第1章 東ノースフィールド(2)
彼はつましい家の出であった。教育も受けられず、お金にも恵まれず、友達もいない田舎の自然児として育った。しかし彼は鋭い観察力を持ち、持ち前のウイットやユーモアの感覚を身につけ、へこたれることのない気持ちを持っていた。若い時ボストンで商売を始め、しばらくして、シカゴでその仕事を続けた。ところが日曜学校とクリスチャン連盟の活動への関心が大変大きくなり夢中になったので、すぐに靴売りの仕事を捨て、全生涯をたましいを救うためにささげた※。彼は牧師に任命されることはなかったが、数年のうちにこの国で最も大きなものの一つとなった教会を設立した。
彼がまだほとんどアメリカで知られていなかった間、英国で始められた一連の奉仕が発展して2年間続く伝道キャンペーンとなった。その伝道キャンペーンで英国のあらゆる主要都市へと招かれて行き、当代のもっとも目立つ伝道集会の指導者となった。彼はイラ・D・サンキーの働きに助けられた。サンキーは大きな集会の音楽を指揮し、聖歌を独唱し、歌を通して集まった人々に福音を伝えた。
アメリカに戻ってムーデー氏は熱狂的に歓迎され、ブルックリン、フィラデルフィア、ニューヨーク市、シカゴそれにボストンでより大きな記念すべき伝道キャンペーンに参加した。これらが一世代途絶えることなく続き伝道経験の基礎固めになった。この間ムーデーはブリテン島での二つの大きな一連の集会のために戻り、アメリカの主な中心地では広範囲の聴衆に語った。彼のメッセージは霊的で、彼の精力は疲れることなく、方法も賢明で評判も消えることがなかった。
彼の人格の影響力は親しい人々の集まりだけでなく、他の人たちにも及んでいった。毎日の新聞や安いブックレットで彼の説教が頒布されていった。「ムーデーとサンキー」の賛美歌は大陸のあらゆる町々や小村落に、また地球上のあらゆる国々で歌われた。リバイバルの精神は起こされ活発化した。他の多くの伝道者たちも連れて来られ、数えきれない教会の活動が強化されていった。
このような彼の説教者としての働きに加えて、彼の影響力により彼が設立した教育機関や彼のリーダーシップのもとで開催されたキリスト者の働き人のための集まりは強化され、さらにその働きは永続的なものとなった。これまで認められてきたように何百万人という人がムーデーの生活と働きから励ましと助けを与えられたことは疑いもなく本当である。
彼が故郷とした村、マサチューセッツ州の東ノースフィールドは他の村にない特質を持つことになった。その村はこのまことに有名な人物の生誕地、埋葬地であるだけでなく、彼の選んだ居住地となり、重要で意義深い活動の舞台となり、長く続いた影響の中心地となったからである。
デー・エル・ムーデーはこの地で1837年2月5日に生まれ、この地で1899年12月26日埋葬された。この地の彼の家に彼は、長い骨の折れる仕事を している間中、戻ることを切望し、英国とアメリカの至る所に行かねばならない伝道キャンペーンで必要とされる強さを取り戻すことを望んだ。ここではまた夏期聖書集会を指導し全世界に影響を伸展することになる教育機関を設立した。
(D.L.Moody by C.R.Erdman 12~14頁参照。この※の文章を見ると、まさしくイエス様がペテロたちを召された時と同じことがこのムーデーにも起こったのだということがわかる。「イエスが・・・ご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」〔新約聖書 マタイ4・19〕。写真はsprin has comeの現代21世紀の靴屋さんの店頭。ムーデーは19世紀の靴屋さんだった。)




最近のコメント