恩寵の生涯

2009年2月16日 (月)

第六十一回 自序

Dscn6099  『恩寵の生涯』もほぼ終章まで来ました。順序が逆になりましたが、以下掲げますのはこの本の自序として述べられた著者の言葉です。ご鑑賞下さい。

 顧みれば過去五十余年、その間実に千変万化、ただこれ「神は愛なり」と申す外、言葉無く、依りて本書を『恩寵の生涯』と命名いたしました。かつてユーゴーの傑作ラ・ミゼラブルを読み、ジャン・バルジャンの生涯の初めより終わりまで、黒岩氏が巧みにも『ああ無情』と翻訳したる通り、実に無情極まるものなるを見て、同情同感、人世の無情真にかくの如しと考えたことがあります。しかし私自身救われ潔められ、後今日までの実験に徴すれば、人生には同時に「無情ならざる」光明の方面ありて、私はむしろ反対に「ああ恩寵」と高唱せざるを得なくなりました。

 過去十余年間日本全国、朝鮮満州に到るまで歴遊し、監獄署および各種の慈善事業を訪問視察すると同時に、学校、教会、病院、その他の諸集会に臨みて、自己の救われ潔められたる証言をなし、身をもって国恩に報いたく、ただただ信仰に立ち、すべてのものは豊かに満たされ、大能の神の霊に守護せられ、霊肉健全にて旅行し、至る所にて喜び迎えられ、様々なる御用命を賜り、幾多の貴重なる経験を与えられ、津々浦々、山間僻地へまでも分け入り、貴賎上下の区別なく、天よりの福音を宣伝し、病める者、狂える者、悲しめる者の友となり、医者となり、牧者となり、「汝の足の踏む所悉く汝の有となるべし」とある聖語通り、到る所に勝利を得、しかも身は在獄中初めて仮名を習い覚えしほどの無教育、家族とても同様金もなく、知識もなく、身分もなく、ただ有るものは却って運動の妨げとなる「出獄人」という肩書きのみ、

 しかるにかくのごとく光栄ある霊界の一戦士として、神に用いられ、また主にある多くの兄姉らに優遇せらるる所以のものは、他なし、他なし、ただわがために十字架に釘けられ給いし主イエス、十字架の上に悩みながらも、十字架に釘けたる罪人らのために「父よ彼らを赦し給え、彼らはその為すところを知らざればなり」と祈らせ給いし主イエス、ともに十字架に懸けられたる盗人の一人が、「我らは当然なり、為しことの報いを受くるなり」と懺悔し、而して「主よ、聖国に臨らん時、我を憶い給え」と祈り求めたるに答えて、「誠に我汝に告げん、汝は今日我とともに楽園に在るべし」と仰せ給いし主イエスの御恩寵であります。

 かくのごとく驚くべき救い主を下し給える神は、これすなわち愛なりと、主張し、宣伝するに誰か生命を惜しむべきや。不肖なれども由太郎、この絶大無限の天恩に感激して、時々刻々、必死となりてご奉仕いたし居る次第であります。

 今以下に、特に与えられたる聖句の中、主なる数節を掲げもって今日までの「恩寵の生涯」すなわち祝福せられたる信仰生活の感謝記念といたします。

「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(新約聖書 1テモテ1・15)

(『恩寵の生涯』1~6頁まで。なお著者は上掲のみことば以外に、ガラテヤ2・20、1ヨハネ3・16、1ヨハネ4・8、ピリピ4・13、ルカ18・27、ルカ1・37、ヘブル10・37~38、黙示6・2の8つを付加している。編集上カットせざるを得なかった。読者は聖書をよく確かめられたし。)

(写真は彦根城大手門橋から西方向を見る。小さな城にも様々な門がある。こうして敵陣営の攻撃から自陣を守ろうとしたのだろう。『恩寵の生涯』には全山、主なる神様に白旗を上げ、降参し自陣を明け渡した一人の人の生涯が描かれている。)

2009年2月 6日 (金)

第六十回 勝軍(2)

Antakarana_group_at_work_resized_12  大正四年には某将軍の夫人より急電にて招かれ、旅先きより出張、夫人と同道中国へ急行いたし、某実業家の「四五年以来神経衰弱にて、外出さへ叶わず、困り居たる」を訪問し、七日間滞在して漸く勝利を得、御夫婦とも神を信ずる決心を為し、病気も快方に向かい、大喜びにて一時別れを告げそれより前の夫人と共に某大家に立ち寄り門口にて「この方は天下一品の大悪人でした」、「しかし今は?」、「今は天下一品の大善人です」、「さらばどうぞお通り下され」との天下一品の御紹介を蒙り、二日間滞在、「既に久しく教えを聞き居られし」その家の御夫人も初めて「全き救い」を握ることを得、かつ病気も癒され、大勝利にて再び九州へ渡りました。

 九州某地のある大病院に、某院長の依頼によりて、一人の二十一二才の若夫人患者「結婚後間もなく主人外国へ往き、その後夫人大病にかかりて、主人を呼び戻す事になり、主人は急ぎ帰朝する途中、既に日本に近づきて、一日過って甲板より波に浚われ行方不明となり、夫人もまた大手術を受けて身動きもならず、周囲の人々も慰めんよう無く、寝台の四方に立ちてただ泣くばかり」という気の毒千万の御病人をお訪ねました。私とて木石にあらず血が通って居りますゆえ、かかる場合に臨んでは泣くより外はありませんが、しかし聖書は凡てのことを感謝せよと教えますゆえ、気を取り直して祈りたる後、夫人に向かい、キリストの聖名(みな)によりて、霹靂(へきれき)一声「奥様誠におめでとう存じます」と申しますや、夫人は驚き一時は気を喪いたる者の如くになりましたが、暫し祈って居まする中に、再び両眼を開きました、手を伸ばして、確(しか)と私の手を握られ、「そのおめでたい理由を聞かせて下され」と血涙を流してお尋ねになりましたので、私は静かに、されど熱心に

 「奥様、貴女は既にこの世における苦痛の極地を味わわれました。この上の苦痛はただ霊肉共に滅亡するの一事あるのみです。しかしキリストはかくまで落ち入りし私をも死刑の場より救い給いました。しかし死刑を免(ゆる)されてしかる後に喜ぶことは誰にでも出来ます。死に在りて死に勝つこと、すなわち一切の苦痛と煩悶とを地下工事となし、コンクリートとなし、死そのものを直ちに土台となして、その上に今より永遠の生命という堅固な家を建築するのが肝心です」

 と自分の経験に基づきて説きまする中に、夫人は心機一転して、両手を合わせて神に祈り、その夜献身の祈祷を捧げて、病気も癒され、今は婦人伝道師として、霊肉とも健全に働いて居られます。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(新約聖書 1テサロニケ5・16~18)

(写真はルカの福音書の現地語への翻訳にいそしむ人々〔マダガスカル〕。大正4年の好地さんの激しい福音宣教の働き。平成21年のランさんたちの地味な翻訳の働き。主は人それぞれの喜び、祈り、感謝を導かれるお方である。)

2009年1月28日 (水)

第五十九回 勝軍(1)

Dscn5927_2  (岩波の「近代日本総合年表」に大正3年〔1914年〕12月18日東京中央停車場開業式挙行、東京駅命名の記事があり、翌々日には東京・横浜〔横浜駅はまだ高島町駅〕間の電車が故障続出のため運転中止とある。昨日今日の好地氏の話はそういう時代の話である。)

 大正三年は春より夏へかけて東京地方、伊豆、大島等を一周し、七月は福井に在りて妻を呼び寄せ、それより数ヶ月間同行、能登、越中、越後、信濃を訪問し軽井沢を経て勝利の中に帰京、十月には再び出発、北陸地方を巡回し、更に九州各地を訪問中、直方において越年し、大正四年を迎うるに至りましたがその間の出来事をお話致します。

 九州某地のある病院を訪問し、院長の依頼によりて集会をなし、後集会に出席し得ざりし患者を病室に尋ねて、一々個人伝道をも試みました。その中の一人に院長の友人にて「医者の肺患者」が有りました。細君及び二人の看護婦に付き添われ居りしが「如何ですか」と問えば「駄目です」との気の無い答えです。「駄目ですか。それはお幸いです。もう駄目と定まれば、助かる途が有ります。如何ですか、助かりたくは有りませんか」と云えど「イヤ最早や助かる見込みは有りません」と大失望の様子ゆえに「それならば一層の事、助からぬ方を考えましょうか。それはそうと、こうしてお出でで一日の費用何円位かかりますか」と尋ねると「毎日四五円は懸かります」との返事です。

 「お子様は?」、「三人」。「ご両親は?」、「有ります」。「お国は?」、「熊本県です」。「それでは先生、よいことが有ります。足腰の利く内にお帰り遊ばすが、一挙両得です。多くの金を遣い、妻子や親達に長く御心配を懸けるよりは、今の中にお帰り遊ばせ。それからお国にお墓所が有りますか」。「有ります」。「それでは博多で下車して手頃の甕を買い入れ、砕かぬように汽車に乗せ行き、御両親にお別れを告げ、お友達にも、お礼を述べ、而してお墓場へ行き、穴を掘り、甕を埋め、その中に入り、大きな石を上に建てかけ、大口を開き、もう駄目です、ハイ左様ならと云うと同時に、上の大石が落ち、甕もろとも微塵になるように仕掛けてお置き遊ばせ。之が駄目の早道です」と申すや、余りの滑稽に患者も奥様もその他その場に居合わせし人々残らず大笑いをしましたゆえ、

 なおも話し続けて「けれども斯かる時は色々迷いの心が生じ、一層の事モルヒネの0.5も呷って早く苦痛を逃れようと決心するが、また思い返して、しかし待てよ、自分には両親もありまた妻子もあるのだ。早まった事をしてはならぬ。自殺は今日には限らない、明日でも出来ると、押しつ戻りつ、思案に暮れるものです。私も死刑の宣告を受けました時には実にかくの如き悪夢に多く襲われました。先生、貴下は今日かかる悪魔に襲われては居られませんか」と真面目になって話しますると、患者先生「ヘイその通りです。幾度か死を決しましたが、断行しかねて、今日に至りましたが、只今もここにモルヒネを多量に用意してあります」と云われましたゆえ、「それは幸いです。そのモルヒネを早くお飲み遊ばせ。さすれば直ちに新たに生まれ変わる事が出来ます」と云うや、「そうですな。役にも立たぬ未練心に悩まされるよりは、一層早く死んだ方が楽ですな」と云いながら枕の下から兼ねて用意のモルヒネを取り出して「この通り準備してあります」と見せましたので、

 今の今まで平気で笑い居たりし細君、忽ち顔の色を変え、握り拳でウンと私の胸を突き、真っ赤になって「あなたは気狂いか、とんでもない事を申す人だ、早く出て往って下さい」と大声で叱り付けましたが、私は先ず手早く病人の手よりモルヒネを奪い取り、之を火中し、而しておもむろに「これで早や火葬が出来ましたが、更に劇薬でも火力でも死なぬ新患者が出ました。皆々様御覧の通り、只今まで羊の如く天使の如く柔和しく見えた御奥様は俄かに夜叉の如くになり、私を拳固で突き飛ばされました。拳固でしたから私は幸い無事でしたが、もし正宗であったら私は即死するところでした。しかし拳固は正宗にただ肉の衣を着せたまでです。心に人を憎む者は人を殺す者也とある通り、奥様は人殺しの大罪人です」と段々霊的に話を進めますると、患者は肉の一時的死と霊の永久的死との差別を会得し、細君はまた自己の罪人たるを自覚し、共に悔い改めて神を信じ、不思議にも病人はたちどころに癒され、自ら往きて院長を連れ来たりて、自己の救われかつ癒されたる証をなし、その後退院して郷里へ帰られました。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(新約聖書 1ヨハネ3・15)

不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。(新約聖書 ローマ4・7~8)

(写真は大垣貨物駅跡〔09.1.15〕。大垣の貨物駅は明治から昭和期まではその場所で営業していたようである。貨物列車もポストも過去の物。普段はめったに下車しないが、乗り継ぎのため時間があり駅前をぶらぶらして見付けた。人伝に聞いた話だが東京発大垣行き夜行列車は間もなくダイヤから無くなるという。)

2009年1月27日 (火)

第五十八回 聖霊の御導き(5)

Dscn5990  神戸にて某船長の依頼を受け、某子爵の令息にて「学校より退学を命ぜられ遂に不良青年となり、親兄弟は云うに及ばず、警察署さへも持て余し居る」厄介物の感化にと、帰京の途次、数里の山路を辿り行き、先ず父君に面会して「令息の御様子は」と伺えば、「名を申すさえも苦痛の種子」との涙ながらのお話であります。父君は「彼故に都会にも居り難く、かかる片田舎に世を憚って生活し居る程にて、一々は申し述べぬが彼は云わば悪青年の大親分と申すようなものである」との仰せでした。私は更に「悪い方は承りましたが、善い方面をもお聞かせ下され」と申しますと、「善い事は一つも有りません」との事ゆえ「イヤ私の善いと申したのは、大飯を喰うとか、朝寝をするとか、とにかく人の真似のできないことをなさりはせぬかと伺いましたのです」と申しますと、「そんなことなら幾らでもあります。先ず海に入りては魚を捕らえる、山へ登りては小鳥を捉えてこれを手馴らすなど、ろくでもないことのみ上手で、善いことは何一つ致しません」との苦り切ったお話であります。

 私はそれと承り大いに悟るところがありまして「それで充分です。私には前の数時間のお話よりも、唯今の二つの事でよく解りましたゆえ、御面会を願います」と申しますると、御両親様には「それは出来ません、如何様な御無礼を致すか判りません、危険千万ですから」とのお断りでしたが、「イヤ私はもし若様に殺されましても、一足飛びに天国へ参りますまでの事、少しも構いませんゆえ、是非お会わせ下さい」と申し居るところへ、姉なる人お茶を持って来られましたゆえ、名刺へ一言書き加えて「どうぞ御取次ぎを願います」と強いてお頼みしますると間もなく令息は出て来られ、案外にも「先生よく来て下されました、先ずどうぞ私の室へ」との御案内を受け、半日ほど楽しく語り合いましたが、氏はかつて「鉄窓の二十三年」を読みて感ぜられ、この日の朝も不思議に私の事を思い出して「何時か遇って見たいな」と折角考えて居られたそうです。

 さて段々と聞いて見ると、御令息とても初めより好んで堕落されたのでは有りません。「僕は今年二十四歳ですが、初め一度学校で落第しました。続いて又々落第して退学を命ぜられ、親兄弟からも虐待されて知らず知らず今日のようになりました。しかし心の苦痛はどうしても取り去ることが出来ません。ある時も、夏でしたが、海へ水泳に行き、沖の岩に上がりて座して考えました。大博士になり又は総理大臣になったところで、人間には保存期があるから、百年とは続かない。自分の如きは一層死んだ方がよかろうと考え、決心して海中へ飛び込みましたが、水練の覚えが邪魔をなして死ぬことが出来ません。水底に沈み、岩に取り付き、塩水を呑みながら、最早や之がこの世の別れ、いよいよ魚の餌食となると思い眼を開き見ると、目先に何かちらつきますゆえ、右の手で掴んで見ると一匹の小鯛でした。その拍子に左の手をも放したためにまたも水面へ浮かんで来ましたが、一つ親兄弟に見せて威張ってやろうという気が起こり、死ぬことをよして、陸へ引き返して、手柄顔に一同に見せると、父は『馬鹿め五銭か十銭の魚を捕るために命を賭けるものがあるか』と云って、大目玉を喰わせましたゆえ、またもや死ぬ気になり、再び海中へ飛び入りましたので、大騒ぎとなった事があります。その時からです、魚や貝を捕ることを覚え、また好きになりましたのは。

 またある日、これは冬でしたが、山の中を歩って居まして、二羽の小鳥が仲睦まじく遊び戯れて居るのを見まして、自分の不愉快なる身の上を悔やんで居りますると、やがてその一羽が一つの虫を探し当てた様子でしたが、それを自分だけでは食べず他の鳥と共にわけあって食べましたので、私は急に小鳥が可愛くなり、それより段々と小鳥を手馴らす事を覚えて御覧の通り、小鳥を友として居ります」との事であります。

 その夜は一泊して令息と共に寝み、翌朝もなお語り合い「小鳥を自由にするも人間を自由にするも同じ事ゆえ、今日は一つ御父上初め御家族を残らず座敷へ招待して、小鳥の観兵式をしてお見せあそばせ、拙者は司会の役を勤め申すべし」とて準備を整え、不思議がらるる皆々様を大座敷へとお集め申して、観兵式を興行し、終わりに両陛下の万歳を唱えさせましたところ、小鳥ながらも実に巧みに万歳を三唱致しましたので、一同も誘い込まれ、思わず万歳を唱えまして、冬枯れの如くに冷ややかであった家庭はたちまちに化して和気藹々たる楽しきホームとなり、一同大笑いをなしました。

 そこで私は直ちに令息に向かって「御両親様へこれまでの不幸のお詫びをなさい」と申しますと、令息は直ちに手を突き「昨年以来の出来事また数年間迷い居りし事ども一切」を懺悔し赤心より御両親初め一同へ「何卒お赦し下され」とお詫びをし、御両親様及び御一同の御喜び譬えんようなく、この日大感謝会を開き、全家神に栄光を帰し、喜びの余りに、自動車にて数里見送りくれましたが、令息はその後は打って変わって親孝行者となりたる由承りました。

(『恩寵の生涯』253~258頁より)

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。(新約聖書 マタイ7・5)

(写真は絵本「むねあかどり」の表紙。好地氏の話は奇想天外で小鳥の観兵式とは恐れ入る。しかし彼の捨て身の生き方にはいつも心惹かれる。小鳥の観兵式どころか、こちらはこのところ毎日のように庭に餌をついばみに来る数羽の「めじろ」、「雀」、「ひよどり」でさえカメラを向けると逃げられてしまう。そこで絵本の表紙を載せることにした。)

 

 

2009年1月16日 (金)

第五十七回 聖霊の御導き(4)

Dscn5909  名古屋にては某文学士が「肺病にて長く入院し居り、既に臨終も程遠からぬ危篤の状態なるにもかかわらず、自信力強きがために神に信頼するの念起こらず、しかも心中平和なきが故に、世を恨み人を呪い、煩悶の状見るに堪えざる」に付き是非一度訪問しくれと云われ、同行してお訪ねいたしましたが、その人が「この方は」と云って丁寧に、私を紹介されしにもかかわらず、病人は

 「オイ君、君の親切は謝するが、耶蘇の紹介は真っ平だ。死んだ釈迦や死んだ耶蘇の話なら俺が聞かせてやるよ」「それからそこに居る男、そんな下らぬ宗教の話なぞするよりか、蓄音器でも聴いて行け」

と云う調子で、手のつけようがありません。周囲には母人を初め数名の人々、それに二人の看護婦と一人の蓄音器屋がついて居まして、いずれも気の毒に堪えぬ様子でした。病人はなおも続けて

 「君、蓄音器は感心だぜ、叱っても黙って居るよ。人間はそうはいかんね、ここに居る看護婦でも金さえやれば、旦那旦那ッて云うがね、金を遣らんと呼んだッて来やしないよ。昨日も俺の友人の○○博士が玄関まで来やがッて病室へは来ず、名刺だけ寄越しやがッて曰くさ、会うと御病気によくないというから失敬するダッて。野郎め、肺病が恐くて寄りつけぬくせに御病気によくないが、聞いてあきれらあ。達者な時にや、生死を共にしようなンてぬかしやがって肺病が恐くて見舞いにも来やがらぬ、畜生め」

 と喀血しながら、怒鳴り居る状態、あたかも私自身が悔い改めざる以前のそれと同様なりと同情し、我を忘れて病人へ近づき、今しも盛んに喀血し居るその口へ接吻しますと病人は忽ち起き直り、平伏して

 「神よこの罪人を救い給え、一切の罪悪を赦し給え。神の僕が今喀血しつつある私の口を吸いし事によりて、キリストの完全なる愛が今悟られました」

と涙を流して告白され、それよりキリストの救いの光に照らされ、心に天来の平和を充たされ、喜び感謝してこの世を去るに至りました。死に臨みて左の如く告別の辞を私に送られました。

 「僕は一足先に行きます。いろいろお世話になりました。ただし君の接吻にて父なる神の前に出るづ手形となりましたゆえ、御父上様へ君が口をもってキリストの御愛心を僕に示しくれたことを御報告申し上げますから、世に在りて亡ぶる魂を導き給え、アーメン」

(『恩寵の生涯』好地由太郎著248~251頁)

人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(新約聖書 ヨハネ15・13)

(写真は関が原を越え列車が最初に入る濃尾平野の西端の風景〔09.1.12〕。寅彦が指摘する通り晴れている。好地の今日の話はその濃尾平野の中心地・名古屋での出来事だった。福音はどんな人も変える力を持つ。)

2009年1月15日 (木)

第五十六回 聖霊の御導き(3)

Dscn5916  母よりの兼ねての頼み日光見物のお供をなすべき時節、漸く到来いたし、明朝出立日光より松島までもと準備し居るところへ、急信又急信と、名古屋伊勢、大阪、大和、神戸の諸方面より、忽ち五通の電報到着いたし、反対の方角なれば御用の序でにと申す訳にも参らず、如何すべきかと家族会議を開きますると、母は「折角支度いたしたれども、神様の御用では止むを得ませんから、最早や止めにします」と云い又た妻は「私が留守をしますから主人と共にどこまでもお出でなされ」と云い、母は又た妻に向かいて「お前は阿呆なことを言いなさる、日光は北の方、神戸、大阪は西の方で、方角違いへ行ってどうするつもりか」と云い、妻は又た「西でも北でもよろしいじゃありませんか、どこへでも主人についてさえ行けば行けます。海には船、陸には汽車、馬車、自動車、人力車があります。お母さん行きなされ」と言い張りますので、母は遂に我を折って北の代わりに西へ同行することになりました。

 大正二年七月上旬母を携えて、東京を立ち出で、横浜より、鎌倉、江ノ島と見物いたし、鎌倉にては某氏の別荘、名古屋にては恩人村井氏邸に数日御厄介になり、伊勢にては諸戸氏邸に迎えられ、百畳敷きの座敷へ案内されて母はびっくりしたりし、同家より一等汽車にて内宮外宮を初めとし諸所へ御案内を蒙り、それより奈良、大和、大阪、神戸、京都を歴遊し数十日の旅行を楽しく過ごして、七条駅にて母を見送り、生まれて初めての親孝行を致しました。

 母はこの旅行によりて初めて「我が子が年が年中、南船北馬、絶えず無銭旅行をなして、到るところに歓迎せられ、東奔西走、日もこれ足らず、主の御用を勤め居る」の実相を目撃して、安心したりとて、京都東山の芝生に座して共に神に祈祷したる折「倅が方々にて信用せられ、そのお蔭にて母までも到るところに歓迎せられて」と涙を流して神の恵みを感謝しました。ああ長く母を苦しめ泣かせたる不孝の児、今日聊か母を安んじ慰むるを得たるもの、一に之れキリストの救いの恵みの賜なりと、実に感謝に堪えぬ次第であります。またこの旅行中母は絶えず、私を労わりくれ、荷物さえも自ら提げて少しにても多く私に楽をさせねば承知しませんでした。私はこれによりて「よしその体は苦しめても心を満足させるのが真の親孝行である」ということを悟りました。

(『恩寵の生涯』好地由太郎著246~248頁より引用)

 『恩寵の生涯』はあと30頁ほどで終わりますが、久しく掲載を中断しましたのは、どうも好地氏の文章が功なり名を遂げた懐旧談に終始するような思いが致しまして、気が進みませんでした。主イエス様は一切の妥協を廃されました。それはいつも父なる神様を見上げて行動されたからです。人倫による行動でなく、まさしく聖霊なる神様の導きに従いつつ地上を仮の宿として過ごすのが聖書の人々の姿であります。

 どんなに素晴らしい主の恵みをいただいても、少しでもイエス様から目を離すと様々な妥協が忍び込み、ヒューマニズムに足をすくわれ、主との生き生きとした交わりの信仰をなくすのではないでしょうか。私という罪人もまたそういう一人であります。みことばだけを頼りに生きたい、聖霊の導きに従いたいのです。

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(新約聖書 ヘブル13・7)

(写真は言うまでもなく富士山。凛として美しくとても伊吹山の比ではない。月曜日熱海行きの列車に身を任せ、列車が原駅周辺を通過する際に撮影〔09.1.12〕。あと半時間もすれば日没という時間帯であった。「三四郎」も好地母子もこの雄姿を眺めたことであろう。)

2008年12月12日 (金)

第五十五回 聖霊の御導き(2)

Dscn5647  これもその折の出来事でした。明石から塩屋へ参るはずのところを過って垂水で下り、止むを得ず次の汽車まで駅で待って居る考えなりしが、ふと同地にも知人ありしを思い出し、夕方なりしが、尋ね行き、見ると一人の婦人庭の樹陰に打ち伏し居るゆえ、何事ならんと近づき見れば、婦人はやがて起ち上がり此方を眺めて打ち驚き

 「先生ですか、マァ好いところへお出で下されました。実は娘が大病で既に博士にも見捨てられ、今はただ注射で保って居ります。せめて主人の帰りますまでと祈って居ります。只今もそのために庭へ出てお祈りをして居たところでした。こんな時に好地先生でも居って下さればと、実は愚痴をこぼして居りましたのです。マアよくお出で下されました、神様がお送り下されましたのです」

 と云われ、こっちも驚き、案内されて奥へ通れば、娘は既に危篤にて苦痛さえも甚だしく見るさえいとも憐れでありましたが、さてあるべきにあらざれば、夫人とともに祈りかつ語りて、病人に打ち向かい

 「お嬢様お苦しいですか。苦痛に死ねば生命に生くることが出来ます※」

と云いて、なおも熱心に祈祷をなし、さらに

 「お嬢様、早や地より挙げられそうですが、何か仰せ遺さるることはありませんか」

と尋ぬれば、娘はにわかに胸迫りて一言も答うるあたわず。・・・・・

(『恩寵の生涯』好地由太郎著より、今日の文章は一昨日の続きの箇所だが、この後このお嬢さんの病が奇跡的に癒されたことが書いてある。省略した。それよりも※の好地の言わんとしたことが、今一つわからない。恐らく下記の聖書のことばの言わんとするところと同じではないかと思い掲げた。)

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(新約聖書 ヨハネ6・40)

(写真は南天の実、英語名では Heavenly bamboo と言うらしい。Sacred bamboo とも書いてあった。余程、この世ならぬものなのだろう。写真は余り、こちらの望むとおりに撮れなかった。)

2008年12月10日 (水)

第五十四回 聖霊の御導き(1)

Dscn5639  大正二年二月二十三日一通の電報落手、「スグキテクレヘンタノム」とあるのみにて、名前も無ければ住所もありません。家族を集め心当たりは無きかと尋ねたれども、さらに判らず、止むを得ず祈り居ると、妻はしきりに「直ぐ来てくれとあるから早くお出かけなさい」と申します。

 行先の判らずして如何に旅立ちし得べきぞと申し聞かせど、彼女は平気にて「アブラハムは神の命により、往くところを知らずして出で行けりと、あるではありませんか。早くお出かけなさい」と申します。母も傍より「ダッてお前それは無理だ、行先が判らぬから行けぬのだ」と申しましても聞き入れず、かえって「それは不信仰です、判らいでも行くのが信仰です」と言い張ります。

 私は妻の低脳者なるを憐れむと同時に、又た胸を打たれた感じも致しましたので、さらに電報を取り上げよくよく見ると、発信局はシヲヤとありますゆえ、ともかくも局まで行って尋ねる他なしと覚悟し、母その他の引き止むるをも構わず、ただ妻にだけ急き立てられて、大正のアブラハムとなって取り敢えず汽車に乗って、翌朝七時に塩屋駅まで参りました。

 そうして駅で尋ねますると、駅長さん親切に取り調べくれ、発信人は○○村の山本○○氏と判りました。山本氏とは三年前姫路の赤十字病院でお訪ねしたその折危篤の病人でありましたのが、幸いに霊肉とも救われて、今日まで健在であった兄弟であります。

 早速駆けつけて見ますると山本氏は病床にあり両親初め親戚まで集まり、混雑の様子であります。病人は私を見て非常に喜ばれましたが、脇に居られし父君は不思議そうに私の顔を眺めて
 「先生はどうしてお出でになりました。真に不思議です」
と言われて痛く恐縮の体ですから、私は電報の顛末を語りますると父君は益々驚き

 「それは実に不思議です。私は罪人です。実は倅が先年姫路において先生から救われましたので、今度も生前是非一度お目にかかりたいとしきりに申しますれど、ご遠方のことではあり、又御旅行勝ちとも承りましたし、それに病人が既に危篤に陥って実は数時間とも持つまいと言うのでありましたから、ただホンの気休めまでに、電報を書いて見せただけのことでありまして、決して出す積りで無く、ですから名前も何も書いて無かったのでありますが、どうした間違いかそれを誰かが出したものと見えまして何とも恐れ入ります。実の親でさえもただ気休めに申した位でありますものを、お他人様の先生がわざわざ東京から駆けつけてお出で下されましたとは実にキリスト様の御愛心には恐れ入ります」

 と告白され家族一同これより悔い改めて信仰いたしますゆえ、是非洗礼とかいうものをお授けくだされとの涙ながらのお頼みでありました。

(『恩寵の生涯』好地由太郎著 241~244頁)

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。(新約聖書 ヘブル11・8)

(写真は昨日の琵琶湖岸の海鳥たち。十数メートル先だが私のデジカメではこれが精一杯。)

2008年12月 4日 (木)

第五十三回 霊魂の看護(8)

Dscn5583  一日招かれてある大富豪の一人娘をその瀕死の病床にお訪ねしました。見れば十七八才の少女、人力の限りを尽くして、今はただ死を待つのみの場合にて何か心の慰めになるお言葉をとのことであります。私は「お嬢様貴女は最早やこの世をお去り遊ばすのですが、行先はどうですか」と尋ねますると病人は何物か心に響くものがあったと見え、両眼より熱き涙をハラハラと流され、しばらくは言葉も無く、黙し居られ後声を張りあげ

 「先生、人は何故死ぬのですか」

と千万言の議論にも匹敵すべき御質問を発せられましたゆえ、私は直ちに答えて

 「お嬢様、神様は私どもに生命を与えるために死の苦痛を味わせ給うのです。私が貴女に貴女は今死にますと申したその時が貴女にとりて死の極端でありました。ゆえに今こそはさらに永遠の生命を味わうべき無二の好機会です、即ち死の苦痛と申す礎(いしずえ)の上に真のよろこびなる生命の家を建てるのであります」

 と種々話し居りますと、彼女は「私には解りませんから、先生早くお祈りをして下さい」と言われますので、祈りますると、彼女の顔は輝き来たりて

 「先生解りました。死とは苦痛のことですね、その苦痛をキリスト様が引き受けて下されたゆえ、それを信ずることによりて心の痛みが癒されるので、罪が赦されたと申すのですね」

 と云って神に感謝し、家族その他へ伝道し、勝利のうちに天父の御許へ召されました。

 明治四十五年の大部分は妻すて子と両人にて旅行いたし、私にとりては殊に大恩を蒙りましたる明治天皇陛下御崩御の悲報を旅路にて拝し、新たに大正元年の八月となり、各地において主に用いられ、ある時は

 「仔細ありて嫁は自殺し、子は怒りて父を殺さんとし、父も黙っては殺されず、父子ともに武器を構えて、互いに相手を殺さんとつけ狙い、親戚の人々も途方に暮れ、毎日相集まりては一時逃れに父子の接近を隔て居る様、目も当てられず、今にも大活劇の起こらんとす」る所へ、先生ならではと依頼されて夫婦両人泊り込み、神の愛と力とによりて双方を握手させたることあり、

 またある時は「妻の実家へ財産の保管を託し置きしを、いつの間にか残らず横領せられ、何と云っても返してくれず、これがために細君は申し訳なしとして自殺し、後妻を迎えしも、財産取り戻しの見込み無しとて失望し去り二人の子どもの教育費にも欠乏を感じ来たれる一人の学校教員が、短刀を懐にして、今夜こそは亡妻の父兄を殺して恨みを報じ、而して父子三人自殺して相果てんと覚悟し居たる」を説きなだめ、「その原因のかえって、自己が最初に悪友に誘われて花柳の巷に出入し、妻の父兄を怒らせ、彼らをして財産を保管せしむるに至れるにある」を自覚せしめ、彼らを恨むることの変わりに、かえって彼らが玉を抱いて咎あるの小人たるを憐れむに至らしめしことあり、その他斯くの如き惨憺たる難問題の解決を幾回となく依頼され、もしくは自ら進んで御用に当り、至るところに神の御旨を通訳して、奇しき威力(ちから)を拝すると同時に、この一見甚だ無事安寧なるが如くに見ゆる社会の、実は極めて悲惨なる風雨に打ち悩まされつつあるの事実を目撃して、いよいよ励みて「御国を来たらせ給え」と祈るようになりました。

(『恩寵の生涯』好地由太郎著237~241頁)

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(新約聖書 ローマ6・23)

(写真は昨日の元荒川の日没寸前の夕景色。文教大学前の堤から西方を見る。)

2008年12月 3日 (水)

第五十二回 霊魂の看護(7)

Dscn5568  なお之に関して一つの面白い出来事があります。右の主人公去る人に頼まれ資本金数万円の一会社を起こしたるところ、不幸にも失敗に帰し、主人公は出資額の中よりすでに一万五千円を寄付したるも、なお残金一万五千円を取り返すべき見込みなく、之がために主人公初め御老母、御夫人までもひそかに胸を痛め居られし際とて、私に向かい「如何にすべきか」との御相談がありましたので、私は主人に「安心さえ出来れば金は取らいでもよろしいですか」と尋ねますると主人は「最早金の問題ではありません、安心さえ出来ればそれでよろしいのです」と明白に答えられましたゆえ、私は笑いながら

 「それは訳もないことです。その書類と一本のマッチを持って来て下され。ここで花火にあげますから」と申しますると、主人大いに悟り「しかり花火に如くなしだ。もし会社が成功していたらば、今頃は自分はなおどれほど堕落しているかも知れぬ。失敗したのがかえって大仕合せであった」と云われ、御老母、夫人までも同意せられて、一日使者を立てて先方へ

 「明日は主人及び東京の先生の両人にて参りますゆえ、御主人御夫婦ならびに御家族一人も残らず御在宅下されたし」と申し込み、さて翌日汽車にて我等両人先方へ参りますると、いずれも在宅にて出迎えられ、奥へと案内されましたが

 「私ども煙草は呑みません」
 「左様で御座りますか、では直ぐと御酒を差し上げます、いささか仕度いたしまして御座りまする」
 「イヤ酒も一切いただきません。決して御構い下さらぬよう」
 「あれほどお好きで、一刻もなくてはお済になりませんでした御酒までおあがりになりませんとは・・・何とも申訳が御座りません・・・手前どもの事業の失敗ゆえに御心配遊ばされ、かくもおなり遊ばされましたとは・・・何ともお申訳が御座りません」
 「イヤその御心配には及びませぬ、あなたが失敗してくれたお蔭に、私は神から救われ酒も煙草も女も怒りも、すべて罪は犯さぬことに、この先生と天の神様とに御約束申し上げ、今日貴家へ参りたるも、そのお話をあなたがたにお聞かせ申し上げ、あなたがたも同じお救いにお導き申したいためですから、どうか御家族残らずここへお集まり下され・・・」

 「左様に仰せられましては夫婦とも穴へでも這入らねばなりません・・・事業の大失敗に加えて娘の大病、引き続き家内の入院、心ならずも御無沙汰をいたし何とも恐れ入りました・・・ともかくもここ数日間御猶予が願えますれば、何ほどかはきっと金策(つく)って御返納申し上げますゆえ、どうぞ今日のところは是非御勘弁を願います・・・」
 「イヤ金を取りに参ったのではありません。貸金は全部棒を引いて差し上げますなお必要の場合には多少お助け申す覚悟ですから、その御心配は御無用です。幸いお連れしたこの先生は人殺し、放火、脱獄、その他の大罪を犯して二十三年も鉄窓の下に繫がれた有名の・・・」とまで聞くや

 夫婦は身震いをなし、声も震えて
 「マァどうぞ今日だけはお助け下され、そのような恐ろしい方までお連れ遊ばしまして・・・何とも恐れ入りました・・・永年お世話様に相成り、かつ又大枚一万五千円を棒引きにして頂きました大恩を思いますれば、残金一万五千円は何と致しましても速やかに御返納申さねばなりません・・・必ず都合致しますゆえ・・・どうぞ特別の思し召しによりまして今一度数日間の御猶予・・・」と
 同じことのみ繰り返しますゆえ、私も黙っては見ておられず

 「失礼ですがあなたがたは私どもを誤解しておられます。○○様はあなたがたを苦しめに来たのではありません、助けに来られたのです。私どもが無代価で神様に罪を赦して頂きました様に、あなたがたも今○○様から無代価で借金をゆるしてお貰いなさるのですから感謝してお受けになればそれでよろしいのです」と

 私は心の中で、キリストの救いの恵みが余りに広大なるがために、世の人々が容易に信じて受けないも同じ道理と、感心しながら、判るように丁寧に説明しまして、立って便所へ参りましたが、見るとあっちこっちに畳の上に箪笥などの取り除けられた跡が見えますゆえ、なるほど我々を財産の差し押さえに来たものと誤解したのだなと、思わず失笑しますると、細君が私を脇の部屋へ招き入れまして

 「先生、誠に恐れ入りますが、今日のところはどうぞこれにて、御勘弁をお願い申します必ず跡の方法を立てますから」と云われて
金五百円差し出されました。私は自分らが小さき、狭き、かつ曇りたる心に、神の無限大の御愛心を了解し得ずして、大御心を悩まし奉るのも、正にこの通りであると感じ入り、細君を連れて座敷に帰り、事の始末を物語るや、○○氏は驚き「自分が神の愛を知らずして、二十余年間父母妻子を泣かせて来たのも、ちょうどそれと同様です」とて声をあげて泣き伏され、主人夫婦もようやく我々の使命を会得し、全家残らず泣き伏して、ともに神の御愛心を受け入れ感謝しました。跡で聞けば案の定、家内残らず在宅しおれとの昨日の申し入れを彼らは差し押さえに来ると早合点したとの事にて大笑いでした。

(『恩寵の生涯』好地由太郎著231~237頁)

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(新約聖書 ローマ3・23~24 黙示22・17)

(写真は絵本「アンナの赤いオーバー」評論社ハリエット・ジィーフェルト文 アニタ・ローベル絵より)

2008年11月19日 (水)

第五十一回 霊魂の看護(6)

Imgp13371 (好地はとある日、郡長に福音を伝えようとします。しかし郡長はちょうど酒盛りの最中です。そしてヤソ教をのろいます。また自身神などの助けは必要はない。何でも自分で出来ると豪語します。試みに好地はヘビースモーカーらしき郡長にたった一時間の禁煙を勧めます。よっしゃと云わんばかりに郡長同意し手にしていた煙管を畳に投げ捨て煙管から手を離します。さてその後どうなるのでしょうか。)

 そうしている中に、右の手で我知らず煙草を取り上げ、雁首へ煙草を押し込み、まさに吸い付けんとするゆえ、私が一層高くエヘンと咳をしますと、主人公気づかれしものと見え、あわただしく再び煙管を振り捨てましたが、少し経つと、又も煙管を手に取り上げ、今度は吸いつけて二吸い三吸いやらかしましたゆえ、私は改まって「御主人様、未だ時間が参りません、十分ほど前です」と申しますると、主人公黙してしばらく煙を見ていましたがにわかに物をも言わず、手に持った煙管を二つに折り、丼鉢にて前にある器具をメッチャメッチャに打ち壊し、起ち上がって次の室へと飛び込まれましたので、

 家族の方々は「それ又始まった」と色を失い、どうなることかと心配され、私は又一心に神に祈って居りますると、しばらくして主人公前と変わりて袴羽織にて現れ出で、右の手に一幅の掛け字を持ち来たりて、それを床の間へ懸け替えますゆえ、何かと見れば亡くなられた御養父様の御肖像にて、御主人はその前に正座され、三度頭を下げて涙とともに

 「養子の身として永年の間、親を泣かせ、妻子を苦しめ、身は放蕩の限りを尽くし居たるにもかかわらず、天下に自己(われ)ほどの義人無し、自己(われ)ほど意志の強きは無しと誇りて、実は一時間の禁煙さえも為し得ぬ薄志弱行の痴れ者にてありし」と懺悔し、更に転じて、御老母、奥様、お子供衆、最後には私の前にまでも一々頭を下げて、罪の赦しを求められ、神と人との前に全き悔い改めをなし、ともに祈りて神の御愛を感謝したことであります。

 あとで聞けば、もろくも約(束)に背いて、煙草を吸いし時、未だ時間が参りませんと厳しく責められ、ハッと思うて目を見張ると、不思議にも煙の中に亡き御養父のお姿が見え神を信ぜよとの無声の声が聞こえたるため、煙草にさえも勝てぬ身が天下国家もあったものかとにわかに恐れ入ったのだと申すことであります。

 之は全く御養父様の祈りが聞かれた結果であるというので、この夜を記念とし、家族一同信者となる決心が出来、かつ多くの雇い人らへ毎週一回酒盛りをしていたわってきた従前の慣例をも今夜限りに廃して、その代わりに今後は一回金五十銭づつの郵便貯金を与えることなし主従残らず禁酒禁煙を断行したること郡内に知れ渡り、各方面に善き感化を与うるにいたりしなど、誠に驚くべき神の栄光が顕われました。

ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(新約聖書 ルカ15・7)

(写真は京都・東福寺の紅葉ぶり。知人から送られてきたメール添付の写真を拝借させていただきました。)

2008年11月18日 (火)

第五十回 霊魂の看護(5)

Dscf2088_2  一日依頼に応じ個人伝通(伝道?)のために途中まで出かけますると、先方より使者あり曰く「駄目です。相手の郡長さん大酒盛の最中です」と。同行の信者方も失望して、今日はお止しなされと云われましたが、構わず参り案内を頼みますると、主人公は「耶蘇でも何でもお通り下され。だが酒の相手が出来ぬようなら時間潰しだ」と云われたとのお取次。主人と云うのは元の郡長であって、郡中での有力者です。

 「よろしい、ともかくもご案内をお頼み申す」と奥へ通り、座について挨拶をし、控えておりますると、主人公盛んに宗教家と教育家とを攻撃したる末、私に向かって「君、耶蘇では右の頬を打たれたら左の頬をも向けよと教えるが、君それが出来るかね」とのお尋ねです。私が「出来ます」と答えますると、主人公怒りて、右手に持つたる燗徳利(かんとっくり)を振り上げ「しからば俺が今君の右の頬を打つから左の頬を向けて見せろ」と荒々しく云われますので、御老母及び細君は「またあのような失礼なことを申しまして」と気の毒がりますゆえ、私はすかさず「御主人どうぞお手柔らかくでなく、お手強く願います」と少しも変わらず、静かに答えますると、

 「君も二十三年も苦労したほどあって、少しは話が出来そうだな。これまで会うた牧師らはいずれも右の頬問題で落第したが、君はさすがに死の中を通り抜けたほどあって少しは手ごたえがあるようだが、しかし俺をヤソにしようなどとは気が知れぬ。神様よりも俺の方が上手だからな。女子供や愚夫愚婦には必要かも知れぬが俺には不必要だ。俺は人の細君でも娘でも自由にするのだ。しかるに何だ、ヤソ教では酒を飲むな煙草をのむな女遊びはするななどと口先でばかり立派なことを云って心ではやはり罪を犯しているのだ。要するに偽善者なのだ。家の老人夫婦も信者で家内も洗礼を受けたいなんテ申すが俺が許さぬ」

 と酒が言うのか、人が言うのか、独り受け持ちで長演説をいたしますので、私はただハイヘイとお相手になり、聞く一方でしたが、やがて機を見て「それでは御主人には神の救いの力を受ける必要はありませんか、では一つお尋ねしますが、あなたには何でも出来ぬことはありませんか」と座を正しうして尋ねますると、主人はカラカラと打ち笑い「何でも出来ぬことは無いかッて」としばらく考えられし上にて「二つほどはちょっと出来ぬものがある」と云われる。「それは何ですか」と問えば「蜂の巣と蜘蛛の巣とはちょっと暇が取れるが、他のことなら何でも出来る」との答えです。

 私は「それでは御主人、今喫うておられる煙草を一時間だけお止め下さることができましょうか」と尋ねますると、主人公大口を開きて笑いながら「何だ、煙草を一時間止めて見ろだって、見ろこの通りだッ」と云われ、勢い良く煙管(キセル)を畳の上へ投げ来て、私に向かいて「君もデモだな、酒煙草くらいのことに目をつけるようでは奥が知れた」と嘲笑い、再び大気焔で独り演説を始めました。

(『恩寵の生涯』226~229頁引用)

舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。(新約聖書 ヤコブ3・5)
主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。(旧約聖書 詩篇131・1)

(写真はドイツ・ライン川 拡大して見て下さい。 2005年10月)

2008年11月13日 (木)

第四十九回 霊魂の看護(4)

Dscn5268  (郡内の名望家が、事もあろうに、そこひを患い、両目とも失明します。その人のところに、好地由太郎は遣わされます。そして開口一番、失明されておめでとう御座います、と申し上げます。この常人の常識を超えた言い分にこの名望家は激怒します。そうして両者の間に問答が真剣勝負よろしく繰り返されます。今日のところはその終末の部分に好地が紹介した一つの出来事であります)

 「では申し上げますが、実は昨晩、ただいま私をこっちへ案内して下されたご老人のところへ泊まり、有志の人々を集めて、諸国を廻って武者修業をいたしたお話をなし、十時ごろ散会してめいめい帰宅せんとするところへ、

 一人の青年が上がって来、私に向かって、先生ちょっとお耳をお借り申したいと云いますゆえ、お安い御用、両耳ともお持ち下されと申しましたが、イヤ耳だけではない、お体をだと云われますので、段々と聞いて見ますると、

 その青年は男三人に女一人の四人兄弟であって、父親の遺言により、財産は四人に分配さるべきのところ、長兄なる人我儘者にて四人の分を一人にして横領したるのみならず、その全部を遂に浪費し尽くして、その後は弟二人、兄に学資までも横領せられ、止むを得ず、苦学してようやく人となりたる弟二人に、幾度と無く軍用金を申し付け、昨夜それがために二人の弟が、親戚一同が強いて止めたるにもかかわらず、骨肉の情止みがたく、血の出るごとき思いにてようやく融通し得たる金子を携え、兄の許へと尋ねて見れば、

 兄人は二升樽を前に置き大根漬けを俎の上に置き、独酌で盛んに冷酒を呷っているので、二人の弟は涙を流して兄上どうぞお酒を止めてくだされと諌めたるが、兄は烈火のごとく怒りて、生意気を云うな、お前らは黙って金さえ持って来れば良いのだと叱りつけましたゆえ、弟らはいかに兄でも余りと思い、これまでのこと及びこのたびの金策の容易ならぬ工面であったことなど一言二言申しますと兄はいよいよ立腹して遂に出刃包丁を振り上げて手打ちにすると切りつけたのを、ようやく逃げて飛んで来たというのであります。

 そこで私はその青年に向かって「それは君が悪いのだ、何故喜んで兄上に殺していただかないのだ。キリストは兄弟のために生命(いのち)を捨てよと教え給うたでないか。君よろしく兄上のために喜んで生命を捨て給え。それだけの愛があってこそ君は兄上を救うことができるのだ」と諭しましたところ、

 青年は納得して、殺されに帰ることとなり、私も同行して参りましたが、青年が兄上の刃の下に静かに座して『兄さんどうぞ赦して下さい、これまで兄さんを恨んで居ました罪を赦して下さい、これからは兄さんのために喜んで犠牲となって尽くしますから』と赤誠を込めてお詫びをし、私もまた傍らよりいろいと申し上げましたので、流石の我儘者も遂に心より悔い改めて家に居られた母人もろとも一家残らず神に救われました」

と申しますると、先生もようやく霊の目と耳とが開かれまして、我ら両人初めて握手することができ、ともに神に祈り、家族の方々も喜ばれました。

(『恩寵の生涯』の223~226頁を書き写しました。名望家は両目失明の不幸をかこつかわりに、いかなる真理を会得したのでありましょうか。これこそ上のエピソードでありました。どうみても悪人と思われる兄に対して、弟たちは何も責められるはずが無いのでありますが、その内側に理不尽な兄を憎む思いがあったことが明らかにされます。そして弟たちの赦しを乞うことばを通して、この兄の我儘な心は氷解したというわけであります。そしてこの名望家もまた一人の罪人として神様の御前に出たということであります。これこそ霊の眼が開かれた幸いであります。

その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(新約聖書 ヨハネの福音書9・36~38)

 この聖書の箇所は私の最も好きな箇所の一つです。ここで紹介されている人は生まれつき盲人でした。しかし主イエス様のあわれみによって目が開けられるのです。しかし目の開いた途端に主イエス様は彼の視界から身を隠されます。そして彼が目を開けてくださった人がイエス様だと言ったことにより人々から迫害され四面楚歌に陥ります。その彼に再びイエス様は姿をあらわされるのです。この彼に取り、両目開いた状態で始めてイエス様を見るのです。その彼の最初にした行為は何でしょうか。信じ、拝するという行為でした。ここに霊の眼が開きこの人が新生したことが記されているのです。それと全く同様に、この名望家の人は両目開きませんでしたが、好地の示す話に胸襟を開いて主を信じ認めたのです。同じ霊の新生の喜びの声が聞こえてくるではありませんか。私たちも今日私の目は、耳は主なる神様に向かって開いているか、聞いてみようではありませんか。「開いていません」と正直に申し上げるときに、主は大いに祝福してくださいます。今日の写真はやや暗いですが二三日前に撮りました古利根川沿いに設けられているコスモス畑です。今日は久しぶりに快晴の朝を迎えました。皆様の上に主イエス様から大いなる祝福がありますようにお祈りします。)

2008年11月12日 (水)

第四十八回 霊魂の看護(3)

Dscn5255  ある日某地へ旅行せし折、一青年の依頼により同行したるに、訪問先の家は海岸にあり、種々の事情ありて、主人は自殺し、残りの家族五人も自殺するところへ駆けつけ、手を尽くして五人とも助けたることあり。八十五歳の老婆と1歳の子供さえありて、実に目も当てられず。主にある兄姉方と力を合わせて霊と肉とを救うことを得たり。かくの如き悲惨なる出来事極めて多し。嘆かわしき社会なるかな。

 ある日某姉妹より「郡内の一名望家にして、村民教育に熱心の余り、イザ鎌倉という時には村民を率いて、国家のために奮闘するの用意なりとて、私財をもって道場を設け、自ら師範となりて青年子弟を教導したるほどの篤志家なるが不幸にもそこひにかかりて両眼とも見えずなり、百方手を尽くしたれどもその甲斐なく、ために失望し、自殺を謀りて家人に見つけられ、幸いに事なきを得しこと既に数回、家人も困り果て、誠にお気の毒の人なるゆえ、是非訪問して慰めてくれ」と頼まれ、同道して訪問ねますると、にわか盲のこととて、先生お気の毒にも行火(あんか)にもたれて天井を眺めて居りました。案内の某姉妹は先生に向かい「私方に東京より名高き先生来られお泊まりになって居りますゆえ、お心のお慰みにもと存じ、お連れ申したから、何卒充分お聞き遊ばせ」と私を紹介して帰って行かれましたので、私は御挨拶として

 「先生、初めてお目にかかりまするが、承れば御両眼とも御失明遊ばされたとのこと、誠にもってお喜び申し上げまする」

と申し述べましたが、先生には意味が通じなかったと見え、「何ですか、今一度仰せ下され」とのお尋ねゆえ、更に「先生には御両眼とも見えなくお成り遊ばされ、誠におめでとう存じまする」と明白に申しますると、先生顔の色を変え両拳を固めて「何、両眼が見えなくなってお目出度いと、この野郎何を抜かすか、盲になってどこが目出度いッ」と云われました。私は直ぐと答えて

 「左様で御座ります。肉のお眼は閉ざされましたが、霊のお眼が開かれますゆえ、それでお目出度いと申し上げました。先生は神の御恵みをお受け遊ばしますか」

と尋ねますると、先生烈火の如くなり「何に、神や仏に頼めば霊眼が啓(あ)くとな、この野郎生意気なことをぬかすな」と云い、なお「神も仏もあるものかい、俺のような義しい者の目を潰すなんッて、そんな神仏があるものか」と益々怒り、何と宥めても聞きませぬゆえ、今度は処方を改めて「先生に伺いますが、先生は剣術を教えてどうなさるのですか、人を殺すのですかまたは自分が殺されるのですか」と問えば、言下に「馬鹿な、人に殺されてたまるものか」と答えました。「では人を殺すのが目的ですか」と問いますると、先生少し返事に窮した様子ゆえ、更に

 「先生先方が強いとこっちが殺(や)られます、こっちが強いと先方が殺(や)られます。もしまた両方が同等(おんなじ)ですと年中正宗を向けて居なければなりません。誠に剣道は剣呑(けんのん)ですな」と申しますと、「だから負けないように勉強するんだ」と同じことを繰り返します。そこで私は「先生実は私も剣術遣いです」と云うと、「何流ですか」と聞かれる。「私のは無手勝流です」と云うと、「それでは岩見重太郎のように拳固でなさるのか」と云って大口開いて笑われますゆえ、私は答えて

 「イヤ私の無手勝流は双方が勝つ流儀です」

と申しますと、先生は「そんな流儀はかつて聞いたことが無いが、一体どこから来たのか」と尋ねられますゆえ・・・

(一体この両者の問答ははたしてどのように決着がつくのでしょうか、続きは明日のお楽しみです。本日の箇所は『恩寵の生涯』219~223頁より書き写しました。)

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(新約聖書 ヨハネ9・41)

(写真は通りがかりに見たホクシャ、余りにもその造作の巧みさに引かれ、お断りして写真に納めさせていただいた。もう最後の姿だと言われた。牧野植物図鑑を調べると和名瓢箪草とあった。むべなるかなである。是非クリックしてご覧遊ばせ。)

2008年11月 7日 (金)

第四十七回 霊魂の看護(2)

Dscn5238  私もともに祈り、委細承知と引き受けまして、俥(くるま)を飛ばして往ってみると、主人公盛んに演説し居らるる様子。表よりおとづれては同じく捕虜の憂き目をみねばならぬと思い、後ろへ廻って勝手口より忍び入り、耳を傾けてしばらく演説を拝聴し、時分はよしと襖を引き開け「ヘイ今晩は」と這入りますると、主人は吃驚して振り返り「君は何者だ、無断で他(ひと)の家に這入って来るとは」と叱りつけますゆえ

 私は「ヘイ私はヤソ様のお伴ですが、実は先刻から御演説を拝聴しまして感じ入り、思わず引き付けられて参った者であります。実に仰せの通り宗教家ともある者が他様(よそさま)の奥様を、しかも御主人の御不在に乗じて、教会へ誘い行き、十一二時ごろまでも、引き止めて置くという法はありません。

 また奥様とても只今伺えば朝寝、買い食い、その上口返事までされるとか甚だもって怪しからぬ儀と存じます。それに見れば折角の御説教に対してただ頭を下げて居るばかり、心では少しも聴いては居らぬ様子、いよいよもって不都合千万の儀と心得ます。」と申しますると、主人「君は判る男だ。君少し代わって説教してくれ、僕は疲れたから」と言われますゆえ、今度は私が主人に代わりまして「皆々様、御主人は昨夜より只今に至るまで、もし私が参りませんならば今夜も夜を徹して、説教されるのでありましたが、これはそもそも何のためですか、ただ皆々様殊に奥様を立派な夫人に仕立てたいからと、私は失礼ながら存じます」「御主人如何ですか」と言えば主人公「いかにもその通り」と言われます。

 そこで私は更に進んで「皆々様、皆様は御主人がかくまで熱心に御説諭下さるにもかかわらずただ頭を下げて居るばかりで、腹の中では、何勝手な事ばかり言って、自分は大酒を飲み、女狂いをし、したい放題のことをして置きながら、奥様が御留守に教会に往って遅くなったくらいのことを、それもこうしてチャンと一同で送って来たのに、何もそう酷く責めるには及ぶまいと呟いて居る、その不平不満の毒ガスが、室内に充ちて居ます」と申しますると、

 主人公いよいよ喜んで「君は本物の伝道師だ、君のようなヤソなら俺も嫌いじゃない」と言われ、遂に全部私にお任せくださることとなり、それから夫人に、何事でも私の教える通りにして下さいと申して承知させまた主人公にも私が奥様をお気に入るように立派な夫人にして上げますから、その代わりあなたも二日間だけ私の出すお手本通りにして下さいと願って承諾を得、先ず主人公に向かって

 「それでは甚だ恐れ入りますが、あなたは明朝より早起きし、先ず第一に水汲み、御飯炊き、便所の掃除、それから洗面湯を取りて奥様にお顔を洗わせ、御飯のお給仕、洗濯、奥様のお湯もじまでも、私が一々お手を取ってお教え申し上げますから、お洗い下され」とまで申し述べますると、主人公大口を開きてカラカラと笑われ「君も随分トボケたことを申す男だ、いやしくも海軍軍人ともあるものが、家内の湯もじを洗う馬鹿があるか」と言われますゆえ、私は「しかし御主人、人は皆一度は僕にならなければ駄目です。かく申す私もそれを実験してから初めて母と妻と一致することが出来たのです」と同情をもって証しますと、

 「君は一体何者だ」と問われますゆえ、「ヘイ二十三年も鉄窓の下で修業した代物です、よろしくお願い申します」と、なおも実験に訴えて一家和合の秘密は、夫婦互いに悔い改めて神を中心とするにある旨を説き居りまする中、何ものか、ご夫婦の心に触れたものがあったと見え、夫人は矢庭に主人の前に両手を突いて「これまでは誠に悪うございました、何卒お赦し下され、今後は何事でも必ずお言葉に従います」と涙とともに、赤心より迸り出でたるお詫びを云い、主人もまたその赤誠に打たれてこれまた赤心より神の前に悔い改め、その後は夫妻心を一にして神に仕えておられます。

(『恩寵の生涯』215~219頁)

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(新約聖書 ヨハネ13・14)

(写真は彦根城中堀に面して移築再建されたスミス記念堂の上部、1931年・昭和6年からここで一人のアメリカ人により福音は語り続けられた・・・)

2008年11月 6日 (木)

第四十六回 霊魂の看護(1)

Dscn5225  明治四十五年の春一日自宅において建築記念の小集会を催したる時、席上にて一人の老信徒感涙を湛えて左の話をせられ、一同大いに恵まれ私も初めて知り、当時のことを思い出して「なるほどそのころ俄かに夜の祈祷会に出席者の増加したことがあったが、彼の青年のためであったか」と感謝したことがあります。

 「好地君が家庭学校在勤中にあった逸話の一つをお話いたします。当時君は在校生徒のために、人知れず夜半起き出でて熱心に祈祷されましたが、或る夜一人の生徒が目を覚まして図らずも君の静かに出で行く姿を認め、ハテなと思いながらも、なお眠れるさまを装い居ると、ややしばらくして帰り来たり、静かに寝てしまわれたゆえ、生徒は心の中に、先生独身者として、誰か女に会いに行ったな、好し明晩は一番跡をつけて、女もろとも取り押さえくれんずと、さすがは不良青年だけあって、大喜びにて待ち受け、次の夜は寝たふりをして見て居ると、好地君はそんなこととも知ろうはずなく、例のとおりに起き出で、静かに外に出られましたので、生徒はしめたとばかり喜びて、抜き足差し足ついて参りますると、君は事務室で密会するかと思いの外、礼拝堂へと這入られましたので、生徒は益々怒り、場所もあろうに礼拝堂で密会するとはいよいよもって不埒至極だ、相手は誰かと、息を凝らして物蔭より見て居ったが、どこからも女は来ない様子、ハテなと思うて耳をそばだてると、堂内では既に話の声がするので、相手は先に来て居ったのかと、なおも戸口に寄り沿いて、立ち聞きを致しましたが、先生一人の声のみ聞こえて、相手の声はとんと聞こえず、変だなと忍び寄って、よくよく見ると、あにはからんや、先生には涙を流して熱心に自分ら在校生徒のために祈って居られましたので、生徒は驚きかつ恐れ入り、直ぐとその場で告白せんかと思いしが、我慢して再び外に忍び出で、素知らぬふりして寝てしまい、遂に先生には告白せずに終わったそうであるが、その生徒はそれより真面目な人間となり、今は立派な事業に従事されて居ります。これは好地君が『右の手になして左の手に知らしめなかった』※善事の一つであります」

 また或る夜のこと、某教会を尋ねますると、牧師及び数名の方々が祈って居られましたが、私を見るや否や「好いところへ来て下さった」と喜ばれますから、「何か儲け事でもありますか」と云いますと、「儲けどころか、大変な事です、そのために祈って居ります」と云われます。そこで聞いて見ると、こうです。前晩の集会に一人の夫人を誘い出して、会後十一時頃数名の婦人が夫人を送って、賛美を歌いながら、家の近くまで行ってみると、当直で不在のはずであった主人公の大ヤソ嫌いの軍人が、帰っているばかりか、大胡坐をかいてコップで酒を呷(あお)っている様子なるゆえ、夫人は青くなり、または見送りの婦人らも天から地へ落とされたカペナウムのごとくに立ちすくんで思案にくれたのであります。

 主人はまたその日当直の積りで家を出ましたが、都合あって夜帰宅してみると、奥様は主人の外泊を鬼は外福は内と喜んで教会へ行き、あとは女中と他の一人の婦人のみにてそれもどこに居たのか出ては来ず、戸は明け放しで、夕飯の用意は無し、大腹立ちにて女中を叱りつけ「奥はどこへ行った」と問われますると、女中もくやしまぎれに「奥様は御留守には何時もどこかへお出かけになります」と愛想もなく答えましたので、主人公いよいよ怒り、さてこそ鬱憤晴らしの大酒を飲み続けて居られたところでありました。

※マタイ6・3(引用者注)

(『恩寵の生涯』210~213頁より引用)

 (この後、この夫人と同伴に婦人伝道師が謝りに出かけます。それにより、このご主人は気を取り直したように見えましたが、実はそれは奸計を弄したもので、結局出かけていった人々は、この主人に捕われの身となります。その困り切って人々が祈っているところへ好地がかけつけたということです。さてどうなるでしょうか。続きは明日です。)

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。(新約聖書 ガラテヤ6・7、エペソ5・22)

(写真は彦根城の蓮池で先週出くわした、つがいの鴨。カメラを向けた次の瞬間に左方向に足早に移動していった。くつろいでいた彼らにとり私はとんでもない闖入者であった。)

2008年10月30日 (木)

第四十五回 武者修業(9)

Dscn5219  その後における中之目氏の変化極めて著しく、典獄殿初めお役人方も痛く御感心遊ばされ、一般囚徒の模範となりまた監獄改良の好材料ともなり申すべしとて、語り伝え、聞き伝えて大評判となり、遂に典獄殿より司法大臣へ上申されし結果、中之目氏の刑の執行期限百か日のところを満一ヵ年間猶予さるることとなり、かつ毎月数回の通信を特許せられ、自己の修養をなすと同時に、家族その他多くの人々を救いに導き、監の内外に多大の善感化を残し、一切の準備全く成りて翌四十四年十一月二十九日、喜び勇んで刑の執行を受け、願いの如く一足飛びに天父の御許へ帰られました。同氏が生前に寄せられし多数の書面中、左にその二三を記載して同氏を偲ぶの記念といたします。

 「・・・哀れ肉は獄中にあるも、霊は常に楽しき牧場に逍遥しつつありその幸福実に大なり、朝夕感謝の涙払うに暇ありません・・・四十四年三月十日」

 「・・・私事特殊の天恩により実に意想外なる余日を与えられ、いよいよ修養の時日を得、益々信仰を堅うし、幽暗なる監獄内に在りて塩たり光たらんことを祈り、緘黙(かんもく)と暗涙の中に信仰を実現し、他を導化したるも少なからず、今や監内に聖書を読むの声高く揚がるを聞くに至り、実に欣喜に堪えざる次第に候・・・九月十四日」

 「・・・最早臨終も今日明日と迫りあることなれば、逝きたる時は聖前において皆々様のために祈祷致します・・・十月十三日」

 「・・・我が老母は暗涙をもって書を我に寄せたり、曰く我が目今醒めたり、丹治よこの母は今汝と国を共にすと、彼女は今年五十八歳、しかも頑固一点張りの仏教徒にてありし也、然るに今や悔い改めて近く洗礼を受けんとするに至れり、実に感謝に堪えざる也・・・十一月二十九日」

 「粛啓今起ちて聖父に逝く時到らば復(ま)た来たらん、願わくは親愛なる我が師よ、益々強健にして勇敢ならんことを、明治四十四年十一月二十九日、於函館監獄、旅立朝、中之目丹治、享年二十五歳、好地由太郎様」

 函館出立の際には一少児を死地より救い出して某慈善家の好意に託し、また他の一少女を悪漢の手より助け出して山形の自宅へ送り届けるなどの出来事あり、帰途、秋田、山形、その他の諸監獄および教会などにて集会を催し、主の聖名(みな)を賛美しつつ無事年末に帰京致しましたが、早速司法大臣に面謁し、各地監獄視察の状況を述べ、かつ右中之目氏改心の顛末を申し上げしに、大臣には大いに喜ばれ、陛下にも御満足遊ばすであろうと仰せられました。

(『恩寵の生涯』207~209頁)

長官たちは・・・厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守はふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。(新約聖書 使徒16・22~24)

(写真はお堀から遠望した昨日の彦根城天守閣)

2008年10月29日 (水)

第四十四回 武者修業(8)

Dscf1528  (函館監獄を訪問した好地由太郎は、典獄より死刑宣告を受けて服役中の中之目丹治の態度がよろしくないので、会って話をしてくれるように頼まれました。今日のところはその続きです。)

 私は快諾いたし面会に参りますると、彼は目を剥き出して大喝一声「貴様は何者だ」と尋ねますゆえ、私は
 「僕も昔は君と同じく死刑の宣告を受け、鉄窓二十三年の憂き年月を送りし者なるが、今日はキリストを信じて神の子とせられ、司法大臣の許可を受け、真人間にして頂いた御礼参りに、日本全国の監獄をお訪ねする好地由太郎と申す者です。御不満足のことは何事でも打ち明けてお話あれ、御相談のお相手になり申すべし」
と答えましたれば、彼は暫く黙して何か考えている様子でしたが、忽ち手を振り口を開きて

 「僕は日本男子です、教育家です、善人です、慈善家です。然るにその僕を捉えて死刑に処するとは何か。司法官も弁護士も典獄も看守も教誨師もろくな奴は一人も無い。何と云うても取り上げず、また取り調べもせず、自分勝手に罪に定めて、天下の良民を死刑にするとは何事か。僕は死刑にされるのが恐ろしくは無い。ただ不法の宣告を受けたのが残念だ。なるほど、人を殺したから道徳上には幾らかの罪はあるだろう、けれども正当防御だ。死刑にされるはずは無い。君も一度そんな目に会ったならば僕に同情することができるだろう」

と自分ひとり喋り続けるのであります。私はかくの如き身勝手な義人呼ばわりをする頑迷な心を、如何にして悔い改めに導き得べきかと、一時は当惑いたしましたが、神に祈りて助けを求め、神においては能(あた)わざるところなし(ルカ1・37)と信じて

 「君は罪を犯したが死刑では酷(ひど)すぎると云われるが、元来罪というものは商品と異なり、高い安いと、こっちから値切れるはずのものでは無い。先方の下さるものを喜んで受くべきはずのものです。また何事でも憂いて受くれば死となり、喜んで受くれば生命(いのち)となります。君も永く生きたいと思わば喜んで殺していただくことです。人に殺されますと死にますがお願いして殺していただければ死にません、必ず永遠の生命(いのち)を見い出します。死にたくなくて殺されるから苦しくもあり、また肉も霊もともに死にます。ゆえに死刑を安く値切らず、君の方から喜んで死刑にしてお貰い遊ばせ。しかすれば君も僕と同じように老病死と申す厭やなものから救われて、不老不死に至ります。すなわち無色の色を見また無声の声を聞くことができます。

君は今人生問題を解決するに最も好く適したる交差点に立って居ります。地獄に行くもまた天国へ行くもただの一息です。僕も死刑の宣告を受けた時はこの交差点に立ちて苦しみました。私は二十五才までは命がけで、悪しきことのために死にたく願いましたが、外部からは勇ましく見え、また自分でもそうだと思って居ましたが、それはただ死の力であって、全く悪魔に欺かれて居ったのです。ゆえに二十五才即ち明治二十二年一月二日限り大改革をして、今度は善き事、義しき事のために早く殺して頂く事に定め、神の御旨とあらば何時でも否な只今直ぐでも死んであげますと、決心して祈りますると、同時に心の煩悶は頓(とみ)に取り去られ真の平和が胸に宿りて、爾来今日に至るまで、その死の与えられる日を待ちながら、かくは御恩報じに働いて居ります」

と自己の偽らざる実験に訴えて、同情の涙と共に熱誠込めて説きました。するとさしもの彼もその場へペタンと座して両手を突き
 「先生恐れ入りました。神の声が聞こえました。神の御顔が見えました」
と涙に咽んで悔い改めました。実に奇(くす)しきは神の愛かな。石の如かりし心はたちまちに砕かれて、肉の如く柔らかくまた暖かくなり、私ども二人は手を取り交わせてともに祈り感謝の涙に暮れました。かの十字架の盗人※(ルカ23・41~43)と同じく私ども二人はこの日、明治四十三年十二月二十五日、身は函館監獄の典獄室にありながらも、霊は主と偕(とも)にパラダイスに在るを覚えて、罪なくして罪人とせられ、我等に代わりて贖いとなり給えるキリストの聖名(みな)を心の限りに賛美したことであります。

(『恩寵の生涯』202~207頁)

われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

(写真は昨年の3月の東海道線富士駅から見た富士山、画面中央に当時建設中の道路の橋脚が見える。富士山はいつが一番良いのだろうか。)

2008年10月28日 (火)

第四十三回 武者修業(7)

Dscf1860  北海道伝道の六ヶ月間においてもいろいろなることを経験いたしましたが、九月二百十日の日に未だ爆発して間もなき有珠山にそれとは知らず迷い登りて同行の神学生某氏と九死に一生を得、漸く探検隊の一行に助けられて紋別に至り、集会に臨みて会衆とともに感謝したることもあります。

 各監獄はことに心を用いて訪問致し、樺戸の如きは空知時代同囚の知人も多く在監して、典獄殿にも涙を流して私のために紹介の辞を述べられ、多数の改悔者起こりその中には当日逃走を企て居りし者あって自首し出でたるなど、著しき聖霊の御働きを拝する事ができました。釧路にては一家六人事情あって仏壇の前に集まり今まさに自殺せんとするところへ駈け付け、神の測るべからざる知恵と能力と愛とにより、これを救いしのみならず、親類までも導かれてキリストを信ずるようになったこともあります。

 またある時は汽車の上にて「見つけましたぞ」と云われて振り返ると小樽新聞に出ていた写真と私の顔とを比べて「好地先生でしょう、札幌から追いかけてきました、どうか私どものところへも来て集会をしてください」と強要されたこともあれば、乗っておった馬が急に立ち止まってどうしても進まず、鞭を挙げて尻を打っても更に動かず、気がついてみると路の上に大きな熊の足跡あり、見ると向こうに熊が眼を光らせていまするゆえ、馬の頭へ外套を着せて跡へ引き返し、ようやく逃れて後、馬殿の前に手を尽きて「無法にも罪無き者に鞭をあてたるの罪」を謝したることもあります。その他珍談奇聞また祈祷の著しき応験など少なからずありまするが、紙面に限りがありますゆえ、省略します。

 ただ一つ省略し得ざるは函館監獄において中之目丹治と云える死刑囚人の悔い改めたる驚くべき一事実であります。私が帰途同地へ参りました時はあたかもクリスマスの前でありまして、いずれの教会もその準備に没頭して、臨時集会などの開催は不可能だと云われて、私は失望いたしましたが、中之目氏の悔い改めを見るに及びて、ただこの一事の御用のために今回の北海道行き全部を犠牲にしても、決して悔ゆるところは無いとまで感謝しました。同監獄を訪問して既に数回の講話を致したる後のことです。一日典獄殿は私に向かって「独房に一人の囚徒すでに死刑の宣告を受け、その執行を待ち居る者にて、樺太の住人中之目丹治と申す者あり、相当の家に生まれて、教員をも勤めしことある青年男子なるが、如何にしてもその罪に服せず、裁決が不法なりとて誰にでも喰ってかかり、悪口雑言、乱暴狼藉、到らざる無く、始末に困り居るゆえ、お会い下され」とのお頼みであります。(『恩寵の生涯』200~202頁)

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(新約聖書 ルカ15・4~7)

(写真はドイツ・シュツットガルトの動物園の熊、熊は熊でもこちらは白熊 2007年6月)

2008年10月23日 (木)

第四十二回 武者修業(6)

Dscn5166  (いし子の身請けをはかるべく好地由太郎は単身で楼主のところに乗り込みます。待ち構えていたのは数名の荒くれ男たちでありました。まずは酒盃を酌み交わせとばかり迫ってきます。そこで由太郎は赤心より自らの救いと、そのままでは滅びるしかない人を思うて祈ります。すると楼主は鶴の一声「野郎ども下がれ」と命令します。それから・・・)

 私に向かってやや穏やかに
 「お前の心は分かったが、一体ヤソの奴らの気が知れぬ。昨夕も家の若い者がヤソの前を通りかかると中では何か大勢で遊郭のことを話しているので、立ち聞きすると、一人の野郎が遊郭は悪魔だから残らず火で焼き尽くそうと云って、皆の賛成を求めておったと云うじゃないか。お前もそこに居ってしきりに評議をこらして居ったと云うじゃないか。そこで家の野郎は驚いて帰って来て、斯様斯様と俺への注進、殊にお前のことを語って、このごろ度々家へ尋ねて来る野郎が焼打ちの発頭人かも知れぬと云うので、実はこっちも正当防御だ、政府から鑑札を受け高い税金を払って立派に営業しているがどこが悪いか、黙って焼打ちなど食うものかッて今朝から仲間の会を催し、お前の来たのを幸いに今夜は、お前を血祭りにし、こっちから押し寄せてヤソの奴らを殺(たた)んでしまう手筈であったが、お前の今の様子を見るとどうやら勝手がちがうようだ。一体これはどうしたことか」

と打ち解けて語られましたので、私は驚いて、我々の言う火とは精神的の火であって、焼打ちの火ではないと弁解いたし、主人もようやく納得されましたが、実にとんでもない間違いから大事件が出来するものです。親子、夫婦、友人らの間柄は云うに及ばず国と国との戦争でさえも多くはかかる不図した誤解に起因するのであると、今更の如く恐ろしく感じたことでありました。

 それから段々話ますると、流石は新地で親分と立てられて居る男だけあって、思い切りが良く、否な全く神の大能の働きと申すべきでありますが、彼は潔く
 「宜しい俺も男だ、お前が命をかけての頼みだ、願いの通り無条件で女を渡してやる。実は来月一日には田舎の去る金持ちが積み夜具をすることになっているのだが、俺も男だ、お前の顔を立ててやるから、心配せずに引き取って、北海道の姉御のところまで送ってくれ」
と申して、旅費並びにいし子の小遣い銭までも添えて渡してくれました。ハレルヤ、聖名(みな)は頌(ほ)むべきかな。これ確かに「人の為し得ざるところを神が為し給う」たのであります。その夜は更に依頼を受け楼の家族一同を集めて私の実験談を数時間にわたりて語りましたが、語り終りますると主人はサも驚いた風にて
 「マア不思議なこともあるものだ、お前は木更津在パン津の八平親方の三男だったとね、俺の親父はお前の親父(おとっさん)とは兄弟分であったそうなが、俺はお前はとうの昔にヤラれて仕舞ったこととばかり思うていたのだ。実に不思議な廻り合わせであったなあ」
と云われますので、私も驚き、その夜は語り明かし、主人も「俺もいい加減に足を洗うて旅館でも始めようと思う」と云われ、大勝利にて翌朝多くの人々に見送られ、いし子を携え帰京いたし見物などさせし上にて、小樽へ送り届けました。

 小樽にても多数の人々に歓迎され、先ず教会に到りて神に感謝し、栄光を神に帰して、本人の姉御を初め社長その他の人々にいし子救助の顛末を語り「これ実に血の価なり、また愛兄姉らの御同情の賜なり」と云いて、姉妹を引きあわすれば、二人は抱き合い大声をあげて泣き、一座の者も皆涙に咽んで、いし子を死より救いて現在の幸福を得るに至らしめ給うた神の大恩恵を感謝したことであります。また来会者中に小樽新聞の社主が居られてこのことを紙上に連載されしために大評判となり、またこれがために私は諸所より招かれ、十二月に至るまで北海道全土を廻り、劇場、学校、教会、監獄、その他の集会に臨み又個人的にキリストを宣伝して聖栄(みさかえ)を拝することを得ました。
(『恩寵の生涯』195~200頁)

サマリや人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして一行は別の村に行った。(新約聖書 ルカ9・53~56)

(写真は昨日のKさん宅のすっかり色づいた柿の木。ほぼ一月前、九月二十六日のブログに同じ柿の木を掲載した。時は移り、心も変わる。変らざるは主の恵み。)

 

2008年10月22日 (水)

第四十一回 武者修業(5)

Dscn5003  次に接手したる急信は北海道小樽からでありました。見れば「越後生まれ十八歳の少女、母、叔父、叔母などの依頼により、家のために工女となり三年間奉公する約束にて郷里より連れ出されたるが、千葉町新地の某楼へ金三五〇円にて娼妓に売られ、七月一日より客を取らせらるると聞きて打ち驚き、楼主に訴えて解放を願いしも許されず、自殺しても操は汚すまじと堅く覚悟を定めたれども、なおその前に四歳の折に別れて今は北海道小樽に在りと聞く姉に救いを求め見んとて、七月一日には死ぬべき身なればその前に助けくれる様にと通信したるを、姉婿なる人聞き及びて、夫婦談合したるも力及ばず、姉婿は一層辛く悲しく思い、一日勤め先なる会社の一隅にさめざめと泣き伏し居れるを、親友の一人が助け起こして事情を聞きて同情し、遂に社長に相談したるに、社長も信者にて大いに同情し、その晩の教会の祈祷会に訴え、如何にしてこの不幸なる少女を死地より救い出すべきかにつきて、神の助けを祈り求むることとなり、その結果至急貴下を煩わすこととなりたるにつき、御多忙中恐縮ながら何らかの方法によりて御救い出し下されたく」との甚だ切迫したる依頼状であります。

 私もこれは難問題だと思いましたが、神に祈りて早速千葉へ参って楼主に面会いたし「無条件にて少女いし子を貰い受けたし」と頼みますと、「こなたにも必要あり、大金を出して連れ来たり、殊に本人の母親及び親戚より懇願され、一家一族を九死より救い出せしのみならず、七月一日には既に約束の客人もあり、大切の代物なれば、折角の御依頼ながらお断り申す」と撥ね付けられました。よって手を代え品を代えて度々申し入れましたが更に聞き入れませんゆえ、止むを得ず警察署へ行き、事情を述べ助けを乞いましたが、示談するより外なしとて断られ、七月一日は日一日と目の前に迫り来たりて、いし子は今にも自殺するやも知れず、私も途方に暮れ、なおも執念く楼主を尋ねて「もし前借金の全部を払わばいし子を渡すか」と問えば「それだけでは渡されぬ。母親の委任状でも持って来たら、金との相談で渡すかも知れぬ。それにしても既に七月一日には約束の客があるゆえ、その後ならでは渡されぬ」との答えでありました。私はさらに監獄署へ参り、典獄及び知人なる課長の方々に面会いたしましたが、どこにも救助の途が見出されませんでした。

 翌日は朝より断食をいたし、城山に登りて切に祈りましたが、その時に与えられたるみことばは
 「人の為し得ざるところは神の為し得るところ也」(ルカ伝8・27)
 「我は我に力を与うるキリストによりてすべてのことを為し得る也」(ピリピ書4・13)

でありました。私はこれに励まされ、勝利を信じて山より下り、宣教師及び牧師の方々と謀りて、その晩特別祈祷会を開くこととなり、多数の兄弟方とともにいし子のために熱心に神の救いを祈りました。ある人々は「遊郭の如き魔窟は天より火を下して焼き尽くし給え」とさえ叫んで祈りました。

 その翌朝私は再び楼主に遭いに行きましたが、「今は用事ありて面会出来ぬ故、今夜八時ごろ来てくれ」と云われましたので終日祈り続けて、約束の時間に行って見ますると、奥へ通れと案内されましたが、周囲の様子が甚だ不穏な形勢でありましたゆえ、私はかねてよりの志願の通り「いよいよ兄弟のために生命を捨ててキリストの大恩に報ゆ」る時が来たなと覚悟を定め、神とともに歩んで奥へ通りました。見ると座敷には数名の荒くれ男があぐらをかき、もろ肌ぬぎの者さえもあり、いずれも一癖ありげな眼をギョロつかせて、私の方を睨んでおります。刃物さえも用意されてありました。そうして私が這入りますると、主人は大声にて「そこへお座れ」と云って、私を部屋の中の一番危険な場所へ座らせました。

 すると一人の男は「野郎一杯呑め」と申して、大きな丼を私に突きつけましたゆえ、私は直ちに受け取り、波波と酒をつがせて、先ず下へ置き、おもむろに口を開き
 「さて皆々様には御機嫌よく勇ましくいらせられ、お喜びの御様子、また私も御招きを蒙り、謝し上げます」と挨拶いたしますると、主人はまたも声高く「毒は入って居ぬから呑め」と申しますので、私も百年目と存じ、「折角の御親切ゆえ感謝して頂戴いたすが、その前に御一同様へお肴を差し上げたく」と切って出ました。すると一人の男烈火のごとく怒り「どんな者か、早く出せ」と睨みつけました故、私は

 「それでは甚だ粗末の物ですが、頭の先から足の先まで五尺三寸八分ほどありますゆえ、よろしくお味わい下され」
と申して静かに座って居りますと、彼らはいよいよ怒りて、すでに手込みにせんと立ちかかる者さえありましたのを、楼主は押し止めて
 「オイ貴様も二十三年も臭い飯を食ったほどあって、ちょっとは手答えがありそうだ。俺も千葉での親分の小倅(せがれ)だ。貴様もここへ来るからには、覚悟あってのことだろう。先ず俺が差したその酒を呑め。毒は無いぞ」と迫って来ました。そこで私は「先ず神に感謝します」と答えてその場にひれ伏し、自分もさきにはこの人々と同じく、神なく、キリストなく、望なくして、肉の勇気に誇ったものであるがと赤心より同情の涙に咽んで

 「神様、私も前にはここに居る皆々様と同じく怒り、殺し、また苦しんだ者でありましたが、救われてこのかた二十何年、何時もお助けくださる神様、私が今ここで皆々様に殺されますれば、私は天国へ参りますが、皆々様は死刑にされますゆえ、私が殺したも同じことですからどうかお助け下さい」
と何もかも打ち忘れ、ただ我がために死に給うた十字架のキリストのみを見上げて祈りました。神は誠信(まこと)なる者にて、楼主の心は忽ちに和らげられました。彼は一同に向かって鶴の一声「野郎ども下がれ」と命じて、皆茫然として立ち去りし・・・・

(『恩寵の生涯』189頁~195頁)

(写真は母娘が楽しく興ずる風景、杉並和田公園にて)

 

2008年10月21日 (火)

第四十回 武者修業(4)

Dscn5123  さてまた一日茨城県より急信あり、大患危篤につき直ちに来たりくれとのことゆえ、都合して尋ね行き海岸まで参りますと、一人の友人出迎えられ、案内されて病人の家へ到着しましたが、夫人なる患者自身は熱心に求め友人を通して私を招きたるも、主人及び有力なる親族はいずれも大のヤソ嫌いにて、患者への面会を許さず、門前払いを喰わせられましたので、

 やむなく某旅館へ行き、昼食をしたため、帰京すべきか否かと話居るところへ、他の旅館の主人なる人来たりて私の身の上話を聞き「一先ず手前方へお出で下され、万事お世話を致しますから」と熱心に勧めますゆえ、ともかくもと同旅館へ連れられて参りますると、大歓迎にて下へも置かず、三階の一等室へ案内せられましたが、

 主人夫婦は言うに及ばず、女中に至るまでも代わる代わる御機嫌伺いに罷り出でて「先生何卒お話をして下され」と申して崇め奉る様子何故とも合点行かず、あるいは機嫌を取って四五日も逗留させ、さて最後には一等旅館の一等客として一日三円づつもの勘定書を突きつける計略なるやも知れずと、いささか不安にも思われましたが、ままよ拙者も男だ、借金しても払ってやれと、度胸を定めて夕飯を済ませ、しばらくすると、主人夫婦が嫁らしき婦人と三人にて這入って来、両手を合わせてモジモジしながら、互いに顔を見合わせて何か用事ありげの様子なるゆえ、ハハーやってきたなと思いて居ますると、三人はようやく口を開きて

 「誠に恐れ入りますが」
と出ましたので、私は覚悟し、潔く先手を打って
 「決して御心配には及びません、私がお払いしますから」
と申しますると、主人はちょっと変な顔を致しましたが
 「先生が追い払うて下さいますか」
と念を押しますゆえ、私も言葉を改めて
 「僕も男だ決して迷惑はかけぬ、たしかに払います」
と云いますと、主人は安心したらしく、嫁に向かって
 「コレ先生がきっと追い払うて下さると云われるから、心配するな」
と言いなだめまする、その様子がどうもちっと変であり、またこっちでは「払う」と云うのに、向こうでは「追い払う」と云う、いかに方言がちがうとは云え、何か誤解があるのか知らんと、問い質して見ますると、実に案外な思い違いでありました。

 すなわち同家の若主人なる人大酒呑みの乱暴者にて、町中から持て余され、コレラにでも取り付かれて死ねばよい位に誰も彼も云い居る程にて、細君は申すに及ばず両親までも散々の目に遭わされ、現にその折も店先で刀を振り回して細君を脅迫したので、細君は青くなって奥へ逃げ入り、両親に訴え、さてこそ三人連れ立ちて私の所へ助けを求めに来たのでありました。

 そこで私は神に祈りて三人と相談いたし、手はずを定めて下へ行き、ドロンケンの若主人に向かって
 「若旦那様、よくお帰り遊ばされました。御両親様また奥様もあなたに対して今日までいろいろ御迷惑をかけられましたが、今日限り一切をあなたにお渡し致し、一家経営の全責任をあなたにお譲り申すことに決心せられ、既に準備も整いましたゆえ、何卒三階へお通り遊ばせ」
と申して、三階へ助け上がらせ、手を取って床の間の正座へ座らせ、そうして神の愛(ルカ15・20※)について証いたしましたところ、彼は両眼よりハラハラと涙を流して
 「先生、誠に恐れ入りました」
と頭を畳にすりつけましたので、私も神の力の致すところと心中神を賛美して、なおも自分の経験に訴えて懇々と説得したれば、彼はいよいよもって恥じ入り、赤心より悔悟して、両親及び細君の前にも手をつきて罪を謝し、両親も細君も涙に咽びて喜ばれました。

 またこの話が町中に語り伝えられて最初に私を招きたる夫人の主人及び親族方の耳に入り、遂に親戚総代をもって先の無礼の罪を謝し、さらに「是非病人にお会い下され」と申して俥をもって迎えられました。往って見ますると、なるほど大患でありましたが既に信じて祈って居られましたので、私は主の名によりて「起って歩め」と命ずることができ、またその如く彼女はその後全く癒されました。のみならず明白にキリストを言い表し、主人をも同じ信仰に導くことを得ました。かくして勝利を得て同地を引き上げました。

(『恩寵の生涯』185~189頁を書写する。※新約聖書 ルカ15・20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

(写真は古利根川の鴨。今やアチラコチラに無数に群れている。川の中央部で私のデジカメではこれが精一杯!)

 

2008年10月18日 (土)

第三十九回 武者修業(3)

Dscn5099  門外へ出るには出ましたが、どこへと云って行く先がありませんゆえ、芝の上に座って
 「神よ私はこの会社に招かれて御用を勤めに参りましたが、会社の都合で御覧の通り断られて仕舞いました。しかし私にはこの市には知人もなく、また宿を取る金もありません。どうぞさらに御用をお命じ下さい」
と申して一時間ばかり祈りました。

 すると不思議にも私の脳裏に塚本という苗字が浮かんで来「もし名古屋へ御寄りの節は是非尋ねて泊まってくれ」と云われたある紳士のあったことを思い出しました。それから鞄を提げて名古屋の西の端から東へと、千種千種と尋ねながら夕食もせず、十時頃に千種まで参り、交番にて「この辺に某会社の社長にて塚本と云う家はなきか」と尋ねましたが、分からず、諸所にて尋ねたるも更に分からず、追々に腹は透く、困り果て「火の番」でもする考えにて、なおも町々を廻り歩いて居りまする中、とある四つ角まで参りますと、近くの家の角灯が燻っておりましたゆえ、すぐに近づきランプを直し、心を細目に致しまするや、家の中より大声にて

 「ランプをいじる奴は誰だッ」
と云って大目玉を喰わせられ
 「私です」
 「私では分からぬ」
 「私です」
と云いながら、不図角灯の文字を見ますと、塚本とありましたので、もしやと思い
 「私は好地です」
と申しますと
 「東京の好地君か」

と言う様な訳で早速内へ案内され、事情をお話し致しますると、同氏は前会社の門前払いを喰わしたことを憤慨して「宜しい明日僕が行って社長に談判して来る」と力まれますゆえ、私は「イヤ本人の私が満足しているのに第三者の貴下が立腹されるところはない。それよりか先ずその立腹される貴下の心を征伐されてしかるべし」と申して大笑いを致しました。同家にては家内中総起きとなって歓迎してくれました。神の不思議な御指導であったと感謝しました、主人は起きて便所へ往き用を弁して手を洗いながら私の角灯を直し居るを見つけ、放火でもするのかと思い、呼び咎めたのであったそうです。

 それより同家の客となり、数日間滞留して御用を勤めましたが、時あたかも大博覧会※の開設に際して、特別伝道会が開かれましたので、主人は私の出入りに一層の便宜を与うるために、某別荘へ移らせてくれ、同所に数日止まりて伝道を助け居る中、再び前の会社より是非にと招待され大工場を自由に視察するの特権を与えられ、出入の鍵をも渡されて「何にても目に止まりたることは報告しまた注意してくれ」との懇切なる御依頼を受け、七日間滞在したる上にて、集会を開きて「首と尾」のお話を致したるところ、一同御満足にて、大評判となり、社長初め重役の方々にも知られ、ことに一人の重役某老人は大患にて誰にも面会せず、引籠もり居られたるが、令息よりして、私の「首と尾」の話をお聞きになり、是非私に会いたいとの事にて招かれて行き、医師その他の傍らより注意されしにも構わず、早朝より午後二時頃に至るまで、双方気乗りして語り合い、かつ共に祈りその結果として、御老人には神の力に依り縋られ今日に至るまで世のため国のため、ことに人々の霊魂のために尽くされています。

 会社には四五十日もお世話になり、数百人の職工のためにも度々集会を催し、主の栄光を拝して、感謝して暇を告げ、帰京いたしましたが、その後は時々招きを受け、また霊肉の便宜を与えられて居ります。なお名古屋滞在中監獄より招かれ、講話を致したるところ、多数の囚徒は特に典獄に願い出で、個人的に面会いたしたしとの事にて、面会の結果、悔い改めたる者も多くありました。諸教会へも招かれて御用を勤めました。その間の出来事の一つ。ある医者の娘にて二十歳の少女、不図した事から迷い出し自殺せんとて家を脱け出で、死に場所を探し居る中、どこかで人から「鉄窓の二十三年」とある私の話しを聞きし事ありしを思い出して、急に一度遭うて見る気になり、深夜二時頃某教会の門を敲きて牧師を呼び起こし、私に面会致したしと申し入れて遂に悔い改めて救われた事があります。
(『恩寵の生涯』大正六年警醒社版180頁~185頁まで引用。※岩波の「近代日本総合年表」には大博覧会の記述は見当たらないが、5月14日に日英博覧会、ロンドンで開会、真珠や七宝、緑茶など好評とあり、10月29日の閉会まで600万人の入場者があったと記されている。)

主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。(新約聖書 2テモテ4・22)

(写真は街路の植え込みにあった花水木の木)

2008年10月14日 (火)

第三十八回 武者修業(2)

Dscn5047  二月には千葉と東京とに多く働きましたが、忘れ難き出来事の一つは市川町にて豊子と云える青年婦人の永眠したことであります。彼女の父は埼玉県屈指の富豪なりしも、一人娘豊子の肺患に罹れる後は、親子の人情としてただその療養にのみ屈託し、財産は番頭まかせにして顧みず、事業にも身が入らず、これがためにさしもの大家も数年にして零落し、豊子永眠の頃は不自由勝ちの借家住まいでありました。

 私は豊子を東京にて主に導きたる縁故にて市川へも時々訪問しては慰めていました。永眠の前日も急報に接して駈け付け病床に看護して一夜を明かし、翌朝日の出と共に豊子は私に抱かれていとも安らかにこの世を去ったのであります。永眠に先だちて彼女は私と共に祈りをし、世話になりし礼を述べ、また両親に向かって、番頭の罪を赦すことと、好きな酒煙草を止すことと、キリストを信ずることと、永年仕えし女中の世話とを懇ろに頼み置きましたが、不思議なことにはその女中永眠の朝早く東京より尋ね来たりて

 「昨夜十二時頃豊子様私の枕頭に立ちて、ほの※や永くお世話になりましたが、私は早や天の神様の御許へ往きますから、後の親たちのお世話を頼みますと云われて、そのまま見えなくなりましたゆえ、何事かあるに相違ないと思い、急いで参りました」と云い、またその晩には悪しき番頭の一人が図らずも尋ね来たりてお詫びをし、許されて葬送者の一人となりました。

 その頃の事であります。或る家を訪ねたるに、幾度呼びても返事なきゆえこの大家に一人も居らぬ筈なしと思い、兼ねて知る家なれば、構わず奥へ通りますると、夫人は行火(あんか)に凭(もた)れ庭を眺めて考え事をして居られる様子ゆえ私は後ろから「奥さん」と呼びました。夫人は初めてお気がつかれて「ハイ」と云われました。私はすかさず「奥さん、先生とまた衝突されましたか」と問(たず)ねましたが、夫人は「いいえ」と答えられました。

 けれども事実何事かが起こりそうなのですから、私は思い切って、しかし勿論霊的の意味で、「奥様は懐中(ふところ)に七連発をもっておいでですから御家庭が治まりません」と申しますると、夫人は如何したるにや、後ろへ倒れて仕舞われましたので、私は抱き起こして介抱いたし、段々と調べて見れば、何ぞはからん、夫人の懐中には無形の七連発のみではなく、有形の七連発があったのであります。

 実に危機一髪、夫人はその晩夫を殺して自殺する覚悟であったのでした。私は神に祈りて熱心に夫人に神の愛を説きましたところ、夫人は大いに悟られ、悔い改めてキリストを信じ、その時よりして罪を苦にする心を改めて神を愛する心となりました。

(中略)

 四月には名古屋の某会社から招かれ、旅費、滞在費、その他一切先方で負担すると云うので、片道の旅費だけ持って出かけましたが、さて先方へ到着いたし、重役の人に面会して来意を告げますると「折角の御出張ではあるが当方俄かに忙しく相成り、時間都合悪しく、如何にも致し方これなきにつき遺憾ながら今回はお断り申し上げ、いずれまたその内に改めて」との案外な御言葉であります。私も当惑いたしましたが、時間が無いとあっては致し方がありません。「それでは会社のために神の祝福を祈って御免を蒙る事に致しましょう」と申して熱心に祈祷し、一切を神に委ねて喜んで別れを告げ、小使いに送られ、七時過ぎに門外へ出るには出ました・・・
※女中の名前と思われる。

(今日の「中略」のところは興味ある話が書いてありますが、やや誤解しやすいところがあるのではないかと思い、思い切って割愛しました。さて、夜、泊まるところもなく名古屋の地で好地氏はどのようにして宿を見つけるのでしょうか。それは次回のお楽しみです。)

(写真は市用水路の上を利用して植えられているカンナの花)

2008年10月13日 (月)

第三十七回 武者修業(1)

Dscn4915  それより鳥取、米子、出雲の大社方面に到り、到る所に驚くべき神の恩(めぐみ)を受けましたが、殊に鳥取監獄においては「須磨の七人斬」とて名代の犯人あり、典獄へ願い出でて、是非とも私に遭いたいとのことゆえ、面会いたし、キリストの福音を伝えしところ、心より悔い改め、二十二年間各地の監獄を悩ましたる難物、ここに一変して最も従順なる囚人となるに至りました。彼はその後出獄して郷里に帰りましたが、私の尋ねました折には、彼の母は病床にありて既に二十日も食事せぬというのに、息子の彼と頻りに争論しておりました。

 と云うのは彼は熱心のあまりに表に大きく「ヤソ教也」と張り出して置くのを、母親は「お前の善人になったのは有難いが、ヤソだけは止してくれ」と云って責め、息子はまた「自分の救われたのはヤソ様のおかげだからこれだけはどうしても止められぬ」と云って、母子で争うていたのであります。

 そこで私は気の毒になり、病人を抱き起こして
 「それではヤソを止めさせ、天の真の神様を信ずるようにするから、お母さんも一緒に信じなされ」
と云い、而して息子に向かって
 「君、ヤソを止めて天の真の神様を信じ給え。その神様に君は救われたのだから」
と申しましたところ、双方とも納得いたし、ともに祈りて感謝し、それよりキリストのことを話したるによくわかり、一切をキリストに捧げて喜んで、私を見送ってくれました。その後病人は安心して永眠し、息子は教会の力となって働いて居ると牧師さんからの通知がありました。

 四十三年※の一月には私は東京、横浜、小田原等の監獄を訪問して伝道しました。その結果の一として、横浜在監の一青年、即ち中学四年頃より不良少年となり、種々なる罪悪を犯して二年の刑を課せられ、既にその一年半を経過し後半年にて出獄が出来るという囚徒が、私の悔い改め顛末を聞き「すでにキリストを信じて一切の罪を赦されたる後は、身は監獄に在りても心は自由なりし」とあるに引き換え自分は「未だ告白せざる犯罪あるがために、よし期が満ちて出獄は許されても、決して精神上の自由は得られない」と煩悶して遂に自ら訴え出で、未だ何人にも知られざりし殺人の大犯罪を涙ながらに白状し、法廷に並み居る凡ての人々を泣かしめ、検事さえも「かくのごとく赤心より悔悟したる犯人は最早重刑に処するの必要を認めず」と云われしほどにて、僅々四年の刑に処せられ、監獄に帰りて、看護夫に取り立てられたことがありました。これが動機となりて彼の両親及び妹までもその後悔い改めて信者になったと聞きました。

(『恩寵の生涯』大正六年警醒社版166~168頁より書き写す)

※岩波の「近代日本総合年表」によると、明治四十三年は、魔法瓶が輸入される。トルストイが亡くなる。リルケが「マルテの手記」を書く。幸徳秋水が逮捕された、などの記事が目につく。満州支配をめぐり日露間での綱引きも盛んであり、官立の各種専門学校(上田蚕糸、小樽高商、新潟医専、米沢高工、秋田鉱専)の新設があり、石川啄木は「時代閉塞の現状」と稿を成したとある。民業が圧迫され、上からの近代化・資本主義化は日本のやむをえないコースであったのか。各産業の核になるべき中堅技術者を養成するために専門学校を官立として国税から割き投入している様がうかがえよう。その中で主義者への捕捉が始まる。啄木は閉塞感を著していた。そのような時勢、時が良かろうと悪かろうと、好地のように福音一筋に魂の解放をただひたすら求めた生き方があったことを知る。(引用者注)

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(旧約聖書 詩篇32・1~2)

(写真は明治四十五年当時の著者の姿,、再掲)

2008年10月 7日 (火)

第三十六回 全国旅行(4)

Dscn4961  数日の後家内を東京へ送り返して、私は京都の四条教会へ招かれ三晩集会をいたしましたが、最終の夜に二人の立派な御夫婦が私を捉えて左の如く語られた珍事がありました。

 「私は何某と申して大阪から参った者でありますが、一人の甥が有りまして行く行くは私どもの一人娘と結婚させる積りで楽しんでおりましたが如何なる天魔の魅入りしにや、彼はヤソを信じて何と云っても目が覚めず、遂に明治四十年に家出をしてしまいましたが、風の便りに承れば、何やら東京にて貴方様に救われ、永くお世話になっている由、その節直ちに礼状にても差出すべきのところ、貴下様も同じくヤソのお方とありましたゆえ、近づいて万一自分までがそれにカブれも致しましては、祖先へ対して相済まずと心得、ツイ今日まで御礼も申し上げず打ちすぎましたところ、

当地の某女学校へ兼ねてより寄宿させてありました娘、実はこれも何時の間にかヤソになり、私どもに無断で洗礼とやらいうものを受けたと聞きましたので、驚いて駆けつけ今日学校へ参って退学いたせ、連れ帰ろうと致し居りましたところへ、一人の婦人が見えられまして、ヤソは決してそう恐れるには及ばぬ、ともかくも一度話しを聞いて見て、いよいよ悪い教えと判りましたならば、その上で娘御を引き取られたが宜しかろう、それに今晩は好地由太郎という珍しい先生のお話があるからと云われて、また吃驚いたし、どうしてもお目にかかって御礼を申さねば済まぬとただそれだけの考えで参りましたのですが、お話を伺っている間に段々と心の戸が開かれまして甥よりも娘よりも先ず自分共が第一に悔い改めねばならぬことに気がつきました云々」

 それから大阪へ引き返して次には神戸へ行き、ランバス女学校において数日間御用を勤め監獄をも訪問し、座古あい子という二十有余年間病床に臥して神を賛美し居る不幸なる否幸福なる姉妹とも会い、祈りて慰め又慰められ、それより姫路へ往き組合教会にて数日間御用を勤め、かつて空知在監中に訪問されしことある田中牧師と図らずも名乗り合いなどし、監獄へも出入し、師範学校、中学校、女学校、公会堂などにおいても証をして大いに主の栄を拝することを得ました。

 その間にあった出来事の一を云えば、一人の中学教師の肺病にて既に危篤に迫り居れるを訪問いたした事であります。彼は大のヤソ嫌いで、最初の一度だけは会いましたが、その後は如何にしても遇いません。私は一日中城山に登りて彼の住居を眼下に見ながら一心に彼のために祈りました。そうして山から下りて案内もなく奥の部屋へ廻って見ますと、彼は大喀血をして疲れ切った様子で眠って居りましたゆえ、私は彼の枕頭に座って祈っていました。

 やがて彼は目を覚ましましたが私を見て立腹いたし「貴様は非常識も甚だしい、誰の許可をも受けずに這入って来るとは何事だ、家宅侵入罪だぞ、早く出て往けッ」と云って起きかけましたが、起きる能わず又も大喀血を致しましたゆえ、私は急ぎ金盥を取って近づきましたが、彼は承知せず、私は同情の涙に溢れて思わず金盥に吐きありし患者の血痰を一呑みに呑み乾そうとして、これを口許まで取り上げますと、今まで半身をさえ起こし得ざりし患者は飛び起きて私を抱き止め、涙に咽びて「神の愛が分かった」と云い、遂に二人共に伏して祈りました。それより家族の方へも福音を伝え、一切を神の御手に託して感謝して別れました。

(『恩寵の生涯』大正六年警醒社版162~166頁より書き写す)

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(新約聖書 ヨハネ15・12~13)

(写真は古利根川の堤に自生していた紫式部、牧野植物大図鑑によると、和名は優美な紫色の果実を、紫式部の名をかりて美化したもの、とある)

2008年10月 6日 (月)

第三十五回 全国旅行(3)

Dscf0089  それより再び北海道に渡り各地にて主の栄光を拝し、各監獄及びその他の官署よりは十分の便宜を与えられ、札幌においても特にメソジスト教会の依頼により各地の集会をいたしました。一日牧師と共に宣教師の宅に招かれて会食中、東京の宅より「妻の実父危篤」との報知あり、なお妻の手紙に「既に死せしと思い諦めておった父が福井市に存命し、目下大病ととのことゆえ、息あるうちに一度会うて神様の福音を伝えたいと、腸(はらわた)も千切れるように思うけれども、独りでは行かれず、旅費はなし困っているから是非直ぐと帰って来て福井へ連れて行って下され」と仮名で頭も無く尾(しっぽ)も無く書いてありましたのを、牧師も宣教師も御覧になって同情され、折柄ハリス夫人永眠の報知にも接せられたので、かたがた急に彼方此方(あちこち)へお知らせになり、その晩俄かに祈祷会を催されまして、熱心に祈って下さいました。

 生憎大風雨で数人の来会者しかあるまいと思いましたが、幾百人という多人数の大盛会でありまして、数十名の霊魂も救われ、満場一致、私に「家内を連れて福井まで行き病人の霊肉を救ってくれ」と云われて、旅費をも十分に献げられましたので、私は神の恵みと感謝して、すぐさま別れを告げて帰京いたし、妻を伴いて福井へと急ぎ行きました。

 而して彼の地へ安着し多くの親類縁者らに迎えられ、初対面の挨拶をして、病人の家へ参りますると、一人の老人が子供の守をしながら、我々の方を眺めておりまするのを妻は見て取り「あれがお父さんらしいです」と申しましたが、私は危篤の病人がちょっとの間にあのように丈夫になれるはずはないと思って取り上げもせず、這入って見ますると、確かにそれであったのであります。血というものは争われぬものだと感じました。

 それにしても如何にして然う速やかに快くなったのかと尋ねますると「去る八日の晩七時頃、何故とも知らず急に熱が下がって不思議に癒された」とのことであります。ああ九月八日の午後七時、それは正しく札幌の教会に兄弟方が同情をもって熱心に祈られた、その同じ時刻であります。ハレルヤ、神は慥(たし)かにその祈祷に応え給いました。

 そのおり、私どもは親類などへの土産として聖書を一冊ずつ贈り物として進呈しましたところ、彼らは非常に迷惑いたし「すて子(家内の名)を助けてくれたことは大いに感謝するが、ヤソでは考えものだ」と申し川へ流そうか又は火に焚(や)こうかと云って聖書の始末に困ったそうです。同地にても監獄を訪問し、教会へも招かれなどして、約一ヶ月ほど土地の人々のために働き多くの勝利を得て、感謝して引き上げ、次には大阪へ参りました。

大阪においても監獄を尋ねましたが、折柄かの有名なる「鬼権(おにごん)切り」の某が入監しておりましたので、私は特に某に面会いたし、お役人方御臨席の前において
 「君、入監後、何か旨いことがありましたか」
 「私はただ鬼権の生命を取り得なかったことを残念に思います」
 「君は鬼権をやッつけて、金鵄勲章をもらいましたか」
と問えば某は不思議そうな顔をして答えず、またお役人方も驚いて私の顔を眺めました。私はなおも進んで
 「君が鬼権に切りつけたばかりに、鬼権は目が覚めて、過去の不義なる生涯を悔い改め、今は神を信じて善をなさんと努めるようになりました。これ一に君のお蔭である」
と申しますると本人は図に乗って鼻を高くし、お役人方は呆れて「斯かる事は御注意申す」と警告されました。しかし素人は医者の処方に嘴を入れる権利がありません。私は更に進んで

 「君が彼を殺そうとした動機は何であったか。彼が余りに非道にして世人を苦しめるゆえにその害を除こうとしたのであろう。彼は今既に心を改めて神と人と の前にその罪を謝し、洗礼をも受けてキリスト信者となり、君に対しても僕に依頼して聖書を差し入れ出獄の暁には引き受けてお世話をもしようとまで云われ、 今日も特に典獄に願い出で、彼に代わりて君に御面会致した次第であります。君も己が罪悪を自覚し悔い改めて、神と人とに謝し、真に国家のためになる人とな り給え。僕も昔は大罪を犯して二十三年も鉄窓に繫がれし身なれど、心より悔い改め今は大臣より許可を受け斯くは全国の監獄を巡回して救いの道を宣伝するの である」熱涙を流して説きますると、彼は直ちに腰掛より落ち大声をあげて泣き「誠に申し訳がありません」とお役人方へもお詫びを申しその後は全く別人の如 くなりましたと、典獄殿は話されました。このような事実は他にも多くありますが略します。

(『恩寵の生涯』大正六年警醒社版157~162頁より書き写す)

ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。・・・こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。・・・(新約聖書 使徒12・4~5)

(写真は南フランス・アヴィニヨン橋、数羽の鳥が飛び交う。何世紀か前に洪水により橋は流されたそうだ、今もそのまま。”アヴィニヨンの橋で踊ろうよ、踊ろう・・・”の歌詞で有名だ。2006年11月撮影。)

2008年9月28日 (日)

第三十四回 全国旅行(2)

Dscf0257  面白かったのは、主婦の夫人が私ども二人に向かって「宅では一昨日も私を責めまして、あれほど親切にお前のためを思うて教えに来てくださる方を、お前はろくに挨拶もせぬとは何事かと申しますゆえ、私も腹を立てまして、私はどこまでもヤソは信じませんと申しますると、宅は怒って私の頭の毛を握って、これでもかこれでもかと押さえつけましたので、私は大きな声を出して、首がもげても信じませんと申しますると、主人は驚きて両手を耳に当てて逃げました」と笑いながら話しておりましたところへ、ちょうど御主人が帰って来られましたゆえ、私が両手で耳を押えて「これ式をやったそうですね」と云って大笑いをいたしたことであります。

 病院長の博士方にも泊められて永く御厄介になりましたが、幾日経っても奥様がお見えになりませんゆえ、私も不思議に思いご主人に伺いますると「事情ありて人に会うことを好まず、困り入る」との御返事であります。事情とは結婚後子無きを苦にされての神経衰弱ということであります。止むを得ず他より一人の子供を貰われ、育ててはおられまするが、好かったり悪かったりで、なかなか旨く往かない御様子です。私は祈りまして、ある日ちょっとお目にかかりましたが、直ぐと奥へ這入ってしまわれました。

 しかるにある夜博士に向かって「我が子と他(ひと)の子といずれが愛深きか」と云う話を致しましたところ、博士は「そのお話を是非家内へもお聞かせ下され」と云われて、奥から夫人を導いて来られましたゆえ、私は「すべて神の旨に従う者はこれ我が兄弟わが姉妹わが母なり」※と仰せられたキリストの御言葉に基づきて「主に在る者は凡ての事に於いて感謝することが出来ます。現に私も出来ております」と神の愛について半夜物語り、不思議にも夫人の心一変して春の如き心となり、神の愛を求むる心となり、爾来数十日の間多大の奨励を私に与えるようになりました。

 しかるにある日のこと、夫人は私に向かって「私には固疾の胃腸病と脳病とありますが、神様は癒して下さるでしょうか」と問われました。私は答えて、「もちろん、神様に願えば直して下さるに相違ありません。けれどもそれには一つの条件があります」と申しました。而してその条件とは「他なし夫人の最も嗜んでおらるつ酒煙草を廃する事」であると明言するや、夫人は色を変えて「折角これまでお導きを蒙りましたが、私にはとても出来ませんから、今日限り止めて旧(もと)の自由に帰ります」と断然撥ね付けてしまわれました。

 私は静かに「それはお目出度う存じます。しかし折角不老不死の神の恩(めぐみ)をお受け遊ばして又それをお捨てになり、そうして前にお捨て遊ばした老病死の厄介物を再びお拾い遊ばすと云うのは誠にお気の毒に存じますが、是非お捨て遊ばしますならばどうか私に拾わせて下さい」と申し上げますると、夫人も悟られまして「とにかく今夕まで考えさせて下さい」と云われて、奥へお入りになりました。

 私もまた外へ出でまして夕方に帰ってコーヒーを飲んでおりましたところへ、主人も帰って来られ、しばらく話しておりますると、博士は何やらしきりと探す様子でありましたが、遂に呼鈴を押して女中を呼ばれ「巻煙草はどうした」とのお尋ねであります。なるほど見ればいつもある巻煙草が器物もろとも姿を隠していました。すると間もなく夫人がニコニコと笑いながら出て来られ「私が今日酒と煙草は残らず片付けてしまいまして、最早家には一滴の酒も一本の煙草もありません」と云われ、今朝私と別れて後決心して捨つべき者を捨て取るべき者を取る気になった一部始終を物語られました。夫人の実家が煙草の製造に従事さるるために陋(いや)しい考えよりして、喫煙を人にも勧め又た自分も好きになったのだと告白されたのであります。(『恩寵の生涯』大正六年警醒社版154~157頁より書き写す)

※引用者注 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(新約聖書 マタイ12・50)

(写真はゴッホ「跳ね橋」の舞台となった南フランス・アルルのヴィゲイラ運河 Canal du Vigueirat 2006年11月撮影。)

 

 

 

2008年9月27日 (土)

第三十三回 全国旅行(1)

Dscn4465  北海道の巡回が未だ意の如くに捗らぬ中に早や、内地より急報ありて「是非々々来たりくれよ」と数回に及びましたので止むを得ず、引き返して某鉱山を訪問しました。同地はキリスト教の評判宜しからず信者は迫害に堪えずしてその信仰を捨て、あるいは隠しなどして、伝道師さえも引き上げたる所とて、如何とも手のつけようなく、山に登って数名の信者と心を合わせ途の開かれんがために、熱心に祈りたれども、何らの効果見えず。病院に一人の信者の看護婦ありと聞き、早速訪問したるところ「院長の診察最中にて抜けられず、午後一時ごろお出でを願う」とのことゆえ、「鉄窓の二十三年」一冊を贈りて引き返し、某氏方にて話しおるところへ、院長の使者来たりて「是非御面談申し上げたきにつき来訪を乞う」との手紙を渡され、「何事なるべきや」と某氏に相談すれば、耶蘇嫌いの院長の事ゆえ善くない用事に相違なし「急ぎ立ち退いた方がよろしからん」との怖気(おじけ)づいた返事であります。

 しかし折角お導きと信じて参った以上は「十字架にかけられても悔やむところはない」と覚悟を定めて病院へ行って博士を尋ねますると、案外にも「こちらから伺うべきのところお呼び立て申して恐れ入る」と丁寧に挨拶され、さて言わるるよう

「実は今朝診察の際机上にこれなる書物『鉄窓の二十三年』の載せあるを見、最初はなんとも思わざりしが、この『鉄窓の二十三年』なる文字がいかにも気にかかりて、診察の邪魔となり、他の物を上に載せて覆い隠しても、なおその下にありと心に映じて忘れあたわず、更に後ろ向きとなって診察して見ても、なお念頭を去らず、当惑の余りに『どうした書物か』と看護婦に問えば、答えて『在監二十三年の出獄人の改心顛末にして、その主人公は今朝ここへ訪問されたり』と云うので、いよいよ不思議と心得、看護婦より借り受け、昼食の折に、目次を読み、序文を読み、本文を拾い読みして感じ入り、是非ともお目にかかりたく存じ云々」と。

 而してついに院長自身の主催にて、三晩数百名の聴衆を集めて盛んなる集会を開くことを得たのであります。その結果として同地に四十日間滞在することとなり、その間に多数の信者と多額の献金を与えられ教会堂さえ建設の運びとなるまでに至りました。

 その間の出来事の一つであります。一人の課長某氏一日大いに恵まれ「今晩は是非とも私方へお泊まり下さい」と私を案内して、同時に「しかし家内は大のヤソ嫌いでヤソのヤの字を聞いても病気になる位ゆえそのおつもりで」と堅く注意されました。而して主人とともにその家へ参りましたのは十二時過ぎでありましたが、夫人はすでに子どもとともに休みおられしゆえ、私はその夜は主人とともに休み、翌朝無事に夫人に挨拶を済ませましたが、食事の折に思わず祈祷を致しましたために、たちまち耶蘇の正体を現し、夫人は色を変えてその場を逃げてしまわれました。私は同家に十数日訪ねまた泊まりしも夫人とは面会の機を得ず、ある時のごときは押入れに隠れておられたというようなこともありました。

 然るに土地の上流婦人の婦人会に大悶着が起こり会長は新聞にまで出されてひどく攻撃され、これがために主人から離縁状を突きつけられ、当惑しておりましたのを会員らが心配いたし、集会を開きて善後策を講じおる折、会長夫人が「近頃耶蘇の人にて不思議な力を持っておられる方が来ておられると言うが、どなたか御存じは無いか」と云われしを、右のヤソ嫌いの婦人はその人ならば私の宅へ毎日のように来たり泊まったりされますが、家の主人もかぶれてどうやらヤソになったらしく、私は嫌で嫌でたまりません」と申しますると会長は「ヤソの人は親切だということゆえ、是非その人に紹介して下され」と云われて、断りもされず「では私の宅へ御出であそばせ」という様な事になりまして、ある日私が十八回目かでお尋ねしますと、不思議にもその日は快く迎えられて「某夫人があなたにお目にかかりたいとて、只今お出でになっております」とのお言葉でありました。

 私は喜んで奥へ通り面会いたしましたが、その方も一人の子供をお連れになりまして、家の三人の同勢と四人の子供が泣いたり騒いだりして旨く会談 (はなし)ができません。私は主婦なる夫人に向かいまして「私は奥様をヤソにするためにお宅へ参るのではありませんから、御安心遊ばせ」と云いました。す ると夫人も大分打ち解けられていろいろと話を致しましたが何分子供の騒ぎが邪魔になって仕方がありませんので、両夫人は「父親が甘過ぎるから子供が言う事 を聞かんで困ります」と主人攻撃を始められましたゆえ、私は神に祈りて一策を廻らし「奥様方、私は子供を手なずける事が名人ですから、ちょっとお待ち下さ れ」と申しまして、上服を脱ぎ、子供らを中庭に連れ出して、相撲を取り、鬼ごっこを致しなどして、子供らと面白く遊んでいますと、夫人らも見物いたし、 「なるほど子供は無邪気で親の苦痛も知らずに」など物語っておられました。

 それから私は子供らを十分疲れさせた後で、井戸端へ連れて参って、夏の事ですから、水を汲んでよく洗ってやり、しかる後に座敷へ連れて行き、生ぬ るい話をして聞かせますると二人は直ぐと眠ってしまいましたが、あとの二人は「それから、伯父さん、どうしました」と言ってなかなか眠らず、仕方がありま せんので私は五銭銀貨二個を与えて「何でも買っておいで」と申してようやく外へ出してやりましたので、両夫人は私の気の長いのに感心いたし、心を開いて私 の話を聞くようになり、ヤソ嫌いの夫人が先ず第一に信仰の心を起こして「宅のヤソは違いますが、先生のようなヤソならば私も好きです」と言われて、その日 に二人とも救われました。(『恩寵の生涯』大正六年警醒社版147~153頁より書き写す)

『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』(新約聖書 ヨハネ15・25)

(写真は今から46年前大学受験に失敗し、半年ほど下宿させてていただいた京都・D院の懐かしき庭前の風景。今夏撮影。)

2008年9月23日 (火)

番外編二

Dscn4915  左は好地由太郎、四十八歳の時の写真。好地由太郎は慶応元年(1865年)千葉県君津生まれ。彼の『恩寵の生涯』の序を引き受けた昨日掲載の有馬は文久四年(1864年)鹿児島生まれであり、本日の留岡は元治元年(1864年)岡山県高梁(たかはし)生まれである。このほぼ同年ではあるが、環境・育ちの違う彼らが監獄を通して一つに結び合わされる。「無期徒刑囚」好地、「典獄(刑務所長)」有馬、「教誨師」留岡の三者である。この中では一番早く留岡が福音を知る。彼は同志社在学中次のことを知ったという。

 人間社会に二つの暗黒がある。一つは遊郭であり、一つは監獄である・・・聖書の・・・「神は光なり、光は暗きを照らす。」※という言葉の「暗」はこの遊郭と監獄とであり、福音の光りこそ、この二つを照らす使命があるのだと感じた・・(『有馬四郎助』84頁)

 ここに社会福祉事業に熱意を持つ人々の原点の一つのルーツがあると言える。そしてその働きは尊く、彼らが自分自身の内側にある罪、暗黒に無関心であったとは思いたくないが、「暗」が遊郭と監獄と限定するところにヒューマニズムに堕する恐れがあったと私は思う。なぜなら「暗」は己が内側の罪であり、光はイエス様ご自身であるからである。

 とまれ、留岡幸助の序を紹介しよう。

 好地君は先年『鉄窓の二十三年』とぃう一書を著し、これを世に公にせられた。こは同君不図したことの誤りから縲紲(るいせつ)の辱めを受け、所謂 二十三年の永き鉄窓生活を営む中に、これも亦不図したことから神の恩寵に浴し、天光を拝するに至った経過を偽らざる筆をもって記述したもので、云わば同君 の自叙伝とも称すべき著書である。爾来星霜拾数年、この間君は福音の宣伝者となり、あるいは個人または団体の葛藤不和を生じたる時の解決者となり、時に膝 詰め談判で神の教えを説き、時には又個人の家に泊まり込んで、聖書の講釈をするなど、以前とは全く別人のような清き、正しき、尊き人生を歩み、今なお実際 的福音の宣伝者として、全国を行脚されておる。この忙しい生活の間から、その暇々を利用して、旧著を訂正増補し、再びこれを公にするに当たり、予に序を求 められた。

 回顧すれば、君と予との交際も、随分久しいものである。今を距る約三十年前、予は教誨師として、北海道空知集治監に赴き、ここに四年間在勤した。空知集治監と云えば、最も狂暴なる犯罪者のみを収容する北海道随一の監獄で、従って在監者も常に二千人を下らなかった。予はこの在監人を相手に、総囚教誨と云って、全監の囚人を一堂に集めて、道徳的訓話をする時もあった。又個人教誨と名づけて、個々人々を自分の室に呼び出し、あるいは監房に訪れるなどして、その人々に適当した教誨を試みたこともある。この外、特別教誨として志望者のみを集めて、聖書を講義したこともあった。この特別教誨の一組は、当時実に五百人の多数に上っていた。五百人を抱擁する日曜学校に聖書を講義したものは、恐らく当時においては自分をもって嚆矢(こうし)としたのであろう。而して前記五百人の内に、後年の実際的福音の宣伝者たる好地君がおろうとは、神ならぬ身の固より知るべくもなかった。しかし神の御業は、不思議な所に働くものであるということを、沁々感ぜずにはいられない。

 さても好地君は、その後出獄して、我が家庭学校に職を奉じ、互いに相助けつ、助けられたことさえ忘れがたき一なるに、さらに忘れがたき一事は、君が我が校に在職中、荊妻(けいさい)が月下氷人となって、君の妻君を世話したことのそれである。こういう不思議な巡り会わせで、君と予とは親戚同様の交わりを結んでいる。然れば君の心機一転は自分の心機一転であるようにも思い、君の潔斉的生活は、自分の潔斉的生活とも感じて、今後さらに君が清高な歩みを続けられんことは、予の衷心より希望して止まない所である。

 君が前半の生涯は、一見不幸な生涯であったに相違ないが、後半の生涯を通じて見ると、君は格段豊かなる神の恩寵に浴した人と謂わねばならぬ。恐らくは今後とてもさらに一層恩寵の生涯を続けられるであろう。又かくあるべきを信じて疑わないのである。『鉄窓の二十三年』が改題せられて『恩寵の生涯』となったのも、寔(まこと)によく君の生涯を標徴するもので、この書のためにも、又君のためにも祝賀せざるを得ない。『神はこの石をも能くアブラハムの子となし給う』※※との語は、君によって十二分に証明されている。冀(こいねがわ)くはこの書を読む諸君子が、斯くも著名なる事実によって、新たなる生命を発見せられんことを望むとともに、我等神を信ずるものは、更に一層信仰の道に進みたいものだと思う。たまたま序文を求められたまま、所懐の一片を陳じて、責を塞ぐ次第である。

大正六年初夏
   若楓に風薫る巣鴨の寓居において
                             留岡幸助

以下は引用者による注
※新約聖書 ヨハネの福音書1・4~5を指すと思われる。新改訳では「このいのちは人の光であった。光はやみのなかに輝いている。」
※※新約聖書 マタイの福音書2・9後半

 私は日々この『恩寵の生涯』を手にする時、亡母の生涯を重ねて思わずにはおれない。亡母は大正六年(1917年)に生まれ、昭和三十六年(1961年)に亡くなった。余りにも早い死であった。その母と同年の一書は私の手許に100円の値をつけられ、捨てられたも同然のものとして年初転がり込んできた。すでに本の各頁は黄いばみ、背表紙は痛めつけられ、傷ついていた。傷は畳の上の傷とは思えず、一旦地に捨てられたとしか思えない傷のつきようである。しかし、すでに滅んでしまった母の体と違い今も厳として存在している。それゆえ私にとってこの本は限りなく愛おしい。その母の死を私とともに嘆いてくれた叔母も先ごろなくなった。人の命ははかない。いやこの本も何年か先には確実に滅びて行くだろう。滅びずして永遠に続くいのち、「恩寵の生涯」にとどまりつづけたい・・・

 

2008年9月22日 (月)

番外編一

Dscn4916   左の写真は『恩寵の生涯』の著者好地由太郎の出獄当時の写真です。

 先日、人物叢書『有馬四郎助』の紹介をしましたが、肝心のことを抜かした嫌いがあります。有馬は好地が赤い服を着せられワラジばきで足を鎖でつながれ炭鉱労働を課せられていた北海道空知集治監時代の第二課長でした。その後好地が特赦を受け、無期から有期に、更には空知から内地の神奈川監獄へ移された時、その典獄が一足先転勤で内地に来ていた有馬でした。その上その神奈川県監獄から明治三十七年四月十五日に改心の情、認められ出獄します。その言い渡しをし、かつ身許引受人になったのが有馬でありました。(第二十回神奈川監獄、第二十三回自由の身(1)など参照)

仮出獄は早朝の日の出とともに、裏門から出されることになっている。好地は衣類の小さな風呂敷包み一個、その中には大切な聖書が入っている。扉が開いて外に出た。そこには和服を着た有馬典獄が立っていた。彼はその時はじめて知った。出獄するためには身許引受人がなければならない。自分にはそんな人は一人もいない。そこに散歩でもするように立っている典獄こそ、自分の身許引受人となって、ここに来ていてくれたのだと。新たな涙にむせんだ。実に二十三年振りの娑婆である。未成年囚が今は四十歳であった。有馬は、今日は署長ではない、君の友達だ。そう言って好地を署長官舎へ連れて帰った。家族には「お客さんだよ」といって、ともに祈り朝食をした。短い白絣の着物を着て、鋭い目の男であったと、家族は今でもその時の思い出を語っている。(『有馬四郎助』131~132頁より)

 以後、好地が結婚の際、媒酌人をしたことは既にご紹介したとおりです。そして『恩寵の生涯』出版の折、明日掲載予定の留岡とともに紹介文を認めたのが下記のものであります。

 我が同信の友、好地由太郎君ここに「鉄窓の二十三年」を出版し、具(つぶさ)に前生涯の暗黒面と、再生後の新生涯とを語り、もって驚くべき神の御摂理と、主イエスの矜恤(きょうじゅつ)とを、現実的に証明せられぬ、
 余は当時の関係上、聊(いささ)か一言を巻首に加えて、紹介の意を表せしが、爾来この真率なる書物によりて、石をも化してパンと為し給う、神の聖業の明らかにせられたる為に、啻(ただ)に囹圄(れいご)の中に苦しめる囚者に、無二の福音たりしのみならず、一般読者の心眼を啓きしとにおいて、如何に効益のありしかは、蓋し知る人ぞ知るところにてあらん、
 然るに今又た神の奇しき御手の綿々として絶えず同君の上にあり、その後の恩寵の更に絶大なるものあるを、黙止するに忍びず、ここに再び恩寵に満てるその後の感謝の生涯を告白して、前書の後編とせらる、
 余常に同君に交わり親しくその平生を知る者、而して又たともにその恩寵の大なるに感涙する者、いかでか又たここにその辞なきを得んや、すなわち嘱せらるる儘に、一言を加えて之が序と為しぬ、
 読者この書物によりて、神の愛の如何に大に、又た如何に濃やかに、加之もその愛の益々加乗せらるることの、如何に大なるかの事実を知りたらんには、これは独り編者の本望のみと言うべからざるなり。
               小菅監獄官舎に於いて
大正六年初夏             有馬四郎助

 以上が有馬と好地との関わりですが、行刑の実践そのものではないでしょうか。そして特筆すべきは関東大震災時(大正十二年)における、彼が所長であった小菅刑務所の姿であります。

 このときの小菅刑務所は、明治二十一年(1888)の建築で、煉瓦造りを主とし、内容・外観ともに備わった刑務所建築界の、一異彩といわれる程の建物であり、当日の収容者1295人、・・・刑期十二年以上無期の重罪者ばかりであった。・・・第一震がいきなり猛烈な激震であったため、構内各所の大地に大亀裂を生じ、唯一の防御壁である内外の煉瓦塀は一斉に倒壊・・・このような変災時に対して、一人の逃走も出ないばかりか・・・(『有馬四郎助』223頁231頁)

 有馬氏がのちにアメリカウィスコンシン大学社会学教授ギリンをして世界行刑官の象徴であると言わしめたできごとであります。もとより彼が完全無欠の人であったわけではないでしょう。しかし刑務官として後進に大きな模範を示したのは事実であります。2000年前パウロも獄にあり、地震を経験しました。その折の聖句を紹介します。

目をさました看守は、見ると牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。(新約聖書 使徒16・27~28)

 

2008年9月21日 (日)

第三十二回 聖城団(2)

Dscn4910  『恩寵の生涯』(好地由太郎著警醒社版大正6年)143頁~147頁より

 さて私は全国の監獄及び慈善事業の視察旅行を思い立ち、司法省よりは各監獄署長へ宛て、また留岡校長よりは各慈善事業団体へ宛て、御紹介の書面を頂戴いたし、先ず第一に九州方面を巡遊せんと思うて、準備をいたし、新聞紙上にもその旨広告して同情者諸君の御祷告をお願い致しました。司法省からの御紹介は以下の通りでした。

 拝啓益々御清康奉賀候陳者「鉄窓の二十三年」を著し自己の改心顛末を記述したる好地由太郎君今般全国の監獄及び慈善事業視察のため巡遊致したく貴監獄へも参観申し出候間御差支え無き限りは相当御便宜を与えられ候様相願いたく茲に御紹介かたがたかくのごとく貴意を申し候早々
 二月十日               司法省監獄課長  直木生
全国監獄典獄殿

 すでに出立の時日も確立いたし、一日某所の送別会に臨みて挨拶方々一場の証をなし、いざ別れを告げて辞し去らんとしたるに独りの青年私に追いすがって「北海道の実家にまで同道して下さい」との切なる嘆願であります。私は「既に九州へ向かって出立する事に万事準備を整えたれば」と申して一旦は断りましたが、いろいろと青年の家出したる事情など聞きまして、大いに同情すべき点を発見しましたので、これ却って「神の聖旨」であるやも知れずと篤と考え又祈りたる末、確かにそれと信じて、俄かに旅程を改めて青年とともに先ず北海道へ参ったのであります。しかして第一に青年の実家を訪問して、久しく不和合なりし一家を主の前に和(やわら)がしめ、親子兄弟ともに神の恵みを感謝するに至りて、同家を辞し、それより各地を巡回し、監獄をも訪問し、到る所に御親切なる待遇を受け、喜んで主の証をする事を得ました。

 一日某所にて説教したる後、一人のある知名の令夫人を訪問しました。名刺を差し出しますると夫人御自身に出で来たりて、矢庭に私に取り縋られました。私は不思議に思うて奥へ通りますると、夫人は
 「実に不思議です。如何にして私の家をばお尋ねありしか。私は二十三年監獄におりますが、未だ出獄が出来ません」
と言って泣かれました。私はいよいよ不思議に思いまして、段々と事情を伺いますると、夫人は少女の時に神を信じた人であったが、人の妻となっては理想通りにはゆかず、二十幾年を経過し来れる今日、数人の子女もあり衣食には些かの不自由も無けれど、夫なる人結婚当時と異なり、大酒を飲み女狂いをなすに至りて、家庭の平和は奪り去られ、あたかも牢屋に居る如く、今に出獄できぬ次第と判りました。夫人は失望の余りに自殺せんとさえ思いし程にて、精神も肉体も甚だしく疲労されましたが、友人に誘われて過般キリスト教の説教を聞かれし折、牧師が私の悔い改め顛末を語りしに感激し、早速「鉄窓の二十三年」を借り来たり、その夜のうちに通読し「かくの如き大罪人をかくまでに救い給う神は、わが夫を救い能(あた)わぬはずは無い」と信じて、私を尋ねて相談せんため上京の準備までされましたが、雑誌の上にて好地は九州へ向かって出発すると承知し、痛く落胆しおられし所へ、思いがけず私に訪問されたのであったそうです。実に不思議な御導きであります。私が九州へと志したにもかかわらず神は北海道において私を要求し給うたのです。青年が私を強いて北海道へ同行したのは確かに神の御手でありました。

 夫人はその晩救われました。十二時過ぎまでもともに語りともに祈っておりますると、俄かに襖が開いて、今朝急用のために内地へ向かって出発されたはずの主人が泣きながら入って来ました。私も夫人も驚いて挨拶をすると主人は
 「今朝出立して既に汽船まで行き、青森を経て九州へ行かんとせしが、何故にや胸騒ぎして、急に家の事が気に懸かり、足も進まずなりましたので、思い返して帰宅いたし、女中に聞けば、家内はあなたと会話(はなし)をしているとの事ゆえ、女中に申して忍び入り、実は先刻よりのお話を承りて、かつ驚きかつ愧(は)じて、遂に堪まらず這入って参った次第です」と涙ながらに告白して、その夜の内に悔い改め、夫人とともに神に祈り、それ以来熱心な信者となって一家睦ましく暮らしておられます。

主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。(新約聖書 ヤコブ4・15 引用者引用聖句

写真は秋のバラ。)

2008年9月20日 (土)

第三十一回 聖城団(1)

Dscn4908  『恩寵の生涯』(好地由太郎著警醒社版大正6年)137頁~142頁より

 翌年は明治四十年であります。桜の花咲く頃には私どもは向島の須崎へ引っ越していました。自宅にて集会を致し、花見客のためには天幕伝道をなし、また聖城団と名をつけて出獄人および不良青年の保護にも従事しましたゆえ可なり多数の人手を用いて夜も昼も伝道する事を得ました。時あたかも上野に、大博覧会開設を好機として、キリスト教諸派協同の天幕伝道が催され、私も団員数名を率いてこれに参加し、毎日幾千の人々にキリストの福音を宣伝しました。

 そのころ松山監獄より特に典獄殿の御依頼にて、熊蜂と呼ばるる有名な出獄人を引き受けて保護する事になりました。入監十九回にして在監年数十八年という難物であります。何ゆえに十九回も入監したかと聞けば、皆酒のためだと申します。何ゆえに「熊蜂」かと問えば、酒を飲むと誰彼の容赦なく飛びついて行くからだと申します。しかし私方へ参りましてからは悔い改めて真面目な生涯に入り、私を助けて伝道にも出かけてくれるようになりました。しかるに一日私が外から帰宅しますると、母の話に、彼は二階に大酒を飲んで暴れているということでした。上がってみると如何にも大変な権幕です。彼は酒店から二升樽を取って参って、冷酒をコップで呷りながら大声で賛美歌を歌っていました。私は静かに彼の前に座りて「大分飲めるね」と云いますると、彼は「先生、酒を飲んで愉快です。先生も一杯やりませんか」と申します。私は心で神に祈りをしまして「君も苦しいであろうから、僕が看護するゆえ、安心して休み給え」と穏やかに勧めましても、やめませんで、なおも大声に賛美を歌うて私に逆らいますので、私はいよいよ心を込めキリストの愛をもって説き宥めましたところ、ようやく治まり「先生、この酒を飲んでしもうても宜しいですか」と申しますゆえ「宜しい、飲みなされ」と答えますると、彼はコップに波々と注ぎまして口まで持って行きましたが、何思いしにや、そのコップも酒樽も矢庭に外へ投げ捨てまして、その場に悔い改めたことがあります。

 彼はその後ある日外にて喧嘩いたし、家に帰るや又も大酒を飲み、仕込み杖を振り回して私へ切って懸かりました。私が無手にてその前に立ちますると、いよいよ怒って私に切り付けましたが、胸のところを着物を切ったばかりで、幸いに体へは達しませんでした。その時彼は私の前にへたばって赤心から悔い改めましたが、それからは家内中第一番の働き人となり、大文字の十字架入りの法被を着ては良く伝道の助けを致しました。この「熊蜂」へ、その後私が媒酌人となりまして、かの「蟒(うわばみ)」のおみねさんをお世話いたし、熊蜂と蟒(うわばみ)とは神と人の前に式をあげて目出度く夫婦となったのであります。

 その年は洪水が出まして、向島では多数の人々が水難に遭いました。私の宅は幸いに高地でありましたゆえ、天幕伝道用の板をもって筏(いかだ)を多く造り、宅の青年らを励まして多数の遭難者を救助いたしましたので、土地の人々から私の家は「箱船」と呼ばれて、神の聖名が崇められました。

 明治四十一年には大久保百人町三九一へ家を建てまして、家族とともに引き移りました。聖城団の青年らも大方始末がついて向島を引き払うことが出来たのであります。なお有形の小さき聖城団を廃して、更に無形の大なる聖城団の建設を志したからであります。

 かくてある日招かれて千葉県の市川町へ参り、某家において集会をしておりますると、警察署長より「来て頂きたい」とのお招きであります。何事ならんと行って見ますれば、署長曰く
 「一人の青年鉄道自殺を企て、すでに危うかりしところを助けられたるが、如何に説諭を加えても自殺を思い止めず。留置場に入れて保護しおれるが、何卒御説得を願いたし」
とのことでありました。他にも謀殺事件にて三人の犯人留置されおると承りましたゆえ、その三人にも聞こえるところにて、私は青年に面会いたし
 「君は死にたいというが結構な事です。世間の人々は皆死にたくないというではありませんか。実は僕も君と同じような事があったが、悔い改めてキリストを信じ、今は生命(いのち)を捨てて伝道に従事しているのです。キリストは
『生命(いのち)を愛(おし)む者はこれを失い、生命(いのち)を捨つる者はこれを得べし』(※)と教えられた。君、死にも二種あります。美しきことのために死ぬると悪しきことのために死ぬると、君はいずれを選ぶのですか」
と申して、自分の悔い改め顛末を語り、二時間余りキリストに一命を捧げて「〇、一」となり、国家のために犠牲となって死も且つ厭わず奉仕するとの幸福を説いて、別れを告げましたが、青年は何らの決心もつきませんでしたが、謀殺犯の三人は大いに悟るところがあって、その後一切を自白して潔く服罪したとのことであります。

※ルカ17・33の文語訳と思われるが、現行の文語訳とは違うので元訳かもしれない。(引用者注)

(写真は今朝の朝顔。郵便ポスト、ハーブとともに「おはよう」と一言。)

2008年9月14日 (日)

第三十回 浅草伝道館(4)

Dscn4803  越えて明治三十九年を迎え、三月二十二日浅草警察署よりお呼び出しがあり「向こう三ヵ年の監視全免」の特典にあづかることになりました。私は仮出獄を許されて既に自由な身とは申しながら、なお「監視付」と云う甚だ窮屈な身の上でありました。官においてもお目を離すことができませんで、時としては疑惑の眼をもって注意されることも無いとは言えません。現にまだ神田に居りました時のことです。一日家庭学校より帰宅しますると、小川町の警察署より二人の刑事さんが来られて「ちょっと来てくれ」と云われ、同道して参りますると、昨夜某家へ三人の強盗が這入って数百円の金品を奪い去ったが「好地、貴様であろう」とのお疑いであります。

 私が何と弁解してもお聞き入れがありませんで「お前もただの男じゃないか、手数をかけんで白状しろ」と云われて、遂には法外の行為にも及ばれますので、よんどころなく黙っていますると、刑事の一人は「お前が昨夜大きな男の背に乗って忍び込んだ所を確かに俺が見たんだ」とまで云われますので、「その時刻ならが自分は家庭学校で相談事があり、一時頃にあっちで臥せりましたのですから、神田に居ろうはずがありません」と如何に申し上げてもお取り上げなく署長殿からも「共犯者を云え云え」と厳しく責め立てられましたゆえ、詮方なく「然らば申し上げます」と申しますると、

 署長も大いに喜ばれ「流石に重罪を犯した者だけあって感心だ、さてその共犯者は誰々か」と問われますから、「それは警監学校の・・・」「警監学校の誰か」「教師・・・」「教師の誰か」「留岡幸助であります」と答えますると、署長は真っ赤になって「この野郎、人を馬鹿にしてッ」と言って怒られました。

 私は論よりも証拠「本人留岡氏をお呼び出しになるか、または電話をかけるかしてお取調べ下さい」と堅く主張いたしましたので、署長は見て取り「宜しい判った。十分注意しろ」と云われて御免(おゆる)しになりましたが、私も「御用済みとあらば、ちょっと申し上げたい事があります」と申して、そこに居る方々へ自分の悔い改め顛末を大略お話申し上げて、引き取った事があります。それが動機となって、後に私のために尽力して「監視全免」の特典をこうむらせて下さったのだと承りました。

 その後は益々自由に、夕暮れは浅草の公園に、夜分は駒形の伝道館において、伝道いたしておりました。その間にも驚くべき事、珍しき事、面白き事、数々ありましたが、ここには略します。

(『恩寵の生涯』135~137頁より引用)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(新約聖書 2テモテ4・2)

(写真は神田川で見かけた美しい芙蓉の花)

2008年9月13日 (土)

第二十九回 浅草伝道館(3)

Dscn4766  いま一つ面白い出来事を申し上げましょう。これもそのころのことであります、ある晩数名の青年が公園内で説教していますると、三人の紳士がシガーをくわえ千鳥足にて通りかかりしばらく立って聞いていましたが、その一人いきなりステッキを振り上げて弁士の背を打って「何だ生意気な事をぬかすな、酒煙草を飲めば地獄へ往くとは何だ」と怒鳴りましたので、見物人の野次馬は手を打って囃し立て、大騒ぎになりました。すると他の一人は我々の株を奪って「僕が説教する」と云って下らぬ事を喋り始めましたるゆえ、私は後へ廻りて「先生しっかり頼みますぜ」と油を懸け、そうして「どっちへお出かけですか」と尋ねますると、紳士は「この二人を連れて吉原へ往くところだ」と答えます。私は「それでは私もお供をさせていただきたい」と申しますると、「よろしい、連れてゆこう」と云われます。

 私は更に「しかし先生と私とで弁士の株を奪って、演説の邪魔をしたのですから、聴衆の方々へのお詫びに先生何か十八番をおやりなさい」と申しましたが彼には十八番の意味が分らず、よって十八番とはお得意の隠し芸のことですと説明しますると、紳士は「隠し芸なら大有りだ、僕は踊りの名人だ」と答えました。そこで私は見物人に向かって「これからこの紳士が踊りをおどります」と披露しますと、見物人は手を打って喜びましたので、私は立ち上がりまして

「諸君。先刻あの青年らが真面目になって真面目な話しをしたら、諸君は、耶蘇の野郎殴れと云われました。只今この酔いどれの紳士が馬鹿な真似をすると言えば、諸君は手を打ってこれを喜ぶというは、何事ですか。諸君、この紳士には妻もあり子女もありましょう。もしこの有様を見せましたならば、彼らは泣かずにおられましょうか。諸君、この紳士は先の弁士が言われたとおり、初めは人酒を飲み後には酒人を飲むで、今は正しく酒に飲まれております」

と赤誠込めて語りだしますると、紳士は変な顔をいたし、聴衆の中には謹聴謹聴と叫ぶものもありましたが、私はなおも進んで

「私もかつては酒に飲まれて人殺しをし、放火をし、罪に罪を重ねて、二十三年間も監獄に繫がれた大悪党でありましたが、キリストの救いによりて生まれ変わり、今は・・・」

と自分の救われた証をいたしました。そのうちに紳士の連れの二人は何時の間にか逃げてしまい、紳士は聴衆に食い止められて逃げようにも逃げられず、当惑しておりましたのを私は労わり助けて伝道館へ導き帰り、親切に伝道いたしました所、酒の酔いも醒めて、彼は遂に本心より悔い改め、赤子の如くなりて私の勧めに従い、私の教えた通りに、老人、妻子、女中六人へのみやげ物を買い調えて、幾年になく、神妙に帰宅いたし、不思議に思いいる、妻子らに対して、さて斯く斯くと涙ながらに顛末を物語りて、我が妻わが子女ながらも、妻子の前に手をついて

「どうか赦してくれ、今夜こそは生まれ変わって真面目な人間となったから」

と懺悔しますると、奥様もお子さん方も皆な声を揚げて泣かれたそうです。

 その晩私が彼をようやく納得させまして、神妙に自宅へ帰ってゆく折の態度を私が先ず模型を示して、手を取って教えたのでありますが、その折彼の懐中から何か光る物がちょっと外へ出ますと、彼はあわててそれを中へ押し入れましたゆえ、私が見咎めて「それは何ですか」と強いて尋ねますると、彼は頭を掻きながら

「禁酒会の会員証です。実は一昨日安藤太郎氏に頼んでこの徽章を貰うたのですが、イヤハヤ何とも申訳がありません」

と言い訳されました。彼は工学士で既に五十の坂をも越えた働き盛りの立派な人物であるにもかかわらず、酒のために幾度となく失敗し、自分ながらも後悔して度々禁酒を誓い、新聞にも広告したれどその甲斐なく、この日も友人送別会に止むを得ず出席して、無理やりに禁酒の誓約を破らせられ、酔いに乗じて吉原へ繰り込もうとしたのであったそうです。

 翌朝私どもは彼のために祈っておりますると、彼は訪ねて来られ、家族の喜悦と安心とを語りて感謝し、かつ涙を流して神に祈祷を捧げました。彼の家庭がその後一変して真の楽しき家庭となり、また彼が立派なる人格を持して真面目に事業を経営しおることは、申すまでもありません。

(『恩寵の生涯』130~135頁から引用掲載)

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れてはあなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネの福音書15・5)

(写真は水曜日夕方、足利からの帰途、立ち寄った大平下のぶどう園のぶどうである。この道40年というぶどう園主は「木に枝が繫がっていれば、毎年ぶどうの実はなる。結ばなければ生きてゆけない。」とも言われた。木はイエス様であり、枝は私たちである。工学士が遊蕩から解放されたのもイエス様に繫がった結果であろう。彼はそのことを経験したのだ。)

2008年9月 7日 (日)

第二十八回 浅草伝道館(2)

Dscn4467  彼女の告白によれば、彼女は「蟒(うわばみ)のおみね」と云うて、その社会には有名の婦人であります。岡山県に生まれ、継母に傷を負わせて、家を去り、東京に来たりて難儀をしある時佃島の波除稲荷へ三七二十一日塩物絶ちの願掛けをなし、その満願の夜丑三つの頃、彼方の木蔭に何か怪しき音のするのに驚きて近づき見れば何ぞ図らん、二人の博徒が刀をもって切り結ぶ危急の場合でありましたので、彼女は大胆にも「静かにせい」と一喝して、矢庭に二人の間へ飛び込み、二人が吃驚仰天して、後に下がって尻餅をつきしを、「まだ若いな」と嘲笑って「この喧嘩を私に任せろ」と云い、そうして一人は神奈川の吉五郎と云い、一人は五大力乗りの安五郎と云う親分格のバクチ打ち二人をば苦も無く呑んでしまったというので、さてこそ「蟒(うわばみ)のおみね」と謳われたのであります。三人はその場で兄弟の誓いをなし、彼女はその後吉原へ入り込み、行者となって人々を迷わし、貴婦人姿をしては悪事をなしおるうち某という壮士と夫婦になり、半年余りも仲良く暮らしおったが、ある日外より帰宅してみると、壮士は国元から尋ね来たった本妻と睦ましげに食事していましたので、大騒ぎとなり、壮士の仲裁にて一旦は仲直りをし、そのまま三人同棲してはいまするが、彼女は残念でたまらず、一層のこと死霊となって二人を取り殺さんと決心し、今日しも隅田川へ投身(みなげ)せんとて伝道館の前を通り掛り捨て鉢の料簡にて「先生へ御無礼を致したのが縁となり、ツイ這入ったのでありましたが、御説教を承って俄かに我が身の上が恐ろしくなりました」とのことであります。

 彼女は即座に悔い改めてキリストを信仰し、私の勧めに従い直ちに壮士のもとに帰りて、一切を打ち明け、二人に向かって「どうぞ御夫婦仲良く暮らして下さい。私をば妹として下さい。私の品物は残らず差し上げます。これでお暇(いとま)いたします」と云いますると、本妻なる婦人は外へ飛び出して逃げ、男は声をあげて泣き「私が悪かった。どうか許してくれ、今まで通り夫婦になってくれ」と頼みましたが、彼女は「妻のある人と同棲するは神の前に姦淫罪なり、ことに自分は神と人との前に悔い改めて既に聖なる新生涯に入りし身なれば」と言い捨て着のみ着のまま私方へ逃げて来ました。すると十二時過ぎにその主人も尋ねて参りまして、これも悔い改めて救われました。夫婦はその後ある家の番頭となり、おみねさんは長く伝道館に泊まって口八丁手八丁で私どもを助けてくれました。

(『恩寵の生涯』好地由太郎著127~130頁、写真は過ぎ去った夏の思い出である入道雲。京都・大徳寺塔頭の一つである三玄院あたりで見た空。)

2008年9月 6日 (土)

第二十七回 浅草伝道館(1)

Dscf0229  明治三十八年七月東洋宣教会より招かれ、浅草駒形町に伝道館を設けて、直接伝道に従事することになりました。二十二日の開館以来連夜説教会を催し、家族ともども働いておりました。場所柄とて聴衆多く、救わる者も多く出ました。警察へ交渉して公園内でも路傍説教をするようになりました。

 そうしてようやく四十日余り経過しますると、九月五六両日のいわゆる※焼打ち事件なる大騒ぎに出会うたのであります。浅草伝道館も焼打ちの禍をこうむりまして、私ども一家族の家財器具約千五百円ばかりのもの、あわれ一場の煙となってしまいました。私どもにとりてはこれまた大なる試練でありました。しかし主に救われたる自分らは地に属(つ)ける一切を失いましても、決して落胆はいたしません。火にも水にもはたまた盗人にも襲われる気遣いのない財(たから)を持っているのであります。館においてはその時あたかも婦人会がありましたので十余名の婦人らは幸いにも怪我もせず逃れ出ましたが、母は石を足へ打ち付けられ、妻は他の一人の姉妹とともに兇徒に後から追い迫られ、大川端に到りて逃げ場を失い、一層のこと河へ飛び込みて死なんといたしましたが手にある聖書を見ると同時に、自殺の罪悪なることを思い出し、殺される覚悟にて引き返し、大胆に群衆の中を通りて不思議にも助かることを得ました。私はまた出先より急ぎ駆けつけましたが、多勢に無勢いかんともする能(あた)わず、わずかに危難をのがれたるのみであります。その折捕えられた七名の暴徒へはその後聖書を差し入れました。

 伝道館は十月に到りて再び開館、例によりて毎夜説教会が開かれましたが、十二月のことかと思います、私が外に立ちて人々に聴聞を勧めておりますると、一人の貴婦人が通り過ぎましたゆえ、私は近よりまして「奥様只今説教が始まっております、お聞きあそばせ」と言って呼び止めました。けれども彼女は黙って行ってしまいます。再三声を懸けますると、彼女は振りかえりて「五月蝿いッ」と言って私を叱りました。私は「それでは何卒これをお読み下さいませ」と申して一冊の雑誌を差し出しました。彼女はそれを烈しく取って直ぐと地の上へ投げてしまいました。私はこいつ曲者と見て取りましたので、なおも進んでその袖を引き「奥様如何です、お入り遊ばせ」と申しまするや、彼女は何思いけん乱暴にも私の顔へ唾を吐きかけまして、そうして「耶蘇は嫌いだ、そんなにずうずうしいから。それだから焼打ちなぞに遭うんだ馬鹿め」と毒々しく申しました。ハレルヤ。

 私はこの時キリストが祭司の長の庭で唾を吐きかけられ給うたことを思い出して感謝しました。私は申しました「奥様私は痰唾をかけられましても、霊肉が太りますが、貴女の行く先は死と滅亡(ほろび)です」と。すると彼女はアッと一声出しまして「ヘン私は今日までお前のようなずうずうしい男に会ったことが無い。耶蘇を信ずればお前のようになれると言うなら入って聞いてやろう」と悪たれ口をたたきながら這入って来ました。私は彼女を婦人席へ案内して、注意して様子を見ていました。説教者は「罪の価は死なり」との聖句を引いて、熱心に悔い改めを促していました。私は彼女のために祈りました。説教の終わる頃、彼女は何に感じてか声をあげて泣き出しました。私は彼女を二階へ導きまして、同情をもって「御心配は何事ですか。お話下さい。及ぶ限りはお力になりましょう」と申しますと彼女は涙ながらに左の如く身の上話を致しました。
※日露戦争の講和条件に不満を持った民衆の暴動、通称「日比谷焼打ち事件」。キリスト教会も襲撃の対象の一つになった。その歴史的証言の一つ?(引用者注)

(写真は側面から見た南フランス・アヴィニヨンの教皇庁。中世ヨーロッパを一時期支配した場所。覆いかぶさる建物の威圧感。最近写真をクリックしても原寸に戻らないので見えないが、建物頂点の位置にキリスト像が見える。浅草伝道館は今は無い。、「主はいずこにありしや」の思いがする。)

2008年8月31日 (日)

第二十六回 自由の身(4)

Dscf0270  母は今日幸いに健在であります故、余り立ち入った事は申上げかねますが、元来がなかなかの勝気な婦人であります。嘉永五年九月十一日千葉県君津郡中島に生まれ、大村八平の長女つると申して、私の実の姉であります。大村家分産のために十六歳の頃より苦労しはじめ、長女なるの故をもって幾度となく裁判所へも呼び出されたりしたと申します。その後東京に出でて新聞記者なる好地重兵衛の妻となり、私に聖書を差し入れんとの動機よりして遂に導かれて芝教会の信者となり、夫重兵衛が同教会の役員をして明治二十一年に永眠したる後は、大村の実父もその同じ年に永眠したり、かたがた私を尋ねて北海道へ渡りしも遭うことあたわず、函館に十余年間産婆を営業し、後再び内地に帰り、私が出獄の頃は神田にありて産婆の傍ら下宿人など置きて立派に自活しいたる程にて、昔から他人の世話になることが大嫌いと言った風ないわゆる男勝りの義人であります。私ども夫婦の生活ぶりが気に入ろうはずがありません。それに家庭における親子、夫婦、嫁姑の関係ほど世にむつかしいものはありません。これは実に神の特別なる御憐れみを要するのであります。私どもは当時まだその訓練が出来ていませんでした。遂に心ならずも母と別れて家を持つことになりました。

 私と妻とはただ二人巣鴨に家を持ちましたが、間もなく妻は大患に懸かりまして、四十度以上の熱は下がらず、衰弱は甚だしく、喀血は止まらず、金は無し、実に困難いたしましたが、幸いに留岡校長御夫妻の御同情と御尽力によりまして、医者にも診てもらい、高田先生のお世話にまでなりましたが、何分病症は肺結核にて既に余程の重態であると宣告されたのであります。その時私は

 「患難(なやみ)の日に我を呼べ、我汝を助けん」(詩篇50・15)

との聖語(みことば)を思い出しまして、医者よりも先ず全能者なる神我が父上なる愛の神にすがろうと決心しました。主キリストは昔如何なる病人をも癒し給うた如く、今にても信ずる者を癒し給うに相違ないと信じて祈りました。昼も夜も絶えず祈りました。断食もいたしました。ある夜のこと、二人ともに祈りて神の慈愛の深さを味わい、感謝とともに百七十一番の賛美歌を歌いし後に、妻が私に「私の病気はどうなるでしょうか」と尋ねます故、私は涙を飲んで、思い切って「お前は折角私のところに来てくれたが最早程なくこの世を去らねばならんが、神の国へ行けますか」と申しました。妻はしばらくして黙しておりましたが、やがて申しますよう「誠に永くお世話になりました。私のような足らない者を今日までお愛し下され、厚く御礼申し上げます」と。ああこれ全く神の力である、神が彼女に言わしめ給うのであると思いまして、再び彼女に「よし今夜死んでも天国へ行けると信ずるか」と問いました。すると彼女は頭を少し起こして涙ながらに「私は何にも分りませんがイエス様が十字架にかかって下さったから信ずる私を必ず天国へお引取り下さると信じて安心しております」と申しました。私はなおも「何か言い置くことは無いか」と尋ねますると、彼女はただ「今一度お母さんに会わせて下さい。私が阿呆ゆえにあなたにまで難儀をかけて誠に済みません」と頭をあげて切に頼みました。

 私は胸を打たれました。自分は我がために二十三年間泣き通した母の恩愛を思えば、よし如何なる難題を言われようとも、どこまでも踏みとどまった母のところにおるべきはずであったのに、わがままにも母を見捨てて出てしもうた。然るに脳味噌の無い我が妻は死に望んで「母に会いたい」と叫んでいると思えば、彼女の愛心に対しても恥じざるを得なかったのであります。またこれまでは自分が不具者なる妻を愛していたとのみ思いましたが、今はかえって妻から霊魂の不具者なる自分が愛されているのだと気がつきました。夜は更けて行きます。妻は「是非今夜会わして下さい」と切望(せが)みます。私はようやく宥めすかして、また二人心を合わせて神の助けを祈りました。

 祈り続けていまするうちに、二人は疲れて眠りました。朝になって目を覚ませば驚くべし、妻は全く癒されていました。トラホームも、肺患も。数日の後には疲労さえも癒されました。医薬の力ではなく、キリストの血によりて癒されたのであります。それから二人して母に詫び、和らぎを得まして、再び母と同居するようになりました。

(写真は南フランス・アヴィニヨン近郊を滔々と流れるローヌ川、「愛」はすべてを包み流れゆく。)

2008年8月30日 (土)

第二十五回 自由の身(3)

Dscn4273  (いよいよ、今日のところは、好地氏独立の年ですが、時代は日露戦争がすでに始まりいよいよ雌雄を決する日本海海戦が始まろうとする前夜の時であります。)

 その折のことです。ちょっと滑稽な喜劇がありました。二人の甚だ御(ぎょ)しにくい生徒がありまして、とっくに退校を命ぜらるべきのところを私が強いて校長に願い他の生徒らが房州から帰ってくるまでと申して預かっておりましたのですが、二人は兇漢らが押し寄せて来たと聞き、一人は腰を抜かし、一人は裸で私について表へ出ましたが、刀だの槍だのひっさげた数十人の荒くれ男を一目見ると同時にペタンと尻餅をついてウツプウツプとへたばってしまいましたので、私はそれを好機会として二人に訓戒を加えましたが、幸いに二人ともその時から変わったように良くなりました。

 さて出獄後既に一ヵ年を経過し社会の様子がやや解って来るにつけ、一層直接伝道の必要を感じ、殊に最も憐れむべき全国の在監同胞数万人に生命の福音を宣伝せんとの心が燃え立ちて参りましたので、校長にはかりて、三十八年五月一応学校を辞して、自由に伝道する事にしました。その便宜として聖書売りを始めました。私に取りて最も縁故深き大切の書物であるからです。

 これより先私は出獄以来母とともに楽しく生活しておりましたのですが、母とても早や年寄ってくることでありますから、妻を迎えなければならぬのでありまして、既に二三の申し込みもあったのであります。そのおりからある日のこと留岡夫人は私に向かって、ある一人の誠に気の毒な婦人「八歳にして親兄弟及び家までも失い、知るべの人に携えられて郷里の福井から東京に出で、普通ならば教育を受くべきのところを悪しき人の手に陥って不幸の身の上となり、十七歳のおりに悪漢の手にかかって重傷を負い、幸いに一命を取り留め、ある慈善家に救われて大学病院へ入れられ、一両年の後退院して家庭学校に引き取られ、某女学校に入学して既に五六年にもなるといえども、十七歳のおりに受けた頭部の創(きず)のために脳を痛めて、低脳児同様、記憶力乏しくして何事も覚えず、かてて加えて二年前よりトラホームに罹(かか)り、長く築地の聖路加病院のお世話になったにもかかわらず、これまた全快の見込み立たざる、世にも不幸の婦人」の身の上をお話になり、

さて仰せらるるよう「好地さん、あなたも近いうちにご結婚なさるやのお話、誠におめでとう存じあげます。それにつけましても気に懸かるのはあの娘(こ)の事であります。どうぞお気に懸けて何処へか安心のできるところへお世話をしてやって下さい」と。誠に愛心より迸り出る切なる御依頼でありました。私はその痛切なる御言葉に胸を打たれて、しばしは言葉も出ず黙っておりましたが、やがて私は夫人に向かって「誰もまだ貰い手が有りませぬか」とお尋ねしますると、夫人は「方々の皆さんへお願いしてはありまするが、何分本人が本人でございますから、どなたも引き受けては下さいません。ですから一層不憫です」とのお答えであります。私は同情に堪えませんで、自分の七八歳の時代から十七八歳の時代と段々考えて見まして「ああ自分も同じような不幸の身であったが、もし女子であったならば今日はどうなっているだろう。自分は男子であったがために人殺しまでもしたではないか、ただキリストのお蔭のみで救われたのだ」と思いめぐらしますると、どうしても自分がその不幸なる婦人を娶って、これにキリストの愛を注ぐのが、神の聖旨(みむね)であるとしか思われませんゆえ、断然決心いたしまして、校長夫人へ「私が引き受けます故、よろしくお世話を願います」と申し上げました。夫人は涙に咽びてお喜びに相なり、ともに跪いて神に感謝したのであります。

 それから校長とも相談し、また恩人有馬氏とも相談して、いよいよ右の夫人と結婚する事に話を始めますると、第一に母があきれて「娑婆に女が無いのじゃあるまい。現に相当の立派な嫁をと言ってくださる方もあるのに、わざわざそんな片輪をもらわなくってもいいじゃないか」と云い親類も知人も一人として反対せないものはありませんので、私も誠に当惑いたしましたが、その後ようやくの事で母だけは同意してくれましたので、双方合意の上にて、明治三十八年四月十五日、神田錦町の自宅において留岡校長司式の下に、有馬典獄の御媒酌にて、神と人々の前にめでたく結婚いたしたのであります。恩義ある諸先輩、友人親戚等も式に列してお祝い下されたのであります。

 かくのごとくそもそもの出発点から非常識極まる突飛な結婚でありまして、妻は私の覚悟したとおり、脳は悪しく目は両方ともよくは見えず、外国女教師の手許でただ気の毒なとばかりにぼうっとして育てられたので、物の数も判らず、平仮名さえも確かには綴れず炊事など知っておろうはずなく教えても覚えず、何をさせても過失(あやまち)ばかりでありましたために、母も遂には我慢が出来なくなりました。それに私は神と人々に奉仕するのだと申して内を外に活動しております。また当時新聞雑誌等に私の来歴が掲載されましたために、いろいろな人が尋ねて来たり、相談に来たりするので、その応接に忙殺されしのみならず、数名の食いつぶしさえ泊まっているにもかかわらず収入はと言えばただ信仰の一本槍にて、有るのか無いのか宛てにはならず、二十三年も社会と離れて、知らぬが仏の無頓着な私の生活ぶりに、母がやがて愛想尽かしを致しましたも無理ならぬ事であります。

(写真は都内某家の能舞台正面「鏡板」に描かれた見事な老松)

2008年8月29日 (金)

第二十四回 自由の身(2)

Dscn4466  やがて新橋へ着しましたが、青年時代に羽根を広げて飛び回った懐かしい東京市、罪悪のために隔てられ、二十三年の長年月、ただ夢にのみ訪れていた都大路今や初老の身となりて再び自由に足を入れると思えば、感慨無量、しばしは思案に暮れましたが、一にこれ神の恵みと感謝して先ず第一に犯罪当時の被害者の主人なりし蠣殻町の某家へと尋ねて参ったことであります。伺いますると、主人公は既に世を去られて今は二代目の御主人快くお会い下され
 「亡父より承りましが、貴君には先年既に謝罪状とともに金子までお送り下され、当方にては悉く感心いたし、心より赦して、今は貴君の成功を祈るのみなれば、何卒立派なる人物となり国のため、また家のために尽力せられよ」
と御奨励下され御丁寧なる待遇(もてなし)を受け、被害者の兄なる人とも和らぐことを得て喜んで暇(いとま)を告げたのであります。これは

 「爾(なんじ)もし供え物を携えて壇に往きたる時彼処にて兄弟に恨まるることあるを憶い出さば、その供え物を壇の前に留(お)き、先ず往きて爾(なんじ)の兄弟と和らぎ、後来たりて爾(なんじ)の供え物を捧げよ」(マタイ5・23~24)

とあるキリストの聖訓(みおしえ)を実行したのであります。

 それより直ちに神田錦町なる母人の住居(すまい)を尋ね唯一声「只今」と音ないましたが、母は狂するばかりに飛んで来て、私の手に取り縋りました。その喜びの程、如何でありましたでしょう、筆紙に尽くすことが出来ません。一時は物も言えませんでした。丸で夢のようでありましたが、先ず互いの無事を祝して、神の恵みを感謝しました。数うれば二十三四年振りにて、再び母と起居をともにするのであり、かつは全く思いがけぬことでありました。親戚友人らも追々に聞きつけて尋ねて来ました。そうしてその都度嬉し涙に袖を濡らすのであります。かくして暫くは母の家に落ち着いていました。

 その後母とともに巣鴨の家庭学校へ参りまして留岡校長にお目にかかり、旧来の厚恩を謝し、昔語りをして互いに喜び、神に感謝しました。それから先生のお勧めによりまして、私も家庭学校の大家族の一員となり、及ばずながら不良少年の感化事業に尽力することになりました。すなわち家族の取締兼実業教師として校長を初め職員方の御愛顧を受けたのであります。

 その年の夏のある晩でありました。生徒一同は校長の御家族もろとも房州へ海水浴に行き跡には校長と私と外に五六人残っておりましたのですが、十二時を過ぎて、いわゆる草木も眠る丑三つ時に、夜番の老爺(おやじ)が慌しく馳せて参り、私に何事か告げますのですが、全身震えて声が出ず、言葉がさっぱりわかりませんですが、手真似の様子で何か恐ろしい者が北の方に来たらしいので、私は起ち上がって行って見ました。見ると老爺(おやじ)の驚いたのも道理、数十名の怪しの者どもが手に手に刀、鑓、短銃なぞの獲物を携えまして今にも我が構内に攻め入らんとする様子なのです。私は身に寸鉄も帯びませんでしたが、元を言えば彼らに負けぬ代物ですからすこしも恐れは致しません。殊に今は神の御守護を信ずる者であります。静かに傍近く進んで行きました。そうして暗闇(やみ)から突然(だしぬけ)に

 「オイ何か好い儲けでもあるのか。あらば一株のせて貰いたい」

と声をかけますると、彼らは驚いて、逃げ出した者もありましたが、一人は私の方へ進んで参りまして

 「私どもは今夜ここで命の取り遣りをするんですから、どうか暫くここを貸してください」

と云いました。なお聞いてみると彼らは博徒(ばくちうち)であって、縄張りの争いからして過般他の博徒仲間と大喧嘩をいたし、これがために数名の者が監獄へ送られたので、その無念晴らしに今夜ここで先方の一団体と果し合いをするのだということであります。私はこれは大変棄て置くべきことにあらずと思いまして、先ず神に祈って、徐(おもむろ)に彼らに自分の来歴を語り

 「私も君らのように博奕(ばくち)も打てば喧嘩もし、人殺しに放火までして二十三年も牢に繫がれた大罪人であったが、幸い悔い改めて神を信じキリストを信じて罪の赦しを受け、本年目でたく出獄して、今はこの家庭学校の職員の一員となって、及ばずながら働いている。どうか私に免じて今夜はこのまま引き上げてくれ」

と涙とともに愛心を込めて説き聞かせましたところ、一同耳を傾けて感じ入り、ついに心を改めて、かえって先方へ和睦を申し込むこととなり、無事に引き上げてしまいました。全く神のお助けであります。その後彼らは然るべき人をもって厚く礼を述べに来ました。

(写真は羽根を休める塩からトンボ 京都大徳寺境内で)

2008年8月24日 (日)

第二十三回 自由の身(1)

Dscf0351  このことのありて後数日。その日は四月十五日でありました。何の変わった考えもなく平日(いつも)の通り支度していますると官よりお呼び出しになりましたゆえ、何事とも知らずして参りますると、そこは何時も集まっては精神講話を拝聴する教誨堂であります。数百人の人々は既に静かに座に着いていました。私も席に着かしめられて、さて何事なるかと不審に思うて待っていました。やがて典獄殿初め十数名のお役人方がご入場になりました。堂内は水を打ったように静粛になりました。やがて書記官はおもむろに起ち上がられて、意外にも私の襟番号をお呼び出しになりました。襟番号とは囚人の襟に付けある番号であります。監獄では囚人の姓名を呼ばずして番号を呼ぶのです。私は私の番号とは思いましたが、不思議でなりません故、躊躇しておりますると、再びお呼びになりました。どうしても私の襟番号に相違ありませんので、私は席を起ちまして、何事かと怪しみながらも進んで典獄殿の前に出ました。すると典獄殿には礼服をお召しになって厳かなる態度にて、手に一枚の書状(かきつけ)を取りて立ち上がられ、私の番号と姓名とを吟味されし上にて、左の如くお申し渡しになりました。

 その方儀爾来獄則ヲ遵守シかつ改心ノ実現ワレタルニヨリ来ル明治三十九年十二月ニ到リテ満期ノ所今ヤ本刑期モ四分ノ三ヲ経過シタルニ付キソノ筋ノ裁可ヲ経テ本日仮出獄ヲ差許ス                  明治三十七年四月十五日    神奈川県監獄署

 ああこれ実に思いもかけぬ恩典の御沙汰でありました。私は半信半疑、夢に夢みるように思いましたが、たしかに事実に相違なかったのであります。二十三年の長年月(ながのとしつき)、我が身を繋ぎて解かざりし鉄の鎖は、今日を限りと取り去られました。それで御一同の方々へ厚く御礼申し述べ、飛び立つ思いで引き下がりました。が、何ものか私の心を引き止むるような気が致し、しばらく祈っていますると、それは病監の人々へ別れを告げて行けとの神のみ声でありました。そこで典獄に願い出でて再び病監へ帰り、一同に向かって「私のような無期徒刑に九年の重刑を背負っておった者すらも、天皇陛下の御仁慈によりまして、今日は再び世に出ることとなりました。皆々様も決して失望することなく、身体を大切にし、お官の御命令に従い、立派な人におなりなされ」と真心込めて申したるところ患者一同声をあげて泣き出し、殊に重病患者らは私のみに取り縋りて放さず、私もともに涙に暮れておりましたが、典獄殿のお言葉にてようやく袂を別つに至りました。私が出獄後全国の監獄廻りをするに至りました第一の動機は実にこの時の辛い別れにあったのであります。

 それから衣類その他の物品を受け取りまして引き下がり、取りあえず東京の母親へ電報を打ちまして、大恩人なる典獄殿のお宅へと参上いたしましたのですが、さていよいよ監獄の正門を出で、獄屋とは云いながら住めば都の懐かしい赤煉瓦、殊に親しく世話をしておりました病人らに別れてしまうかと思えば、中々に悲しき別れでありまして、心の半分は跡に残して出るように辛く感じたことであります。

 その夜は典獄殿のお宅に御厄介になりましたが、ちょうど東京より一人の牧師さんも来合わせられまして共々に神の恵みを感謝いたしました。殊に大切なる賓客の如くに一番良いお座敷へ案内せられ典獄殿御自身に寝具のお世話をして下さるなど、何という勿体ないことでしょう、ただただ感謝の涙に咽ぶのみでありました。私は嬉しいやら勿体ないやらで、眠ったのか眠らなかったのかわからずに一夜を過ごして、さて翌朝暁を報ずる鶏の声を聞きました時にはさながら天上の音楽を耳にしたような感じがいたし、何とも云えぬ愉快な心地でありました。やがて夜が明けまして日は昇りました。私は今日は東京へ帰れるのです。懐かしい母に会えるのであります。

 家庭の礼拝に連なり、朝飯をいただき、前途を祝福せられて、典獄殿の邸を辞し、厳然と聳ゆる監獄を後に眺めて停車場に出で、汽笛一声勇ましく東京へ向かいました。

 

(写真はパリ市内のフランス最高裁判所正面玄関。LIBERTE<自由>以下の三文字が記されている。誰でも自由に出入りできる中、「法服」を着た人々が所内を行き来する。)

2008年8月23日 (土)

第二十二回 神奈川監獄(3)

Dscf2095  (前略)神の測るべからざる恵みによりて「完全(まった)き救い」(ヘブル7・25)を受けました。私は天来の湧き出づる愛心に動かされつつ、その後は一層忠実に看護の任に当たることを得ました。(中略)

 その頃より私は新約聖書最終の巻なる黙示録を熱心に研究しましたが。私はこれによりてキリストの再臨を明白に知ることが出来ました。キリストの再臨とは我等人類を救わんためにかつて世に降り給うたイエス・キリストが再び来たりてこの世を治め給う(と)のであります。その日には既に墓に葬られたる聖徒も存命にてそのまま天へ召さるるキリスト者もいずれも神の力によりて栄光ある体と化し、ともに携え上げられて空中にて主に見(まみ)え奉るのであります。(テサロニケ前書4・16~17)私は主の再臨を信じてよりはいよいよ喜びに満たされ三十七年の春を迎えては、一年だけその光栄ある日に近づき得たるを感謝したのであります。

 ああ明治三十七年。この年は私にとって最も記憶すべき年、否決して忘れ能わざるべき年であります。先ず新年と言えば何人も心の新たなるを感じます。私どもの繋がれている赤煉瓦の獄裡にも、正月は正月の気分が漲って参ります。私は新年の標語として一つの教歌を選びました。それは「奉感謝(かんしゃしたてまつる)」の三字を解剖(わけ)て 三人角なき牛に乗り 言葉少なに身を縮め みんな心のうちにあり と謳うた、判じ物のようなものでした。この標語通りにその年は私には特に感謝の年でありました。 

 四月には署内において死亡した囚人の骨を集めて「千人塚」と云うものを有名なる久保山に建てられました。典獄殿を初めとし署員御一同の御発起でありましていわゆる「無縁の亡霊」を弔わんとする御慈悲であります。その光栄ある式場へ何たる光栄でしょう、私一人囚徒全体の代表者として列することを許されました。私はこの式場に参列して考えました「ああ千人の亡者ことごとく罪悪の経路を辿った者のみである。生きて鉄窓に呻吟した彼等、今や死していずこに迷いいるであろうか。彼らは陰府(よみ)にありて審判(さばき)の日即ち

『海そのうちの死人を出し死と陰府(よみ)とそのうちの死人を出せり、彼等おのおのその行為(おこない)にしたがいて審判(さばき)を受けたり』(黙示20・13)

とある審判(さばき)の日を待っているのである」と。そうして彼らが今やその恐るべき審判(さばき)の日に向かって進みつつあることを思いましては、どうして黙っておられましょう。私は感高まり情熱して「主よ如何(いか)にもして亡ぶる彼らを救い給え」と叫ばざるを得ませんでした。されど「早や遅し」今は如何(いかん)ともすることができません。私どもはただ世を去らぬまに人を救いに導き得るのみであります。私どもは私どもの家族、親戚、朋友、隣人を一刻も早くキリストに導かねばなりません。さもなくば彼らはたちまちに死して永遠の滅亡に陥る他はありません。ああ実に責任の重かつ大なるを感ずる次第であります。同時に私は翻って神の私に為し給える救いの事跡(みわざ)を思うて、その恩愛の無限なるに感泣せざるを得ませんでした。無期徒刑に更に九年の重刑まで加えられし程の大罪人たる私が、今日千有余名の在監中より最良者として選抜せられ、この式場に参列するの光栄に浴し得んとは。ああ神の力ならずして如何(いか)であり得ることであろうと。

(写真はドイツ・ハイデンハイム(?)の教会の正面上の彫刻、「審判」ではないが)

2008年8月22日 (金)

第二十一回 神奈川監獄(2)

Dscf2107  越えて明治三十三年を迎えて、私は囚徒中の病者を看護する看護夫の一人にあげられましたので、これによりて神の御栄をあらわしたいと思い、他の看護夫らとともに喜んで熱心労に服したのであります。そのころ森田某という肺患者がありました。なかなかの重病でありまして、その苦痛甚だしく、見るも憐れな有り様でした。医長殿にもあれこれと手を尽くされましたが少しも効果なく、殊に幾日も便通なく、腹は張りて裂けんばかりでありまするが、梅毒の膿にて尿道がふさがり、いかに器械を用いましても、少しも通じがありませんので、病人は死なんばかりに苦悶していました。医長殿も匙を投げられ「もう数時間も保(も)つまい。注意しろ」と言われ、器械を残して出て行かれました。病人は苦痛に堪えずして、私に向かって手を合わせて「どうかちょっとでもよいから小水を取ってくれ」と頼みますので、私も座視することが出来ませず、何とかして助けてやりたいと思い、先ず神様に

「死ぬるも主のため生くるも主のため、主のおんためには決して命を惜しみません。神様是非この病人を救うて下さい、病苦を取り去ってください」

と祈りまして、医長殿の残して行かれた器械を病人の局部に差し入れ、口を当てて吸い出しますると、器械や手術にては決して流れ出でざりし、膿汁がいいぐあいに私の口の中に入ってきました。そうして吸うては吐き吸うては吐きしまするうちに約五合ばかりの膿が出まして、その奥にせき止められておった尿が通ずるようになり、見る見る苦痛が減じて来たので、病人の喜びはたとえんようなく、両手を合わせ涙を流して私に礼を述べましたが、そのうれしそうな顔が今に目に見えるようです。同人はもと寺の住職でありまして監内においてもこれまで何かにつけ私を苦しめてのみおりましたのですがこの時からしてその態度を一変するに至りました。

 しかるにこれに関して大悶着が出来(しゅったい)しました。と言うのは、先ず他の看護夫らが一致して「こんな命知らずが病監におっては我々は皆んな肺病に感染して死んでしまわねばならぬ」と言って、私を排斥せんと企てたのであります。またお役人方からは「そんな乱暴のことをしてはいけない」と言って叱られました。しかし患者たちは私を排斥せんとする他の看護夫らに向かって不服を唱え「我々のために命がけになって看病してくれる、この神様にも等しき看護夫を排斥するとはもってのほかのことだ」と言って争い、遂には腕力沙汰にもなろうとしましたが、典獄殿のお言葉によりてようやく無事に治まり、私は引き続き看護夫として働いておりました。また右の病人森田は一旦は快方に向かいましたが、命数つきしにや、十数日の後遂に死去しました。しかしその前に悔い改めて罪の赦しを受け、感謝して天国へ放免されてゆきました。

 明けて三四年。はからずも先年北海道にて大恩受けたる留岡先生にお目にかかることを得ました。私の喜び言わん方なく、先生にも痛くお喜び下され、ともに神の前に跪きて感謝しました。

 同年十月のことでありました。一人の囚徒腸チフスにかかりて隔離室に入れられ、私はその看護を命ぜられました故、神に祈り力を尽くして介抱いたしました。私のほかなお一名の看護人もおりましたが、彼は世にあるたった一人の母を気遣いまして、「もし自分が病気に感染して監内で死ぬようのことがあったら、母は落胆してきっと死ぬるに相違ない。さすれば自分は親を殺すことになる」と申して、ひどく病気を恐れますゆえ、私ももっとも至極と同情して、直接の看護は私一人ですることにしました。

 そのうちに患者の病気が重くなり、ついに危篤に陥ってしまいました。折りしも典獄殿には御巡視に来られてこの状態を御覧になり、同情の涙を注がれ、病人に向かって「親兄弟に遭いたくば遭わしてやる」と仰せられてお去りになり、間もなく母親と叔父とが面会に参りましたが、病人は既に目も見えず耳も聞こえず、彼らの悲嘆一方ならず、よそ目にも気の毒に堪えられませんでしたが、私は彼らを慰めて「世間からここは地獄のように思われていましょうが、実際は決してそうではありません。上は典獄殿を初めとしお役人方いずれも御親切なお方々であって、病人の手当てなども少しの手抜かりもなく、行き届いていますのですから、この上はただ命数とお諦めなさるように」と申しますると彼らもようやく納得いたしました。また殊に感ずべきは典獄殿であります。毎日毎夜雨をも風をも厭わせられず、時として深更にさえ巡視されては病人を労わりまた看護者をお励ましになりました。

 それから病人の母親は、既に目も耳も利かない臨終のわが子の耳に口を当て「清吉清吉」と名を呼びましたが、母の一念が子の魂に通じたものと見えまして、不思議や病人は笑みを浮かべて頷きました。そうして間もなく他界の人となりました。

 私は当時斯くのごとく幾多の人々の世を去り行く有り様を目撃し、殊に前記清吉の臨終に侍してこれ彼のみにあらず、やがては我が身の上にも臨み来るべき運命なりと考え

 「汝の神に会う備えをせよ」(アモス四・十二)

とあるみことばを思い出で、わが心霊上の準備いかにを顧まして、甚だ不安を感じてきました。

(写真はドイツ・ミヘルスベルクの花)

2008年8月17日 (日)

第二十回 神奈川監獄

Dscn4506_2  その晩は旅の疲れで眠って休み、翌日から定めの役に服しましたが、幸いにも当時の典獄が、前に北海道においてご恩顧をこうむったことのありまする、彼地では第二課長であらせられた、有馬四郎助殿でありましたとは、まことに不思議な深い御縁であります。
 ある日典獄殿に御面謁が許されまして、旧恩を鳴謝いたし、かつ将来出獄後の準備のために独房に置かれんことを願い出ましたところ幸いに御許可になり、かついろいろと御訓戒をこうむりましたので私は一層奮励して、益々誠実に御命令に従いまた服役せんと決心しました。それから独房に入りて先ず親許に文通せんと致しましたが、永年の不通にて今はいずれに転居しているやらわかりませんので、お官へ取り調べ方をお願いして、ようやく母の居場所が知れ、早速書面を差し出しますると、間もなく母は急いで面会に来てくれました。

 これについて面白い話があります。私の出しました手紙が最後に千葉の田舎の親戚へ届きましたところが、親戚では、先年私が宮城から脱監したというその筋よりの通知を受けました時に、親類会議を開きまして「男らしく服罪すべきを、卑怯にも脱監など致せし以上は、親戚一同の面汚しにつき、文通は愚か、見つけ次第ふん縛(じば)って警察へ差し出すべし」と堅く約束いたしたことがありますので、その手紙を受け取らず、附箋して郵便局へ返してしまいました。そこへ不思議にも母が東京から尋ねて参りまして、斯くと承り「自分は由太郎のありかを知りたいばかりに北海道へまでも往って来たのであるから、是非その手紙を見たいものだ」と申して二十丁もある田舎道を急いで局へ駆けつけ「どうか某宛の手紙を渡して下さい」と願い出ましたが幸いその手紙はなお局に止めてありましたのですが、名宛の本人以外には渡されぬと言って何と言っても渡してくれません。幸い他の親戚某が居合わせまして「自分が責任を負うから渡してやってくれ」と保証したために、ようやく渡してもらいまして、早速某に読んでもらいますると再三再四繰り返して黙読したる上にて「どうしても意味がわからぬ」と言われますゆえ、「それでは字の書き方が悪いのですか」と問えば、「イヤ字はチャンと書いてあるが意味が一向に分らぬ」と言います。そこでともかくも読んで聞かして下さいと言って読んでもらいますと、母は涙に咽んで「よく分りました」と申しますので、居合わせた人々が不思議に思いまして、「私たちには少しも意味が分らないのにどうしてお前さんには分りますか」と問われ、母は「お分かりにならぬはずです。それは神様のお言葉です」と答えたそうです。何しろ聖書しか読んだ事のない私の書いた手紙ですから、他の人には分らなかったはずです。母は脱獄以来生死の程も分らずにおった私が、今は同じ信仰の道を辿っていると知りまして非常に喜びすぐさま東京に引き返して私を尋ねて参ったのだそうです。

 ああこれ実に十七年ぶりの面会であります。骨肉のことでありますから見忘れは致しませんが、双方とも再会を期しおらざりしこととて、あたかも夢みる心地、ただ呆然として言うべき語(ことば)なく互いに心中に神の御恩(おんめぐみ)を感謝しキリストの大聖名(おおみな)を賛美したことであります。

 ややしばらくして私は母に向かいて互いの健康を祝し、しかして家の様子を尋ねますと、実父も養父も既に世を去りたるが、兄弟たちはみな健全にて、それぞれ家を持ち子女をも持っておるとのことにて大いに安心しました。次に私は母にこれまでの不孝を詫び、今後は赤心もって孝養を尽くすべきを誓い、互いに嬉し涙に暮れて別れましたが、それよりはしばしば文通をもって母を労わり、また貯金の中より月々数円づつ送りてその心を慰め、かつ信仰の糧となるべきことなど認めて送っていました。

 しかしながら何分にも無学にて、文字も思うようには書くことができませんので、このたびは手習いを思い立ちまして、典獄殿へ紙石盤使用の儀を願い出で、幸いに御許しを受けまして、一心に勉強しはじめました。それから水書草紙、また間もなく筆墨の使用までも御許可になりました。それまでは筆墨は手紙を認める時より他には一切手にすることが出来ませんでしたが、私が手習いを始めましたのが動機となり、有馬典獄殿が熱心にその筋へ交渉されし結果として、この時初めて全国の囚徒に筆紙墨の使用を許されるようになりました。これは私が日本の監獄へ持って参った手土産の一つであります。

(写真は庭のランタナの花の蜜を次々吸い求めるクロアゲハ)

2008年8月16日 (土)

第十九回 信仰生活(7)

Dscn4483  時あたかも先年敷設したる水道が、保存満期で、甚だしく破損しておりましたので、私は取り調べました上、配水線も鉄管にしていただきたいと願い出ましたが、経費のご都合にて鉄管の買い入れはできぬが、その代わり木材にて間に合うならば、費用は支弁するとの仰せでありました。それから私は熱心に木管製作の工夫に取りかかりましたが、中々うまくできません。真二つにして溝を掘りそれをまた継ぎ合わすならば造作もありませんが、それでは水の勢いで破裂する恐れがあります。また丸木に穴を掘り抜くことはちょっと訳もないようですが、さて実際やって見ると中々そうではありません。私は神様のお助けによりまして漸くそれの出来る機械を発明しました。そうして実験の結果は、一丈二尺の長さの木材に径三四寸の穴をわずかに八九分間に穿ちとおすことが出来るとわかりました。お官においても技師方は初めはお信じになりませんでしたが、御試験の上で喜んで御採用下されましたので後には空知全体の人々にまでも多大の便利を与えるようになりました。

 遂に明治三二年三月五日となりましてここにめでたく本刑免除と相成り、永年御保護を受けました方々に厚く御礼を申し述べ、殊に大恩ある原田氏ご夫婦に深く感謝して、十二年目再び内地の土を踏むということになりました。

 いよいよ出発の当日が参りまして、住み慣れし空知を後に懐かしき三笠山に最後の別れを告げました時には、さすがに千万無量の感に打たれて、立ち去りがたく感じたことでありました。それから汽車にて室蘭に到り、そこにて一泊したのでありますが、護送の任に当たられた警官は甚だ親切な方でありまして、その夜も私に向かって
 「その方は今日まで永年の間不自由な生活をしたのであるから、今夜は何でも食いたい物を食い、飲みたい物を飲むがよい。酒も煙草もその方の自由だ。そうして船の出るのを待つが良かろう」とお勧め下さいましたが、私はそれに答えて
 「折角の御言葉御親切は忝(かたじ)けのう存じますが、私はキリスト信者ですからその儀は御免を蒙ります」
と申し上げましたところ、警官も御同情下され、「お前のような人を護送するはまことに安心である」と仰せて、お喜びになりました。

 顧れば十二年の昔、この島に渡り来る時には、多数の警官に厳重に押送されながらも、なお隙さえあらば逃走せんとしたのであるに、今はただ一人の巡査が安心して引致し得るに至ったとは、実に今昔の感に堪えぬ次第であります。

 それから翌日船に乗りましたが、生憎暴風(しけ)に遭いまして、乗り合いの人々は大方船に酔いました。私を護送する警官もその一人でありましたが、私は少しも酔いませずして人々の御世話を致し、青森に到着してその地の警察署へ引き渡され、ここでその親切な巡査殿とお別れいたしましたが、その巡査殿の私に施された御厚意は今に忘れは致しません。青森からは汽車にて、県々の警察署に立ち寄り、遂に東京に達して、新橋の停車場へ着きました。

 かつては住み慣れし都ながらも、今はその面目を一新して、見るもの聞くもの悉く驚異の種子(たね)ならざる、は無く、新橋への途上においては、昔懐かしき我が家今は他人の住居なる家の棟をも見ることを得ました。新橋から再び汽車に乗りて横浜に到り、神奈川監獄に引き渡されてここに第二の刑を受くることとなったのであります。第二の刑とはすなわち破獄の暴行によりて増し加えられた九ヶ年の重刑を言うのであります。

(写真はやっと辛うじて撮影できたヒヨドリの親鳥二羽のうちの一羽、この暑いさなか餌をせっせと運ぶ親鳥の苦労が忍ばれる。喉はカラカラだろう。そのような親の愛を明日の好地由太郎さんの証言でも知ることが出来る。)

2008年8月15日 (金)

第十八回 信仰生活(6)

Dscn4476  それから後は事々物々一つとして喜びの因(もと)、感謝の種子(たね)とならざるはなく、見るもの聞くものことごとく我が心を慰め、寝ても覚めてもただ感謝し賛美して日々を送っていました。しかして聖書はいよいよ手離すことのできない、常住坐臥の相談相手となってきました。

 月日に関守なくして早や明治三十年の春を迎うることとなりましたが、その一月に英照皇太后陛下が御崩(おかく)れ遊ばされ、我々罪囚はかたじけなくも特赦の恩典に浴したのでありますが、これがために集治監は八百名余の囚徒が放免されて出獄しました。なおその後も引き続き五人十人と毎日出獄いたしましたが、彼らはいずれも私に向かって「こうしていくらかの支度金をもって郷里へ帰り行くことのできるは、全く君のおかげだ。君が親切に僕らを戒めて無駄遣いをさせなかったおかげだ」と言って感謝しました。しかし私を迫害したる人々の多くはあるいは切り殺され、あるいは病死いたし、あるいは素行修まらぬために今回の恩典にも預かることあたわず、よし預かっても一銭の貯えもなしという有様にて、私に遭うても面目なさそうに恥じていました。まことや聖書に「そは人の蒔く所の者はまたその穫(か)る所となるなり」(ガラテヤ六・七)とあるとおりです。

 英照皇太后陛下が御崩御の悲報が集治監に達しましたときに、一つの不思議な現象がありました。それは重刑の囚徒が一人残らず声を上げて泣いたことです。これは特赦の恩典など予想しての感涙ではなくして、全く国母陛下を失い奉った悲痛の慟哭でありました。皇室に対する囚徒らの敬慕の熱情は実に驚くべきものでありました。

 私も特赦によりて無期が有期となりましたので、一層身を慎み業を励みて優渥(ゆうあく)なる皇恩に報い奉らねばならぬと奮励しました。しかるにここに一つの試練が私を襲うて来ました。というのは官でそのころ一人の美少年を私の独房に送って私と同居させたことであります。そもそも私が犯罪の原因は情欲であります。この欲のために私は罪なき人までも殺害しました。入監後といえども少年を手なずけては幾たびとなく恥ずべきことを遂げたのです。もちろん神を信じキリストを信ずるようになりましてからは断然かかる非倫の行為は致しませんでしたが、今や公然己が独房に美少年とともに起臥することとなりましたので、悪魔はこの好機会と私の弱点とを利用して再び私を堕落させんと烈しく誘惑したのであります。しかも官がかく取り計られたのは、その少年をかくのごとき禍害より救わんとしてこそ特に私を信じて同居させたのであります。キリストは
 「およそ婦(おんな)を見て色情を起こす者は心の中すでに姦淫したるなり」(マタイ五・二十八)
と仰せられましたが、血気盛んなる青年男女にとりてはこれほど困難なることはありますまい。私は神に祈りて、幸いにもこの猛烈なる誘惑に打ち勝つことを得ました。その後少年も他の房へ移されて行きました。

 越えて明治三十一年となりましたが、ある日のこと、分監長は私をお呼び出しになりまして

「その方も永年独房におり、謹慎誠意よく命令を守りかつ精神の修養をつとめたること、この方においても満足するところである。昨年特赦の恩典により最早主刑も来年は満期になるのだ。しかる上は第二の刑は内地にて執行さるるのである。やがては再び社会に出でて国恩に報ゆることができるであろう。ついては身体をも健康にするよう、十分に労働したほうがよかろうと思う。それに目下水道工事に手馴れた者が出獄して困ってもいるから、一つそのほうにやってもらいたいが、どうか」

との懇切なる仰せでありました。そこで私は気を換えまして、過去七ヶ年間の蟄居から出て、労働に従事することとなりましたのですが、実にこの籠城は私にとりましては最も有益な聖書研究の期間でありました。

(写真は昨日家の前の電線に姿を現わしたヒヨドリの親鳥、囀りながら餌を運ぶが、雌雄果たす役割がそれぞれあるのだろう、二羽一緒の時が多い)

 

2008年8月14日 (木)

第十七回 信仰生活(5)

Dscn3191  光陰矢のごとしで、またも一年の月日を送って、都合四ヶ年間、独房生活を続けましたが、その間に起った出来事の一つを申し上げましょう。ある年の冬でしたが、小山某という囚人の兇漢が病気なりとて独房を開かせ、看守殿の隙を狙って外へ飛び出し、看守殿を打ち伏せて剣を奪い取り、あわやこれを斬り殺そうといたしました。折りしも風雪烈しく、呼べど叫べど、誰一人聞きつけて助けに来る者がありません。近くの監房には十数名の者が座業しておりましたが、戸に錠が懸けてあるゆえ、出て助けることができません。看守殿は絶体絶命の一刹那、私を呼んで「オーイ早く来て助けてくれ」と叫ばれました。しかるに私の房にも厳重な錠が下りてあったのでしたが、私が祈って力一杯にその戸を前へ押しますと、不思議にも錠が壊れて戸があきましたので、私は飛びついて小山を取り押さえ、看守殿を危地より救うことができました。そこへ駆けつけられました部長殿と他三名の看守殿とが憤怒の余りに、小山を即座に斬り殺さんと身構えされましたから、私は仲裁をし、お詫びを申して、強いてお許しを願い、小山を自分の房へ連れて行き、夜もすがら労わり慰めまた基督の福音を説き聞かせましたところ、さすがの悪党も感じ入りまして、遂に自分から悔いて自白いたし、官においても特別の御慈悲をもって僅かに五日間の暗室処分で御免になりましたが、彼はその後大いに官のためになりました。

 さてその後私の聖書研究も進みまして、今度は旧約聖書に移り、創世記の初めよりして通読すること十数回。肝要な箇所は暗誦するようになりましたので、いかに頑愚な私といえども「よしこの身は北海道に朽ち果つるとも、霊魂は天父の御許に帰り得る」を楽しみとして、もはや再び悲観したり失望したりなど、自暴自棄の心を起こさぬようになりました。

 その頃私は自分の犯罪によりて損害をこうむった人々のことを思い起こして、「いかにも申し訳ないことをした」としみじみ感じました。ついては幾分の志を表してお詫びをせねばならぬと考えまして、貯蓄し置きたる賃金の中よりいささかながら送金して旧恩を謝し、あわせて罪のお詫びを申し通じましたところいずれも聞き入れられまして

 「その許(もと)が全く悔い改め赤心(まごころ)よりの申し越しなるべければ、ことに不自由極まる罪囚の身をもて儲け得たる、血の出るような金子(きんす)までも送られしことどもは一切放念すべくまた送付されし金子は出獄するまで預かり置くべきにより、辛抱して一日も早く帰国せられよ。その節はまた宜(よ)きに取り計らうべし」

との懇篤なる返信にも接することを得ました。されどもいかんせん、私は無期徒刑に九年の重刑、辛うじて死刑を免れしほどの身なれば、何とて再び内地の土を踏むことができよう。思えば我ながら絶望の運命を悲しまざるを得ませんでした。

 さてかくのごとくして真の平和を得んと欲して、人知れず断食いたし一心不乱に全き聖潔(きよめ)を祈り求めておりました。ある時は十数日も断食しては祈ったことがあります。けれども心の聖潔は得られませんでした。しかし祈祷は遂に聞かれました。顧れば明治二十八年の旧八月十五日すなわち明月の夜でありました。私は独り鉄窓の下に座して、無声の声を聞き無色の色を見んと、一心に祈っていました。〇時に到りてふと目を啓けば、全身蚊に取り付かれて目も当てられぬ有様であります。私は打ち眺めてただ泣くのみでありました。天にかかる名月は万物を平等に照らしておるにもかかわらず、自分独りは獄裡に閉じ込められて斯くの始末。一層のこと、一心を蚊に与えて死んだがよしかとも考えましたが、ふとかつて某医学者の話に聞きしことある「人の血を吸わざる蚊は冬の寒さに堪えずしてして死んでしまうが、人の血を吸いたる蚊だけは生き残りて来年に及ぶ」との不思議な事実を思い出すと同時に、電光(いなずま)のごとくに私の霊に無声の声が聞こえて

「イエス・キリストの血すべて罪より我らを潔(きよ)む」(一ヨハネ一・七)

との聖句が示されました。ここにおいてか私は初めて主の仰せ給える

「わが肉を食いわが血を飲む者は永生(かぎりなきいのち)あり、われ末(おわり)の日にこれをよみがえらすべし。それわが肉は誠の食物わが血は誠の飲み物なり」(ヨハネ六・五四~五五)

とある聖語を悟ることができました。蚊は人の血によりて生き、我は神の子の血潮によりて生きるのであると合点したのであります。ああ我がごとき重刑の罪人がただ主キリストの御血潮を受くることによりて、先祖伝来親譲りの罪の根までも取り除かれ、心の底の底より全き聖潔(きよ)き新しき人として神の御前に立ち得るとは、これ何たる無限の大いなる愛なるぞや。「涙も恩寵(めぐみ)に報いがたし、この身を献ぐる他はあらじ」ただ感謝の涙に咽ぶのみでありました。十字架の盗人は十字架の上より直ちに主とともにパラダイスに昇りましたが、北海道空知集治監内二畳敷の我が独房はその名月の夜に全く化して神の住み給う天国となったのであります。この新しき経験は私に取りては全き聖潔(きよめ)の生涯に入ったのでありまして、死のバプテスマすなわち火の洗礼を主ご自身より授かったのであります。ハレルヤ。

(ユングフラウを初めとするスイスアルプスの峰々)

2008年8月13日 (水)

第十六回 信仰生活(4)

Dscf1929  私は不思議に思い、医師及び看護の方々に尋ねますると人々は
「お前は三日前工場においてにわかに人事不省となり、それからここへ担(にな)って来て様々に手を尽くしていたのだが、どうしたものか、今日まで三日間というもの、死んだでもなし生きたでもなしなので、何という不思議な病気だろうかと、評議に暮れていたところであったが、まあ生き返ってよかった」
と申して喜んでくれました。私もよくよく考えて見ますると、なるほど自分は人々の止めるのも聞かずに、衰弱しきった体を無理に工場へ運んで、働いているうち、気が変になったと思うたが、それきり昏睡状態に陥ったのだなと初めて合点いたしました。

 しかしこの不思議な幻は私をしていよいよ厳粛に来世のことを思わしめるようになりました。来世のことなどあるのか無いのかあてにはならぬと、人は言いましても私には手に取るように明白に見えて来ました。同時に霊魂(たましい)の苦悶が激しくなりまして、時としては一層のこと男らしく切腹して死んでしまおうかとさえ思うほどでありました。

 ところがある夜のことであります。かねて私に現れて「聖書を読め」と教えくれし童子が、またもや幻に現れまして
 「聖書を読めよ、読まぬから迷うのだ」
と注意しました。私の目は再び醒めました。私は愚かにも聖書を離れて迷想にふけったのです。大いなる心得違いでありました。聖書以外にどこに光が見出されましょうぞ。私は新たに大決心をなし、今後は一切他のことを廃してただ聖書の暗記のみをつとめようと覚悟しました。

 ついては独り静かに起居することにしなければならぬと考え、時の分監長殿(そのころより空知は樺太の分監となりました)へ嘆願いたしましたが、容易にお許しがありませんでしたが、再三再四懇願いたしましたところ、遂にお許しになりまして、私のためにわざわざ一つの独房を造ってくださりましたので、私は向こう十年間はよし足が腐れ落ちても構わず、労働も運動も一切廃(よ)して引きこもり聖書を暗記せんものと堅く心を決めて着手しました。

 それから聖書を無二の友となし、一心をこれに傾注し、まずマタイ伝より始めて黙示録に至るまでの新約全書二十七巻をば、三年間に大方暗誦することを得ました。これはただただ神様のお恵みに他ならぬことであります。何となれば最早外部の迫害こそはありませんでしたが、北海に流囚の身として独房の中にいかなる寒気凛冽の冬といえども一塊の火なくして過ごし、またいかに炎熱焼くがごときの夏といえども終日閉居して読書しとおすというがごときは何人の体力といえども容易に堪えうる者でありません。囚徒にして病死する者多きも決して怪しむに足らんのであります。

 かくして私の望みは着々として達し行き、信仰も進んで参りましたが、心中の苦悶は依然として消え去らず、かえって益々募り来るばかりでありましたので私は時々は失望して
 「無期徒刑に九年の重刑まで背負っていながら、こんなところで聖人ぶったところが何になろうぞ。どうせ一生涯ここで朽ち果てる身ではないか」
と思い惑うこともありました。しかしまた思い直しては、すでに受けたる神の恵みを数えて見、時としては天にも昇るように喜んで感謝したこともあります。

 「なんじの信仰絶えざるよう我なんじのために祈れり」(ルカ伝二十二・三十二)

とあるキリストのみことばが数ならぬ私の上にも成就したのであります。

(写真はドイツ・ガイスリンゲンの小さな水路の橋の下にいたアヒルたち)

2008年8月10日 (日)

第十五回 信仰生活(3)

Dscn4447  余りにやつれ方が甚だしかったので、人々は私の身を気遣いまして、養生をしろの、医者に診てもらえのと親切に言うてくれ、また役人方もお勧めくだされましたが、私はすべてお断りいたしまして、息のある限りは一人前の仕事はすると堅く決心しておりました。かくして霊肉の病苦に打ち悩まされつつ夏の炎天下の下にて鍛冶工をいたしましたが、それは実に苦しい働きでありました。けれども忍耐して働き続けておりましたがにわかに目が廻りてそのまま息絶えたように感じました。

  それから私は真っ暗なところを通り抜けまして、ずうっと遠いところへ参りましたが、そこは野原でありました。一方は海に面し一方は山を背負っておりまして 私はすごい恐ろしい感に打たれました。そのうちに黒雲が立ち昇りまして雲の中から怪しき生き物が現れたと思うと、それがすぐと私を目がけて飛び来るように 見えまして、私が驚いて海辺の方へ逃げようとすれば怪物も海辺へと突き進んで参ります。ようやくのことで少し逃げのびたかと思うと、私の前には一帯の生垣 があってもはやどうすることもできません。怪物に追いつかれますのでやむを得ず、生垣に衝き入りて抜け出ようともがきましたが、着物がとげに引っかかって 抜けられません。やっとのこと、丸裸になって逃げ出しましたが、体は傷を負うて血だらけになっていました。追い迫った怪獣は垣を越えることができません で、残念がって吼えていました。

  私はヤレ安心と一息つきましたが、少し進んで又もや一匹の猛獣に襲われました。私は懸命に駆け出しましたが、途険しくして逃げおおす望とては万に一つもあ りません。もはや猛獣に追いつかれて噛み殺されるばかりの時に、忽然一匹の小羊が現れて猛獣の前に立ちふさがりましたので、小羊は直ちに猛獣の餌食とな り、それがために私は助かることを得ました。

  それから私は目的の海辺まで逃げ延びましたが、海の水は血の如く、その中には人間を初めとし、虫けらに至るまで、ありとあらゆる生き物がウヨウヨとおりま したただわずかに頭のみ出だして、天に向かって叫びおる様、誠に見るも恐ろしくその哀れなること見るに堪えぬほどでありました。そうして左の方には大きな 岩穴がありまして、その中にもおびただしき群衆の泣き声が聞こえて何とも言えぬ哀れさでありました。

  とかくしおるうち又も怪しき、山のような怪物が鉞(まさかり)の如き獲物をもって、私を目がけて進んで来ました。私は追いまくられて詮方(せんかた)つ き、ざんぶとばかり海中に飛び込んで、とある岩へと飛び上がりました。折りしも日は西に落ちてあたりが暗くなるにつれ、四方八方より物凄き音が聞こえまし て、私の立っている大きな岩さえ今にも微塵に砕けるように思われました。そのうちにわかに嵐が起って来、波は益々高くなって、岩もろとも私を水の下に葬ら んとしました。のみならず、稲光のような光はしばしば閃いて天地を震い動かし、前に見しよりも一層恐ろしき怪しの獣まで現れ来たり、炎の如き息を吐いて私 を一呑みにせんと致しました。

 私 はもはや、逃げんとする気力さえありませんで、わが命数もこれまでなりと覚悟いたし、心静かに天の助けを祈っていました。すると不思議にも火のようでしか も細紐のような物が私の目の前に釣り下ろされました。私は天の助けと喜んでそれに取りすがり、上へ上へと昇りましたが、間も無く一つの大きな石に突き当た りまして、それより上へはどうしても昇ることができません。上には石、下には波と怪獣。石は落ちんとし、怪獣は取り食わんとしております。そうして私の両 手は早や疲れ果てて、もう一分も握っている力はありません。真に絶体絶命の場合でありました。そこへ忽然として玉のような可愛い童子が現れ、私の手を取りて大石の上へ引き上げ更に私を導いて容易く暗黒界を通り抜け、旭日東天にありとも謳わるべき、美(うるわ)しき光明(ひかり)の世界(くに)へ入らしてくれました。

  四方を見渡しますると、かつて見たことのない美しい草花が一面に咲き乱れ香気馥郁(ふくいく)として、何とも云えぬ好い気分になりました。数知れぬ獣がみ な柔和(おとな)しく、嬉々として遊び戯れ、また神を賛美しております。私は「ここは天国だな」と考えました。前の童子はなおも私を案内して一棟の聖殿 (おみや)の如き輝ける建物を見せましたが、何もかもことごとく光を放ちて燦爛(さんらん)としていました。

  それから恐る恐る奥の方へ参りますと、四方の光景一層神々しくして、その威厳に打たれて足も運ばぬような気持ちが致しました。私はなおも童子に導かれて、 今度は殿(みや)のうちに設けある庭園(にわ)に出ました。すると童子は私に「ここでしばらく待っておれ」と云いて、宮の幕の中へと入って行きました。私 は待っていながら周囲を見回しますると、何というてよろしいでしょうか、光り輝く姿して、天空を自由自在にかけりながら何とも云えぬ美しい音声にて語り合 う者を見ました。またはるか向こうに金剛石のように輝いている至って大いなる人の足の如きものが見えました。その形は唯一つで、膝部より上は雲におおわれ て見えません。その他多くの不思議な者がたくさんおりまして、その足下に跪き、あるいは感謝しているのを見ました。

 しばらくして今度は童子ではなくてきわめて上品な美しい乙女が前の幕の中より出てきましたが、私に向かって丁寧に「汝人の子よこれを食え。これはいのちの木 の実である。これを食わば限りなく生き、かつ壮健である」と云いてその手に持っておった二個の果物を私に与えてくれましたので、私は直ちに感謝してその果 物を食べました―と思うと同時に私の目は開けましたが、我が身は空知集治監第一重病室の寝台に横たわりいて、数名の人々に介抱されつつあったのであります。

(写真は昨夕の高宮地方の入道雲、生家から北東を仰ぎ見て)

2008年8月 8日 (金)

第十四回 信仰生活(2)

Dscf0385 其れから明治二十五年の春になって、我等同志百数十名は「自分等のために特に基督教の牧師を教誨師にお招き下さる様に」と官へお願いしたのでありました が、計らずも今は家庭学校長として有名なる留岡幸助先生が御来任下されました。ああ其の時の私どもの喜悦(よろこび)は如何でしたろう。所謂る百万の援兵 を得た様なとは、正に斯かる場合を指して云うのでありましょう。「死蔭に住める者」の上に、基督の救いの光が、今や同先生によりて照らされる事になったの であります。


 間も無く我も我もと聖書を請い求めて、神を尋ねるの叫 号(さけび)は監獄を震い動かす様になりました。私は先生に個人的の御面会を願い出でて過去の経歴を逐一申し述べ、併せて残る生涯を全く神に献げて世を終 わりたいと希望し居る旨、申し述べましたところ、先生には非常に喜ばれて
「これはたしかに神様が君を選んでこの恐ろしい獄中に、その貴とき福音を伝えしめんとし給う大御心に相違ない。故に臆することなくして、いよいよ大胆に主の聖名(みな)を語り広めよ」との奨励の御言葉を賜りました。

  当時私は毎日昼間は水道工事に服役して居ましたが、夜分は一意専心聖書の研究を勉めていました。殊に迫害の激しかった時代には聖書とても公には読む事が出 来ませんで、一枚づつ引き裂いては人目を忍んで熟読したり観世縒りにしては匿(かく)して玩味したりしました。又た終夜指にて腹の上に書いては暗記するな ど、随分苦心したのであります。

 しかし今は全く変わりまして、官の御保護は益々厚くなるばかりで私は度々賞金又は賞表をいただくように なりました。神様の特別なる御恩寵と申さねばなりません。留岡先生も私如き者にいたく御同情下されまして色々と親切に御指導くだされ殊に御夫人には容易な らぬ御世話を蒙りました。私は又た特別の許しを受けまして、日曜日には同先生の官舎でお役人方のお子さん達を集めて日曜学校の手伝いを致しました。時には 町の人々へ伝道する事さえ許されたほどに寛大に取り扱われたのであります。


  其の後留岡先生は監獄視察のために海外へ出張さるる事となりまして、私ども一同はこの上もなく嘆き悲しんだのでありますが、先生には私どもを慰め励まして 「人を頼みとしてはならぬ。ただ生命の源なる神様に依り縋れ。神様は決してお前たちを見捨てはなさらない」と訓戒されました。然しながら人の心ほど宛てに ならぬものは有りません。先生の影が見えなくなるやならぬに、早や手にある聖書を投げ捨てて顧ない者が続々と起りましのです。ああ何という情けない事であ りましょう。私はたちまちにして頼みに恃みし先生と別れ、且つ又た数百の教友を失ってしまいました。

 
「汝も亦去らんと思うや」(ヨハネ伝六・六十七)とは主基督がかつて多くの人々が信仰を捨てるのを御覧なされて、弟子達に仰せ給うた聖語(みことば)であります。当時の空知は実にその通りでもありました。然しながら私は使徒ペテロと同様に「主よ我等は誰に往かんや。永生の言を持てる者は爾(なんじ)なり」と云うことが出来ました。私は如何なる事が起っても主に従わんと決心しました。

 事情斯くの如くでありましたので、私どもは勢い再び迫害を受けねばならぬ事になりました。或る時は川に押し込められ、或る時は打ち殺されんとするなど、嘲弄侮辱は我等の受くる日々の課業となって来ました。
然 るに当時の私には心の中を省みて、甚だ不満足な者があったのであります。過去の罪悪が赦された事は決して疑いませんでしたが、どうしたものか、なお心中に 昔ながらの古き性質がありまして、種々なら邪念を起こさせます。時としては恥ずべき行為ともなって現れますので、心が安くありません。しかもいかに奮発し てみましても、その心中の苦痛は取り去ることができんのであります。聖書の研究も、祈りさえもなぜか甲斐なきように思われまして一時は全く途方に暮れてし まいました。加うるに健康は日に日に衰えて骨と皮ばかりとなり外部からの迫害は容赦なくいよいよ猛烈に押し寄せてきまするので霊肉ともに疲れ果ててパウロ のごとくに「ああ我れ悩める人なるかな。この死のからだより我を救わん者は誰ぞや」(ローマ七・二四)と人知れず呻きもだえるようになりました。

(写真はパリ西方ブーローニュの森の池で泳いでいた水鳥たち 2006年撮影)

 

2008年8月 4日 (月)

『恩寵の生涯』 第十三回 信仰生活(1)

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(昨日、御代田で多くの方に出会った。私が土曜日に、この好地由太郎さんのお話を紹介させていただいたら、一組のご夫妻が「私たちは空知地方の出身です。びっくりしました」と言われた。決して悪い印象は持たれなかったようだが、言葉は様々な背景を持つ。本人が何気なく使っていても、聞いている人に不快感を与える場合がある。注意しなければならない。帰ってきて早速調べてみたら、その方の言われているところは厳密にはこの空知集知監の所在地ではなかった。現在三笠市にふくまれている地域がそうであったようだ。様々な北海道開拓の強制労働に囚人の方々は狩り出されたようだ。町ではマイナスイメージが持たれるようで好まないようだ。しかし、これは主イエス様のみわざの証の記録である。)


「苦しみのあった所に、やみがなくなる。先には・・・はずかしめを受けたが、後には・・・栄光を受けた。」(旧約聖書 イザヤ書9・1) 


以下、引き続いて好地由太郎さんのお証をお聞き下さい。


 さてこれより少しく私の心霊上の経路を述べて見ましょう。罪悪に満ち満ちたりし事は最早繰り返すに及びません。既に申し述べた通りであります。私は既に神の存在を信じ、其の神様は天地万物また人類の造り主にて在(いま)し、且つ善悪を正しく審判(さば)き給うが故に、自分等の如き大罪人はまさに極刑を受くべき者なりと考えましたので、何とかして今までの罪滅ぼしをしたいものと心がけ喜んで難行苦行をし又た極度に禁欲主義を守ろうとしたのであります。


 しかしながらこれは善き心がけには相違ないが、実は愚かなる事であります。我等はいかに善き行ないを致しましても、それによりて自分を罪から救うことは出来ません。


 「そは人みな罪を犯したれば神より栄(さかえ)を受くるに足らず。ただキリスト・イエスの贖いによりて神の恵みを受け、功なくして義とせらるる也」(ローマ三・二十三~二十四)


とある如くに、我等はただキリストの贖いすなわち我等罪人に代わりて十字架につけられ給うた、其の身代わりのみいつくしみによりて救われるのであります。ああこれは実に有難い事ではありませんか。このキリストのみが我等全人類唯一の救い主であってこの他には天にも地にも我等を救う者は無いのであります。


 私は長い間罪の重荷を背負うて苦しんでいました。しかし私はこの頃に至りて「わが罪」のために十字架につけられ給うた主イエスを信ずることにより従来の罪悪をば神様の前に赤心より悔い改めてその確かなる赦しを明確に自覚する事ができました。思い出すさえもぞっとする程多く且つ重き罪悪でありましたが、なんらの功徳(いさおし)もなくして、主の十字架の上にその重荷を全く卸す事が出来たのであります。ハレルヤ。


 罪の赦しを自覚すると同時に、心に平和と喜びとが満ち溢れて来ました。これは天来の祝福であります。何人も奪い去ることが出来ません。しかし私の外部には患難が益々繁く襲い来るのであります。


 「凡てキリストイエスに在りて、神を敬いつつ、世を渡らんと志す者は責めを受くべし」(テモテ後書三・一三)


とある通りです。


 さて友人某の重傷も神の助けによりて癒されましたが、迫害は益々烈しく我等同志の上に加えられ、傷つけらるるのみならず、半死半生の目に遭うことさえも数度ありましたので、時には心淋しく感ずる事もありました。しかし何時も神の力に支えられ、一難を経るごとに勇気加わり愈々大胆に勧めをなし又主の聖語(みことば)を宣べ伝えましたので、遂には二百人からの同情者が起って来ました。これは実に驚くべき神の御力であります。同時に悪魔の働きも著しく現れて参りました。


 其の頃の事でありました。一日外役中某看守長殿から「由太郎、耶蘇は国賊だぞ、貴様早く耶蘇を止してしまえ」と怒鳴られました故、私は大いに弁解いたしましたところ、看守長殿は議論ではもどかしく思われ、大声疾呼「この野郎、腕づくで来い」と云われました。私も「宜しい、大いにやりましょう」と覚悟を極めまして、「では伺いますが、もしも私が勝ちましたらどうするんです」とお尋ねしました。すると看守長殿は「お前は負けるに決まっているから、負けたら断然耶蘇を止せ」と言われます。私は尚も問い返して「しかしもしも旦那が負けました時には、旦那も私と同じく耶蘇におなり遊ばしますか」と申しますると、看守長殿は「イヤおれは勝に極まって居るから、耶蘇には決してならない」と言われましたが、他の看守長殿が私に加勢されまして、「それはいけない。由太郎が勝ったら、無論こっちが耶蘇になるはずだ」と仰せになり、其の他のお役人方も面白がって大賛成を表されましたので、私は数百人の囚徒と多くの役人方の見て居る前で件の看守長殿と角力を取りました。


 そうして三度とも見事に勝ちを得たのであります。私はその時不思議な力を得まして看守長殿に向かって「私は決して耶蘇を止めません。旦那も今日から私のようにキリストの御弟子におなり遊ばせ」と熱心に説き勧めかつ祈りましたが、其の日は何の効果もありませんでしたが、その後に至りて私は看守長殿と共に神の前に跪きて祈るの光栄を与えられました。

 その後二十何年と経過しまして、出獄後の私が或る日岡山県香登の修養会へ出席いたしました折、二三里の先の西大寺から見えて居られた姉妹方に荷物を取り上げられ無理に案内されて止むを得ず、予定の順序を変更して講演に参ったことがあります。導かるるままに先方へ到着し、案内されて通って見ると、某会社の社長と云われた人の座敷に図らずも、二十何年前空知で私と角力を取られた看守長殿の油絵が懸けてありました。私は驚いて「きいちゃんこの方は」と尋ねますると、相手の姉妹は「これは私たちの亡くなったお父さんです、先生ご存知ですの」と目を丸くしてお答えになりました。聞けば西大寺教界の開拓者はこの懐かしい我が旧知の看守長殿であったそうです。肉においての再会ではありませんでしたが、実に愉快な思い出の奇遇でありました。

(写真は昨年夏今頃霧ヶ峰高原で撮影した山百合などの草花)

2008年8月 3日 (日)

『恩寵の生涯』 第十二回 空知集知監(4)

Dscn439583asama  この様に致しまして着々聖書を研究いたしましたが、又自分の承知した事は他人にも話して勧めましたが、私の様な者が説明する事にも感心して、聖書を読むようになった人が数名起こって参りました。

  しかしながら反対党は相変わらず事毎に迫害を加えますので、公然とは聖書を読むと言い得ぬ者もありました。故に私は当時まだ救いの確実なる経験はありませんでしたが及ばずながら一方には迫害を防ぎ、他方には弱き求道者を励ましていたのであります。

 或る日私は同囚の人々に向かって自分の信仰を告白すると同時に、彼らにも大いに信仰を勧めました所が、彼らは大いに怒りて小数なる我等をいよいよ烈しく迫害するに至りました。

  一日私は聖書を読んでおりますると俄かに十数名の兇漢が集まり来たりて私を取り囲みましたゆえ、私は信仰の理由をいろいろと説明いたしましたが、彼らは聞 き入れません。いよいよ烈しく立ちかかりまして、今将に殺さんばかりの勢いでありましたので、私は思わず手にせる物を振り上げて彼らに立ち向かいました が、たちまちに無声の声に呼び止められ「今が今まで敵をも愛すべしとの聖言(みことば)を読んでおりながら、この有様は何事ぞや」と気がつきまするや、直 ちに跪きて、「オー神よ、私は今実に愚かな事を致さんとしました」と告白して罪の赦しを願い、又た呼び止められてこれを実行するに至らりし幸福を感謝しました。

 私が涙を流して斯くと祈りいたる姿を見たる兇漢等は、何者に動かされしや、一人二人去りして皆立ち去ってしまいました。のみならず、その中から数名の求道者起こりて我等の群れに入り、その中の一人はその後伝道者となるに至りました。

 か くのごとく私は毎日祈祷をしては大胆に同監の人々に「酒煙草は罪である殊に男色は神の前に最も恐るべき大罪であるから、是非止めなければならぬ」と勧告 し、又た「官より賜る賃金は出獄の暁に身を立つる資本金ともなるべき大切のもの故、酒煙草の如き有害無益の事に一文たりとも浪費しては相済まぬ」と大胆に 説明しました。

 その結果幾人かの賛成者も起りましたが、大多数は益々感情を害しまして、私のために一層不利益を計る様になりました。中には私に向かって「そんな事を云うて我々の口を乾すような事をすると活かしては置かぬぞ」と云い、悪口雑言到らざるなく唾吐きかける者さえありました。

  然れども、神は頼むべきかな、私は基督に依り頼みて耐え忍ぶことが出来ました。私は又た或る日典獄殿に向かって私の意見を申し上げました所が、典獄殿にも 大いに御同情下されまして「今後は一層改善して悪弊を除き、金銭も貯蓄して出獄後の備えに充てる様に注意する」とまで仰せ聞けられました。

 私は 大いに力を得まして更に進んで真の同志者と相謀り、これより後は断然不義なる肉欲を捨てて神の僕たるべき旨の誓約を為し、典獄殿にその由を陳述して「同志 七名のために別室をお設け下さる様に」と請願いたしました処幸いにして御認可があり、早速その設計に取りかかられましたので、我々同志は一日も早く出来上 がりてその房へ引き移りたいとその日を楽しんで待っていました。然るに何時しかこのことが反対党の耳に入りましたので、ここに由々しき一大事件が持ち上が ることになりました。

 或る日曜日でしたが私は静かに聖書を学んでおりましたところが、にわかに私を取り囲んだ人たちがあります。見るとそれは八九名の兇漢で、手に手に凶器を携えて居りました。そうして私に向かって 「我々が堪忍していると好い気になって自分等の益のみ図る不届き者め。最早活かして置くこと相叶わぬ。天に代わって今日只今その方の生命を貰い受くるによって、覚悟をしろ」と言い渡しました。

 ちょうど折悪しく看守殿も居りませず、又誰も私の助けをする者が居りませんので、今は早や逃るる途はありません。私は鷹に取られた雀同様、死を待つ他はありませんでした。私は非常に悲しくなりました。そうしてその一刹那に憐れむべし、私の猛悪なる旧き心が昔ながらの暴虎馮河の大勇気をば振るい起こして狂える獅子の如くに飛びあがり「サアー来い、手前達十人や二十人は何でも無い。目に物見せてくれん」と手にせる物を振り上げて、今しも彼等と打ち合わんと致しましたが、不図手にせる物を見ますると、此はいかに、今までも熱心に読み居りし聖書なのでありました。

 私は驚きました。全く当惑いたしました。直ちに気を取り直して「ああ聖書には何と教えてある、汝の敵を愛せよとあるでないか。如何に迫害されたればとて今の仕打ちは何事か」と自ら問い自ら答えて急に悲しく恐ろしくなり、身の危うさをも打ち忘れて矢庭に平伏(ひれふ)し「オー神様よ、この人たちは今私を殺そうとして居ります。然しながらもしも私が殺されましたならば、この人たちはことごとく死刑を受けねばなりません。神様それよりは私は自分で、彼らの望むが如くに死にまして、彼らを助けとう存じます。私さえ亡き者になればこの人たちは満足するのであります」と熱誠込めて涙と共に祈り続けましたが、暫くして友人に呼び起こされて頭を上げてみますると、最早周囲にはその友人の他には誰も居りませんでした。

 目に見えぬ神はその力ある腕を伸べて、私を死地より救い給うたのであります。兇漢らのうち数人はその後悔い改めて我等の同志となり、又たそのうちの幾人かは篤信の基督者として世に出て居られます。このことがありましてから官でも一層御注意を払われまして、我々同志の房を保護するために特に二人の看守をお遣わし下されました。

 斯くしてその房を「節減房」と名づけ、同志相会して、神を信じ聖書を学ぶことを勉め又た官より給せらるつ賃金を貯蓄しました。初めには七人でしたが、追々と同志の者が加わって来ました。然るに或る日の事私の股肱(ここう)の一人であった友人某は兇漢に襲われて重傷を蒙り、既に絶命せんばかりでありましたが、神の御憐れみによりて幸いに命をつなぐ事が出来ました。

(写真は今朝の浅間山、八月に入り山里はすでに秋に向かうか?山容やや明瞭なり)
 


 


2008年7月31日 (木)

『恩寵の生涯』 第十一回 空知集治監(3)

Dscn434830_2  それより聖書を手にいたしましたが、無教育な私には何としても読むことが出来ません。一時は途方に暮れましたが、仕方がありませんので人々へ相談しますると、「なんだ、こんな物を読んでどうなるツ」と頭越しに排斥するもあり、又た中にはわざと有りもせぬ事など偽り教えて、後で笑い興ずる者などあって、なかなか埒(らち)が明きません。もっとも今日と異なり、当時の獄中では読書などする者は至って少なく、唯日々無駄に時間を過ごし、肉欲を満たす事のみを考え、来世の事など毛頭考える者はありませんので、宗教の書物は勿論、そのほかの書籍といえども、読む者を迫害したのであります。否私自身がこれまで第一に真面目な人を迫害したのですから、今更私の真面目な事を云いましたとて、お役人にしろ囚人仲間にしろ、誰一人信ずる者は有りません。かえって変な疑いを受けたりして事が面倒になって来るばかりであります。

 私はどんな事に出会いましても、天来の夢と母の慈悲深き訓戒とを忘れる事は出来なくなりましたので、どうかして文字を覚えんものと苦心いたしましたが、人々は「何だ今から学問するとな、気が狂いはしないか」と嘲笑いました。又た「基督教はどんな宗旨でしょう」と尋ねますると、彼らは「それは魔法を教える宗旨だ。貴様も魔法使いになるのか」と云っては馬鹿にしました。役人の方々に願いましても、笑われたり叱られたりするばかりで、誰からも教わる事が出来ません。そのうちに機を得て、囚徒一同から神様と呼ばれて居る看守長の原田正之助殿へ事情を述べてお願いしました所、非常に喜ばれて御同情下され、何かと御親切にお助けをいただき、先ず第一に片仮名平仮名を覚えて、聖書を拾い読みする様になりました。それからというものは日夜、外役中といえども、決して聖書を手離すことなく、間がな隙がな読み続けましたが、そのうちに、次第に解って参り、同時に己の大罪人たる事実がいよいよ明白になり、又罪悪の如何に恐るべく且つ厭うべきかが感ぜられて来ました。そこで決心してまず酒煙草、その他恥づべき行為を断然廃して、人々とは成るべく遠ざかる様にしました。

 ところが同監の人々は承知しません。四方八方より烈しく私を責めて来ました。これまで私は悪い事の頭であって、食物なども、制限してある官の御規則を無視し、道ならぬ方法を用いては制限外に自分も食べ又人にも食べさせていましたものが、今や何処までも規則を守りて官の給与に満足し、決して不法の手段を弄せぬ様になりましたので、人々は私を憎みて親の仇敵(かたき)の如くに嫉視しました。

 然しながら私は神様が必ず愛の御手をもって私を守り給うと信じて耐え忍び、如何にしても永遠の救いを我が物としたい、真の安心を獲たいと、日夜千辛万苦を忍んだのであります。幾度か耐え切れぬ思いをしながらも、つねに母の訓戒と天来の夢とに励まされまして、辛き中をば耐え忍ぶことが出来ました。私はその頃誤解して私に危害を加えんとする人々を、かえって憐れむ様になりました。

 それから私は何事によらず、人の嫌がること、辛く思うことは、自分から進んでそれを引き受けてする様にし、監房に於いても便所に最も接近した、人の嫌がる場所に自分の居を定めましたが、人々からはかえって「お前は便所の番人になったかきれいに掃除しておいてくれ」などなど悪口されました。私が道ならぬ愛をもって愛しておった少年すらも、今は私を見下げてののしる様になりました。又た私が酒煙草をやめました事についても、彼らは私を憎みまして「それほど金が欲しくばこれでも食らえ」と云って、自分らの食い残しの食べられない物を私の前に投げ出すなど、実に残念に堪えない事も数々ありましたが、以前ならば五人や十人は物の数ともしない私も、今は忍びて、神の御国を仰ぎ望みつつ、熱き涙に胸迫るを覚えつつも、神の助けを祈り求めたのであります。


(写真はご近所の方の愛犬プリンちゃん、13歳だそうで、昔は美人だったそうです)

2008年7月27日 (日)

『恩寵の生涯』 第十回 空知集治監(2)

Dscn432130  或る日数百人の囚徒と共に外役中、仕事のことからお役人と衝突して、結局一同申し合わせ昼食を合図にお役人方を皆殺しにして逃走する事に手はずを定めていました。ところへ一人の看守長が馬上にて来たり、不穏の様子を早くも見て取られ、私を呼び出して「自分は今、日中を馬でやって来た故に、頭痛がして堪えられぬ。お前に此のサーベルと外套とを預けるから、どうか自分に代わって一同を監督してくれ」とのお言葉であります。看守長殿の此の一言に動かされて私は最前の決心を翻し、一同をも説きなだめて、その日は無事に納まった事でありました。実に不思議な力であります。
 当時の集治監は甚だ寛大であって、我々囚徒は房から房へ、監から監へ自由に往来することが出来、宿泊する事さえも許されていました。外役の仕事としては監獄の水道工事でありましたが、私はその工夫としても第一に選抜され、仕事も決して人に譲らぬ様忠実に勤務しました。斯くしてその年も暮れ、明けては明治二十二年の一月二日、この日は私に取りましては実に再生の日であります。
 顧れば生まれて以来二十五年間というもの、善悪の二道をたどり、身命を賭して悪魔の手伝いをなし来たりましたが、二十二年一月二日の夜即ち〇時ごろ、天の使いの如き輝ける愛らしく美しき子供が、私の前に顕われまして、極めて真面目に

 「我は特に汝に神の福音を伝えるために天より使わされて来たのである」

 と申して、手に携えておった所の一巻の聖書を示し、更に語を継いで

 「若者よこの本を食せよ。これは永遠のいのちを与うる神の真のことばである。この本を汝に遣るから必ず読め、決して我が言葉を忘るるな」

と云いながらその本を私に渡してくれました。私はその本を受け取り、さても不思議のことではあると思案する途端、他人に呼び起こされて目を開けますると、これはこれ一場の夢でありました。如何にも不思議と感じまして、その後は眠ることも出来ませず、過ぎにし事どもを思いめぐらし、自分の不行跡と罪悪の恐ろしかりし事、又父母兄弟親友の事など思い起こして、何とも云えぬ淋しき感に打たれました。また将来の事などに思い到りましては、どうなる事かと、夢の事が気に掛かりて、如何なる意味であろうかと考え込みました。

 それから夢の中に子供から渡された本というのは、たしかに聞いた事のある名称であると思うて、よく考えましたところ、それは去る明治十六年四月中監房に於いて一青年から初めて耳にし、又恩愛深き母親と安川牧師とが骨を折ってようやくのことで許されて母から差入になった、かの聖書であると思い当たりました。でこれは確かにその聖書を取り出して読めということに相違ないと悟り、初めて安堵いたし、それから再び眠りにつきましたが、又もや夢に最前の少年が現れまして

  「若者よ、この書物をひもとき読め、これは汝を幸福ならしむる窮まりなき生命の書である」

と言って去りました。斯くすること三回。これは天の黙示に相違ないと信じて、かつて官へお預けしてあった聖書の下付を願ってみる決心が出来、その夜は終夜眠れず、房内に眠りおる数十名の身の上など思い比べて、心中に言うことのできぬ感じが起こりました。即ち「今までは悪魔の奴隷となって罪悪に身を委ね来たったのであるが、今からは身命を神に捧げて義の器となって御用を勤めねばならぬ」との大決心が出来、ひれ伏して涙ながらに生まれて初めての祈祷を天の真の神に捧げたのであります。これ全く神の限りなき慈愛とキリストの十字架の奇しき贖罪(あがない)とによれる、聖霊の御働きであると申すの他なく、感謝に言葉なき次第であります。

(写真は御代田町の道端に咲いていた、「ぜにあおい」銭葵。写真面をクリックしていただくと大きく見えます)

2008年7月22日 (火)

『恩寵の生涯』 第九回 空知集治監(1)

Dscn367230  それから神奈川へ逃げて行きました。日中は隠れて夜だけの活動です。とにもかくにも外国行きの旅費を儲けねばならぬと思いまして、或る日高島山の或る家へ忍び入り、主人に見咎められて逃げ出しましたが、大勢の人々に追い詰められて止むを得ず、或る商家へ土足で踊りこみ、ランプを消して奥座敷へ駆け入りましたが、追っ手に四方を取り囲まれて如何ともするあたわず、杖を振り翳して阿修羅の如くに飛び出だし、漸く一方の血路を開きて、一旦は逃げ出しましたが、たちまちに追い着かれ、多勢に無勢、力尽きて遂に捕縛されてしまいました。この時も幾度か追っ手に斬殺されんといたしましたにもかかわらず、悪運強く、幾分の負傷は致しましたが、生命には別条なくして、神奈川警察の分署へと引き渡されたのであります。

 神奈川分署にては前科は決して自白せず、唯高島山の犯罪のみの取調べを受けて居りましたが、天網(てんもう)恢々(かいかい)疎にして漏らさず、一日もと鍛冶橋監獄に居られた看守が巡査部長として監房を見廻られしに出会い、「好地だな」と言われて一切暴露し、横浜裁判所から戸部監獄署へと送り込まれて、一貫目もある重い重い鉄の玉を両足に付けられ、出入共に厳重に前後から見張りを受けることになりました。横浜の在監生活は一年位でありましたが、その間にも幾度逃走を企てたか知れませんで、殺される様の破目にも幾度となく陥りました。裁判の結果九ヶ年の重刑を加えられ、又もや東京の小菅集治監へ送られ、更に北海道に護送せらるる事となりました。その時は明治二十年十一月私は二十三歳でありました。

 空知集治監へ護送されたのは同勢三百名でありましたが、函館へ参る途上船中に於いて私ども囚徒は密議を凝らしまして、看守を皆殺しにし、船を奪って支那へ脱走企てました。しかし危機一髪というところで、裏切りをした者があり、何事もなし得ず、ただ取締りが益々厳重になったばかりで、無事に函館に上陸しました。それから空知集治監に安着して、構内で我々囚徒の受け渡しをする際に、一人の耳の聞こえぬ年老いたる囚徒が、点呼に応じて己が番の数を言わざりしとて、総取締りの囚徒頭が怒ってその老囚徒の頬をば火の出るほど、ひどく張り飛ばしましたのを私は憤慨し囚徒頭へ痰を吐きかけましたところ、彼は非常に立腹いたし、今度は私の両の頬を続け様に打(ちょう)ちゃくしました。私は考える所あって黙って忍耐いたし、彼が好い気になって向こう側へ行こうと致しました処を、棒を拾って烈しく撲りつけてやりましたので大騒ぎとなり、私は直ぐと留置場へ連れ行かれましたが、このことが評判となって、私は着監早々偉物として尊敬されるようになりました。

 間もなく典獄から呼び出されて参りますると、典獄殿の仰せに「私は大勢の子持ちであるが、今度また三百人の子供が殖えて実に仕合せだ。お前もなかなかの元気だと言うから、どうか官のため又朋輩のために気をつけて働いてくれ」とあり、私は乱暴をして処分される代わりに、かえってほめられ、囚徒頭を命(いいつ)かりました。当時の空知はそういう風の別世界でありました。かくして私は初めから多数の者から頭と崇められて人が右と云えば左、西と云えば、東と云った様に、万事に我儘を通して威張っていました。

(写真は冬の新潟方面への旅でたまたま停車した駅で撮影したもの、もちろん「空知」はこんなどころでないだろう 2008年1月26日撮影)

2008年7月20日 (日)

『恩寵の生涯』 第八回 破獄(2)

Dscn431130  宇都宮まで参りますると、橋のかなたに二人の刑事らしい人が張り込んでいるのが見えます。私は驚いて引き返そうとすると生憎、後から火の番の金棒引が二三人やって来ました。私は取り敢えず側の便所へ入って様子を見ていますと火の番の連中は交代をするものと見え、止すの止さぬのとしきりに争っております。私は之幸いと便所から出で「私にちょっと手伝わして下さい」と云って金棒を借り受け、何食わぬ様子で「火の用心」と呼ばわりながら一緒になって橋を渡り、張り込みの刑事にわざと「ご苦労様。逃走人があったようですね。しっかりお頼み申します」と挨拶して、無難に通過してしまいました。それからちょっとした縁故で或る汁粉屋へ奉公する事になり、翌(あく)る日早速主人に命(いいつ)けられて、小豆を搾って餡子(あんこ)を作るのですが、不案内の私は愚かにも粕を袋に残して丁寧に絞りあげ、肝心の餡子は残らず水に流して平気でいたので、あとで主人に知れて大目玉を食わせられましたが、思えば私の生涯は全く実を流して粕を残すの愚なる生涯であったのであります。

 それから店へ注文に来た客人と同行して、注文の品を持って参り、先方が警察署であったのにびっくりしましたが、気を落ち着けて品物を渡し、いざ立ち帰らんとし、後から「若い衆ちょっと待て」と呼び止められ、さてはとギックリ胸にこたえて倒れるばかりに恐ろしく感じましたが、八方に目を配りてイザと云わば逃げ出さんと隙を窺いながら、なおも平気を装うて「何ですか」と立ち戻りますると、案外にも「お前の店に借りがあるからこれを持って行ってくれ」と勘定を渡されましたので、ようやく胸をなでおろし、勘定を受け取り、虎口を逃れた気がして警察署の門を出ましたが、こんなところに長居は無用と覚悟を極めて、主人方へは帰らず、受け取った金はそのまま懐中し、東京方面へと逃げ去りました。

 夕方にあるところまで参りますると、あたかも多くの人々が船に乗って河を下ろうとしておりましたので、私もそれへ飛び乗って客の一人となりました。ところが船中の客人らが「この間仙台の監獄から好地某という大悪党が逃走したというが、実に近年稀なる傑物で、殺人、放火、強盗、強姦、其の他あらゆる罪科の刑状持ちであって、破獄の際には数百人の追っ手を切りまくって物の見事に逃げおおせたと云う」と新聞に出たことに尾ひれをつけ、まこと空ごと打ち交ぜ、面白そうに語り出しましたので、私も平気を装うてこれに相槌を打ち、逃走の様子など見て来た様に面白おかしく話していました。やがて夜も更けて、十二時頃に船頭から「昨夜もこの辺で強盗に襲われたそうですから皆さん御用心なさい」と忠告されましたが、その時の乗客のあわて加減と云ったらありませんでした。気の弱い婦人などは腰を抜かしてしまいました。そうしてめいめいに財布だの包みだのを成るべく強盗の目に触れぬようにし、大急ぎでそこここへ押し隠したのであります。

 乗客の不安に反して私はかえって大喜びでありました。と云うのは、もし強盗が来たならば名乗り出で、得物の割り前をもらい、且つ又乗客の金品をその隠しある場所より取り出す便宜を与えてやる事が出来ると思って、天の与えと喜んだのであります。善人が恐怖して悪人が自若たりとは世の中は実に変なものです。そのうちに左右より二艘の小舟が漕ぎ寄せ来たりて船を停めさせ、「一同静かに」という厳命がかかりました。乗客の心胆は氷の如くになりました。私は盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)で今や思いもよらざる大儲けの時が来たのである、イデ山分けにして予ねての望みなる米国へ逐電する旅費にせんずと、こおどりして待っていました。ところが船へ乗り移ってきた人たちは強盗ではありませんで、水上警察のお役人衆でありました。一同の安堵に引き換えて、今度は私が青くなったのであります。しかし先んずれば人を制すと、とっさに度胸を定めて、住所氏名の取調べが始まるや否や私は第一番にでたらめの名乗りを上げて無難にその場を切り抜け、間もなく某地へ上陸して、東京へ帰着しました。

 東京へは帰りましても、警察の手が厳しいので、親兄妹を尋ねることも出来ません。或る夜のこと神田辺を独りうろつき、怪(あや)しの人影に追跡されて、路地から路地へと逃げた末、行き止まりの小路へ迷い込みて、幸いに追っ手をばどこかへ播いてしまいましたが、夜回りの若い衆があとから入ってきたのに当惑し、一代の知恵を絞って塵芥箱(ごみため)の隅へ身を埋め、汚れた薦(こも)を引きかぶり、息を凝らしていますると、間もなくやって来ました若い衆らは、それと知って知らずにか、私の上へ熱い水をザアザアとかわるがわる注ぎかけました。私はもちろん黙って忍んで居らねばなりませんでした。罪人の道は決して楽な道ではありません。

(写真は初夏の浅間山麓から八ヶ岳を方面を見下ろし、高原野菜を栽培している畑の一隅を写す 2008年7月20日撮影)

2008年7月19日 (土)

『恩寵の生涯』 第七回 破獄(1)

Dscn430030  それから私は東京集治監に送られまして、そこでも悪友と交わりを結んで悪しき企てをのみ心にたくんでおりました。越えて十八年には宮城県集治監に送られましたが、このたびはふと考え直して

 「悪事をするのみが人間の本能ではあるまい。一つ善い事でも人に負けぬようにやって見よう」

と骨身を惜しまず働きましたところ、大変人々にも喜ばれ又同囚の間にも模範者たるの名誉を得るに至りました。また役人の方々も信用して可愛がってくれましたので、頑固な私の心も幾分やわらかくなりまして、神妙に約二年の月日を過ごして二十年の初春にまで及びました。

 其の頃は丸森という外役所に移されていましたのですが、風聞によれば近いうちに一同北海道へ流される事に定(き)まっているというので、私の心は再び悪魔に導かれまして、是非其の前に逃走せねばならぬと決心いたし、或る夜旨く監房から逃げ出したのであります。然るに其の場所は甚だ厳重に警護されて逃ぐるには最も危険な所であって、今まで逃走を企てた囚人はことごとく斬殺されてかつて一人も逃げおおせた者が無いと云われていました。それと知りつつも逃げて出た心は自分ながら不思議であります。私は小舟へ飛び乗り阿武隈川を下へ渡ると見せて、実は向こう側の禿山へ逃げ登り、山の上から人々の騒ぎ廻る様子を見ていました。役人方は申すに及ばず、数百人の囚徒が我こそ取り押さえて手柄にせんと、西に東に駆け廻りましたが、多くは川下へと走って行きました。禿山の周囲も幾回となく廻っては探しましたが、上には木も草もありませんので、よもや山の上に隠れていようとは気がつかなかったものと見えます。しかし村の人までが総出で槍だの鉄砲だのと手に手に武器を提げて、時々は発砲して山の廻りをかなたこなたと飛んで行く姿を眺めましては、決して安心してはおれませんし、さればと云いてどうすることもできませんで、其の日は終日絶食して日の暮るるを待ち、夜に入って山から下りてどこかへ逃げる工夫は無いかと探して見ましたが、いずれを見ても張り込みがあり、幾度となく見つけられては追い廻され、幾度となく槍にて突き殺されんとし、刀にて斬殺されんとし、又鉄砲にて打ち殺されんとしたるにもかかわらず、悪運強くして幸いに虎口を逃れ、岩から岩へ、樹から樹へと、飛び移りなどして、不思議に一命を全うし、遂には阿武隈川へ滑り落ちて一旦は深く水底に沈みましたが、再び水面に浮かび出まして、追っ手の人々が下の方へと探しに行くのを幸いに、自分は上へ上へと懸命に泳ぎ上がりて早や夜も明けました故、川辺の葦の中に潜り込みて身を隠し、二日二夜一粒の食べ物も食べずに忍んでいましたが遂に堪えられなくなり、夜陰に乗じて或る百姓屋の馬小屋へ忍び寄り馬の食しいたる食べ物を桶のまま横取りして携え行き、久しぶりで山海の珍味にも換え難く、豆かすと飼い葉の不潔な合わせ物を貪り食したこともありました。このような譬えがたなき生活を幾日も続けまして、又幾度ともなく危急の場所を切り抜けまして、漸く宇都宮まで落ち延びたのが二月の、未だ雪が積もっている或る夜の事でありました。

 其の頃の心理状態を申し上げると、百人二百人に取り囲まれて、斬殺されるかは今か今かと云う様な場合は、気が立っているせいか、決して恐れは致しませんが、山の上なり林の中なり比較的安全にして落ち着きいる時分には、かえってガサと云う音にも胆を冷やしてうろたえるものであります。良心の呵責というものでありましょう。

(写真は昨日何とか撮影できた古利根川のカモ?)

2008年7月18日 (金)

『恩寵の生涯』 第六回 監獄送り(4)

Dscn416130  こんな風に境遇が境遇ですから、私も益々悪事を見習うばかりです。益々悪い計略を工夫するのみです。次第に暗(やみ)から暗(やみ)へと迷い入りました。時しも同房に深野某という殺人犯にて既に死刑の宣告を受けおりし兇漢がおりました。私よりもなお上手の代物でしたが、少しの隙だにあらば看守の刃を奪い取って逃げおおせんと窺っていました。なかなか武芸に達しておりまして、幾人かの人を殺し多数の人に傷を負わせたことを誇っている剛の者でありました。けれども彼はまだ死にたくはありませんでした。何とかして今一度破獄して娑婆へ出たいと願っていました。その破獄の相談を受けまして、私は一も二も無く賛成しました。

 さて破獄の手段は如何にというに、まず何時か夕方点検の折に、看守のサーベルを奪い取り、それから獄舎に火を放ちて囚徒一同を解放し、その騒動に乗じて各々志す方に逃げおおすというのでありました。そうしていよいよ実行の当日となりまして、私ども十数名の同志は日の暮れるのを今や遅しと待っていました。ところがその日の夕方官の御都合で私一人は他の房へ移される事になり、ちょうどもとの房の真下にあたる処でありましたが、案の如くに二階ではたちまち大騒動が始まりまして、私どものいる房へも水が流れる、血が滴り落ちる、叫ぶ者あり泣く者ありという、いわゆる阿鼻叫喚の大活劇でありました。

 この時私は心のうちで、事成就して今にも火の手が上がったら、我も一番踊り出でんと待ち構えておりますと、看守も看守長も幸いにして危急を免れ、サーベルをも奪われず奮闘されおるうちに他の人々が駆け集まりて、巨魁(きょかい)深野は即座に斬殺され、その他の者どもは手負いとなり、事大事に至らずして止んだのであります。これは誠にお官(かみ)のお仕合せであったのですが、私は実に失望しました。千載一隅の好機を逸したのであります。残念でたまりませんでした。

 そのうちに自分の公判日が接近して参りました。私は心に死刑の宣告を受くるに違いない、よし自分は白状しないでも、申し立てた、事実の符合せない点があり、又事実自分は殺人犯者であるのです。私は「主婦が誤って自分でランプを倒して焼死んだのです」と申し立てましたが、事実においてはその前日買い入れた一斗入りの石油が少しも残らず無くなっておったことが証明されたのであります。どうしても誰かがその石油を用いて放火したに相違ないと謂わねばなりません。

 そこで宣告の当日、私は裁判所へ参りましたが、大胆にも重罪公判の法廷から矢庭に群衆を押し分けて飛び出しました。こうして人々がアレヨアレヨと云う中を猛虎の如くに勢いすさまじく邪魔する者は容赦なく踏みにじらんと勢い込んで正門を通り抜け、一目散に逃げ出しましたが、折りしも運悪しくかなたより数多の軍人と憲兵の来るに出会いまして、引くに引かれず、進むに進まれず、逃ぐるには道なく、進退これきわまったのであります。そのうちに後から危険なる道具をもって追いつかれまして、空手では抵抗が出来ませんで、止むを得ず捕われてしまいました。そのおり私が公判廷から逃げ出した目的はと云いますると、今思うても身の毛のよだつ様に感じますが、「いづれ死刑と事は定まっているのだ。ここでおめおめと殺されてしまうよりは、大臣でも暗殺してその場を去らず見事に割腹して死んだ方がましだ」と考えたからであります。

 幸いに命には別状なくして、再び縛(なわ)をかけられて監獄へ連れ帰られましたが、後公判廷において

「其方儀謀殺放火ノ罪ニヨリ死刑ノ宣告ヲ申渡スベキノ処齢未ダ二十歳ニ満タザルヲ以テ一等ヲ減ジテ無期徒刑ニ処ス」

という判決を受けて、まずまず生命だけは助かったのであります。時は明治十七年三月でありました。この九死に一生を得たる幸福に対しても、感謝して悔い改むるが人の道なるべきに、かえって一層悪念が増長いたしまして「命はすでに無きものと覚悟していたことなれば、これからは命を的に思い切って大胆に悪事を働いて見よう」という不法極まる了見を起こすに至りました。悪魔に魅入られた人の心ほど恐ろしいものはありません。

(写真は彦根城外堀、現彦根図書館の裏 2008年6月)

2008年7月16日 (水)

『恩寵の生涯』 第五回 監獄送り(3)

Dscf201930  けれども私にはまだ餓え渇く如くに義を慕う心の目が開いていませんでした、ただかの青年が大勢に袋叩きにされながら泰然自若としておった、その不思議な力の源がこの書物の中にあるにちがいないから自分もその力を握って魔術的に破獄をしとげることができようかとばかり、所謂伴天連(ばてれん)の魔法書としてこれを手に取ったのであります。しかし私にはカタカナも碌々読めないのですから、自分で聖書を読むことができません。そこで同房の桜井某という物知りに読んで貰いましたが、私の考えとは打って変わりて聖書には罪を悔い改めて義しき途を歩めと教えてあると言われて、私は驚き入りました。なお他のところをと申して読んで貰いましたが、聖書は要するに監獄破りや悪事の秘伝などとは全く正反対の事のみが書いてあるのだとわかりましたので、折角母と牧師とがまごころを込めて差し入れてくれた聖書を、特に母が「母と父とはともにキリストを信じてお前のために日夜神に祈っているから、この聖書を母の片身と思うて大切にしてくれ」と涙を流して言われたにもかかわらず、その海山の親の恩をも打ち忘れて、聖書はまもなく領置預けとしてお官(かみ)へ預けてしまいました。

 父母はその後芝教会の会員となり、父は役員をも勤めて信仰の道に進み明治二十一年には勝利のうちに天上の安息に召されたるに引き換えて、私は神なく基督なく望み無くして同監の人々と共に、日一日と死刑の宣告に近づきつつあったのであります。

 さてその頃の心持即ち死刑の宣告を前に控えた囚徒等の心理状態をちょっと申し上げます。死刑の宣告を受けますと百日以内に刑の執行がある事になっていました。その百日間は何時誰がそれを執行されるのだかわかりません。毎朝六時に起きまして、それから七時もしくは八時までに、今日は何の某が刑の執行を受くるのであると言い渡され、かつ又その通り執行されるのでありまして、その当人に取りましては唯わずかに二三時間の生命であります。監内の誰かが「御用だ」と言われて呼び出されて行けば、同監の者らは最早再びその人と相見ることは出来ぬのであります。そうして何とも云えぬ気味の悪い一日を過ごして翌朝になると、また同じように誰かが呼び出されて出て行きます。その同じ杯がやがては自分にも廻って来るのであります。或は明日であるかもしれません。ただ翌朝までの寿命としか請け合いは出来ぬのであります。心細い限りであります。つねには不信心な人までが急に何かを拝むようになるのも不思議ではありません。ほとんど一人残らずが観世縒(かんぜより)で造った数珠を頸に懸けております。世の人々の全く味わうことの出来ない経験であります。毎朝六時に起きると「今日は自分が呼び出されて行くのか知れん、そうすれば八時頃にはもうこの世と別れてしまわねばならない」と思いましては朝も決して楽しいものでありません。また「幸いにして今日は自分の番でなかった、しかし明日は自分かも知れない」と思いましては夜がどうして安息(やすみ)になれましょう。実に嫌な心持であります。もしそのうちにも一種の安心が見出されるとしたならばそれは逃走するか又は自殺するかの覚悟を定めて悪度胸の据わった時だけであります。

 面白い事がありました。或る日一人の囚人が、それは陸軍大尉かでありましたが、死刑の宣告を受けて帰って来まして案外に喜んでおりましたので私共は「君は死刑の言い渡しを受けてどうしてそのように喜んでおられるのか」と尋ねました。すると彼は答えました。

 「僕は今日死刑の宣告を受け、帰りに典獄殿に面会して自分は軍人ですから明日直ぐ  と処刑して下さい、潔く死につきますと言って依頼してきた。と云うのは今日裁判所で人の話を聞いたが、昨日処刑された一人は顎に縄が引きかかっておったために死に切れず、絞首台から取り卸された後に蘇生したが、二度処刑する法はないというので放免され名も監獄太郎とつけられ一歳の子供として娑婆(しゃば)へ出されたということだ。僕は柔道を心得て居るから明日絞首台に上っても、旨く急所を避けてきっと蘇生して見せる。そうして監獄次郎となって再び娑婆へ出るのだ。と思うと嬉しくてたまらない」

と。実に馬鹿げた話ではあるが彼は心から、そうと信じて喜んでいました。また房の者も一時はそれに化せられてにわかに彼の弟子となりて喉の急所を避ける稽古を始めたことがあります。しかしこれはただ迷信のぬか喜びに過ぎませんでした。

2008年7月15日 (火)

『恩寵の生涯』 第四回 監獄送り(2)

Dscn4109  当時私は弱年ながらも選抜されて監房の頭即ち取締で所謂牢名主と云う者になっていました。頭と言えば房内の囚徒全体の取締であってお官(かみ)への申立てなども私が一同に代わって申上げ、又お官(かみ)からの御命令も私から一同へ伝達するのでありまして私は古参新米の一同から頭として尊敬されていたのであります。其処へ或る日、明治十六年四月十二日かと記憶しますが、二十二,三の一青年が新米として這入って来ました。是は私にとって最も記念すべき日であります。私は其の青年に同情を表して万端の注意を与えかつ刑罰をもなるべく軽くして貰えるような申し立ての方法なども伝授し置かんと、親切に之を迎えて、先ず「お前は娑婆(しゃば)で何の悪事を致したのだ」と尋ねますと、案外にも彼は「何事も致しません」と、答えましたので、私は青年の首を押さえて「生意気な事をぬかすとただは置かぬぞ」と云い、再び詰問しましたが、彼は同じく「何の悪事も致したのではありません」と答えましたゆえ、監房の者等は大いに怒り、四方より烈しく責め立てましたが、青年はなおも悪びれず「私は善い事をしたために此処へ来たのです」とはっきり申しますので、私も立腹し「ここにいるのはいずれも首と胴との離れる豪傑ばかりだぞ。それに対してよくも失礼なことをぬかしたな」と云って一同と共に彼を袋叩きにしました。しかるに彼青年は圧(おさ)えられた下から泣き声にて静かに

「・・・私はここで殺されましても天国へ参りますが、ここにいる方々は神を信ぜぬ罪人であります。どうかこの方々の罪を赦して下さい・・・」

と申すのであります。今にして思えば彼は昔石にて打ち殺されながらも「主よこの罪を彼らに負わせ給うなかれ」と叫んで、敵のために救いを祈り求めたかのステパノと同じく殊勝にも私共のために罪の赦しを祈ってくれたのであります。私はこの意外なる青年の泣き声を聞くと同時に心中に一種の不思議なる光のひらめきを感じまして、一同の手をのけさせ、青年を助け起こして「オイ貴様、どうすれば貴様のような心になれるか」と問答しようとしているときに先刻よりの騒ぎを聞きつけて走ってきた看守が房に入り来たり青年を引き立てて他の房へと連れて行きましたが、私は其の立ち去らんとする青年の袖を捕えて「どうすれば君のような心になれるか、教えてくれ」と熱心に問いましたので青年は戸口でたった一言「耶蘇教の聖書をお読みなされ」と答えて去ってしまいましたが、私はこの青年の一言に導かれて他日キリストの救いにあずかるようになったのであります。

 青年は他の監房へ移されました。後にて看守に伺えば、彼は耶蘇教の路傍説教をして巡査の命令に服せなかったために、官吏侮辱の違警罪で監獄にやってきたのを取り扱い上の手落ちで誤って重罪犯の監房へ入れたのであったそうです。入って来てから出て行くまでわずかに二十分か三十分間の事でしたが、その間に彼は知らずして私を地獄の暗黒かより天国の光明に導くの驚くべき福音の種を蒔いたのであります。神の御摂理は実に不思議ではありませんか。

 それから私は耶蘇教の聖書を手に入れたいと志して、その後養母が見舞うてくれましたときに第一にこの聖書の差し入れを依頼しました。母は私が入監して以来容易ならぬ心配を致して、断食をしたりお百度を踏んだり、父や兄と共に手を尽くして私の刑の軽くなるよう又私の心に慰めの与えらるるようにと念じとおしておられましたのですから、今私から耶蘇教の聖書を差し入れて下さいと言われて非常に喜びました。それから処々方々と尋ねてようやくの事、芝露月町講義所の安川牧師に会い、事情を語り、聖書差し入れの儀を相談したるに、牧師は大いに同情を表され、ご自分の用いおられし旧新約全書をそのまま贈り物として母に渡されましたので母は喜びて早速差し入れを願い出ましたところ、その頃は聖書差し入れは許可になりませんでしたが、母が幾回も願い出また典獄にもお目にかかりて熱心に運動した結果特に許されようやく私の手に入りましたので、私も非常に喜んで受け取った次第であります。

2008年7月13日 (日)

『恩寵の生涯』 第三回 監獄送り(1)

Dscf0375  さて参りますると警部殿より全く予想外な御訊問を受けました。すなわち火事とは全然関係の無い、以前神田に奉公しておりました時のことにて「その方は神田の機械屋に奉公して居った時、何故用達(ようたし)に出たきり主人の家に帰らなかったのだ。しかも主人の金を受け取ったままそれを主人に納めもせずに、この家の雇人になったのであるか」と案外な思いも寄らぬ方からやり込められましたので、私は平気を装いまして、いろいろと申訳をしましたが、なかなか御承知がありませんで、遂に拘留房に入れられ、火事のことをも再三御調べを受けたのであります。けれども私は決して白状は致しません。どこまでも「自分はおかみさんの死には関係が無い」と申し立てました。

 しかしながら天はこれを許しません。その後裁判所へ廻されて、鍛冶橋の監獄へ送られましたので、最早容易に逃れることはあるまいとは思いましたが、なお偽りを言い通して白状さえしなかったならば、遂には放免さるる事であろうと考えまして、獄中では同囚の多くの悪漢無頼の輩と交わりまして、いよいよ悪念を増長させるばかりでありました。その結果「もしお上で無罪放免にしてくれないならば、自分で無罪放免になって見せよう」という大胆な覚悟が出来、隙だにあらば逃げて出ようとののみ考え監房の出入り毎に目を四方八方に配ってはいましたが、特別に注意されている重罪の身なれば、ちょっとの隙もありませんで、そのうちに裁判は進行し、予審終結、謀殺犯という申し渡しを受けたのであります。

 それからは重罪裁判に廻され、数十回の取調べを受けましたが私が様々と虚偽の申し立てをし通したにもかかわらず、結局謀殺犯の決定を申し渡されましたので、いよいよ非常手段を講じて逃走するより外に途は無いと考えながら、その日は悄然として監房に引き下がりました。その間かれこれ三年間監獄で暮らしたことでありますが、私の心に天来の福音の光が初めて閃きましたのはその間の出来事であります。

(写真はフランス・パリ・ブーローニューの森 2006年11月)

2008年7月11日 (金)

『恩寵の生涯』 第二回 地獄の火

Dscf199330  越えて十八歳、明治十五年のその七月、私は日本橋区蠣殻(かきがら)町の某所に雇われました。ああここが私を亡ぼす千仭の断崖よりもなお恐ろしき淵であったとは、神ならぬ身の露ほども知らなかった事であります。無惨にも私はその渦巻きの中に陥りました。噫(ああ)。

 申し上げねば分かりませんが、その店の主人と云うのは年の頃三十位の婦人にて、外には誰も家人なく、私と只二人、私はその主婦を助けて居りましたのですが、参りましてまだ幾日も経たぬその月十日の夜、私はにわかに道ならぬ情欲の燃え立つのを感じました。ああこれ地獄の火であります。今でさえも身震いがいたします。私は一切を忘却して只罪悪の奴隷となったのです。私はこの恥ずべき犯罪の詳細を語ることができません。またその必要が無いと考えます。ただ数分の後に主婦は死骸となって横たわり、また私はそのいかにしても蘇生せざるに当惑し途方に暮れておったとだけ申して置きます。

 私はこのような大事件になろうとは、もちろん夢にも思っていませんでした。警察へ自首して出ようかとも考えましたが、同時に悪魔は「ナニ毒を食わば皿までだ、一層のこと石川五右衛門か天一坊のように、天晴れ天下の大賊となって名を揚げろ」と云って囁きました。私は遂に悪魔の悪知恵に導かれ、大胆にも主婦の死骸の下に薪を挟みて、これに前の日に買い入れてあった石油一缶を残らず浴びせかけました。それから何にしても入用なるは金なりと考え、主婦の有り金をば残らず懐中し、薪へ火を放(つ)けて外へ逃げ出し、しばし様子を見ていますると、たちまちに火の手が烈しく燃え上がり、見る見る家全体に火が廻り炎々と燃え上がりましたので、最早これにて大丈夫と思い、近所の人々を呼び起こして「火事よ火事よ」と絶叫し、何食わぬ顔して共に消防の手助けをいたしたのであります。しかし心の中では成るべく火の消えぬようにと願うていました。死骸さえ焼けてしまえば火事は何とでも言い訳ができるとばかり思っていました。

 好い具合に火はなかなか強く、ややしばらくしてからようやく消し止められ、人々も安心する間に夜は明け渡り、私も人々と共に朝飯を済ましましたが、心の中ではひそかに「主婦の死骸はどうなったであろうか」と懸念に堪えず、思い悩んでおりました。それから心配しながら焼け残りの品物を取り片付けて見ますると死骸は灰とはならず半焼けのままに残っていました。私はこれはと思いましたが、今さら如何とも致し難く、大胆にも何知らぬ風を装うて「オヤうちのおかみさんは此処に焼け死んでおります」と呼ばわりました。すると人々は驚いて駆け寄り、その無惨なる様を目撃して、誠に気の毒がり「マァ一体どうしてこんなことになったのでしょう」と私に尋ねます故、私は

 「私は昨夜はおかみさんよりか早く臥せりましてその後のことはよくは存じませんが、おかみさんは何でも遅くまで起きていて、何やら見ておられました。それから外へ出られた様子でしたが、間もなくおかみさんの部屋から出火しましたので私は驚いて消し止め方に力を尽くしまたあなた方を呼び起こして、お蔭様で消し止めて頂いたのですが、今ここにおかみさんの焼け死んでいるのを見ようとは夢にも思わなかったのです」

とさも驚いた様に又悲しげな風を装いながら、もっともらしく様子を語りました。

 それから久松町警察署から署長および刑事が三四人出張せられました時にも私は前と同じように申し立てましたので、お役人方は「いずれ死体検視のうえで再び訊問いたすべきにつき、焼け跡の始末をなし置くべし」と私および隣の人々に申し付けてお去りになりましたので、私は先ず一安心と息をついたのであります。そうして焼け残りのものを取りまとめをいたしながら、心の中では「よしどんなことがあっても決して白状はしない」と堅く決心していますと、又もや二名の刑事が来られまして「私に是非尋ねたき事がある故、警視庁第二部まで同行せい」との仰せでありました。私はかくと聞き又もや不安心になりまして「これは実に危うくなった」と心の中に深き嘆息をつきましたが、今更如何ともし方がありません故再び心を押し静めて同行して参りました。

(写真はドイツ南部地方ミヘルスベルクの夜明け 2007年6月撮影)

2008年7月10日 (木)

『恩寵の生涯』(好地由太郎著大正6年警声社発行)

Dscn366630  (先日、この希書を安価で手にした。 今時、このような本を読む人もいないと思うが、これからこのサイトを利用してともに読んでみたいと思う。全文278頁で今日の転写は5頁弱であるから、60回ぐらいの連載になる予定である) 

一、幼時

 私の郷里は、上総の国君津郷の金田村で、父祖の家名は大村と申しました。私は慶応元年五月十五日、そこに生まれて末子でありました。外に二人の兄と一人の姉とがありました。祖父母のなお世にありましたころは資産も相当にありまして海産物業を営み多くの雇い人も使役して何不自由なく暮らしておりました。

 ところがその後父の代となりまして明治の初年ごろから毎年の不漁続きに加えて、どういうわけか種々なる災難が重なり田地も屋敷も人手に移りて、ついには家産分産となり、一家を挙げて言うも憐れな有様になりはてました。

 時は明治七年でありました。父は兄と姉とを携えて他所へ去り、私と母とは跡に残されて住む家さえも無く、小さき物置小屋に雨露をしのいで細き煙を立て、ようやくその日その日の命をつないでおりましたが、その年の暮れ、杖とも柱とも頼みし母親にさえ死なれてしまいました。私はようやく十歳でありましたが、同村のある農家へ、父の借財の質(かた)として引き取られ、奴隷のごとくに使役されることになりました。

 ちょうど四年間その家に辛抱しましたが、子供心にも、他の子供らが父母の温かき膝下に養育され居る状態を羨ましく思いて、「ああ我も父いまさば母いまさば」と幾度か悲しき想いに孤児の涙をしぼったことであります。

 一度はこういうことがありました。主人に命令(いいつ)けられて天保銭二枚を持って店へ買物に参ったのでしたが、その途中で他の子供らが思うままに玩具や駄菓子など買うているのを見て羨ましく思い、己が手にある二枚の天保銭に対して不図道ならぬ念を生じ、一時は自分も何か買うて見ようかという気になりましたがまた、たちまちにして「イヤこれは主人の金だ」と云う良心の声が聞こえて気を取り直し、無事に先方へは到着しましたが、待っているちょっとの間に又しても心変わりして苦し紛れに天保銭で板敷をコツコツと叩きましたために、店の主人に「野郎うるさいことをするな」と叱られ漸時にして今度は更に進んで銭函をコツコツと叩き始めましたので、主人から「野郎うるさい、その銭を銭函へ入れてしまえ」と怒鳴られました。私はそれを聞いて「では二枚入れるよ」と答えて実は一枚だけ入れて一枚は己が袂に隠し入れて、旨くごまかしたつもりでおりました。そうして品物を受け取って帰ろうとしますと、主人は「野郎二枚入れたか」と云いながら、銭函を明けて見られましたが、ちょうど掃除をしたばかりのところであったと見えまして、箱の中には天保銭が一枚しか入っていませんでしたので、主人は立腹して「この野郎」と云って立ちあがりました。そこで私も恐ろしくなり、すぐと袂から一枚の天保銭を出して地べたに落ちてあったもののようにして、「ここに落ちていました」と云って返しましたが、実に恐るべき魔の手であったと思います。

 四年の後、私は主人の家を無理に暇をとって初めて東京へ出ました。落ち着く先の宛ては無し、金は無しでいろいろなる辛苦をなめましたが幸いにも父に尋ね当たりました。その時の喜びったらありませんでした。それからは父とともに居りました。父は荷物船を所有して東京横浜間の回漕業を営んでおりましたのでその手伝いをいたしました。まもなく姉の居所もわかり私は姉方(好地氏)へ準養子となりました。私が十四歳の時であります。それからある人のお世話で神田の増田商店へ奉公しまして、足掛け四年間忠実に勤めましたので、主人にも可愛がられ、信用も厚く、金品の供与も人よりは多く受け、したがって貯蓄も出来るようになりました。が、はからずも悪友に誘われて放蕩の横道に踏み迷い、貯金は云うに及ばず、主人の金までも盗み出して、遣うようになりました。これがためその家にも居り難くなり、又事の露われぬうちにと、ついにそこをも去ってしまいました。その時は十七歳の秋でありました。

(本日の写真は今年1月のやはり古利根川の光景です)

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