わたしにとどまるなら アンドリュー・マーレー
久しぶりに『まことのぶどうの木』安部赳夫訳からの引用文である。これで16回目になる。折り返し点である。あと15回続く予定である。花は先週の日曜日、日立のFさん宅に出かけたおりお庭で拝見した花。花の名前を聞くのを忘れた。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ15・7)
ぶどうの木と枝とがクリスチャンの生涯の絶好の譬ばなしに用いられるわけは、両者の性質が一つの源から出、両者が一つの霊によって生きているからにほかならない。植物界は神への完全な依存と、その依存によって得られる安全さを人間に実際に教えるために造られたのである。
野のゆりを装わせる神は、私たちにはもっともっと美しい装いをお与えになられるのだ。木々に美と実りとを与え、ご自身のみこころのとおりにお造りになる神は、私たちをそのみこころの望むとおりになさるのは当然のことである。ただ一つ違うことは、神は木が意識しない力によって木に働きかけられるが、私たちには同意を求めになるという点である。これが人間の優れているところで、人間は神の仰せられることを理解し、神と協力する意志を持っている。これが自然の枝と霊的なぶどうの枝との違いである。
前者は自然の力によってぶどうの木にとどまり、後者は神から与えられた、神のみこころに同意する力によって主につながるのである。自然の力と恵みの力の働きがこのように異なるのは、神の驚くべきご配慮によるのである。
もし私たちが正しい祈りの生涯を送り、祈りに愛と力と熱情とをはっきりと示すならば、主にとどまることのできるのは疑いのないところである。ひとたび主にとどまるならば、望むものを求める自由と、望むものが与えられる確信とを持つことができるのは明らかである。
主にとどまることができるかどうかとためらってはならない。私たちがほんとうに主にとどまることを学び取るまで、あの小さい枝と、これほどまでに美しい実を結ぶすばらしい力とを見つめ続けようではないか。
主にとどまる秘訣は、身も心もすべて主にゆだね切ることだ。私たちの信仰と愛と従順の中にあるいのちの根を主の中に深く下そうではないか。ほかのすべての立場を離れて主にとどまるべきである。すべてのものを捨てて、栄光の神の子の地上の枝となる、想像もできぬ大きな特権を手に入れようではないか。
キリストを第一とせよ。キリストをすべてとせよ。キリストにとどまることに心を捕えられないで、キリストに心を捕えられるのだ。キリストにとどまる私たちを、キリストはしっかりと握って離すようなことはなさらない。キリストは常にご自身の中に私たちをとどまらしめ、また私たちの中にとどまっておられるのである。
キリストは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と言っておられる。キリストはこれを「わたしはあなたがたにとどまっている。もしわたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」という、もう一つの表現と同義語として使っておられる。換言すれば、私たちの黙想、記憶、愛、信仰―これらはすべて大切なものであるが―の中にだけではなく、とりわけ従順の中にとどまっておられることを指している。
もしこのみことばが私たちの意志、私たちの存在の中に入り、私たちの生涯を形づくるならば、もしみことばが私たちの品性を造り変え、私たちを、みことばが語り、意味するような人にするとすれば、私たちは何でも望むものを求めてよいのだ。そしてそれは必ずかなえられるのである。私たちの祈りの中の神へのことばは、キリストの実となり、キリストのみことばは私たちにとどまることになるのである。
「なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」というこの約束の真実であることを信ぜよ。いつもさらに豊かな恵みを祈り求め、私たち自身を人々のための執り成し人としようではないか。このような信仰と祈りとは、私たちがキリストの中に、全面的、かつ絶えることなくとどまることを不思議なほど助けることになるのである。
祈り
「『もしわたしにとどまっているならば』とあなたは言われます。そうです。主よ。祈る力と祈りがかなえられる力とは、あなたにとどまることによって得られます。あなたはぶどうの木ですから、私たちにあなたの霊を吹き込む神の執り成し人です。あなたのみ恵みによって、私たちはあなたに単純に、そして全面的にとどまり、大きな願い事をお願いいたします。アーメン」。






















































































