(1992年にムヌクタバ識字学級に半年出席した)にある聖句を読み始めたいと思いました。識字学級にいたとき頂いたブックレットを読み進めている時、ムヌクトバ語の新約聖書の分冊と一緒になっているブックレットを見つけました。急いでヨハネの福音書15章を探し、もう一度自分で朗読して見ました。少し読み始めましたが、泣けてきて、それ以上読み進めませんでした。私の読んでいることばは、私を大層愛して下さった方からのものであり、その後私がその方をもっと知りたいと真剣に求めなかった方からのものだと感じたからです。私はまた私に宣教してくださる牧師なしに自分自身で神様の声を読み、聞くことができるという事実に感動しました。すぐに牧師さんに会いに行き、今起こったことを話しました。私は彼にムヌクトバ語の新約聖書をどこで買えるか尋ねました。ところが牧師さんはムヌクトバ語の新約聖書は見たことがないと言いました。牧師さんは私に識字学級で教えてくれた人のところに行って欲しいと頼み、もしムヌクトバ語の新約聖書がもう発行されているとわかったら自分も買いたいと言いました。これが私がなぜ今日あなたがたに会いにやって来たかの理由なのです。」

※約25年前に一人の青年が私たちの家に来て、2年間ホームステイされました。その青年は長男、次男にギターを教え、思春期にある二人の良き「兄」となってくださいました。他の子供たちも彼に愛され、私たち家族にとってはなくてならない人でありました。その後、アメリカに帰り、ウイクリフ宣教師になってアフリカでの聖書翻訳に励んでおられます。現在はマダガスカルでルカの福音書を翻訳中です。現地の人々の生活に溶け込みながらの生活は生易しいものではないでしょう。そのような中で下さったのが今日ご紹介した祝福の一齣です。

(写真は先日Kさん宅で見かけたトレニア・夏スミレの可憐な花びら。)

2008年10月20日 (月)

己を謙遜に値積もるべきこと 

Dscn5078  以下の17か条の文章は『基督に倣いて』(ヘーラルト・フロート著 由木康訳 昭和23年日本社版)の第1巻霊的生活のために肝要なる勧告の第2章である。この本は一般にはトマス・ア・ケンピスの作と言われているものだが、訳者は異説を取っている。この翻訳は空襲の激しくなる1945年春に開始され、家族の病気、自宅の戦災などの中で途中中断があったが1946年夏に完成されたものである。訳者は古典は絶えず時代にふさわしい翻訳が必要と断り、切支丹往時からすなわち明治以前から翻訳のあるこの書を時代に合わせるためにあえて新訳を試みたと記している。この日本語訳も今の若い人には通じないであろう。昭和18年生まれであるので、敢えて由木訳を掲載した。

 1 すべての人はおのずから知識を求める。しかし知識も神を畏れることなくして何の益があろうぞ?
 2 神に仕える謙遜な無学の人は、自己の救いを等閑(なおざり)にして天体の運行を考える高慢な哲学者にまさっている。
 3 自己を知る者は、己が無価値をよくわきまえ、人の称賛を悦ばない。
 4 たとい私がこの世の万事を知ったとしても、もし愛がなかったならば、私の行為に随ってさばきたもう神の前に、何の得るところがあろう?(1コリント13・2)
 5 汝の過度の知識欲を棄てよ。その中には往々無用の煩悶と欺瞞とがあるからである。
 6 学者はとかく尊敬されたり聡明だといわれたりしなければ気が済まないものだ。
 7 世にはそれを知っても別に魂の救いに役立たないような事柄がたくさんある。
 8 神と、自己の救いに役立つ事柄以外のものに、心を労するのは甚だ愚かである。
 9 多言は魂を満足せしめない。が有徳な生涯は心を慰め、清明な良心は神への絶大な信頼を喚び起す。
10 汝は多くのことを知れば知るほど、その生涯を清くしないかぎり、一層きびしい審判(さばき)を受けるであろう。
11 されば多少の知識を与えられたからといって、思い上がってはならない。
12 汝は多くのことを知っているとはいえ、それは汝の知らないことに比べるならば、ものの数でもないからである。
13 世には汝よりも遥かに多くのことを知っている人が沢山あるのに、なぜ己を他人以上に値積もろうとするのだ?
14 何か汝の益になることを学ぼうと思うならば、人に知られぬ詰まらぬ人だと思われることを願うがよい。
15 至上にして最深の教えはこれである。即ち真に自己を知り己を謙遜に値積もること、自己を取るに足らぬ者だと思い他人を高く評価することである。
16 たとい他人が公然と罪を作り何か悲しむべき過失を犯したとしても、それがために自己をその人よりまさっていると考えてはならぬ。汝も恩寵の状態にどれだけ永く留まり得るかを知らないからである。
17 我々は皆かよわい者であるが、汝は自分よりかよわい者はないと思うべきである。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(新約聖書 ピリピ2・3、6~7)

(写真は先週水曜日浦和のTさん宅で拝見させていただいた珍しい薔薇の花)

2008年10月19日 (日)

ただ一つの枝  フレダ・ハンベリー

Dscn5119  今日は日曜日、何かふさわしい詩がないか探していて、以前読んだことのあるこの詩をふと思い出しました。アンドリュー・マーレーという人が書いた「まことのぶどうの木 付 羊飼いの心を持った人」という本の冒頭に載せられている詩です。安部赳夫さんの訳です。写真は同書の表紙です。「にひきのさかな社」とは聖書の故事(マタイ14・17他)にちなむ社名です。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15・5)

 それはただ一つの小さい枝、
 かよわくもろい枝ですが、
 もの言うことができるなら、
 まことのみことばを伝えます

 わたしはただ一つの小さい枝、
 わたしのいのちは主のものです。
 つるを流れる木の液(みず)は、
 ぶどうの血だからです。

 自分自身で実を結ぶ、
 力をわたしは持ちません。
 わたしはぶどうの枝として、
 実りを助けるだけなのです。

 ぶどうの木とのつながりを、
 あなたはわたしに聞くでしょう。
 いのちのきずなで結ばれて、
 そのままいるわたしです。

 はじめていのちを与えられ、
 わたしが芽ばえた木の幹に、
 今もわたしは支えられ、
 過ぎゆく日々を送ります。

 わたしは来る日を恐れません。
 わたしは去る日を追いません。
 果てなく続くこのいのちを、
 常に生きているだけなのです。

 実を甘さでいっぱいにする、
 明るい光を浴びますが、
 わたしの実ではありません。
 みな根から来るのです。

 「あなた自身のいのちでなく、
 主のいのちが内に住む」
 これが枝の語りかける、
 あなたとわたしへのみことばです。

 主にとどまって実るため、
 心を労してはなりません。
 枝と根が一つであるように、
 イエスとあなたは結ばれています。

 きよく強く結ばれて、
 イエスのいのちはいつまでも、
 あなたのいのちを新たにし、
 愛は体を流れます。

 御霊の実りは愛ですから、
 愛はあなたのいのちとなり、
 イエスの愛にいつまでも、
 あなたの心は住むのです。

2008年10月11日 (土)

寝起きしている間に  クララ

Dscn5049  昨日のブログで柿の木に触れた。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」と正岡子規は詠んだ。折りしも今日の箇所である小原鈴子さん(クララさん)の文章を見たら、子規とも私とも全く別のことが書いてあった。鈴子さんの見るところがいかに卓越しているか、このような人生の大先輩がおられたことを心から感謝して、いつものように以下転写する。(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著290頁10月11日の項より転写)

 

「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行く・・・、穂の中に豊かな実ができる」(マルコ4・27、28)。

 「彼は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た」(創世記28・12)。

 うらの庭に育った数本の柿の木の、枝もたわわな青い実がゆれながら人の目を引いています。ああこの柿の実の幾つが赤く熟するまで枝にすがっている事でしょう。

 成熟の美を誇り、舌づつみをうたせるのは何時でしょうと、こんな幻が心のうちをかけめぐりましたが、しかしこの甘い夢は日に日にくずされて行きまして、木の下には無惨な残骸が横たわり、枝はさびれ葉は散って行き、何やら人生のすさまじさが身に迫ります。

 秋!! 稔りの秋を前にして、目的半ばで失敗する者、熟するまで忍んで木に止まり得ぬ者、脱落の弱々しさを思わせる者!!

 信仰の世界もまたこれと類似しているのではないでしょうか。いかに多くの人が聖言の種を蒔かれ、芽を出して育つように見えたと思う間に、鳥についばまれたり、熱気にうたれて枯れたり、伸び行く道をふさがれて、主イエスのうちに満つる徳性に至らず、あらゆる点においてその成長は止められてしまうことでしょう。

 人の目にもとまらぬ小さな一粒のからしだねでも、もしそれが地に根を下ろして育ちましたら、他のものより大きく伸び上がって空の鳥をも宿します。生命は生育します。生育して目的を果たすまで戦います。パウロは高い大きい目標を見つめて伸び上がろうとしました。栄光から栄光へ、力から力へ、信仰から信仰へと、遂に、主と同じ像に変わり行くのです。

 日夜、起き伏しするとは目に見える日常生活です。その日々の生活のうちにおいて信仰は育つのです。肉の生活と霊の生活とは決して分離することのできないものです。目に見える物質の生活のうちに見えない霊の生活は伸び育って行くのです。有限の生活のうちに無限の生命は姿を整えて永遠の国へ上り行くのです。もし見ゆる生活を軽んじますなら霊の生活は育ちません。

 主の教え給いましたように主人の留守の間に預かった資本を忠実に活用しこれを増し加えますなら、小さい事に忠実だから大きな町を司らせよう、善い忠実な僕よ、主人と一緒に喜べとの称賛を得るのです。私どもは不注意にも日毎の生活を軽んじ、多忙にかまけて不始末な生活をし、家の事子供の生活より顔をそむけて責任をのがれようとする愚者です。しかし己を育て養う事を(エペソ5・29)忘れます時、神を喜ばせる事はできません。

 日夜起きふしすると言う万人共通な平凡な生活のうちに私どもの霊は育ち、地上の梯子は頂が天に達して、天の使いの上り下りする道となるのです。一人の霊が育ってキリストの徳の高さに至る時いかに多くの人々に天の祝福が注がれる事でしょう。

(写真は言うまでもなく、一昨日のご婦人と一緒に見上げた柿の木である。ご婦人はこの右手の柿三つを選び取り筆巧みに物された。)

2008年10月 5日 (日)

勝利の力  クララ

Dscn4952  徳川家康がどんな人物か信長、秀吉と比較した「ホトトギス云々」ということばや、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」と言った話は有名である。しかし、その腰から生まれ出た子孫の一人の女性が明治の御世、生を受けて「勝利の力」と題してこのようなことを語ろうとは、家康は想像していたのだろうか。「勝利」こそ戦国時代を生き抜いた武将たちの目標であった。そして家康は最終の覇者となった。クララさんの言に耳を傾けたい。

「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(1ヨハネ5・4、5)。
「その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1・12)

 世の中に誰一人として敗北を願うものはありません。よしそれがどんな小さなことであったとしても、敗北の苦味は骨身に浸みます。それゆえ人々はあらゆる立場において「勝利の栄冠」を獲得しようと激しい戦いをします。

 学問でも技術でも、芸術においても同じことです。昨日の学は今日のものではなく、今日の力は明日の保証とはなりません。ある有名人の文の中に「他人を追抜くことは出来るが他人に追抜かれぬ様に生きる事は容易ではない」と記していますが、これは深く心に止まる言葉です。いったいこの世の人々が願う勝利者とは何を意味するのでしょう。多くの場合それは「彼また彼らより優位に立つ」ことではありませんか。成功者と呼ばれる者で、人々はこの目標に向かって生命も健康も賭して戦います。しかし主イエスは教えたまいました、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」※と。見える世界でない別の世界を発見せよ。偽りのカーテンに欺かれるな、真の勝利者になるようにと、福音書のあらゆる箇所で神の国を見出せと語られました。

 真の勝利者!! 神を離れた人生に勝利の力がありましょうか。放蕩息子の兄のように外見は忠実で親孝行で感心に見えても、心はほの暗い夕のように不満の雲におおわれて、弟への父の愛を妬み怒ってわが家にさえはいらなかった彼、その心は高慢と誇に閉ざされ、神の宥恕も恵みも花はさきません。キリストを信ずる第一歩は自らの罪の悔い改めから始まります。幼児の行動を見ましても聖書の言は真です。人間は生まれながらの怒りの子であり、反逆の子です。神の恵みなしには自分みずからも立ち上がれないあわれな罪の子である事をしみじみ感じます。

 しかし一度神を信じます時、神の子となる力を与えられ、かつては自ら制御できなかった狂わしい感情・・・多くの者がこの喜怒哀楽の情に己が生涯を破滅に導き、時には心の宝物をやきつくす火のような・・・をも信仰によって制御し、聖き祭壇の上に燃える火としてささげ、神よりたまわった感情を聖旨従って働かせ、信仰によって制御し、喜ばしくない出来事をも喜ぶべき事とするのです。突風に浪立つ日も舟が沈む程の嵐にも、イエスの「静まれ」との一言に、海はなぎとなったように、私共の信仰は感情が嵐にもまれる時も「静まれ」とこれを制御し、勝利者の道を行く事ができる力です。

 「キリスト・イエスに属するものは、自分の肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのである」※※。この多忙な時代、神経も感情も突風に見舞われるような時にも、主を信ずる信仰こそ勝利の力であり、強き錨です。イエスを仰ぎ見つつ走りましょう!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著284頁10月5日から書き写す。なお※の聖書箇所はマタイ16・26※※はガラテヤ5・24である。)

(写真は葵の御紋ならぬ、ダリヤの花。御猟場、現埼玉県鴨場の近くで)

2008年10月 1日 (水)

CHRIST IN ALL THE SCRIPTURES BY A.M.HODGKIN

Dscn4964  昨日、東京は高円寺で一冊の本を買い求めた。その淵源は奇しくも100年前の9月(の出版)である。しかも訳者は笹尾鉄三郎で、『泉あるところ』でご紹介している小原鈴子さんが最も影響を受けた人物である。笹尾鉄三郎氏は明治元年に生まれ、大正3年になくなっているが、没せられる直前の訳業でもある。その流麗なる訳を下に転写する。同時に原著の馥郁とした福音の香を嗅いで頂きたい。

 自序

 復活節の輝ける朝、マリヤはイエスを尋ねて墓の中を見回し居たりしが、図らずもイエスはマリヤの側に立ち給いぬ。マリヤは彼を園丁ならんと思いしが、「マリヤよ」との御一言は、忽ち彼女に其救主を黙示したのである。

 我等が旧約の章句を読む時、我等の目は度々暗まされ、我等は唯地に属ける形体のみを見、或は祭司アロンを見、或は牧者ダビデ、或は王者ソロモンを見、夫のみにて終わる事あり。然れど我等若しマリヤの如く真に主イエスを求めなば、主は必ず外形の模型(かた)を通じて御自身を我等に顕(あらわ)し給い、我等は驚き喜んで主を見上げ、「ラボニ」(釈けば師よ)と言うに至るであろう。

 我等尚主を求めて止まずば、我等は旧約聖書の意外なる場処に於いて彼を見出し、遂には聖書全体がイエス・キリストの面(みかお)にある神の栄光を放つを見るに至る。「我につきて書(ふみ)の巻に録(しる)されたり」。歴史も模型も、詩篇も預言も悉く、イエス・キリストなる一の中軸に輻湊し、我等の救の為なる彼の十字架の死なる一大事件に集中す。而して此中心より復び諸光を発射して、或は使徒行伝の歴史となり、或は書簡の実験となり、或は黙示録の預言となり、以って父が聖子を遣して世の救主となし給いたる事を證(あかし)するものである。

 我等の主は、其復活の後啻(ただ)に弟子等の為に「聖書を説明(ときあか)し」給えるのみならず、又「聖書を悟らしめんとて彼等の心を開き」給いたりしが、主は今も我等の為に此事をなさんとて待設け給うなり。往昔聖き人々を感動して聖書を書かしめ給いたる同じ聖霊は、今も我等に近く我等と共に在(いま)して我等の魂の為に聖言を生命となし、キリストの属(もの)を取って之を我等に黙示し給うなり。

 新約聖書の諸巻に就いては、茲に唯簡単に其梗概(あらまし)を掲ぐる事となした。蓋新約聖書は比較的多く既に諸人の研究せる所にして、此書の重なる目的はキリストが旧約聖書の諸巻を開く鑰(かぎ)なる事を示すに在ればなり。且若し新約諸巻を一々説き示したらんには、此書が余りに大巻とならん事を恐れ、斯は簡略になせり。庶幾(こいねがわ)くは主此書を用いて諸兄姉を奨励し、兄姉をして聖霊の指導の下に自ら聖書を索(しら)べてキリストを見出すに至らしめ給わん事を。

1908年9月

                    故 エー・エム・ホッヂキン

以上である。さて読者諸氏はこのエー・エム・ホッヂキン女史の本の題名を笹尾氏は何と翻訳したと思われるだろうか。明日はそれをふくめてエッセーをお送りしたい。

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。(新約聖書 ヨハネ20・15~16)

(写真は昨日の高円寺「純情商店街」、本を買い求めたのは中通り)

2008年9月29日 (月)

勇気を出しなさい  クララ

Dscn4944  (写真は元荒川右岸から左岸を見た風景。手前に見える赤の散りばめた色は言うまでもなく各地に今盛んに咲いている彼岸花だ。川を挟んで対岸の右手にかけて展開する森は江戸幕府の鷹場であったところで、現在は宮内庁埼玉鴨場(越谷市)である。徳川末裔であるクララさんにとっても縁深いところなのではないか。けれども鈴子さんはそのような立場から福音を通して生涯変わることのない、まことの自由を得られた。今日も小原鈴子さんことクララさんを通して語られるみことばのエキスに耳を傾けたい。同時に、このブログでは久しぶりに、貴重な「鳥」の生態を鈴子さんの話から伺うことができる。)

 「心を強くし、勇気を出しなさい」(ダニエル10・19)
 「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない」(ガラテヤ6・9)

 暴風にもまれて荒波は天に躍り、また地の底に潜り、人々の勇気は溶けさってしまったと詩人は歌っています。人の心が勇気を失った時ほどみじめな姿はありません。

 短い人生。よしそれが束の間であったとしても価値ある目的のために戦うのに欠いてはならないのは勇気です。主イエスも十字架を眼前にして勇気を出すように勧められました。

 私たちが約束の地を占領するためにまたは神の民を指導し、福音を宣伝するために必要なのは勇気であります。パウロはガラテヤの信者に善を行うことにうみ疲れてはならないとすすめています。多くの人々はよい決心をして歩み始めますが、まだ途もはるかなのにもう疲れはててしまいます。黙示録を学びますと、臆病な者はやがて滅亡の坂を下ります。信仰の証人たちが雲のように囲んで手に汗しながら、私どもの走り場を見つめて、勇気を出して勝利者となれよ、イエスを仰ぎ見つつ走れ!! と声援しています。

 ある日刊新聞に掲載されていた感激の一文があります。

「小田原市早川にある一夜、城裏山の南に面した雑木の森に私ははいった。上からかぶさっている雑木の枝葉が妙に揺れ動いている。その上を青い小鳥がけたたましく鳴きながら飛びまわっている。私は思わず二、三歩さがって見守った。枝の間にひと寄せ位の枯葉でできた巣から、一羽のウグイスがまじろぎもせず武者ぶるいの羽ばたきをして上を見つめている。動いている緑の葉の上に青大将がとぐろを巻いて、炎のような舌を出し、かま首をもたげて今にも飛びかかろうとしていた。

 私はこぶしに汗を握った。瞬間ウグイスは電光のように飛び、そのケヅメが青大将の目玉に一直線に舞上がっていった。

 青大将は虚をつかれてたじろいだのか、のそりのそりと逃げ去ってゆく。その”大敵”の見苦しさにひきかえウグイスの澄みきったまなざし決死の勇をこめた早技、私はそうっとウグイスの巣をのぞいて見た。四羽のヒナがひとたばになって私をながめている。いつの間にか私の目に涙が浮かんでいた」と・・・

 この記事を読み終えました時、私の胸も熱くなり、心の底に湧き上がるあるものを感じました。ああ親鳥、可愛い小鳥の親でさえひなを守るためには生命がけの勇気をもって戦います。愛情の知恵にその身をゆだねます。現代多くの幼児が、また青年たちが滅亡の濁流に呑み去られようとしていますのに、どうして自分の安全をはかり、快楽を求めて安閑としておられましょう。福音の宣伝者パウロは、ピリピ人に「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか」、「血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう」、「今また涙を流して語る」※と伝えています。

 主イエスよ十字架の熱愛を我がうちに注ぎ勇者たらしめたまえ!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著278頁9月29日の項から引用。)

※引用者注 新約聖書 ピリピ1・8、2・17、3・18

2008年9月26日 (金)

一陣の風    クララ

Dscn4932  秋の涼風が快い。しかし、心ある人は、その風にさえ主を思う。怠慢は許されない。久しぶりに鈴子さんの声を聞こう。以下、『泉あるところ』272頁(9月23日)より引用。

 一陣の風が高原の木々を訪れると、静かに眠ろうとしていた秋の夕べがにわかにゆらめいて、風の足あとを慕うように、わくら葉が飛び散ったり、草がなびいたり、混乱した自然の姿が影絵のように大空にえがき出される。大自然の不思議な力がすべてのものを目ざめさせて過ぎて行く。冬が来るぞと告げるように。

 人間の社会も同じように、ようやく静まろうとする時に思いがけぬ嵐が口笛を吹きながら、「おどれ!おどれ!」と誘いに来る。

 お互いに誰でも活きた社会に活動する者は、時代思想のあらしをまぬかれるというわけにはいかない。時代の子なればこそ時代を指導し建設する責任がある。新しき時代を生み出さんとの混乱は多くの場合、若き血のうちに芽ばえる旧時代の諸悪に対する一つの反抗であり、その腐蝕土より生える一本の茎である。そこに革命が生まれ、宗教改革が烽火(のろし)をあげ、真理に対して覚醒の叫びがあげられる。彼らは時代の反逆児と呼ばれ、荊の冠をかむらせられつつ時代は転回して行く。

 自然界においては、一陣の風に対し草も木もその力に服するが、倫理の世界においてはどんな時代思想の嵐の中にもその重圧の下にも、なお自ら進むべき道を選択して行けるところに、人格の高貴さが輝くのである。

 歴史を学ぶ時、神が時代の危機に臨んで助けを送り給う道はある。「われは道なり」と、神の遣わし給う人は道である※。

 イスラエルが諸悪のゆえに敵前に膝をついて惨めな敗残者となった時、人々は神に憫れみを求めた。かかる時天よりの答として一人の指導者が与えられ、民は指導者を仰ぎ、彼は神を仰いだ。かくて民は神に帰り国は復興した。

 国家の再起も家の復興も人の魂のうちから始まる。よき組織それすら人の魂のうちから流れ出る生命に過ぎない。人なしに何を期待出来よう。人間の覚醒こそ世の光となる。

 「世界の運命は究極において個性の内部において決定される」とは貴い真理である。

 一人のモーセは六十万のイスラエル民族を奴隷のくびきより救い出し、一人のヨセフは一民族の救となり、一人の可憐な王妃エステルは同族を絶滅の危機より救い出した。オルレアンの少女はフランスの救となり、キリストは万民の救となった。衆に対して個は実に無力の如く見えるが、個には生命があり衆は組織のうちにある。貴きは生命である。

 現代はすべての点において、人知は上昇し、生活は豊富になった。知恵の実は人を呪うかのように爛熟し、その滴りは人の唇を喜ばしめる。

 しかし唯一つ、これに反比例して貧しくなって行くのは人の心、人がないということである。哲人ダイオゲネスを呼び戻し得たら彼は何と叫ぶだろう。

 文化の快き眠りに落ちんとする人の世に、一陣の風よ吹き来たれ、新しき希望の風よ吹き来たりてわれらの望みを奮い立たしめよ。

※引用者注 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(新約聖書 ヨハネ14・6)

(写真は昨日に引き続き、Kさんの家の庭先から仰ぎ見た初秋の空。手前は鈴なりに実る柿の木。)

2008年9月17日 (水)

主を待ち望め クララ

Dscn4804  今日は久しぶりに『泉あるところ』(小原十三司・鈴子共著)の九月十七日の欄、同書266頁から引用しました。聖書中の様々な女性の例を通して表題の聖句のときあかしが述べられています。昨日の叔母も若くして未亡人となり、涙と苦しみの中で一人子を育て、立派に成人せしめました。何時の時代にも、(母の)涙は主を求めることのできる大きな幸いとなっているのではないでしょうか。(なお、昨日の写真から画像はクリックすると大きな画像になります。是非クリックしてご鑑賞下さい。)

 「すべて主を待ち望む者はさいわいである」(旧約聖書口語訳 イザヤ30・18)

 ある朝、早天の祈祷会にもまだ間があるので、私は祈ろうと机に向かいました。すがすがしい夏の朝風が流れこんで来ます。ふと眼前のスタンドの白い浮き彫りの台に赤鉛筆で、まとまりのないいたずら書きがしてあるのが目につき、私の鈍い心はハッと呼びさまされました。

 ああ私は、私の人生に賜った美しい装飾台を、心ないいたずら書きでだいなしにして来たのではあるまいか。このスタンドは好みに任せて買いかえることもできようが、過ぎた人生へのいたずら書きは、ぬぐいようも消しようもありません。どんな言いわけをしてみても見給う神の台前を無事に通過はなりません。創造主、所有主なる神を事情の流れのうちに見失ってしまう愚かさを思います。ハガルは苦難のうちにも「ここでも、わたしを見ていられる方」(エル・ロイ)と神を呼び、ヤコブは荒野の眠りからさめた時「まことに主がこの所におられるのに私は知らなかった」と。すべての道に主を認める人は何と幸いでしょう。信仰の極致は生ける神を待ち望む事です。

 エバが誘惑にあった時「食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」ので取って食べた。神の命令の言葉を軽んじて、己が思いで判断して人類を取り返しのつかない不幸に導いたのです。アブラハムの妻サラも嗣子についての約束の言葉を受けておりながら、見ゆる困難に向かい知恵の判断をもって事を解決しようとし、反逆の子イシュマエルが生まれ、アブラハム家の禍となったのです。

 イサクの妻リベカも己が偏愛の結果、恐ろしい家庭の悲劇を引き起こし、父をだましたヤコブの生涯は己が蒔いた偽りの実を刈りとらねばならなかったのです。神を待ち望むより己が知に頼るはかなさを聖書はくりかえし教えています。

 これに反して、祈りの婦人ハンナは自分が石女であった時も神を恨む愚をせず、神の前に泣いて祈り神を待ち望んだ時、イスラエル復興の預言者偉大な祈りの人サムエルを与えられ、大いなる祝福を後世に残しました。また呪わるべきモアブ族の婦人ルツは重なる不幸の後にも「あなたの神はわたしの神です」と固い決意をもって神を待ち望み、その結果四代後にダビデを、さらにイエス・キリストの系図のうちに記され、エステルは民族の危機に際し断食の祈りをもって神を待ち望み、大いなる救いを得たことです。

 すべての生ける者の母と呼ばれた婦人の使命が大切であることを深く学びます時、また聖書が示している婦人たちの足あとを、心して求めます時、すべて主を待ち望む者は幸いであるとの御言葉が光輝を放ちます。ますます混乱の世にあって、愚かであっても迷う事のない途、聖言の上に希望を固くすえ次代の母となりたいものです。

(写真は庭にあった咲き始めの花。家内によると、夜咲き、次の日は閉じる、たった一晩だけだという。ところがこの日、生憎外出して肝心な開花の様子を見ることができなかった。来年の今頃は家にいて開花の様子を撮りたい。葉の先に蕾をつけている、この特徴ある花の名前がわからない。どなたか教えてください。)

 

2008年9月 9日 (火)

心ごころの道  クララ

Dscn4563  「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」
「ところが、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、・・・どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。」(新約聖書 マルコの福音書14・1~11)

 ここはらい病人シモンと呼ばれた人の家で、かつては人々がふり向きもせず過ぎて行った淋しいこの家に、今日はいやし主、イエスご自身が感謝に満ちた食卓の客として着席しておられます。それは過ぎ越しの二日ほど前のことです。
 そして主の御受難はすでに芽ぶいています。ところがこの宴会の席にいたひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油の壺を砕いて主の頭に注ぎました。高価な馥郁(ふくいく)とした香りはたちまち室にみちました。何と真実をこめた献げものでしょう。まさに一幅の名画です。物語です。これはレプタ二枚をささげた貧しいやもめと好一対です。偽り多い世に、この真実な献げものは主の御心にふれたのです。その御心を動かしたのです。

 しかし、この美しい献げものも心ない人々の目には無駄な費えとしか考えられず、慈悲の衣をまとわせた冷たい批判の言葉をもって女をきびしくとがめたのです。ところが主は人の心の深みを知り、この女の行為を称賛されました。「この女は、自分にできることをしたのです。・・・まことにあなたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(8~9)と仰せられたのです。この理解ある御言葉を頂いて女はどんなに満足を感じた事でしょう。知りたもう主イエス!!

 いったいその人の心に所有するものは必ずその人の香となって発散するものです。この女のうちからナルドの香よりもさらにたしかな香が立ち上がったのです。かくれて現れぬものはありません。キリストの心をもつ者はキリストの香をはなつ存在なのです。

 10節の初めに「ところで」と言う鋭い一句で場面は全く一回転です。馥郁とした香をはなったひとりの女の記事につづいて記されたものは実に対照的な事実です。名も記されないひとりの女とは異なり「十二弟子のひとりイスカリオテのユダ」と言う名誉ある肩書きを持った人であり人々にも認められて一団の財布を管理していたほどの人です。この十二弟子の一人と言うユダ、三年の月日、主とともにあった彼が、本心に残存した欲望のゆえに仇に組して師を金で売る結果となったのです。しかしそれはユダばかりの罪とすましてはいられません。

 彼が「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」との峻厳なイエスの御言葉をうけた事によって、如何に憎ましい罪に陥ったかがわかります。最後ゲッセマネの記事にも「十二弟子のひとりのユダが現れた」と明記してあります。聖書は厳密にユダからこの肩書きを取り除きません。第一歩悪の約束にふみ入った彼は機会をねらっていた。そして機会を捕え、自ら滅亡に陥ったのです。

 名もない一婦人の香高い心、肩書きに反するユダの欲、私どもの生活に織りなされる心ごころの道に目ざめましょう。

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著258頁から書き写しました。本文の中の一部を新改訳用に引用者が直してあります。写真は、過日、御代田のある食堂でお店の主人が食事を終わった頃、「もぎたてのトマトです。食べてください」と出してくださったものです。店主の心がこの盛られた皿にこめられていました。)

2008年9月 5日 (金)

全世界と命  クララ

Dscn4567  34年前の早朝、私は妻とともに歩いて産院へ向かった。すでに陣痛は始まっていた。二人の子どもを起こさないように身支度をし、南西角にある産院へ向かうべく団地の林の合間を抜け妻を送り届けた。取って返した家に程なく無事女子出産の報が入った。その彼女も今や二児の母親である。
 今日も小原鈴子さんの文章を写す。『泉あるところ』254頁所収。

 いったい人間は、なんと欺かれやすいものでしょう。目は一寸した線の配列で錯覚を起こして狂わせられますし、心は魔法使いの鏡のかけらでも飛び込んだように良いものが悪く見えたり、無価値なものが尊く見えたり、砂漠が湖水に見えたり、事実はそうでないのに、そうであるかのように思われて結局は自分で自分を欺くのです。エバは「それをとって食べたら死ぬ」と愛の神が禁じたもうた木の実が美しく好ましいものと見え、偽りの感覚が神の言を押しのけて食べました。結果人類はどんな代価をもっても買いもどせない大きな喪失をしてしまったのです。

 主イエスは教えられました「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろう」と。やがて過ぎ行く物の世界に欺かれて永遠を失ってはならない。新たに生まれよ、別の世界に歩み入れよ、この世をこえて彼の岸にあるものを見失ってはならない!!身近なこの世の事に欺かれぬように目をさまして判断をあやまるな!!

 ところが愚かなわれわれは永遠を継ぐべき高貴な魂などもち合わせないような生き方をします。アフリカ黒人の奴隷は魂をもってはいないのだと考えて、彼らを牛馬のように駆使しました・・・、全く獣のように!! しかし文明人だと自負している者がかえって神の与えられた魂の存在を忘却して、物質文明をこの上ない目標と見あやまり、魂の問題には全く無関心です。魂をもち合わせない者のように行動し、万事採決の鍵を肉にゆだねているのです。そして神なしとの信念を、自分の生活を通して表明しているではありませんか。信仰の規範に立つことより世の流れに身をゆだねてそれが当然と考えています。しかし音も立てずに進み行く人間の歴史のうちにあって、あらゆる事実を通して神は「我れ在り」と雷のような響きを立てていたもうのです。目あるものは見るがよい、耳あるものは聞くがよい!!とは確かな永遠の声です。

 神の言に対する不服従の故に喪失した祝福。それにかえて人の心に育つ反逆性、エゼキエルは反逆の家よ終わりが来ると叫んでいます。全世界を得てもやがてすぎ行くこの世の栄え、朝に生え出でて夕にはしおれて枯れる一日の栄え、それがなんでしょう。もし命を失ったらば何の得る事があろう。多くの人々は体の健康についてどれだけ心を用いることでしょう。莫大な金を費やしても買いもどそうとしています。しかし魂の健康についてはどれだけの人が真剣に心を用いているでしょう。現在において魂の在り方を本気で守りませんでしたら「今となっては」と言う終わりの日が来ることです。お互いにゆるされている残りの日を大切に生命の道を前進して勝利者の群の一人となり得ますように、心を確かに身を慎んで、努めて祈りましょう。

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか(新約聖書 マタイ16・26 著者が口語訳を引用していますので新改訳ではありません

(写真はたわわに実を結ばせている栗の木。御代田で8月下旬)

2008年9月 1日 (月)

時は満ちた クララ

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  今日から九月です。

 写真は先週木曜日のものです。その日はちょうど、夕方から春日部地方初めたくさんの地方が突然の雨に見舞われ道路が冠水したりして被害が出た日でした。その日の午前中に、たまたま古利根川でアオサギ、コサギに遭遇しました。二羽のうちコサギがじっとしていませんでした。それに対して、アオサギはほとんどこ の姿勢でした。向こう岸に見える建物は休憩所です。

 以下の文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著の250頁から引用しています。

時は満ちた!!
巣びなたちよ、いつまで羽の寝床に夢路を辿るのか。
目をさませ!!翼を張って大空を呼びおこせ、
モンテズマの岩やから大風に乗って舞い上がれ、
ああ何時まで翼をたたんで時を待つのか、
舞い上がれ!!「時」は今だと叫ぶのを聞け!!

見よ西のかたに日は沈まんと傾く。
時は満ちた、時は翼をのばして
時代におそいかかる。星を見失うな!!
岩間のやども吹きとばされる時は近い。
親鳥よ舞い上がれ翼を張って舞い上がれ!!

小鳥たちよ、時は満ちた、
モンテズマの紅葉は嵐に舞い、
谷水は音を立てて岩におどる、
わが霊よ鷲の翼をかりて昇り行け、
疲れることも弱ることもなく舞い上れ!!

小鳥たちよ、時は満ちた、
嵐の中に、強く育ち行け、
雄々しく勇ましくあれ、
創造者の永遠の言葉に導かれつつ、
栄えあるみくにを仰ぎ望め!!

(文章の中で「モンテズマ」がどこの場所なのか、わかりません。けれども、クララこと鈴子さんはイザヤ書40章後半のみことばを一つの典拠として、この詩を書かれたのではないでしょうか。読んでいてそんな風に思いました。)

2008年8月27日 (水)

悩みの日に私を呼べ クララ

Dscn310150  以下の文章は『泉あるところ』(小原十三司・鈴子共著)245頁より引用しています。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50・15)
「世を去る時まで続いているその生命の小道を歩いて行くわたしを導いて下さい」。永遠の主よ!! わが王よ!!(筆者不明)

 人世の旅には何と悩みと矛盾の多い事でしょう。われわれの前には多くの迷路が錯誤しています。昔、ウヅの地に栄えたヨブの書のうちの、テマン人エリバズの言葉に、「人が生まれて悩みを受けるのは、火の子が上に飛ぶにひとしい」(ヨブ記5・7)と人生をふりかえって実感をのべています。彼らは長い人生経験の後、神の恵みを深く味わい、神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれると証しています。聖き歴史は語ります。「神は愛である!!」と。詩人は歌っています、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」と。人生の悩みと神の恵みの妙なる結びつきを賛美してつきません。

 詩篇50・15に神のやさしい呼びかけが「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と歌っています。

 主イエスご在世の一日、神の国の宣伝活動の一夕、静かなゲネサレ湖を渡られたおり、激しい突風に危険を感じた弟子たちの叫びに答えて、一言をもって浪を沈め、目的地につかれた時、弟子たちは恐れおののいてこの方は誰だろう、風も浪も従わせるとは、と主をあがめて叫びました。

 主イエスは悩みの日を前にして弟子たちに「勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝っている」、と。彼は悩みの日に神によって勝ちほこられたのです。その贖いは永遠に力あるものです。

 ある日カウマン夫人の『山頂を目ざして』と言う本を見た時、一つの例話に心強められました。それは「ある織物工場でのことですが、もし女工があやまって糸をもつれさせた場合には、早速織工長をよんで直してもらうことになっていました。ところがある日一人の熟練工が糸をもつらせましたが、このくらいのことなら自分で直せると思いいろいろ試みましたが乱れるばかりです。遂に織工長が呼ばれました時女工は『織工長さん、私はベストをつくしたのですが』と言った。織工長は言いました。『あなたのベストは私を呼ぶ事です』と。」主をお呼びし、主にお願いして紛糾の事態を整えていただく事が一番かしこいベストであります。

 己の知識にたよってはならない、心をつくしてしゅによりたのめ、すべての道で主をみとめよ!!

 これは聖書のしめす一番かしこいことです。

 祈りとは織工長を呼ぶ事です。われらの織工長、主イエス君はどんな紛糾も困難も彼に整理し得ぬ事はありません。

 彼は永遠の律法と言う愛のロープをもて山峰に上り行くわれらを危機より守りたもうのです。勝利はただこの信仰のロープにたよることです。主を呼び求めましょう。

(写真はドイツ シュヴァルツヴァルト ティティ湖畔の風景)

2008年8月19日 (火)

内なる人よ新たなれ

Dscf3049  以下の文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著 225頁 8月17日クララ担当より引用しました。

 

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても。内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント4・16)

 「見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い」(同上5・7、8)

 われわれはもしどんな境遇に立たせられても、または名誉の冠を与えられたとしても、内なる人の成長発達に心を注ぐのでなかったら、その生の時はなんと空しいことでしょう。次の時代を飾るよき種を蒔くのでなかったら何の喜びがありましょう。

 「義人は信仰によって生きる」とは不滅の真理です。歴史の花園に深い足跡をくっきりと印刷した人々、また暗黒なこの世の暗を破って輝き出た人物はいずれも信仰の勇者です。

 一体クリスチャンとは主イエス・キリストの血によって買われた人々で、事情や感情の奴隷ではありません。彼らはその信仰によって内なる人が成長してキリストにまで到達した進歩の人です。不完全なわれわれがもし見える所によって歩みますなら必ず失敗です。

 エバは木の実を見たとき目に美しく写った、婦人にとってはこれが大きな誘惑でした。王者ダビデのあの恐ろしい罪も、彼がある日の夕ぐれ、美しい婦人が水浴するのを見た事に始まります。大預言者サムエルがかつてエッサイの子のうちから王を選ぶ時、長子エリアブを見た時にその立派な姿に心ひかれ「この人こそ主が油そそがれる人だ」と心に思った時、神は「わたしが見るところは人とは異なる、人は外の顔かたちを見、主は心を見る」と。そして遂に一番幼いダビデに油はそそがれました。彼は多くの試練と苦難をへて遂に王となりました。

 信仰による義人は生きるとパウロはくり返しています。一面信仰は前進、成長を意味します。主があなたがたに与えて獲させようとされる地を獲るために進みゆかなければならない!! 信ずる事によって獲得する内なる人の成長で、ハバククはこの事を走りながらも読みうるよう明確に記せと命じました。

 現代は文化の華が咲きほこり、学と術とが人の心を捕えています。しかし仰ぐべき人格を、導きとなる光をもつ人を見出す事は困難です。自らの不完全な心に気づかず、勝手な批評をしあって他より聞こうとしません高慢な心は、わがままな水平線以上には上りません。自分自身を克服できる程内なる人は成長していませんし熟してもいませんことを知らず、生存の約束をふみにじり神なき道へと落ちて行きます。それが自由であるかのように思いちがえるのです。

 羊は牧羊者なしには安全に存在をつづける事は困難です。愚かで見るところに迷いやすい私共は羊の大牧者なる主イエスを仰ぎみつつ、彼を信ずる事によって内なる人を成長させて頂き、信仰の馳せ場を前進しようではありませんか。「御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」。限りなき前進の一路を!!

(写真はニーダーホルンの斜面で遭遇した花)

2008年8月 7日 (木)

わきあがる生命の水

Dscf2082  今日は私の大好きな小原鈴子ことクララさんの文章(『泉あるところ』225頁、8月7日)の引用です。鈴子さんについて未見の方は6月29日のブログ『泉あるところ』をご覧下さい。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかしわたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか・・・その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4・13、14)

 人間の価値は、その人のうちが何ものによって満たされ得るかと言う事によって価づもられるのです。主イエスはあのサマリヤの井戸の傍らで卑しい一人の婦人にこの貴い真理について懇ろにもの語られました。
 元来、人は神が自らに似せて造り給うたものですから神に似た尊厳さを備えているのです。たとえ現在は賎しい生活のうちに陥って、人目を避けるような憫れな婦人であっても、なおその内なる霊は世のものをもって満たすことができないと言う事実が、人間の霊の高貴さを語るものです。貧者はパンを得たら満足しましょうか。賎しい者はそのしたい求める名誉によって充分だと感じますでしょうか。学問や環境などはまたかわく飲み物にすぎません。
 かつて彼女の夫であった五人の男のだれひとり、彼女の霊を満たし得ませんでした。人情愛でさえ人の心から永遠の空虚を追い出す事は出来ません。人霊の不思議な尊厳さは神ならぬものをもっては満たし得ないのです。昇れば星の高きに、下れば墓より低く落ちてゆくのです。よしやこれから十人の夫をもっても、またかわくのです。そして「私には夫はありません」と答える時が来るのです。「またかわく・・・」とはこの世のものに対する決定的な運命です。これは多くの人々の証明するところです。
 ものは変り世は移り愛情にも死別あり別離ありです。サムソンはペリシテ人と戦って大勝利を得ましたが、そのあとはげしくかわき、神に向かって叫びました時、泉がわき出て彼のかわきをいやしました。結局人は神に連ならねば真実に人たる事は出来ません。
 人の霊が目さめればさめる程神ならぬものは空で、やがて消える虹に過ぎません。この世の浅い流れで心をみたそうとする愚はやめましょう。そんなものは事ある時の役に立ちません。空の空なる哉、すべては空である、ふりかえって見て望を失ったと伝道の書に記しています(2・20)
 この世の運命に翻弄された惨めな婦人は、再びかわくことのない水をどこから得られるのか考えおよびません。井戸は深いのです。しかもつるべをもたぬ旅人がどうして汲む事が出来ましょう。人生のかわきをいやす井戸がどこにあるのでしょう。それはヤコブの井戸よりもっともっと深く、永遠の生命の水に通じたものです。
 神が逆境によってわれわれの耳を開いて下さる時(ヨブ36・10)、真の水を見出し、曠野のような人生を泉あるところとし、それが湧き上がるならばもはや、かわく事のない霊となって、日ごとに実を結ぶ木のように栄えることでしょう。
 いつまでもかわくことのない生命の水の所有者であれ!!

(写真はボーデン湖畔フリードリッヒシャッヘンにあった公園の人口泉)

2008年7月29日 (火)

ヨセフの穀ぐら

Dscn4353  私は『泉あるところ』の小原鈴子さんの文章・信仰が大好きです。今朝の箇所も素晴らしいものでした。私一人読んでいいるのはもったいないので、今日は臨時に増刊しました。是非お読み下さい。

「エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」(創世記41・36)

 その人が誰を敬愛し、何に心を傾けるかと言うことによってそのひととなり(人間)は形成されて行くものです。わたしたちが日々に親しんでいる新約聖書の中に、高い香りを放ちつつまた心の羅針盤を明確に示している人は恐らくベタニヤのマリヤではないでしょうか。彼女はいつでもイエスの足もとに座を定めています。新約聖書に三度姿を現わしていますが、いつでも座席と態度はきまっています。「主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた」。時に「足もとにひれふした」とあり、これはマリヤの座する定席でした。「マリヤにとってこれ以上の場所はなかった」とダンカン牧師はその説教で語っておられます。マリヤは人生のあらゆる困難の解決をここで、主イエスの視線の中で得ました。ラザロの死の悲しみの時、ここで、わが悲しみに主が注いで下さった涙を見たことでしょう。ナルドの香油もここで献げられ、「信じるなら神の栄光を見る」との信仰の奥義も姉マルタとともにここで手渡されたことでしょう。

 イエスの足もと、ここに座してイエスを仰ぎ見ますなら問題は消え去ります。主の言は光です。どんな暗の中にも輝きます。主イエスは神の言です。神の愛の伝達者です。神の言こそわが人生の解決権をもつものです。

 旧約の歴史でヨセフにそれを学びます。彼が一切の愛情から切り離されて異邦の大臣ボテパルの奴隷に売り渡された時、見えざる同伴者がともに下って下さった。もしヨセフが父のもとにいたら神を深く知り得なかったかもしれません。ダニエルも捕囚の身となり、サムエルはエリの家庭に送られ、エステルは異邦の王宮に入り、ヨブは病と禍に襲われた事によって後世への灯がともされる愛の摂理でした。私たちも摂理の細道を行く者です。

 ヨセフは彼の生涯の不思議なジグザグコースの中で真の解決者はただ神である事を学び知りました。それでパロの臣の夢を解く時「解くことは神による」と答えました。これが捨石となって彼はパロ王の不思議な二つの夢の解説を求められた時も「わたしではありません、神がお告げになるでしょう」と答えています。神こそ人生の真の解決者です。ここに目を注ぎますなら謎はとけます。神の鍵はどんな倉でも宝でも開き得ます。ヨセフはまさに来るべき七年のききんの処理によってそのために宰相に上げられました。彼の穀倉は量ることもできないほど豊かに備えられ、彼の血族も民も充分に養われましたし、国土は王の所有となりました。現代は神の言葉をきくききんです。パンと葡萄酒はどこにあるかと若き者たちが母に向かって叫んでいます。わたしたちはヨセフのように倉を開いて神の言葉のパンをもってうえた霊を養わねばなりません。私たちはヨセフのように豊富な所有、真の解決者である神のお言によって人々をあきたらせる事が出来ましょうか。ヨセフの穀倉はいずこ?!

(写真は昨日の散歩のときに出会った某特養の庭先での花)

ヒヨドリの巣

Dscn435108728  しばらく春日部を私たちが留守をしている間、家内が家を守っていた。さぞ、淋しがっているだろうと思ったが、そうでもなかった。家内としては永福町に住んでいる息子一家の引越しの手伝いなど、やるべきことは一杯あった。庭の手入れは欠かさずやっている。暑い夏、雨も降らず、焼け石に水だ。日曜の夕方は関東どこでもそうであったように激しい雷雨で大地は息を吹き返したようだ。
 そんな家内が、留守中の椿事を紹介してくれた。それは庭にヒヨドリが巣を作ったというニュースだ。早速、巣をそっと見せてもらった。しかし、肝心のヒヨドリが寄りつかなくなった。ために彼女は憂えた。「やっぱり、人が三人も帰ってくると鳥も警戒するのね」と残念そうな口ぶりである。
 今朝、鳥の鳴き声が聞こえた。寝静まっている時を見計らってやってきたのだと思ったが、ヒヨドリの鳴き声ではなかった。ホトトギスの声のようであった。とこうするうちに、朝食を終える頃、ヒヨドリの声が聞こえた。ヒヨドリの狙うのはブルーベリーだ。しかしこれは家内がしっかりガードしていて、ネットをかぶせてある。
 姿を見るか見ないうちに、家の反対方向の空高く去って行った。二人してそっと窓越しに巣の方を見やった。「二羽とも去ったのね」と家内も諦め顔。ところが私は巣見たさにもう少し近寄って見据えた。黄色いくちばしが見えた。早速「ひなかな」と彼女に報告に及んだ。彼女曰く「まだ営巣したばかりよ、嫁さんが座っているのよ」
 すると先ほど飛び去ったのは旦那さんというわけだ。旦那さんは嫁さんに餌を与えるために飛び去っただけなのだ。このまま何とか家に居座ってくれるといいと二人ながら思い、写真を撮るなどヒヨドリを刺激することはやめにした。
 それにしてもあの聖句はこんな時、ピンと来た。

イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(新約聖書 マタイの福音書 8・20)

 主イエス様は創造主である。そんなお方がこのヒヨドリが営巣するような知恵、環境、いのちを与えられた。しかし主イエス様は私たち被造物によって無視され続けられた。それでも主イエス様は満足しておられた。

彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちのはげしい苦しみのあとを見て、満足する。(旧約聖書 イザヤ書 53・10、11)

(写真は久しぶりに昨日散歩した古利根川の桜並木の緑陰)

2008年7月 8日 (火)

祈り給う主イエス

Dscn4257 「朝早く、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1・35)

 愚かにも人の心は、時々真の姿を見違えて、根を忘れて花が立派に見えたり、結果が大きく見えて原因の所在を見失っていたりするものです。

 もし最少限度の祈りですむ人があったとしたら、それは神の子イエスであろうと思いますでしょう。しかし事実は全く反対で、最も祈りを要すると思う罪人はあまり祈りの必要を感ぜず、この人こそ偉大な聖徒と思う方々は真実にへりくだった祈りをもって神に近づいている事実を見るのです。

 その最もよい標本は我等の主イエスです。彼の力はそのへりくだった祈りにありました。夜の明けるよほど前から既に主は祈りの座にあられたのです。

 祈りなしに、また僅かな祈りで、どうして神の実在を確かめる事ができましょう。祈祷こそ我等の霊的能力の高嶺です。祈りなしに真の祈りは出来ません。主イエスはわれわれに生きる途を事実、祈りにおいて示し給いました。

 『祈りなき事は実際上の無神論を意味する。これほど神を侮辱したことがあろうか』と某聖徒は語っていますが、この言葉は眠り易い私の心を幾度ふるい立たしめた事でしょう。サムエルは祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないと言いました。

 翼をいためた憐れな胡蝶のように、舞い上がろうと思っても、舞い上がろうと思っても、大空高く上がりかねる魂よ! 祈りの翼を聖霊によって強められ、昇り行け、大空高く、祷告のつばさをひるがえして恵みの聖座に迫り行け。

 主イエスが万民の救いという重大な使命の圧迫に押し出されて祈られましたように、私共も祈りの灯火を輝かせつつ栄光の国への旅を意義深くたどりましょう。

 「祈りは天の異象を示し、他のものの味を失わしめる。」

(『泉あるところ』179頁の「6月23日クララこと鈴子執筆」より引用、写真は昨日の古利根川堤)

2008年7月 3日 (木)

父のところ

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彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は・・・立って、父のところに行って、こう言おう、「お父さん・・・  (新約聖書 ルカの福音書15・16~18)

人類が神より与えられたすべて・・・それは何と豊かなものでしょう。時と言う資本、能力と言う資本・・・ところがこの放蕩息子は神が与えたもうた時と言う資本も、親が労して得た金と言う資本をも、惜しげなく己が快楽のために蕩尽し、当然の窮極に達した時、遂に天も門を閉じたかのようにはげしい飢饉がその国に起こったのです。

すべてを失いつくした孤独な彼の、その心中にたった一つだけ残された鍵があります。これこそ神の憐れみです。目に見えるすべてのものを失ったその人生の杯の底に残された宝玉、これが再生への恵み、回復への鍵です。この行きづまった息子は「父のところ」を思い出しました。それはかつて幸福であった所、すべてが豊富であった父の所、帰るべき父の所なのです。現在彼は往くべき所もたよる所も失い、あらゆるものを使い果たしました時「父の所」を思い浮かべて本心に立ち帰り、帰って行った所は、彼には回復の所であり愛の手が待ち受けていた所でした。彼を見た父は「さあ早く最上の着物を、指輪を、はきものを、宴会を」と喜びの準備がなされ「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と・・・

たとい罪に陥って神の子の姿を全く失い果たしていても、最後の最後まで心の底に所有されているのは「父のところ」です。これに気づきますなら必ず神への懸け橋は立っているのです。荒野の旅の石の枕にも梯子は天に達していました(旧約聖書 創世記28・17)。

世のすべてを失った時になお父の所を思い出す恵み、信仰こそ天の門の鍵です。帰り来る息子は父の喜びです。

(本日の文章は『泉あるところ』小原十三司、鈴子著 7月3日 クララ からの抜粋引用です。なお冒頭の写真は国立のE夫妻からいただいた瓢湖の白鳥です)

2008年6月29日 (日)

みことばは食べるもの

今日は、先週に引き続き、礼拝後、Sさんとパンを食べながら、ゆっくり交わりました。話は自然と聖書のみことばと私たちの関係に移り、エレミヤ書15・16を一緒に開くことができました。 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」 エレミヤは理解してわかったのでなく、みことばを見つけ、食べたということです。このことが私たちにとっても共通の体験になるように祈らざるを得ませんでした。それにしてもSさんは4週間続けて礼拝にお見えになっています。私にとっては息子の世代に当たる方ですが、互いに世代を超えて話し合うことができるのも主イエス様の下さる恵みと感謝しています。<